海の向こうだけでなく、こちら側でも、社会媒体に、好き勝手な意見を、書き散らす人々がいる。彼らにとり、同類の中で、絶大な権力を得た人間は、憧れの対象となり、支持する人の数も、多いと言われる。だが、能の無い人間に、何ができるというのか、疑問ばかりが残る。
彼らの論理では、常に、自分が正しく、他の人間は、間違っているとなる。前大統領は、その代表格であり、就任以前の選挙でも、常識を逸脱した公約を掲げ、何度も苦汁を嘗めさせられた。だが、そんな人間にも、機会は平等に与えられ、何度倒れても、諦めない限り、選挙に出ることができた。その結果、大方の予想を裏切り、当選という褒美を、手に入れた訳だ。だから、自分は間違っていない、と結論付けたのは、まあ、お愛嬌を超えて、傲慢の現れに過ぎなかったが。それでも、任期中に、海の向こうの国が、崩壊することも無く、繁栄を続けている。だから、自分は間違っていない、と再び結論付けたのだろうが、これは、何のお陰か、大方の見方は、民主主義が、暴挙の数々を、打ち砕いたとしている。だが、幼児的な判断が、ある意味、通用することを、明らかにしたことで、彼自身のみならず、その支持者達もまた、勝手気儘な言動を、続ける結果となった。でも、と思うのは、法治国家としての、最低限の縛りが、維持されているか否か、という問題だろう。現時点で、被告人自身は、依然として、無罪を主張しており、謀略の数々を、指弾している。だが、法律に基づき、裁判で決定する、というやり方は、尊重されるべきであり、自分の考えが、全てを排除できる、とするのは、無法者の考えることだ。西部劇の時代でもあるまいに、劇の主人公にでもなったつもりか、勢いは衰えず、傍若無人ぶりも、相変わらずだ。確かに、選挙が決めるかもしれないが、裁判の結果は、法治国家として、厳然とあるべきだ。今や、呆れて物が言えぬ、と言うのでは駄目で、徹底的に裁くべきか。
海の向こうの国は、どう映るだろう。訴訟社会であり、何事も、裁判で決着させる、と言われるが、その舞台たるや、まるで演劇の如く、お芝居が演じられる。白黒を、はっきりさせる為とはいえ、感情に訴えたり、情報操作したりと、何でもありの状況に、呆れるばかりだ。
今回も、前の大統領が、裁かれていたが、成り行きに注目が集まった。訴えられる程に、悪行を重ねたのなら、何でそんな人物を、候補とするのか、全く解せないのだが、それとこれは、別の話とのことだ。何れにしても、弁護検察双方が、慎重に選んだ陪審員は、全員一致として、全ての罪状に対して、有罪と断じた。予想通り、被告人は、相変わらずの調子で、自らの正当性を主張し続けるが、あの人物の嘘の数々に、辟易する人間には、何も響かない。だが、支持者と呼ばれる、狂信者達は、全く別の見方をし、何の罪も犯していない、と反論を続け、支持も続けると言う。この断絶は、二つ前の選挙の時と、全く変わらぬ状況だが、それとて、前の選挙では、一人の独裁的な人間の、異常な言動に対して、民主主義の判断が、下されたとされた。ところが、その決定でさえ、不当と訴え、賛同者を募り、議会へと押し掛ける始末、何処まで、無軌道ぶりを発揮したら、気が済むのか。おそらく、独裁政治を手にし、自らの権力を、絶対とするまで、終わることが、無いのかも知れぬ。判決後、控訴が確実とも伝えられるが、一方で、量刑については、ひと月程後に、下されるとのこと。ただ、早速、高齢だからとかで、収監は免れ、執行猶予が、との推測が飛び交う。だが、選挙に出馬し、その先、4年以上の間、居座ろうとする人間を、高齢と扱うのは、失礼千万だろう。さっさと、収監した上で、選挙を戦うのなら、塀の中から、やらせればいい。異常と思えるのは、訴訟だけでなく、こういう人権に関する話で、人種差別の一方で、こんなことが罷り通る。民主主義なら、特別扱いは、必要無い。
何度も書くが、心配するな、と言うのではない。感情のみに流され、科学的な論理を、打ち捨てて、不安や心配を、口にしたり、書き散らしたりするな、と言うのだ。それも、報道に携わる人々が、次々に書き立てて、大衆の不安を煽るのは、以ての外というものだ。
大震災により、被害を受けた発電所は、様々な問題を生じている。処理水の問題は、国際的には、反対意見が、依然として残るものの、ある意味、解決の道を歩んでいる。一方、炉心溶融したと言われる、原子炉に関しては、手付かずの状態にある、と盛んに言われる。が、実際には、解決の道筋を、見出そうとして、関係者達は、最新の技術を、注ごうとしている。ただ、世論なのか、別の力なのか、計画を示せという、強い圧力がかかり、一旦は提示したものの、状況把握が進む度に、数々の問題が、噴出することで、それに対する解決策を、講じる必要が出てくる。その為、当初の予定は、狂い続けており、叩くことしか、頭に無い人々には、格好の標的となっている。ただ、現場の状況が、明らかになるにつれ、それに応じた対応策が、講じられており、ゆっくりとだが、進んでいるものと思われる。報道する側は、新たな情報と、画期的な解決策を、期待する為か、兎に角、遅々として進まぬ状況に、批判の声を、上げ続けるようだが、見守る必要がある、と強く思う。何しろ、破壊されたものを、処理できるように、運び出すことも、ほぼ初めてのことであり、軍事侵攻の先で、無知な兵隊どもに、踏みにじられた場所では、蓋をしただけで、周囲も、手付かずの状況にあり、多くの兵士が、被曝した位で、他方、制御された中で、進められている最中、何を焦って、批判し続けるのか、理解に苦しむばかりだ。遠隔操作も、机上の訓練とは、大きく違う状況に、覗き込む度に、新たな障害が、明らかになるのだから、容易では無い。ただ、何処かのように、臭い物に蓋では、解決にはならないのだ。
伝統文化に、関心があるだろうか。近年、外国の人気が高いとして、錦鯉や盆栽が、盛んに取り上げられ、国内よりも、遥かに盛り上がっている、とも伝えられる。価格の高騰など、別の意味での関心も、高いようなのだが、本質的に、好みの対象として、目が向けられる。
盆栽をはじめとして、植物については、この国の特徴の一つである、季節の変化との関わりが、非常に強い。春になれば、牡丹や皐月などが、出回り始め、秋に入ると、菊の展示会が、開かれる。それだけ、愛好家が居る訳だが、その辺りの事情には、大きな変化があると言う。先日、近くのさつき祭りに出かけたが、立派な盆栽が、飾られる一方で、愛好家達からは、溜息が漏れていた。嘗ての人気は、全く衰えてしまい、来場者の数も、激減しているとのこと。以前なら、無料バスが運行され、駅からの輸送も、盛んだったものが、今では、数時間に一本の、路線バスが走るのみで、広い会場は、閑散としていた。と言っても、数として見れば、それなりの人が訪れ、出品数も、国内外のものがあり、立派なものと思えた。ただ、嘗ての隆盛を知る人々からは、遠い昔を眺めるような、目が向けられていた。同様に、その土地では、嘗て、石楠花の公園が、設置されていたが、いつの間にか、閉園となったようだ。入園料を払ってまで、と思う人が増え、減少の一途を辿った末のことだ。さて、趣味の世界は、昔から、愛好家だけが理解できるもので、家族を含め、他人には、理解不能と映っていた。今でも、その状況に変わりはなく、おそらく、肩身の狭い思いを、しているのだろうが、その一方で、海外の状況は、どうしたことか。まあ、投資の一環として、との考えもあるようで、一概には、歓迎できない面もあろう。ただ、こういう趣味の世界は、日々の生活に、余裕がなければ、実現しないものである。紛争や戦争などに、明け暮れるようでは、出来る筈も無い。長く続いて欲しいものだ。
傾向と対策を立て、準備万端の備えをする、という生き方が、今時のものだろうか。だが、実際には、対策は不十分で、万全とは言えない状況に留まり、結果的に、成功を手に入れることが、叶わなくなる。何故、と問われれば、即座に、必要になったらすぐに、と答えるらしいが。
では、何時が、必要な時なのか。これも、尋ねられれば、その時が来れば、と答えるに違いない。だが、おそらく、彼らにとって、必要な時は、決して訪れないだろう。だからこそ、先送りを重ね、何もせぬままに、時間だけが過ぎて行く。今こそ、と叫ぶ瞬間は、やって来ないのだ。だからこそ、次こそは、と何度でも言い続けられる。平和な時代が続き、そんなだらしない人間でも、生き延びることができる。何とも、安易な時代となったものだ。と言っても、それなりの波風を受けて、やっとのことで、過ごしてきた人間も、大したことは言えない。目の前にある問題に、取り組むことがやっとで、その繰り返しを、生き延びてきただけなのだ。でも、と思うのは、何かしらの機会を、得ることができるのは、口だけの前者ではなく、やはり後者に違いないと。大したものは、手に入らないかもだが、それでも、何もしないで終わるよりは、ずっとましだろう。こんなことを、書き連ねるのは、機会さえ与えられれば、と言いつつ、何も手を付けず、自分から動こうともしない、そんな人間よりは、ましだろうという意味だ。それにしても、氷河期と呼ばれた時代、確かに、それ以前よりは、遥かに多くの若者が、行き先を見つけられず、路頭に迷った。だが、それでも、割合として見れば、ほんの僅かなものだ。なのに、今になって、学び直しもそうだが、定職に就けるように、というような動きが、あると言われる。あの時、機会が与えられなかったから、という理由のようだが、実際には、それを手に入れられなかったのは、本人の問題でしかない。なのに、何度も、与える必要があるのか。解せぬ話だ。
機会を与える、という意味では、誰もが対象となるが、やはり、話の中心には、若者が来るようだ。学び直し、とは少し意味が違うようだが、そんな方向の動きが、政府をはじめ、強まっていると言われる。だが、何かが違う、と思えてならないのだが、どうだろうか。
技術革新が、急速な時代に、学んできたことが、古びてしまい、それを補う為には、学び直す必要がある、という主旨の話だが、それ自体には、何も間違いがない、と思える。しかし、今、学ぶ必要のある人間には、どう映っているのか。その点が、気掛かりなのだ。嘗て、自分なりに努力を重ね、ある水準に達したことで、学歴を得て、職を得てきた。そういう人々にとり、日頃から感じるのは、培ってきた技術や知識が、古ぼけたものとなり、若い世代のものと、見合わなくなっているのでは、と懸念だろう。確かに、日々進歩する世の中で、それに追随することは、困難を伴うように思える。でも、今、この独り言を書いている、端末についても、我々の世代からすれば、何も無い所から、急に始まった上に、不可欠なものとして、職場を占領してきたもので、それへの対応を、余儀なくされてきた。でも、何とかなっており、確かに、開発には及ばないが、使いこなす位は、何とかなる。改めて、学び直す必要は、感じたことは無く、単に、次々に登場するものに、適応するだけでも、十分だったと思える。とは言え、人によっては、改めて、本格的に知識を構築する必要を、感じているのだろう。その姿勢自体には、何の間違いも無い。だが、若者はどうか。今、学ぶべきものを、疎かにしたまま、必要になった時に、という感覚を、こういう動きに対して、抱いているとしたら、大間違いだろう。傾向と対策を、厳しく批判するのは、それと同じように見えるからだ。必要となってから、動き出せば間に合う、という考えには、不必要なものに、溺れていることが、あるように見えるから。
若者達を、勇気付ける意見がある一方で、もう駄目だ、とばかりに、諦めた話がある。この国は、もう貧しい国に、落ちて行くのだ、という話を、何処かで聞いたことが、無いだろうか。あんな話を、公然とすることに、何の躊躇いもなく、自分は、正しい意見を発している、と何故思うのか。
平和が続き、安定成長が、約束されていた時代には、こんな意見が、出てくることは無かった。仮令、心の中で、思っていたとしても、それを発するのは、憚られたのだ。それが、いつの間にか、躊躇することなく、語る人々が出てきた。伝聞でしかないが、まるで、敗戦後の、目標を失った人々の、意見のように。だが、それを発する人々は、例えば、それなりに高い店で、食事をしながら、こんな話をする。若者からすれば、馬鹿にしている、としか思えぬ話だが、最近の連中は、諦められたと思うからか、そういう老人共に、冷たい視線を送るだけ、で終わるようだ。こんな人間関係は、赤の他人だとしても、不思議に感じる。貧しい国と言いつつ、高級な料理を、何の躊躇もなく注文し、美味そうに頬張る姿は、異常としか思えない。彼らの多くは、若者達の行状に対して、何の疑問も抱かず、注意しようともしない、のではないか。諦め、という言葉が、過るのだが、それだけでは、ないような気がして、こんな所に書いてしまう。勇気付けることも、諦めることも、必要無いと思うのは、こちらの感覚が、ずれているからか。世代間の断絶ではなく、世代を結び付けて、何らかの継承を、続けていく為には、厳しい言葉も、厳しい接し方も、必要だと思う。若い頃に、そんな圧力を受けて、凹むこともあったろうが、それでも、何かしらの力を得て、今に至ったと思えばこそ、こんな感覚を抱くのだ。だが、巷では、全く異なる言動が、満ち溢れているように、思えてくる。世も末と思うのは、勝手なのだが、社会全体のことを、全く考えずに、私利私欲に走っても、ろくなことは無い、と思う。