塵芥捨て場は、嫌われものである。日々出される、生活塵芥もそうだが、高度な塵芥も、だ。一方で、裁判記録などが、廃棄された問題もあり、保管・管理も、疎かにできない、重大なものとなる。保管・管理や、廃棄の問題が、取り沙汰されるのは、結局、どう扱うか、という話だ。
高度な塵芥、と書いてみたものの、何のことやら、と思われるだろう。所謂、核の塵芥である。ごく最近も、話題として取り上げられたが、何処に最終処分すれば、という問題が、解決策を見出せぬままに、ある意味、放置され続けている。北欧の国では、処分が始まる一方で、問題となる発電方式を、放棄する動きも、勢いを増している、と言われてきたが、一方で、再生可能と称する方式が、増すに従い、数々の問題が生じたり、脱炭素という掛け声で、削減を加速させた方式も、捨て切れぬようだ。確かに、再利用ができず、一方で、環境負荷の大きい、核の塵芥は、生活塵芥とは、比べ物にならぬ位に、重大な問題とされる。だが、半世紀以上前に、この発電方式が発明され、それが、数を増し始めた頃には、これらの厄介物は、海上投棄が、常識とされていた。「沈黙の春」で取り上げられたのも、この話なのだが、それと、今の三重水素の問題を、同等と捉えるのは、無知の極みだろう。とは言え、その後、環境悪化が、問題視されたのは、一方で、核実験が下火となり、もう一つの汚染源が、取り除かれたことが大きい。その結果、最終処分場なるものを、設けることが、世界の常識となり、今に至っている。だが、三重水素の話で、取り上げたように、放射性物質の処理で、方法の一つとなるのは、希釈であり、高濃度のものを、希釈分散させることで、影響を抑えるのは、科学的にも、妥当と考えられる。元々、原子力燃料に用いられる、ウランは、濃縮することで、利用可能となる。逆に言えば、自然界でも、僅かな反応がある。ならば、分散して、元の状況に近づければ、いいのではないか。
批判的に、物事を捉える習慣の無い人には、何と、都合の良い時代なのか。などと書き立てると、そりゃ逆だろう、と言われるのか。不安や心配を煽り立て、火を付けておいてから、騒ぎを大きくする。そんな戦略が、報道の常となってから、もう、何年も経過している。
普通に、物事を考えられるなら、気付いてもいい筈が、次々と騒ぎが起こされるのを見ると、そうでないことが分かる。誰かが起こした騒ぎも、その殆どが、空騒ぎと終わり、忘れ去られるだけだが、騒ぎの最中には、炎上あり、議論沸騰ありと、暇潰しとも思えぬ、何とも精力的な、言動の遣り取りが起きる。だが、所詮、浅はかな考えに基づく、見通しの暗いものだけに、長続きする筈もなく、まして、役に立つ議論へと、発展する筈もない。で、結局は、次の材料を見つけ、そちらに走るだけで、報道は、それで飯が食えており、有る事無い事、書き散らせばいいとなる。今回触れるのも、その一つと思うのだが、例の24年問題、と名付けられた、働き方改革の影響の話だ。陸上輸送においては、様々な仕組みが、世の中にあり、それによって、人々の生活は、恩恵を受けている。その中の、大型自動車による輸送が、問題を抱えている、という話なのだ。長時間労働に、強い規制が入ることで、これまでの長距離輸送が、立ち行かなくなる、との主張が、実しやかに行われてきた。各地からの輸送が、不可能となれば、日々の食品の流通が、滞ることから、大問題へと発展する、というものだが、本当だろうか。半世紀程前には、自動車輸送は、都道府県内に限定され、一部の業者のみが、長距離を扱っていた。当時と同じと見れば、何とでもなる、と思えるのだが、不可能だと断定する。さて、何処に違いがあるのか。規制緩和以来、個別輸送が、当然との風潮となり、今に至るが、経費削減も伴い、全体として、効率化とは裏腹の、経費圧迫のみとなった。この弊害が、除けるのに、何が悪いのか。
差別の話の多くは、合理的に考えると、矛盾に満ちたものとなる。だが、今の風潮では、本人にとって、どう感じられるかが、肝心であり、他人の印象や感覚は、入り込む余地が無い。その中で、差別を殊更に取り上げれば、別の差別を招き、更に、という具合になる。どうしたものか。
これも、弱者保護の一つ、と思っているのだが、賛否があると思う。酷い差別を受け、人権蹂躙としか、思えない程の仕打ちを、受けた人間に対して、それは、合理的に考えれば、と始めてしまえば、まさに、差別的な意見として、断じられる。だが、冷静になって、考えてみてはどうか。人権蹂躙とは、何を指すのか、酷い差別とは、何を指すのか。別に、裁判をするつもりはなく、単に、事実を並べた上で、検討してみては、と思うだけだ。その上で、事実として、合理的に考えても、差別と思える言動が、あったとすれば、加害者と思しき人間に、何かしらの措置が、必要となる。一方で、権力を笠に、何かしらの圧力を、受けることは、誰にもあり、それも、度々となることもある。そんな時、確かに、訴えることで、障害を取り除くのは、方法の一つには違いないが、そんな手間をかけるより、別の方策を講じて、やり返すのも、一つではなかろうか。諦めが肝心、などと言われるが、諦めるか否かは、人それぞれの判断で、力関係が、明確だとしても、形勢が変わることも、多々あるものだ。こんなことを書くと、世間知らずの、何も解っていない意見、と言われるかもだが、本当は、そんなことが、数え切れぬ程あり、その中で、人々は、生き抜いているのだ。弱者が全て、と感じるのは、どうだろうか、という話である。しかし、力の弱い者が、何かしらの主張する為には、差別を取り除くのが、第一と考えれば、そんなやり方もあるだろう。でも、と思うのは、弱いことを自覚し、それに甘んじることが、必ずしも良くない、と思うことがあるからだ。まあ、戦ってみるのも、一つではないか。
差別の話は、度々、取り上げられるが、的外れの感が、否めない。単なる区別を、受け取り側の独断で、差別と断言するのも、その一つと思うが、元々、ヒトというより、生き物はそれぞれに、違いがあり、そこから出てくる多様性により、繁栄を築いてきた。違いは、当然なのだ。
にも拘らず、多くの人々が、差別を問題視し、その是正を求める。確かに、人為的なものには、問題があると思うが、例えば、男女のものなど、生物学的に見ても、明確な区別に対して、差別と断じるのは、如何なものかと思う。それも、月の物と呼ばれ、女性が抱える問題として、屡々取り上げられる、生き物としての現象に対して、配慮をすれば、問題と取り上げられ、無視すれば、また問題となる。だが、程度によるものだが、その最中には、様々な形で、支障となる場合があり、それに対して、周囲が働き掛けることは、決して差別ではないし、多様性の一つとして、取り上げるべきことだ。その上、それによって、休みを取る必要が出たら、無理強いせず、本人も無理をせず、当然の権利として、行使することが、当たり前だろう。ただ、このことに関して、何かしらの影響が、業務に及ぶことは、想定していたとしても、そこに差が生まれるのは、止むを得ないと見るべきだ。その結果だけを捉え、差別と騒ぐのは、愚の骨頂でしかなく、全体として、どう捉えるべきかを、検討した上であれば、問題とはならない、と思う。これ以外にも、各人の能力の違いから、様々な区別が生じ、それが、反映されることも、多々あるに違いない。それらのことを、表面のみを捉えて、殊更に、騒ぎ立てるのは、どうだろうか。差別が起きないように、と高らかに謳いつつ、その一方で、差別を顕在化させ、別の差別までも生じるようでは、本末転倒でしかない。今の世の中、そんなことが、数え切れぬ程あり、戸惑うばかりとなる。何を常識とするかだが、こんな非常識が、罷り通るのは困りものだ。
炎上しなかったが、3分の話である。せめて、5分くらいは、との意見が出ており、またか、と思った。何度か取り上げた、経済紙の夕刊にある、有識者達の随筆に、書いてあった。件の人物は、同時通訳者から、大学へと転身した人で、常識的な意見に、好感を抱いていたのだが。
当時の記録を精査し、役所のやり方に、異論を唱えていた。前半部分は、意見を求めたのに、3分しか与えないのは、おかしいとの主張で、せめて5分くらいは、としていた。これについて、以前書いたことだが、仮令、状況がどうであれ、互いの時間を有効に、という観点から、時間制限を設けるのは、ごく当然のことであり、それが足るか足らないかで、論ずべきものではない。与えられた時間内に、如何に、主張を封じ込めるかが、肝心となるのは、社会一般の常識だろう。そこを、せめて、とするのは、5分でも足らず、10分、30分となる話でしかなく、困るだけのことだ。確かに、この国では、時間をかけて、相手の話に耳を傾けるのが、心情的に重要、と見る向きがあるが、困った風潮でしかない。一方で、公害の被害者が、何らかの補償を、受けるべきとの主張には、何の異論も無い。その過程で、意見聴取が、必要となったとしても、そこに、制限を設けるか否かは、別の話でしかない。弱者に対して、寄り添う姿勢を、という考え方も、人それぞれであり、様々だとは思うが、全てにおいて、相手に配慮を見せるべき、という考え方は、程度問題でしかない。聴取を、決定したこと自体が、配慮の現れであり、そこにおいた事情が、気に入らないからと、糾弾するのは、如何なものかと思う。常識的で、好感を抱いたが、今回の話は、駄目である。特に、教壇に立って、次代を担うべき若者達に、何かしらを教えてきた人間が、こういう考え方を貫いていたとしたら、社会規範の何たるかを、伝え切れなかったのでは、と思ってしまうのだ。
何でもできる人工知能、と連日のように、報じられているが、本当だろうか。確かに、以前なら、心許ない状況で、とても任せられない、と思われたものが、少し変化があった、ように見える。だが、それを称して、何でもできるとは、言える筈もなく、どうしたものか、と思う。
かなり昔のことだが、製造業で、機械化が進んだ頃、盛んに、職が失われる話が、取り上げられた。その後、どうなったかは、ここに書くまでもなく、確かに、一部の労働者は、職を失ったものの、大部分は、新しい体制の下、役目を果たすべく、働き続けている。その一方で、当時、盛んに叫ばれた、この調子で行くと、全ての職が失われ、人々は路頭に迷う、との主張に関しては、空騒ぎで終わった。こんなことが、何度も繰り返され、喜劇王の映画の如く、機械に使われるとの予想も、外れ続けている。さて、では、今回はどうか。今度こそ、との声もあるが、全体としては、楽観的なのではないか。確かに、これまで、人が行なった作業の一部は、機械に取って代わられ、別の作業を、担当する必要が出てくる。しかし、人間の能力は、機械を遥かに上回り、新たなものへの順応も、暫くは滞るだろうが、早晩、何とかなるものと思える。一方で、多くの人々の危惧は、簡単な作業しか、任されていない人間は、やはり、ということだろう。でも、そんなことは、機械や人工知能が、登場するまでもなく、これまでも、奪われてきたことだ。こういう問題が、取り上げられる度に、何故、底辺を見つめて、そこに、問題を見出そうとするのか、不思議でならない。確かに、高度な技術や知識は、一部の人のものだろうが、全ての人間が、ある程度以上の能力を有している。にも拘らず、戦々恐々となるのは、何故か。一つ、気になることは、帳簿の書き写しや、書類の清書など、単純作業が、覚束ない人の登場だ。注意力散漫や、集中力欠如が、取り沙汰されるのも、そこだろう。気力の問題なのか。
社会制度の問題点について、報道は、盛んに指摘を繰り返し、時に、破綻を危ぶむ声を伝える。が、本当だろうか。この点に関しては、多くの書籍や有識者が、報道の偏向した主張を、厳しく批判し、誤解を与えようとする動きに、警鐘を鳴らす。だが、懲りない連中は。
その最たるものは、年金制度だろう。この国に限らず、先進国の全てが、その制度を実施するが、内容は、それぞれに異なっている。家族制度が、根本にあるから、それに依存する場合には、不要なものだが、先進国が導入するのは、別の所に、理由があるからだろう。貧富の差が、いかに大きくとも、平等を謳う限りは、不可欠な制度と思えるが、そのこと自体を、理解せぬ人の、何と多いことか。その理由の殆どは、自分の生活が、成り立たなくなる、というものであり、老後には目を向けず、ただ、日々の生活に、心を奪われる。そんな人間の多くは、自身が老後を迎えると、豹変するだけに、傾聴の価値無し、と断じるべきと思う。がしかし、報道は、彼らの方に向き、寄り添うかの如き、姿勢を見せている。ただ、その際に、彼らが用いるのは、仕組まれた嘘であり、誤解を与えることで、不安や心配を、煽るという例の戦略の表れ、となっている。破綻の話は、国が潰れぬ限り、という中で言えば、あり得ぬことであり、その証左の多くは、取るに足らない暴言に過ぎない。一方、制度の根幹について、目を向けぬよう、仕向ける姿勢には、呆れて物が言えないが、彼ら自身が、理解できていないのか、と思える程だ。ただ、政府の施策も、足らぬ部分が多く、制度全体の統合は、擦った揉んだの挙句に、何とか漕ぎ着けた。当時の混乱を、批判し続けた報道も、それによる恩恵に、目を向ける気配は無く、別の問題を、探し続けている。一方、先進国同士の協定が、整備され始めたことに、気付いた人は、どれ程か。それにより、国を跨いだ活躍が、促進されることも、あり得そうなのだが。