パンチの独り言

(2024年4月15日〜4月21日)
(気を楽に、自立せよ、裏切り、直感では、算出法、確認を、立ち読み)



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4月21日(日)−立ち読み

 便利な時代、なのだろうと思うが、その仕組みは、明確には示されていない。だから、訴訟が起き、先日も、ある漫画の提供場所を、運営した人間が、何億円という賠償と、裁かれていた。それ以前に、刑に服役したとされる。何方も、不満と訴えているようだが。
 この事例の場合、通常の印刷物として、出版されたものを、電子化して、提供したことが、罪となっている。著作権は、厳重に守られ、何十年もの間、それが続くとされる。その一方で、便利な世の中では、印刷物としてではなく、手にした端末で、読む人の数が増えており、出版社や著者にとって、権利を主張する場が、複雑化した、と言われる。その中で起きた事件では、会費として、金を集める一方で、版権を一切支払わず、莫大な収益を、違法に集めたとして、厳しく裁かれた。ただ、その中で、事件を起こしたとされる人物は、直接的な関与を否定し、一切の賠償責任も、自分には無い、と反論したようだ。ただ、どんな絡繰りを仕掛けても、侵害の事実は、確かに存在しており、それに対する罰は、刑事でも民事でも、生じているのだから、如何ともし難いと思える。一方、最近は、印刷の手間を掛けず、はじめから、電子化された作品を、そのままの形で流通させ、利益を得ているようだ。こちらの収益の仕組みも、明確には示されていないが、今の所、会費徴収もせず、新刊の場合にのみ、購読料を徴収するようで、ある程度、古くなってくると、無料化されているようだ。現時点では、出版社が介在しておらず、通常の著作権とは、少し扱いが異なるようだが、これとて、早晩、揉め事が起きるやも知れぬ。特に、電子化されたものの、複製を制限することは、難しいと思えるから、徐々に、悪質な事例が、目立ってくるかも知れない。とは言え、読者としては、無料で読み続けることも、ある程度は可能で、試し読みも含めて、有り難い状況にある、と言えるかも知れない。

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4月20日(土)−確認を

 ちゃんと知りたい、と思う人が居る一方で、難しすぎるから、説明して欲しい、その上で、結論を教えてくれれば、それで助かるという人も居る。どちらかと言えば、後者の方が、遥かに多数派だろう。習ってもいないことを、理解するのは無理、と考えるのは当然かも。
 その状況に、変化が起きたのは、もう随分昔の話だ。トンデモ、などと言われる、科学の衣を纏った、嘘八百の言説が、社会に飛び交うようになった。専門家は、警告を発し、正しい知識を、授けようと躍起になった。だが、あの大震災後の事故を、思い出してみれば、すぐに分かるように、人々は、それが正しいかどうかより、納得できるかを、選別の道具とし、どんな怪しげなものでも、皆が納得していれば、それが正しいという、結論を導き出す。その結果、ありもしない話に、振り回された挙句、不安や心配が募り、悩み苦しむこととなった。原因は、確かに、嘘八百を撒き散らす、けしからん輩にあるが、それを、鵜呑みにして、確かめもせずに、信じ込む人々に、落ち度が無い、とは言えないのだ。自己責任、という言葉は、その場合には、確かに当てはまるのだが、別の印象を与え、それによって、責任逃れが、常となりつつある。少なくとも、判断する前に、確かめる必要があり、その為には、何事も、批判的に捉えるのが、大切なのだろう。地震が起こる度に、誤った言説が、飛び交うのは、それに飛び付く人がおり、それをばら撒くのに、一役買うからに違いない。何の足しにもならないが、世の為人の為、とさえ思うのは、何故だろうか。これら全ての問題は、社会媒体が、整備されたことで、表面化してきたように思う。吟味力も、批判力も、持ち合わせぬ人々が、手にした端末で、世界に向けて発信し、自分の意見を、拡散させる。自身のものなら、責任を感じるだろうが、誰かの言説を、仲介するだけなら、何の責任も、感じずに済む。困ったものと思うが、どうか。

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4月19日(金)−算出法

 僅かな違いなのに、と指摘を受けたからか、はたまた、自分で気付いて、確かめたのか。何れにしても、0.2の差が、エネルギーとして、2倍の差になる、と報じていた。それで、成る程、と思った人も居るだろうが、何故、と思った人も。科学的なら、算出法が欲しい所だ。
 まず、地震の規模を示す数値として、直後から報じられる、マグニチュードとは何か。監督官庁によれば、地震波形から、算出されるとある。ただ、そこには、肝心の数式は示されず、不満が残る。数式に関しては、難しいからという理由で、提示しないのかもしれないが、その判断は、受け手がするものだ。玉石混淆だが、ネット上の辞書には、示されていた。だが、これは、地震の規模の指標に過ぎない。昨日の話で、問題となったのは、それと、地震発生のエネルギーの値との関係だ。そちらに関しても、役所の情報には、見当たらなかったので、別のものを紹介する。そちらを見れば、エネルギーの対数と、マグニチュードの値が、関係することとなる。ただ、そこにも、少し複雑な状況があり、マグニチュードが1違えば、エネルギーが10倍になる、のではない。2違うと、千倍になるというのは、数式からわかることだ。とは言え、0.2の違いは、大体2倍となることが、理解できる訳だ。まあ、どの考え方が、自分に合うかは、自分で判断せねばならない。他人から、押し付けられるものでも、他人任せにしてでも、いいものではない。ただ、現状では、誰もが、検索という道具を使い、ほぼ瞬時に、必要な情報を、集めることができる。だから、公共放送も、電波に乗せた情報も、新聞などの活字も、一切必要無い、となるだろうか。その点に関しては、やはり、間違っていると思う。誰もが手にした端末で、正規の情報を、集めることができるのは、事実だろうが、端末に飛び込んでくる情報が、全て正しいとは限らず、惑わされる人も多い。判断力と共に、頼りになるものが、必要なのだ。

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4月18日(木)−直感では

 また揺れた、と思った人が、多かっただろう。ただ、今回のものは、そこから派生する話題にも、注目が集まった。大震災が続き、被害者の数が、毎回、かなりに達したことから、政府や関係省庁は、警戒を強めて、国民にも通達している。巨大地震とそれに伴う、津波に関して。
 確かに、備えあれば憂いなし、ということだろう。だが、実態としては、どうだろうか。過去の災害について、誰も経験したことなく、想定の規模に、驚くばかりで、実感は湧かない。そんな調子で、いつまでも、備えが整わないばかりか、警告に対して、皆が慣れてしまう危険性が増す。そんな時に、想定地域で起きた、それなりの規模の地震に、報道をはじめとして、地域の役所や一部の住民も、危機感を高めよう、かと思った矢先、監督官庁は、調査の必要性を、否定した。地震の規模を示す数値が、想定の値に達しなかった、というのが理由だ。だが、その数値を見る限り、たった0.2の差でしかなく、何故、と思った人が多いだろう。確かに、数字としては、その通りであり、庶民感覚としては、首を傾げたくなる。だが、毎度のことながら、地震の規模を示す値は、直感的な理解には、不向きなもののようだ。この国独自の基準として、震度なる数値が、地震後に発表される。これについては、地震そのものの規模だけでなく、それぞれの土地特有の要素が、加わったものとされ、地盤強度や、断層の有無などが、関係すると言われる。地震の規模自体は、そこで生じたエネルギーを、表す数値で示され、それが、今回話題となった、0.2の差を示した訳だ。だが、この算出方法を、調べることなく、数字のみを眺めて、判断することは、科学的とは決して言えない。数字の意味を、知ってこそ、判断が下せるものだが、多くの人々は、それをしないままに、直感のみで考えようとする。その結果が、今回のような話となる。毎度のことで、担当職員には、面倒かも知れぬが、補足説明が欲しい。

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4月17日(水)−裏切り

 経済紙の夕刊一面に、著名人の短文が掲載されている。著名人と雖も、下らないとしか思えぬ人物もあり、一切読みもしないが、一方で、参考になると思えるものもあり、一読することにしている。先日も、嘗て、同時通訳をしていたが、その後、大学教員に転身した人物が、書いていた。
 信頼していた友人に、裏切られたという話で、海の向こうの、違法賭博絡みの話と、繋げていた。本人は、余りの衝撃に、回復に長期間を要した、と記していたが、どうだろう。こちらは、何度も書くように、まずは疑うことから始め、先に進むことを信条とし、ある世界で生きてきた。だから、裏切られた、と思ったことも無く、当然、全幅の信頼など、考えたことが無い。逆に、貶めようと、手練手管を弄した人物には、何度か出会った。その結果は、ある意味、何事もなく過ぎたが、それは、対抗措置を取ったからで、おいそれと、騙されたり、罠に嵌められたり、そんな目に遭わぬよう、お互い様の仕打ちを、仕返したとも言える。確かに、事を成すためには、他人の協力が必要で、信頼は不可欠と思えるかも知れぬ。だが、自分のやりたいことと、仲間のやりたいことが、必ずしも一致せず、微妙な違いから、騙し打ちに遭うことも、あるのではないか。そんな時、相手が、自分の利益を求め、こちらに不利益を、押し付けることだって、あるに違いない。その時、信頼していたのに、と思うのは、どうだろう。却って、そういった意味での信頼ではなく、相手の能力を評価し、それを利用して、互いの利益を追求した方が、遥かに、大きな成果を上げられそうに思える。利用という言葉は、語弊があるだろうが、互いの利益こそが、優先されることだ。別に、上に挙げた人物が、世間知らずで、無垢なのでは、とは思わないが、信頼とか、信用とか、そんな言葉に対する認識が、少し足らなかったのでは、とは思う。後日談はなく、その後も見えないが、今ある姿は、何かを糧にしたからだろう。

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4月16日(火)−自立せよ

「気楽に」の一言を、救いの手と思う人が居るかも知れない。確かに、悩むよりは、というつもりで書いたものだ。だが、決して、助けてやろう、と思っている訳ではない。特に、近年、眼に余る程、とも思える輩に対しては、何もしてやるつもりは、毛頭無いのだ。誤解は禁物。
 世の中全体に、弱者保護を、強く訴え、過剰な要求を、繰り返す人々が居る。真の弱者であれば、何かしらの助けを、必要とするかも知れないが、偽者には、何もくれてやる必要は無い。新しい環境で、戸惑うことがあっても、それを解決するのは、自分自身しか居ない。幼児ならば、判断力が無く、自立もしていないから、相手になるのは当然だろうが、いい大人相手に、その必要は、全く無い。特に、数年前から、大人の規定が、この国でも変更され、高校卒業時点では、全てが、大人の仲間入りを、果たしている。新たな職場でも、新たな学校でも、それに応じた形での、対応が求められる。一部に誤解があるようだが、規定が変わる以前から、大学という場では、概ね、新入生を、大人扱いしてきた。職場は、当然のことだが、自立が求められる。一方で、学校という場所は、微妙な受け止め方がされ、熱心に、指導と称した、援助を繰り返す所もある。ただ、もう、それに関して、悩む必要は無い。酒煙草以外は、ほぼ全てが、許されており、逆に言えば、責任が生じている。にも拘らず、助けを求める人間が、かなり多いと聞く。それも、手取り足取りといった風に、全てを、やってくれると信じ込む。一方で、極端な人間は、自分の窮状さえ、訴えることなく、誰かが助けに来る、と信じるらしく、お手上げ状態だろう。未熟な人間であることは、確かなのだが、一個の人間として、扱うことに対して、まるで、邪魔するかの如く、弱者保護の観点が、強調される。障害者であれば、致し方ないし、当然の配慮だろうが、五体満足な人間に、何が必要なのか。自分で、考えるしかないのだ。

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4月15日(月)−気を楽に

 新年度、仕事が始まり、二週間が過ぎ、学校が始まり、一週間が過ぎた所だろうか。新しい環境に、移った人々にとり、大きな変化があったのかも知れない。ただ、大部分の人には、戸惑うことがあったにしても、何とか乗り越えられそうな、そんな気持ちが芽生えたのでは。
 この季節、毎年のことながら、心が不安定になる人が、増える時期でもある。そんな時、どんな手立てや方策が、功を奏するのか、これまた、毎年のように、悩んだり、考えたりする人が多い。自分で解決できる人も居れば、他人の助けを必要とする人も居る。何方が良い、とは一概には言えないが、兎に角、淵に沈みそうになったら、何とか浮かび上がることが、最優先のことだろう。では、何をどうすればいいのか。こちらには、いつものことながら、これという正解がある訳ではない。様々に工夫を凝らし、色々と試した結果として、抜け出せる人も居れば、ただ漫然と過ごすうちに、何となく過ぎてしまい、沈んだ筈のものが、流れていったという人も居る。一方で、何をどうしようとも、解決の糸口さえ見出せず、結局、新しい環境から、去ることになった人も居るだろう。だが、長い人生、何処かでそんなことが、起きることは、度々あるかも知れぬ。確かに、壁に当たった時、何とか打開する策を、講じられれば幸いだし、そうでなくとも、避けることで、前に進めれば、それもそれとて、運が良かったとなる。一度や二度の失敗は、という慰めも、よく聞かれることだが、当人にとって、これ自体は、何の解決にもならない。失敗を繰り返し、その度に、何とか切り抜けた経験があれば、それもそうなのだが、若いうちには、そうとも行かぬことが多い。では、どうしたら、と悩み苦しんだり、そうならなくとも、不安や心配に、襲われたりする人も居るだろうが、その時になってから、考えればいいのでは、と思う。気楽に構える、という言葉は、救いにはならずとも、何かの役に立つものだ。

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