パンチの独り言

(2024年5月13日〜5月19日)
(野次馬、言葉遣い、懲りない、誰の責任、荒唐無稽、定め、誰の施し)



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5月19日(日)−誰の施し

 社会媒体への歓迎は、弱者からのものが多い、と聞く。が、本当だろうか。面と向かって、意見が言えない人にとり、端末から発信する意見は、誰に気兼ねすることなく、好き放題にできる。だから、気が弱い人間にとり、これ程有り難いものは無い、というのだけれども。
 確かに、権力も持たず、財力の無い人間には、人間としての権利が、与えられていない、と感じる人が多い。けれど、そうしているのは、誰なのか。虐げられている、とか、差別されている、とか、そんな意見は、数多あるものの、その内容を、詳しく尋ねてみると、強い違和感が残る。そこには、一方的な考えで、自らの不幸が、周囲の責任だと、断定しようとする姿勢が、露呈するからだ。皆がそうだと言えば、常に、反論が返ってくる。本当に、不幸な人間が居り、彼らは、常に虐げられ、常に差別されて、暮らしていると。でも、と思うのは、こちらが、何の苦労も知らず、何の圧力も受けていない、からだろうか。それは違うだろう。誰もが、何らかの苦労を背負い込み、何らかの圧力を受けている。その中で、自分なりの努力を重ね、小さいながらも、成功を手にする。それによって、何かしらの達成感を、得てきたのだ。では、弱者を、自称する人々はどうか。これも全てに当てはまる訳ではないが、何かを手に入れても、それに満足せず、もっと大きいものが欲しい、と主張する。それ自体は、何も悪いことではないが、その一方で、努力はどうだろうか。更なる努力が必要、となった途端に、それを差別と称し、自分には、その権利がある筈なのに、与えられないと主張する。勝手にすればいい、と思うのだが、今の世の中は、こういう人々に対して、何かの施しをしようとする。それが、どんな結果に結び付くのか、与えようとする人間は、殆ど理解せぬままに。というより、施しを提案する人間の多くは、自分ではなく、社会や組織に、それを求めている。何様、と思うのは、自然なことだ。

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5月18日(土)−定め

 経済新聞の夕刊には、著名人の随筆のようなものが、掲載されている。ある小説家の文には、老人の集団自決で、炎上した人物の話が、紹介されていたが、件の人物は、海の向こうで、学者をやっているようだが、発言の内容は、常に、思慮も配慮も無い、代物だけに、当然の帰結か。
 報道の劣化に従い、有識者と呼ばれ、画面に登場する人物の劣化も、目に余るものとなっている。この事例も、その一つだろうが、理解に苦しむのは、そんな非常識な人を崇め奉り、茶の間へと送り込む、公共電波の濫用だ。白亜の塔だか、何だか知らぬが、学問を究めた、と思しき人物が、人格者である必要など、微塵も無い。にも拘らず、意見を伺うことに、価値があるかの如く、専門外のことにまで、及ぶのには呆れるしかない。仮令、それなりの常識を、持ち合わせたとしても、所詮、彼らの意見は、庶民と同等のものでしかなく、単に、円滑な話しぶりから、納得させられたような、気になるだけのことだ。逆に言えば、炎上の価値さえ無く、相手をする必要も無い。まあ、そんな話に、小説家は、心乱されたのだろう。一方、この手の話題では、ここでも取り上げたかも知れないが、「PLAN 75」という映画で、国が老人達の運命を、決定する話があった。確かに、社会問題として、取り上げるべき内容、かも知れないが、映画は、煮え切らぬままに、終わりを迎えて、期待外れとなった。新人監督の力量では、仕立て上げるのも、無理だったのだろうが、人間の死については、常に、困難な問題がつきまとう。姨捨山の話で、昔から扱われており、どの問題を、扱うべきかについても、決め切れない話だ。とは言え、極端な意見は、炎上の対象となり、それ見たことかと、飛び付く人も多い。尊厳を論じる一方で、無駄や効率を、引き合いに出すことに、どれ程の意味が、あるのかと思える。所詮、人の命は、その人間のものだが、だとしても、その人間が、決めるべきとは言えぬ。運命なのだから。

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5月17日(金)−荒唐無稽

 これも、社会媒体の弊害、と訴える人が居るが、実は、ずっと前からあったことだ。科学的、という衣を纏った、言説の数々である。四半世紀程前には、「とんでも」などと揶揄されたが、更に、1世紀より昔に、国の内外で、その類いの話が流布され、学者を巻き込んだ、騒動となった。
 この傾向は、社会情勢が、何方に傾いても、起こり得る。政情不安から、心配や不安が、巷に溢れる中、それらを煽る言説が、実しやかに語られ、振り回された挙句に、損失を被る人まで出る。一方、安定した時代には、正反対の状況だが、逆に、何も心配なことが無く、却って、安閑とすることで、物事を、吟味する力を失い、底の浅い言説に、まんまと騙される。人間の心理とは、何と脆いものか、と思えるのだが、その一方で、知識や知恵が、その弱さを補うことに、気付かぬ人の何と多いこと。地震などの災害が、起こる度に、持ち出される陰謀説や、荒唐無稽な説明に、常識的な判断力を、有する人々は、一笑に付すのだが、そうでない人々は、昔なら、井戸端会議で、今なら、社会媒体で、となっている。先日も、太陽の活動が、高まっていることで、様々な現象が、引き起こされる、との説明の中に、電磁波の影響で、オーロラが各地で観測され、という話があったが、それ自体は、何の不思議もない話だ。ところが、そこに、突如として、人間への影響を、論じる話が登場する。曰く、眠気を誘われるのは、電磁波の影響だ、とか、人間の行動が、異常を来すのは、その影響だ、とか。なら、手にした端末で、自分が日々行なっているのは、何か、との問いをしようものなら、人によっては、だから、あの端末から発せられるもので、脳が沸騰して、としかねない。いやはや何とも、と思うのだが、この風潮が、鎮まることは、人間が関わる以上、あり得そうにない。何故、そんなことが、と思うよりは、それが、当たり前なのだが、中身は、そうではない、と思うべきか、と。

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5月16日(木)−誰の責任

 報道は信用ならん、との風潮が強まっている。確かに、公共の電波や、公共性の強い新聞では、保守的、防御的にならざるを得ず、煮え切らぬ内容に、痺れを切らす向きもある。それに対して、手にした端末に届く、社会媒体の多くは、過激な意見が多く、一刀両断の内容に、胸がすく。
 確かに、そんな面もあるが、害も多い。極端な意見に、賛同した人々が、過激な言動に出て、社会問題を引き起こす。まるで、百年前の大震災後の、異常行動のようで、集団心理の欠陥は、今も昔も変わっていない。歯止めの必要性が、論じられた結果、発言者や扇動者だけでなく、媒体を運営する、仲介者の責任も、問われるようになった。自由こそが、正確な情報伝達に、不可欠なものとの意見が、多くあるものの、一方で、過激に走る群衆は、吟味力を有さず、暴走を繰り返すものだ。そこに、新たな問題が生じ、偽の広告に、踊らされた人々が、金銭的被害に遭う事件が、度々起きた。広告の主役が、著名人であることで、儲け話に飛び付いた人々は、その人物が、巨万の富を築いたことと、結び付けたのだ。結果、多くの金が雲散霧消し、詐欺集団は、姿を晦ました。被害者の訴えだけでなく、名を騙られた人物が、媒体の運営会社を訴えたのは、当然のことだろう。だが、件の企業らは、相変わらずの調子で、責任逃れに走ろうとする。元々、濡れ手に粟の如く、媒体は登場当初から、急速な成長を遂げ、企業戦略の成功例として、紹介されるだけでなく、追随するものが続出した。だが、広告に対する責任を、問われ始めたことで、図式は大きく狂い、迷走を始めたようだ。自己責任を掲げ、判断を利用者に任せ、仲介するものへの、責任を果たさぬままに、収益を上げてきたが、集団心理の話同様に、ここでも、群衆の判断は不確かで、他人任せでしかない。旧来の媒体同様に、掲載するものへの責任を、果たす為の手間は、掛けねばならぬだろう。ぼろ儲けの時代は、長くは続かぬものだ。

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5月15日(水)−懲りない

 物事を、批判的に捉えることは、論理を構築する上でも、自分の考えを纏める上でも、不可欠のものだろう。だが、相手の意見に対し、一々、問題点や疑問点を、指摘することは、面倒なだけでなく、相手の印象を、悪くするのでは、と心配する人が多い。誰も、嫌われたくないのだ。
 一見、正しい主張のように見えるが、その実、この考え方には、重大な欠陥がある。意見交換において、互いの主張の問題点を指摘したり、疑問を質したりすることは、当然の作業であり、それなくしては、交換など起こり得ない。にも拘らず、好悪の問題を、最優先に考えねばならないのは、明らかに、基本となるものが、抜け落ちているのだ。互いに、議論を戦わせた時も、まるで、喧嘩の遣り取りのように、受け止める人が居るが、彼らは、意見交換の基本どころか、互いに尊重し合う基本を、全く理解していない。子供の頃なら、仕方ない部分もあると言われるが、子供とて、自分中心の考えを、徐々に、変貌させる必要があり、その途上にあるのだから、こういう変化を、受け止める為の、心の成長が促されるべきだ。その上で、本人が、必要性を自覚し、成長へと繋げることで、徐々に、準備が整っていく。この過程で、様々な障害が生じたり、紆余曲折があったりするのは、当然のことで、それを克服しなければ、人間社会の一員として、役割を果たすことも、難しくなる。ただ、周囲を見渡してみると、こんなことが、できないままに、育ってきた人間が、一杯居ることに気付く。彼らを相手にすると、何故、こちらを忌み嫌うのか、不思議で仕方ないが、おそらく、その原因は、この点における、未発達にあるのだろう。いい大人となってしまうと、この点を修正することは、ほぼ不可能となる。本人が、余程痛い目に遭わぬ限り、何の変化も起きず、ただただ、こちらをどう貶めようかと、躍起になるだけだ。面倒は、まさにその点にあり、放置しても、無視しても、始まらない。さて。

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5月14日(火)−言葉遣い

 カスハラ、カタカナ語も、短縮形も、好ましいと思えず、嫌悪さえ催すが、この所話題となっている。内容は、何度も指摘するように、ハラスメントなる定義が、相も変わらず、曖昧なばかりか、一方的な主張に、辟易とするばかりだ。という意味では、他と同じ、ということだ。
 ただ、その背景として、殆ど指摘されないが、全く異なる背景がある、と思う。元々、店に行くと、そこで交わされる言葉に、強い違和感を覚えており、その指摘は、枚挙に遑がない程だ。慇懃無礼な言葉遣いに、不快と感じる客は、多数居るに違いない。その原因は、と考えると、まさか、と思えてくるのだが、はじめに挙げた言葉が、あるのかも知れない。虐められるから、それを避けようとして、馬鹿丁寧な言葉を発し、常識的な人々から、顰蹙を買う。これもまた、現代社会の馬鹿さ加減を、表す指標なのかも、と思える。一方で、相手の低姿勢に乗じて、声高に主張を続け、事件に発展した、という話が、こんな言葉が、市民権を得ようとする、強い力となったのだろう。ただ、こんな茶番に、社会全体が、振り回されるのは、如何なものかと思う。それより何より、まずは、互いの立場を弁えて、使うべき言葉を選び、互いに、気持ちよく過ごせるよう、心掛けるべきではないか。先日も、役所に類する所の人間から、耳を疑う言葉が、発せられた。年金に関わる所では、それが、住民全体による、支え合いで保たれている、との認識から、関係する人々に対して、懇切丁寧な説明が、必要との声がある。それ自体は、何も間違っていないが、だからと言って、相手に対して、「お客様」と呼び掛けるのは、何だろうか。客は、一般に、商店を訪れ、商品を購入する人間を、指している。だとしたら、年金は、商品なのだろうか。それを、購入して、老後の資金を、確保するという考え方は、資産運用なら、理解可能だが、これは、国を挙げての制度なのだ。何を言いたいのだろうか?

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5月13日(月)−野次馬

 先週、炎上云々と書いたが、何も起きなかった。今、検索してみても、新しいものは見当たらない。まあ、仮想空間の、こんなうら寂しい所に、訪問する人の数は、数える程だから、反応が無くて当然かもだが、どうだろうか。読んだ人が、どんな感想を持ったのか、伺いたいものだ。
 常識的には、あの騒動は、早晩忘れ去られる。兎に角、批判の矛先が、的を外すどころか、正反対に、矢を放ったようなものだからだ。ふと思ったのは、あれはまるで、天に唾するかの如く、批判者共が、自分達の頭に、戻ってくるように、放ったのかも、ということだ。報道、中でも、電波を使う連中は、何かと、視聴率を気にするらしい。広告主に、喜ばれる為には、どれだけの人間が、その広告を眺めたかが、肝心だからだろう。全国放送では、同じ時刻に、同じ広告が、流されるとは限らず、各地方で、異なるものが、流される。となれば、時刻合わせは、重要であり、出演者が、話し続けていても、途中で打ち切られることは、当然とばかりに起きる。音声機器のスイッチを、切るという行為は、まさに、それと同じだろう。出演料を、払うべき相手ならば、少しは理解されようが、世間に訴えたいと、出てきた人間には、十分な時間を与えないと、許されないかも、という事態も起き得る。だが、実際には、どうだろう。その場で、少しの言い訳でも、するのならまだしも、触れることなく、別の番組に移り、知らぬ顔もあるだろう。どこが、どう違うのか。基本は、同じことだ。与えられた時間内に、如何に効率よく訴えるか、が全てであり、最低限の約束を、守れぬ人間には、権利主張は、許されぬものだろう。ただそれだけのことに、一時的とは言え、躍起になったふりをして、正義の味方を演じるのは、どれ程馬鹿げたことか。今の社会媒体の風潮は、その位劣悪なもので、乗せる方も、乗る方も、大概にせよ、と言いたくなる。今度は、炎上してしまうだろうか。

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