パンチの独り言

(2024年4月8日〜4月14日)
(他山の石、銭失い、自己責任、責任転嫁、未発達、便利なのか、ただでは)



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4月14日(日)−ただでは

 便利な時代なのは、確かなことだが、それが原因で、一部の人々が、害を被るのはおかしい。仕組みが、利便性を追求するのは、ある意味当然なのだが、それが、被害を産むとしたら、何かが、間違っていると見るべきだ。そうでないと、社会自体が、法に護られぬことになる。
 その一方で、被害者達の訴えの中には、首を傾げたくなることも多い。常識の範疇から、著しく逸脱した結果、害を被ったとしたら、その責任は、何処にあるのか。この辺りの話は、まさに程度問題であり、一律に、片付けることは難しい。そこが、法律の難しい所なのだろう。弱者保護は、基本なのだろうが、遵法精神ないままに、それを押し通せば、法治国家とはならず、社会全体が、無法地帯となってしまう。賢く生きることは、確かに大切だが、それが、いつの間にやら、ずる賢く、となってしまっては、何にもならない。では、そこに、明確な線が、引けるのか、と問われたら、不可能と答えるしかない。時と場合により、様々に変貌する状況であり、一概に、これと決め付けることは、難しいからだ。だからこそ、訴訟制度があり、裁判で、それぞれの場合の、判断を下す必要がある。元々、法律は、社会規範から生まれており、ある意味、常識の一つから、生じている。それを、捻じ曲げて解釈し、無理矢理適用するようでは、誰もが納得することは、できないこととなる。さて、元に戻って、では、便利な時代に、その仕組みの管理は、どうあるべきか。これもまた、場合によると考えるしか、方法がないだろう。だが、それでは、問題を放置することに、なり兼ねない。お互いに、無償で行うことであれば、そこから利害が生まれても、金銭的な裁決は、難しくなる。だが、その行為自体が、利益を産むものだったら、話は、簡単になるのではないか。そこに責任が生じ、得た利益に見合うだけの、補償を行う必要が出てくる。ただより怖い、と言うが、ここでは、ただでは済まぬものだ。

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4月13日(土)−便利なのか

 金に目が眩んで、騙されたという人は、自業自得だとしても、家族の窮状に、手を差し伸べようとして、騙された人には、同情の声が上がる。ただ、それにしても、日頃から慣れた声に、何故、という意見は、絶えないようだ。では、そんなことが起きる理由は、あるのだろうか。
 周到に仕組まれた、とはよく言われるが、それにしても、少し遣り取りをすれば、嘘の一つや二つは、すぐにばれそうに思えるが、どうだろうか。それより何より、まずは、相手が本物かどうかに、判断が付かなかったという話に、信じられないとの意見もある。だが、自分のこととして、考えてみたら、どうだろうか。電話の声が、少し違うような気がした、という話でも、結局、風邪だの体調だので、適当に誤魔化される。でも、自分でも、そんなことを感じたことが、あるのではないか。特に、携帯電話では、その傾向が強いと言われるが、音質に、かなりの変化が起きるようだ。出会ったことも無い人なら、何の疑問も抱かぬだろうが、普段から接していると、その違いを疑う場合もある。以前なら、音声情報を頼りにするのは、多くの人にとっての、ラジオだったろう。昔、長距離運転を常とした頃、毎朝、流れてくる、男女の会話を、何気なく聴いていた。ある時、その人物が、思わぬ場所で喋っていて、何処かで、と思ったことがあったのだ。それほど、声の質は、ラジオのものと、変わらなかった。一方で、デジタルという形で、情報を圧縮させて、通信する仕組みでは、一部の情報が、失われると言う。便利な道具を手にして、情報をせっせと掻き集め、豊かな生活を、と思っている人が、こんなたわいのない話に、乗せられてしまうのも、もしかしたら、こういうことが、原因かもしれない。何れにしても、誰が話したかより、その内容を、冷静に分析し、理解することが、遥かに重要だということを、認識すべきと思う。この独り言が、匿名なのは、それを伝えたいからでもある。

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4月12日(金)−未発達

 媒体の体制が、どうあるべきか、という点に関しては、社会全体の認識不足が、著しいままで、手の施しようが無い、と思えるかも知れない。だからこそ、徹底的に議論して、問題点を洗い直すべき、と思う訳だ。では、一方で、最新技術の方は、どんな具合だろうか。
 報道を眺めた人の印象は、首を傾げたくなる、といったものだったろう。こんなたわいも無いもので、何故、騙されるのか、という思いではないか。しかし、不安や心配を、連日のように煽られ、藁にもすがる思いで、接した人々の感想は、全く違うだろう。あんな有名人が、勧誘するのだから、大丈夫と思った、というのが、正直な所だろう。一方で、一攫千金に目が眩み、熟慮せずに、と言われれば、その通りだったに違いない。では、肝心の映像の出来はどうか。報道が、盛んに煽り立てるように、確かに、そこに、件の人物が登場し、滔々と語る姿は、彼らそのものに、見えた人も居ただろう。だが、話の内容はどうか。捏造映像が、生成人工知能により、実しやかに映されるのに反し、話の内容は、稚拙そのもので、こんな子供騙しに、と思った人も多い。そこに、この犯罪の核心がある。道具が、いかに発達したとしても、肝心の台詞は、人間が考えたもので、稚拙でしかないのだ。それもまた、更に発達すれば、人工知能が騙り、真実性を増す筈、との指摘もあるが、まだ、そこまでには達していない。この時点で、どう判断するかは、人それぞれだろうが、現時点では、杞憂でしかなく、無意味と思えてくる。一方で、少し気になるのは、聞こえてきた音声の質だ。これまでの詐欺事件でも、何故、子供や孫の声が、区別つかなかったのか、との指摘があったが、これは、今の電話の仕組みの問題のようだ。そこに目を向けないと、逆の意味で、誤解が強まるような気もしてくる。様々な問題があり、それによって生じた被害については、人間の力で、解決する必要がありそうに思う。

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4月11日(木)−責任転嫁

 責任問題、まさか三日連続で書くとは。自己責任の話とは、かなり異なることだが、有名人らが声をあげた、と報じられた。理由は、生成人工知能により、自らの映像が捏造され、詐欺事件が起きたからだ。当人らは、その内容に対し、こんな発言はする筈もない、と断言していたが。
 実際には、以前からの過激とも思える内容から、その程度のことはあるだろう、と思われたのかもしれない。何れにしても、件の仕組みが、登場するまでより、格段の進歩があった、と言われるが、捏造映像の質は、依然として、疑問が残る。なのに、何故、多くの人々が、騙されてしまうのか。一攫千金を夢見て、著名人のお零れに与ろうと、罠に嵌ったのだろうが、そんな時には、冷静な判断が出来ない、とも言われる。これも、自己責任、と言われれば、それまでだが、はて、この報道において、話題の中心は、捏造映像の質にあった。そこかい、と思うのは、穿った見方だが、問題は、その映像を流す媒体に、あるのではないか。近年、社会媒体での発言などが、厳しい批判を浴びせられ、媒体の運営組織が、訴えられている。それと同じか、更に、悪質な事態と思えるのだ。つまり、流す側は、多くが、それを資金の糧として、広告収入を得ている。だとしたら、得た利益の一部は、犯罪への加担から、来ているのではないか。少なくとも、登場人物本人に、確認を取ることが、今や、求められていると思えるが、どうだろうか。信用とは、そんなものであり、それを保つのに、不可欠な手続きが、あると思えるのだ。そこにこそ、問題の核心があり、それを論点とするのが、当然の筈だが、無能な輩には、思いも寄らないのだろう。報道の質の低下は、こんな所にも現れ、権力批判に終始する余り、肝心要の事柄を、見過ごすことも多々ある。騙される人が、悪いのだという論法も、一部にはあるようだが、技術の発達だけでなく、社会秩序に必要な点を、見逃すようでは、困りものだと思う。

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4月10日(水)−自己責任

 責任の話を出したが、世間では、ほぼ全てが、自己責任という名の下に、片付けられている。社会があり、その中での秩序があり、それを保つ為に、法律がある筈だが、何かと言えば、自己責任と言われ、誰も助けてくれない、となる。では、警察や裁判所は、何の為にある。
 まあ、確かに、重大な犯罪をしでかせば、法で罰せられ、その過程で、警察に世話になり、裁判所で裁かれる。それこそが、法治国家というものだ。と言えば、納得できるか。昨日の話などは、そんなことでは、決して納得などできる筈も無い。だが、世の中は、そんな風には回っていない。最近、多くの詐欺事件が起きるが、その度に、警察や報道が、せっせと、事例を提示し、警告を流しているのは、何故だろうか。先日も、クレジットカードで、使ってもいない請求が、届いたのに対し、銀行に届けたら、支払いの必要は無く、それで終わりとなった。訴えた人間は、これは犯罪と思うから、調べて欲しいと言っても、よくあることとの説明で、窓口では相手をしてくれない。おそらく、警察に訴えても、受理するだけで、本格的な捜査は行われない、ということを、金融機関は、百も承知のようだ。人手と予算が不足する中、軽微な犯罪では、動くだけ無駄との判断か、驚いたとのことだ。だからこそ、詐欺の手口や、最近の事件が、詳しく報じられ、警察や自治体も、それを公開している。ということは、そんな手口に、騙されるなとの警告を、発している訳で、未然に防ぐのは、被害に遭いそうな、本人ということだ。いつの頃からか、こんな状況が、続いていると言う。その一方で、詐欺事件では、年間の被害額が提示され、その金額に、驚いたことがあるだろう。総計すれば、そうなるのだが、一つひとつは、ということかもしれない。だが、それでも、億単位の金を、騙し取られた人もおり、軽微の一言で、片付けるものでもあるまい。だが、所詮、自己責任、自分の身は自分で、となる訳だ。

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4月9日(火)−銭失い

 商売は信用である、と言われる。屋号は、信用によって築かれ、商標は、それを保証するものとなる。だから、他人のものを奪ったり、名を騙るなどは、以ての外と言われるのだ。一方で、折角築いた信用も、一つの過ちで、完全に失われることがある。商売の恐ろしさ、とも。
 しかし、値上げが禁忌、という時代が長く続き、少しでも安い品を、探し求めるのが、当たり前となってから、信用商売は、忘れ去られたようだ。倒産した卸業者から、一括で仕入れることで、驚愕の安値を、追求する商売も、そんな頃に、盛んとなった。ただ、それも長くは続かず、安売りの店は、不安定な仕入れより、安定的な供給を求め、国内どころか、海外にまで、手を伸ばしてきた。消費者にとっては、有り難いことだった、のかも知れないが、価格破壊の動きは、流通全体、延いては、商売そのものに、悪影響を及ぼしたようだ。さて、その時代は去り、適正価格での売り買いが、当たり前となるだろうか。と言っても、安値の仕組みは、店を所有せず、仮想空間での、遣り取りのみへと、移った結果、信用自体が、揺らぐことになる。ネット上には、有名企業の商品が、破格値で並び、商標を掲げることで、正規品を謳っている。だが、多くは、隣の大国で、不法に製造された、偽物ばかりで、品質保証も、見せかけに過ぎない。でも、商標があれば、信用する人が多く、騙されてしまう。それも、独立したものではなく、正規の企業が提供する、広告の一つとして、流れてくれば、信じたくなるのも、当然だろう。何故、こんなことが、起きているのか。偽物販売を、承知の上で、広告を流すのは、依頼主としては、よくあることだろう。だが、それを、活動の一環として、一流企業が、自身の番組中で流すのは、詐欺に加担することではないか。広告料を、受け取っただけ、という言い訳が、通用するかは、定かではない。だが、責任はあるのでは。安物買いには、つきものの話だが。

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4月8日(月)−他山の石

 物事を、批判的に見る習慣は、様々な点で、優れていると言われる。だが、そこに、著しい偏りが生じると、折角の努力も、水の泡となる。まさに、その典型が、報道にあると見るが、どうだろうか。戦時中の偏重から、強い憤りを表明し、過ちを繰り返さぬよう、宣言した筈だが。
 当時との違いは、権力への批判姿勢にある。確かに、表向きは、そう見えるのだが、その不徹底には、呆れるしかない。感染症騒動の際に、批判の矛先は、何処に向かったか。各国政府や世界機関ではなく、好き勝手に振る舞う大衆や、思いがけず感染した人々に、向けられていた。批判精神が、そのままであれば、方針決定そのものへの、疑いの眼差しや、矛盾点の指摘など、やるべきことは、数多あったはずだ。にも拘らず、恐怖を煽ることに終始し、被害者かも知れぬ人間を、徹底批判することで、役割を果たしたと、思い込んでしまった。嵐が過ぎ去り、いざ、総括の必要が、出てきても尚、声を上げないのも、自らの過ちを、暴かれることへの恐怖が、膨らむからではないか。年初から、震災に見舞われ、多くの人々が、厳しい生活を強いられた。そこでの問題点は、キリの無い程に、噴出しており、確かに、行政の責任は重い。だからと言って、つい先日、起きた地震に対して、避難所などの整備が、迅速に行われた国を、盛んに持ち上げるのは、如何なものだろうか。と言うのも、その一方で、直後から、画面に映し出される、傾いた建物に、驚いた人も多い。それも、まるで、デジャブの如く、嘗て、彼の国で起きた、大地震直後の光景と、そっくりな状況に、対策は、と思った人も多かったろう。当時、10階建位のビルで、1階部分の壁が、設けられていないものが、被害を受けていたように、見えていたからだ。その時の専門家の指摘は、壁を取り除き、柱だけにした場合の強度が、著しく低下する、とのことだった。なのに、また再び。これを批判しないのは、隣の国の話だからか。

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