「限界!」という悲鳴が上がった、と報じていたが、問題の本質は、捉えていないようだ。それは、悲鳴を上げた方も、同様だろう。確かに、年々、削減が続けられ、人員削減や、経費削減など、減らせる部分には、相応の対策を、講じてきたのだが、これ以上は無理、といった所なのだ。
その点では、先日、読んだ本で取り上げた、博物館の話も、同じ部類だろう。国からの、運営費交付金を、頼みとする組織では、必要最小限の人員を、確保してきたが、そこに、様々な要因から、経費、特に、組織を維持するのに、必要となる、燃料関係の経費の高騰が、強い圧迫となり、かたや、寄付を募る戦略に出、一方は、悲鳴をあげることとなった。後者が、悲鳴しか上げず、自助努力を怠っているか、と言えば、そうではない。彼らとて、寄付を募るのは当然として、もう一つの本業と言われる、研究経費に関しては、言われなくとも、競争的資金の確保に、奔走しているのだ。だが、もう一方の本業は、競争の世界にはなく、無駄を承知で、施すことが不可欠となる。ある成長都市の首長が、自分の所の大学の、効率化を図る為に、再編を画策した時、自身の大学生活を、遊んでいた、と豪語したと伝えられたが、それこそが、無駄の典型であり、効率化を目指して、必要不可欠のみを、押し付けるのが、教育だとしたら、こんな人間は、さっさと排除されていた。安定した平和な時代には、傾向と対策が、最善の策と言われるが、変化に対応できず、役立たずになるだけの人間を、育てたいのなら別だが、そうでないなら、無駄を承知で、最低限ではなく、余分なことさえも、教え授けたり、活動させたりといった、効率軽視のやり方こそが、重要となる。ただ、現場では、世情に見合う、効率的なものが、好まれる時代であり、正答のみを、欲する人間が、跋扈する時代である。そこへの対応を、迫る社会に対し、正論を貫く覚悟が、彼らにあるのか、見極める必要がある。見守るという意味で。
国際機関の決定を、どう感じただろう。子どもの権利を侵害した、として、ある国を、厳しく批判した。そのこと自体、何も間違っていない、と思う人が居たら、何と愚かなことか、と思う。独り言を、読んできた人なら、すぐに、判ると思うが、彼らの著しい偏りと無能さに、呆れる。
大戦後、それまでの国際機関では、世界の平和を保てぬ、ということで、新たな仕組みが始まった。当初は、大きな目標に向かい、世界各国が協力して、という話だった筈だが、拒否権という、絶大的な力を得た、戦勝国の中には、その後の冷戦の状況もあり、身勝手な判断を、世界に向けて、押し付けることに、終始する国が出て来た。それでも、冷戦の時代は、啀み合いが、歴然としており、互いの利益のみを、追求する形とはいえ、ある意味で、均衡が取れていた、とも言われる。その状況に、大きな変化が起きたのは、一方の国々が、それまでの仕組みを、激変させることで、国の繁栄を目指す方に、舵を切ってからだ。その中で、分裂した国々を、今だに、自国の領土と見做し、そこに暮らす、同じ民族の保護と称して、軍事侵攻に踏み切ったのは、ある意味、成れの果て、とも思える行状だ。しかし、そこでも、国際機関は、全く機能を果たせず、口だけの批判を、繰り返すのみだった。少なくとも、多国籍軍を、派遣するなどして、安定を目指すことが、出来た筈なのに、だ。対立の中では、それも不可能、と見る向きもあるが、政情不安の後進国には、さっさと派遣するのに、と思うばかりだ。そこに、別の不安定な地域で、テロ活動が起きた。最初に書いたのは、その後の展開だが、あろうことか、機関の職員が、活動に加担したことが、明らかとなった時、やはり、と思った人も多いだろう。それほどに癒着が続く中で、今回の決定に対して、妥当と見るのは、あまりに無垢だろう。もう、死に体とも言われるが、根本から、改革を迫るしかなさそうに思う、活動費をせびるだけの輩に。
社会媒体が、持て囃されるのは、多様性の時代だからか。海の向こうの前大統領が、大手の報道を、偽情報ばかり、と盛んに批判し、自分に不都合な報道を、徹底批判したことは、記憶に新しいが、そうでなくとも、大衆は、偏った報道に、嫌気が差していたに違いない。
その反省でもあるまいが、大手報道も、様々な意見を掲げ、多様な見方を紹介する。典型と思えたのは、衛星放送で流れる、世界各地の報道だ。軍事侵攻が始まり、互いに、自分有利となる情報を、盛んに流し始めた時、件の番組では、双方の報道を、偏りがあるかもだが、そのままに流す、と断った上で、流していた。当時、社会媒体では、各国の報道が、著しい偏りを示し、情報操作を指摘する声が、高まっていた。だが、その批判の根拠として、示された情報でさえ、別の偏りに基づくもので、別の操作としか思えず、信頼は失われていった。結果として、なるべく多くの意見を、掲げることが、妥当との判断だったのだろうが、その後も、偏りは、一向に無くならず、取捨選択を迫られる。軍事侵攻は、相変わらずの状態だが、昨年末に起きた、ゲリラ活動の結果、人質解放を目的として、難民が暮らす地区に、攻め込んだ国は、ある意味、徹底批判の対象となっている。だが、ここでも何度も指摘したが、批判の根拠の多くは、偏った情報によるもので、情報操作の可能性は、否定できない。にも拘らず、国際機関をはじめとして、多くの国々が、攻撃中止を訴えるが、当事国は、聞く耳を持たないように、攻撃を継続している。目的が、はっきりとしており、その達成の為と見れば、当然の判断だが、一方で、人道的な見地から、看過できない状況にある。では、報道の基本である、中立性は、どのように確保されているのか。この点に関しては、指摘してきたように、偏向報道が、繰り返されており、情報源の選択も、客観的とは思えない。人道は別にして、多様な情報を、流すべきと思う。
安全・安心の話は、重要と思う。だが、巷で言われるのは、全く異なるものとも思う。確保すべき安全や安心ではなく、ただ、絵に描いたようなものだったり、現実味の無いものだったり、その類いが矢鱈に出回る。それを、手に入れることが、全てであるかの如く、幻を追って。
ここ暫くの間、自動車業界が、揺れ動いた。検査に不正があり、製造した車の安全性が、確保されていない、というものだ。一方で、現場からは、別の声が聞こえてくる。検査は、確かに行っており、手順として、誤ったものではない、というものだ。ただ、難点があるとすれば、二つの方向から、確認すべきものを、一つだけで済ませ、もう一方は、同じ結果とした、ということだろう。これでは、もう一方で、何かが起きた時、安全が確保できるか、と問われれば、答えようが無い、となる。そんなこんなの連続で、大手の企業が、次々と槍玉に上がっている。業界としては、おそらく、対象外となる所は、無いのでは、という憶測も飛ぶが、仮令、対象外だとしても、下請けいじめや他の要因で、批判の対象から、外れることは、困難となるだろう。何故、こんな状況に陥ったのか。評論家は、盛んに、成長を続ける中、気の緩みが溜まったのでは、と指摘するが、それだけならば、企業間で、異なる様相を呈しそうだ。業界全体が、こういう憂き目に、晒されているのは、基準そのものの問題、とは言えないだろうか。乱暴かもしれないが、本当に、不正により、安全確保が、出来ていないのなら、最近の事故を調査すれば、その兆候が見えそうに思う。同じではないが、嘗て、建物の構造計算で、不正が行われた時、建設済みの建物を、即座に取り壊し、再建したという話があった。その時、不謹慎かも知れぬが、耐震性を、確認してはどうか、と書いたことがある。机上の空論とは、言えぬものの、現実のものとして、確認してこそ、と思ったのが、何もされなかった。過剰基準かも、と思ったのだが。
詐欺は、それをする人間が、悪いに決まっている。だが、電話によるものが、頻発し始め、家族や親族の窮地を、訴えられたことで、手を差し伸べてしまった人が、次々に出始めると、少し状況が変わった。騙される人間にも、問題があるとか、利用される電話が、悪いのでは、などと。
ここでも、傾向と対策が講じられ、被害を少なくしようと、様々に行われている。だが、その状況は、あちらも同じで、被害者を表にしたものが、出回っているとされる。まさに、鼬ごっこの典型だ。電話によるものは、効率が良いらしく、依然として、止まる所を知らない。更に、人間だけでなく、機械によるものまで、登場するに至っては、どうしたものか、と思えてくる。先日も、国際電話によるものを、取り上げたような気がするが、別の国から、かかってきた。手の込んだ芝居を打つより、薄利多売とは、詐欺には当てはまらないだろうが、そんな様相のようだ。一方、別の媒体によるものも、増え続けている。最大の問題は、ここでも、社会媒体によるもので、そこに登場した、投資話は、その典型だろう。ただ、これと似たもので、興味を惹くような、荒唐無稽話を並べたものは、その中に仕込まれた広告を、収入源とするようだ。一方、媒体そのものへの広告は、運営企業の収入源であり、この業種が、成立する理由でもある。だが、免許や認可を必要とせず、自由さが売りなだけに、詐欺そのものも含め、悪質な広告が、殆どとなっている。投資話同様に、著名人を騙ったり、一流企業を騙ったりと、違法行為丸出しだが、その検証を、運営企業は、参加者に委ねているようだ。しかし、この状況は、まさに、詐欺集団の片棒を担ぐもので、犯罪に加担している。元々、刑法については、国内適用が基本だけに、この手の犯罪が、国際化したことで、後手に回ることが、多くなった。とは言え、運営企業は、拠点を、国内に置かねばならない。だとしたら、そこを取り締まるしかないのでは。
先月読んだ本の中で、取り上げたいのは、国立科学博物館を、紹介したものだ。何度か訪問したことがあるが、膨大な収蔵品に、全てを眺めることは、不可能と言われている。それ以上に、展示されていないものが、遥かに大量にあり、そちらの管理も、重大な問題、とも。
そんな調子で、博物館の意義を、紹介するだけなら、それほど、注目されなかったろう。こんな本が、今出版されたのは、例の事件があったからだ。軍事侵攻をきっかけとして、エネルギーの高騰が始まり、それが、電力料金の高騰へと、結び付いたことは、記憶に新しい。ただ、一般大衆が、政府からの補助を受けたのに反し、多くの公的な機関は、自助努力を強いられ、厳しい状況に陥った。その中で、資金獲得の為と、流行の金集めを、断行したばかりか、予想を遥かに上回る、資金を獲得したとして、注目されたのだ。その顛末だけでなく、存在意義などについて、丁寧に解説した内容は、読む価値がある、と思う。ただ、全体を読み通して、賛同できぬ記述も多く、今後については、懸念が残るのだ。特に、資金獲得に関しては、国立以外の公的博物館が、自治体の支援増額で、生き延びたのに対し、今回の成功は、大いに喜ぶべき、とする考えには、基本的に反対する。公的な支援を、必要とするのなら、それを貫くべきで、怠慢ではないにしても、こういう舵取りには、危うさがちらつくからだ。更には、職員の役割分担などにも、仲間意識がちらつき、今後の展開に、懸念が残った。まあ、何にしても、こういう所は、今が一番難しく、国立大学も、酷い目に遭わされている、と言われる。知識を活かす為には、次代を担う人材を、育成する必要があり、それに反対する人は、居ないだろう。にも拘らず、無い袖は触れない、という常套句が、罷り通るのは、何としたことか。税を見限るのなら、寄付を頼るしか無く、その為の法整備も、必要となる。どっち付かずは、破滅への道だ。
当初、こんな声が上がっていた。何故、あんな非常識に、同調するのか、と。確かに、ある時期までは、そんな声が、大勢を占めていた、と思う。ところが、徐々に、その状況に変化が起き、いつの間にか、大多数が、非常識な意見を、真っ当なものとして、評価するようになった。
何が、そんな変化を起こしたのか。まず、思い当たるのは、社会媒体の拡大だろう。これも、当初は、意見交換の場として、大いに評価され、多くの論者が、参加しただけでなく、それまで、声を上げなかった、一般庶民も、自分の意見を掲げ始めた。それ自体には、何の問題も無く、媒体は、成長の一途を辿ってきた。ところが、ある時期から、そこに、別の動きが起きた。極端な意見を掲げ、賛同者を募るものだ。最初は、興味本位だったり、面白おかしい場を楽しんだり、その程度の、遊び半分のもので、無害なものだったが、所謂「いいね」を獲得しようと、嘘や出鱈目だけでなく、手の込んだ捏造までも、登場し始めると、状況が、徐々に変化していった。悪意に満ちたものや、荒唐無稽なもの程、耳目を集めるとばかりに、そんなものが、盛んに投稿され、更には、仕組みの問題でもあるが、興味を抱いたものを、引用することも、盛んとなるにつれ、爆発的な広がりさえ、起きるようになった。これを、社会媒体の責任とするのは、間違いではないが、それだけが原因、とは言えないと思う。一方で、件の被告人は、その仕組みを利用し、持論を展開することで、支持を獲得してきたが、そこには、溜飲を下げるだけでなく、何かしらの利益供与が、あったと考えるべきだろう。その根底には、愚民政治があり、その風潮に、社会媒体の仕組みが、乗っかったことが、誤った方向へと、進んだ最大の原因と思う。確かに、この状況を打開する為には、媒体に対して、厳しい制限を課したり、大きな責任を負わせたりが、一つの方法なのだが、大衆の問題は、解決しないだろう。目を覚まさせるには。