パンチの独り言

(2024年4月29日〜5月5日)
(目を逸らす、火中の栗、罪人、監視社会、扇動者、世間の目、今は昔)



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5月5日(日)−今は昔

 海の向こうの学生運動が、嘗ての戦争反対を訴えたものを、引き合いに出している、と報じられたようだが、立場の違いが、あまりにも大きく、首を傾げざるを得ない。歴史に関して、どんな認識が、後世の人々の心に根付くかは、その後の成り行き次第で、事実誤認も多くある。
 同じことが、こちらで起きた大学紛争にも、言えるように思う。原因は、様々にあったとされるが、あれ程の盛り上がりを、見せた理由については、定かではないようだ。学費値上げは、深刻なものだろうから、今の人々にも、理解できるだろうが、さて、半世紀以上昔の価値と、どう比べようとするのか。一方、もう一つの原因として、伝わっているのは、医学部職員の処遇に関することだが、こちらも、今の時代からは、想像がつかない話で、仮令、内容を紹介しても、理解に至るかは怪しいものだ。ただ、今も嘗ても、理解できるとしたら、権利主張の話だろう。水準の違いはあれど、権利に関しては、あの当時も、今も、強い主張が繰り返される。だが、学生の本分については、どうだろうか。あの時代は、誰もが、学歴を求めて、進学をしていたと伝えられる。でも、その一方で、大学で、真剣に学んだかと問われ、答えを濁した人の方が、遥かに多かったろう。特に、文系では、講義中心であり、出席確認も無く、今から見れば、いい加減なものだったようで、大学に行くのは、試験の時だけ、という学生が多かったようだ。今でも、多くの新入生が、誤解しているのは、大学に入れば遊べる、という伝説だろう。管理が求められる時代には、嘗ての如く、微温湯の学生生活はなく、厳しい制限が課される。その結果、社会へ旅立つのに、十分な資質を身に付けるのなら、納得もできようが、そうでもないらしい。自覚の問題、と言われるのは、こんな理由があるからだ。あの紛争により、甚大な被害を受けたのは、大学教員だったとの話も、嘘ではあるまい。学生の相手は、今も昔も、大変なようだ。

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5月4日(土)−世間の目

 今回の海の向こうの学生運動に対して、興味深いのは、世間の評判ではないか。報道は、盛んに、彼らの考える所を、賞賛しようとするが、一方で、世論調査の結果は、決して芳しいものではない。この冷たいとも思える反応は、海を挟んだ彼我の差と言って、いいのではないか。
 教育に対する考え方は、彼方と此方で、かなり異なると言われてきた。既に、成人となった人々を、どう扱うかの違い、とも言えそうだが、子供扱いを続ける国と、もう大人なのだから、自立せよと考える国の、違いとも言えそうだ。だからこそ、借金をしてまで進学する、という風潮に対して、自らの能力を高める為に、当然のことと見做す、彼方側は、厳しい経済状況で、自ら作り上げた借金に、苦しむ若者を、救おうと動いた大統領の政策を、憲法違反と断じた。一方、此方側はと言えば、借金をさせることこそ、諸悪の根源と見做し、無料化を目指す政治家が、評価される状況らしい。自分の為、と考えれば、進学するか否かの決定には、かなりの覚悟も必要だろう。だが、今の風潮では、誰かが積極的に妨げぬ限り、彼らは、皆が行くからという状況に、当然のことと考え、何の覚悟も無いままに、進学している。その結果、学問の府たる存在は、若者に足蹴にされ、権利主張だけで、何の努力もせぬまま、劣悪な環境が、作り出されてきた。それに拍車を掛けたのは、予算削減であり、海の向こうの存在と、同様の活動を、強いられている。ただ、海の向こうも、嘗ての状況は、望めぬ程に、荒廃が始まったようだ。だからこそ、借金してまで進んだ大学を、目出度く卒業しても、まともな職にも就けず、返済が滞っているのだ。彼らを救うことは、確かに必要なのだが、果たして、誰でも彼でも、というやり方が、適しているのかは、定かではない。そこに、今回の動きが出てきて、さて、世間の目は、何方に向くのか。昨日指摘した別の動きと同様に、この状況も、気になる所かもしれない。

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5月3日(金)−扇動者

 もう半世紀以上昔の話だが、この国でも、学生運動が盛んだった。それ以前に、海の向こうでも、大学構内が占拠され、不穏な空気に包まれた。但し、海を挟んで、全く異なる背景だった。向こうでは、戦争反対が掲げられ、運動は過激化した。今も、と思う人が居るかも知れない。
 だが、事情は大きく異なる。自国が乗り出した戦争に、自身が駆り出されるかも、という不安や心配と、他国で起きた紛争で、一部の人々が、虐げられるのを、見たくないという考えと、一緒にすることは無理だ。その上、現在の状況は、報道が盛んに伝える程には、盛り上がっていない。特に、嘗ての戦争反対の状況とは、比べ物にならない。更に、穿った見方をすると、今の活動の中心に、誰が居るのかさえ、疑わしく思えてくる。確かに、嘗ての世界大戦中に、ある国で行われた、特定民族を絶滅させようとする、驚くべき出来事に、戦後、全世界が震撼した。理由は兎も角、集団虐殺を、正当化するなど、信じられないことで、その被害者たる民族に対して、その後も、特別扱いする動きが、無かったとは言えない。だからと言って、今回のある地域での戦闘も、正当化できる筈もなく、できれば、平和的な解決を、と望む声が強いのは、当然のことだ。しかし、一向に、埒が明かない状況に、偏った報道が加えられ、世論は、ある方向に誘導されている。そこに起きた、大学での運動は、当然の結果と見る向きもあるが、どうにも、鵜呑みにできない。それぞれの大学当局が、頭を痛めているように、学生の本分から、遠く離れた状況からは、嘗ての戦争反対とは、大きく異なる事情しか、感じられないからだ。その上、活動の中心は、ほんの一握りの人々に限られ、それも、学生自身かどうかさえ、確認されていないとなれば、疑いたくなるのは、当然ではないか。当事者としての活動と、正義感からの活動の違い、というより、更に込み入った事情が、ありそうに思えてならない。

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5月2日(木)−監視社会

 隣の大国が、著しい監視社会であることは、ずっと以前に本で読んだ。ただ、東側の国々は、元々、社会体制として、隣人監視が常であり、あの国からの人々も、嘗ては、常に複数人で訪問し、滞在期間中は、相互に監視し合うのが、常とも聞いた。だから、と言うつもりはないが。
 しかし、映像装置が、街に溢れるようになり、西側諸国でも、状況は、よく似たようなものだ。問題は、日頃から見張っているか、はたまた、有事の際に、利用されるかの違いだろう。どの国でも、最近は、政治的、宗教的な理由で、過激な活動が、盛んとなっており、事件が起こる度に、映像装置の記録が、再生される。その結果、現場からの足取りや、人物特定が行われ、逮捕に至ったという話が、屡々紹介される。あれを見ると、普段から、見張られていることは、誰にでも、容易に理解できる。だが、罪を犯す人間は、その考えには、及ばないことが、多いようだ。映画や小説では、そういった下調べの重要性が、何度も紹介されるが、自分は違う、とでも思うのだろうか。通常の犯罪者には、それだけの準備が、できないことが多い。で、今回の事件では、芋蔓式に、次々に犯人達が、捕まっている。成果の報告としては、こういうやり方が、効果的なのかも知れぬが、さて、いつになったら、本丸が現れるのか。犯罪に興味を抱く人々は、その多くが、背景を知りたがるのに、この状況では、当分の間、お預けを食らいそうだ。にしても、これ程、あの手の装置が増えたのは、何故だろう。安全を確保する為、という意味では、今に始まったことではなく、昔から、そういう社会情勢は、変わらずに続いている。あるとすれば、やはり、装置が、溢れる程に、市場に出回ったことで、その原因は、最初に取り上げた、あの国にありそうだ。確かに、一時、関係が険悪化した、南の国では、あの国から買った装置に対して、疑いの声が上がったらしい。やりかねないことだからこそ、の疑いだろうが。

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5月1日(水)−罪人

 与党全敗の文字が、踊っていた。政党としての不祥事で、失った議席の補欠選挙だから、当然の結果だろう。ただ、有権者は、人ではなく、政党を選ぶことが、はっきりとした。乱立した選挙区で、人として選ばれなかったのは、人間の価値が左右したのかも知れないが。
 で、敗れれば、当然の展開として、退陣を求める声が上がる。しかし、今回は、どうだろうか。政党として、不正を長年続けてきたものが、発覚したことで、起きた流れだが、そこに、今の宰相、総裁の責任が、どう関わると思ったのか。長年という意味では、その期間に総裁だった人物は、かなりの数となる。その上、今回の不祥事で、取り沙汰された話は、前任者の時代のことだろう。それを見抜けず、放置したのだから、という論法を、持ち出すとしたら、関係者全員が、罪人ということだ。自らの責任を、逃れる為と称して、こういう展開を描くのは、永田町の論理では、通用するのかも知れないが、人間社会では、以ての外だろう。政治家としての、という常套句を持ち出すのも、特別視の典型でしかなく、呆れられるだけだ。人間の倫理、道徳の問題として、やってはならぬことを、何の思慮も無く、続けてきた責任は、全員にある。それを、退陣に掏り替え、次の選挙での禊を、目論む態度には、呆れるばかりとなる。法の改正も、同様の話であり、矜持を保つ為には、自身の判断のみで、十分なことだ。一方で、ザル法の問題も、献金者の権利を守る、などという理由を付け、抜け道作りに精を出すのは、馬鹿げた話と思う。ここにも、総番号制を、拒み続けた人々が、暗躍する下地がある。国民の義務、などと持ち出し、何かにつけて、議論だけはするものの、いざという時には、特権階級に、便宜を図ろうとするのは、何故か。分かり易いのは、金が絡む話には、という指摘だろう。墓場に持ち込めなくとも、生きている間は、裕福にと思うのは、人の性に違いない。法律の範囲内だが。

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4月30日(火)−火中の栗

 円安の話は、氷山の一角に過ぎない。経済評論家や市場関係者は、事あるごとに、都合のいい材料を拾い上げ、それを端緒として、持論を展開し、結論に導く。事ほど左様に、といった具合だ。それに乗せられ、考えもせずに、飛び付く報道は、単なる後追いに過ぎず、愚かなだけだ。
 報道の愚かさは、何度も取り上げてきたが、紛争に関しても、そんな傾向が強い。特に、誰かの口車とは限らず、自分達の描いた筋書き通りに、話を展開させるのは、常套手段であり、浅慮の結果だけに、御里が知れるというものだ。人質を取られ、奪還を目指して、攻め込んだ国を、敵視する姿勢は、当初から指摘したように、この国の公共放送の、支局長の言動に、如実に現れていた。その上、現地に居るのに、情報収集に奔走せず、政府からではなく、敵対する暫定政府どころか、実効支配する勢力からの情報のみを、伝えるのには、呆れるばかりと書いた。この地域からの報道は、これまで、どちらかと言えば、双方からの情報を、ほぼ正確に伝えていた、中東のテレビ局でさえ、偏った内容しか伝えず、西側のものも、追随する姿勢が目立つ。犠牲者数も、中立的な立場からの発表ではなく、一方的なものばかりで、ある病院の爆撃も、直後は、誤ったものだった。更に、最近も、ある場所から、多くの埋葬された死体が、見つかったとの報道があったが、その後、音沙汰が無くなった。虐殺との推測が、飛び交ったのに、一体全体、どうなったのか。これに限らず、力の行使を見ると、極端に偏った情報操作が、行われることには、注意を要すると思う。特に、独裁者に関して、糾弾する姿勢として、彼らの情報操作を、批判し続ける一方で、自分達のものについては、何の罪の意識もなく、垂れ流し続け、総括をする気配も無い。報道の偏向は、今に始まったことではなく、戦争などの際に、特に、著しくなる。だが、当事者でもないのに、加担する姿勢を示すのは、如何なものかと思う。

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4月29日(月)目を逸らす

 人件費の違いを、理解しないままに、的外れな指摘を繰り返すのは、愚の骨頂ではないか。だが、違いを示すことなく、目を逸らさせるような、論調を続けることは、あの業界では、ごく当然のことであり、何かにつけて、自分達が書いた筋書きに、全てを載せようとする。
 煽動する為に、何が必要かを考えれば、当然の帰結だが、それに気付かぬ愚民は、何をどうしたいのか。例えば、基地問題で揺れ続ける、ある地域に、海の向こうの量販店が、進出することになった。その際、従業員募集で、示された時給は、千五百円である。そこでの最低賃金が、九百円弱であり、良くても千円に届くか、という状況下で、破格の提示だが、多くの商店が、危機感を抱いている、と伝えられる。だが、量販店の本拠では、通常、32ドルの時給だから、彼らにとっても、これ程に美味しい話は無い。為替を換算するから、という結論の導き方が、如何に誤ったものか、理解できぬ人が居たら、お手上げでしかない。この違いが、生じてきた背景には、当然の如く、物価上昇の原則を、守り続けた国と、頑なに、安値を追求してきた国との、違いが歴然とある。それにより、何が起きたのかは、書くまでもないことだ。確かに、何方の国でも、大衆はそれなりの生活を、維持し続けており、幸福な生活を、営む人も多く居る。それで済ませるのであれば、何の問題も、生じない筈だが、問題を起こし、それによって、不安や心配を煽る為には、これらの背景によって、保たれている均衡を、何としてでも崩さねばならない。その目的で、今、盛んに使われるのが、円安という現象だ。確かに、それが要因となり、これまで、低く抑えられていた物価が、急激に上昇しているように見え、生活が、一段と苦しくなった、という実感をもつ人も、多いだろう。だが、それが、経済活動の一つの答えであり、そこから導かれる、人件費の上昇が、確かなものとなれば、問題は無い。何処に不満があるのか。

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