パンチの独り言

(2024年6月10日〜6月16日)
(復権への道、矜持、挙国一致、人の数、集中せよ、摘果、何が科学)



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6月16日(日)−何が科学

 馬鹿騒ぎの結果、何の総括も無いのに、ただ、科学的に正しく、同じことが起きても、大丈夫だと繰り返される。だが、総括無しに、何故、そんな戯言が吐けるのか、理解不能だと、ここで何度も書いた。しかし、世間的にも、社会的にも、そして、世界的にも、それが科学と断言される。
 そんな時、経済紙の夕刊に、作家が書いていた。曰く、マスクをする人が減り、話題にさえ出ないが、何が正しく、何が間違っていたか、判然としないまま時が流れ、過去のものとして封印された、と。その上で、本人は、ワクチンを打たなかった理由を、述べていた。夫君ががんで、免疫治療を受け、副作用に苦しんだから、免疫をいじることに、恐ろしさを感じ、そこから、直感的、本能的に、ワクチンを避けたと書いた。周囲から、奇異な目で見られ、忠告も受けたことから、全体主義の恐怖を感じた、と記していたが、これは、直感でもなく、本能でもない。単に、一つの事例を、目の当たりにして、論理的に考えただけのことだ。その意味では、至って科学的な分析で、偉い科学者達が、宣うのと、何ら変わらぬことだ。なのに、片方では、科学を錦の御旗とし、片や、直感、本能と卑下する。そこに、現代社会が抱える、大きな問題がある。今回のワクチンは、科学者は、感染を広げぬ為に、と当初主張した。が、製造企業の分析から、感染予防には、何の効力も示さず、ただ、重症化が防げた、との結論が出され、方向転換が図られた。となれば、社会集団としてではなく、個人として、身を守る為のものに過ぎず、全体主義の御旗とは、なり得ない。なのに、一部の無能な科学者は、一つ覚えを繰り返し、社会全体に圧力をかけた。その結果が、彼女が述べた恐怖の世界なのだ。本来、免疫は、感染防止を、主たる機能とした筈だが、そうならなかった。つまり、学問世界で、盛んに喧伝されたものが、誤りとなった訳で、その点を正した上で、次の手を打つべきだった。ここにも、瑕疵がある。

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6月15日(土)−摘果

 他ごとに、精を出すと言われ、ふと思い当たることが、ないだろうか。馬鹿騒ぎの末、何も総括されることなく、早々に、忘れ去られようとしている、あの感染症の悪影響だ。教育現場では、人が集まることを避けるのが、一番の方法として、対面ではなく、画面を通すこととなった。
 それ自体は、担当教員の努力と、通信の仕組みの充実により、かなりの進歩が見られ、真剣に取り組めば、効果が上がることも、確認されたと聞く。だが、大多数の子供達は、大人が整備した通りには、行動しないもので、画面の向こう側には、誰も居なかったり、耳にした器具からは、音楽など、別のものが流れていた。教室に居れば、周囲の目もあり、大人しく、集中するのだが、誰の目も無いとなれば、勝手な行動に出る。所謂、欲望に走る、という奴だ。そんな調子では、何も学ぶことは無く、ただ単に、時間が過ぎるのみで、結果的に、得るものが無くなる。そうなれば、単なる落ちこぼれに、なるだけのことだが、特別な措置の中、こういう輩にも、機会が均等に与えられ、何も学ばずとも、進級できたり、卒業できたりする。その上、相対的な競争下では、所詮、同じ類の人間の、競い合いにしかならず、それまでとは、大きく異なる水準の、学生が進学してくる。最高教育機関である、大学には、そんな輩が、数多く集まり、仲間意識を糧に、同じ状況を続けている。多分、現場の混乱は、かなりのものだろうが、大学は、そんな人々に、正しく対応できているか、怪しいものだろう。社会への出口として、本来は、品質保証が鍵で、それを確かめた上での、出荷ならぬ、卒業となる筈が、このままでは、立ち行かなくなるのも、致し方無し、との見方が広がる。さて、どうしたものか、と現場が嘆くだけでなく、そんな不良品を、買取ならぬ、引き受けねばならぬ、企業や役所は、どうすべきだろうか。こんな状態では、業務が滞るのは、確実と思われる。となれば、厳しい選別が必要だろう。

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6月14日(金)−集中せよ

 傾向と対策を充実させ、賢く生きる。この話に、同調するだろうか。独り言では、そこにある落とし穴に、注意せよという話を、何度も展開してきた。だが、その一方で、傾向と対策とは、名ばかりであり、不十分な準備のまま、毎日を過ごし、その結果として、大きな失敗を犯す。
 そんな話に、心当たりは無いだろうか。よく失敗する人に対して、どう対処すべきか、そんなことが、盛んに取り上げられる。確かに、周囲を見回せば、一人や二人、いや、もっと沢山、そんな人の顔が、思い浮かぶようだ。特に、指示を守らず、何度も同じ失敗を繰り返す。そんな人間に、手を焼くことが多く、場合によっては、上司である自分に、責任が転がることもある。だったら、対策を練る必要がある、とばかりに、ここでもまた、傾向と対策を、講じようとする訳だ。おやおや、またですか、と思うのは、こちらであって、渦中の人々は、何とかせねば、と躍起になっている。だが、もう、問題を生じている人間には、多分、何も施せない。ある意味、肝心な所から外し、責任が及ばぬよう、備えるしかないだろう。では、そこに至るまで、何もしなくていいのか。そんな訳は無い。新入社員で、引き受けた時に、上手く扱えば、何とかなるだろう。もっと言えば、そんな人間を、採用せねばいい訳だ。だが、事は、そう簡単には運ばない。社会全体で見れば、そんな人間が、育ってくること自体を、何とか妨げねばならない。教育に対する期待が、高まるのは、そういった時だろう。ただ、全知全能とはいかない。ある程度の、落ちこぼれは、致し方なしと片付ける。そんな諦めも、必要だろう。まあ、そうは言っても、何かできることは、と考えてみると、一つだけありそうだ。傾向と対策とは異なり、絶対的な手法として、その場その場で、目の前のことに、集中することだ。そんなの当たり前、と思うかもだが、存外、できていない。やろうともせず、他ごとに精を出す。それを止めろ、と。

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6月13日(木)−人の数

 多くの人が、あれは何だったのか、と考えているだろうが、馬鹿げた騒動の結果、人の往来は、厳しく制限され、特に、国を跨ぐような移動は、ほぼ不可能となっていた。観光立国を目指す、と謳った途端の出来事で、観光地と呼ばれた地域には、混乱が広がり、皆の心も沈んだ。
 何だったのか、と書きたくなる程、騒動ばかりで、対策の効果の程も、予防接種の効果の程も、何も総括されぬまま、ただ単に、制限が解かれることとなった。それでも、街中を歩く人の中には、依然として、口を覆ったままで、暑苦しさが、こちらに伝わるだけでなく、異様ささえも、及ぼすことに、不快感を催す人も居るだろう。とは言え、人の往来は、以前と同じ程に、戻っただけでなく、観光客の数も、以前と同じ程度には、戻ってきた。喜ぶべきこと、と観光地では、考えているかも知れぬが、現実には、過ぎたるは及ばざるが、と思い始めた人も、多いようだ。確かに、一部の業者にとっては、収入が、以前に近くなり、やっと一息つけるとばかり、次の方策を、と考え始めたようだが、人材の確保が、問題となりつつある。その一方で、都会の有名観光地では、平日というのに、多くの外国人が、歩き回る姿があり、その上、彼らをあてにした、人力車の車夫達が、男も女も、そして外国人でさえ、道端に並んで、誘いの声を掛けていた。以前にも増して、車の数が、と思うのは、当然のことなのだろうが、それにしても、手持ち無沙汰も含め、余りに多い車夫の数に、驚くばかりとなる。これも、問題の一つなのだろうが、多くの飲食店も、同じような状況にある。その一方で、忙しさが増すにつれ、働く人が、戻ってくれたら、と願う店も多いようだ。雇用者と被雇用者の間で、あの騒動は、信頼を失わせる事態を、招いていた。その後の回復で、声を掛けたとしても、取り戻せないものが、そこにあるようだ。さて、この状況は、今後、どう変わっていくのか。

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6月12日(水)−挙国一致

 嘗て、写真フィルムには、ASAなる数値があり、いつの間にか、ISOとなった。前者は、ある国の標準、後者は、世界標準とされる。この国も、嘗て、録画の世界で、世界標準を、国内の二大勢力で競った。最先端技術を、誇る国として、標準となることは、最重要と考えられた。
 当時は、護送船団方式などと呼ばれ、国を挙げて、企業支援を行ったが、海の向こうからの横槍に、国の関与は、百害あって一利なしとばかり、報道は、挙って批判した。だが、その後の展開は、ここ数日書いたように、企業は低迷に陥り、一部産業を除けば、嘗ての栄華は、望むべくも無い。この原因を、そこだけに求めるのは、間違いかも知れぬが、自国政府への批判を、最優先にする報道は、他国政府の戦略に、まんまと乗せられた。権力に与する、という意味では、戦中の為体と、何ら変わらぬ姿に、今の社会媒体に巣食う、無知蒙昧との違いは、何も感じられない。国を挙げて、という意味では、先日共同体の選挙で、惨敗したとして、国内選挙に踏み切った大統領の国は、国内大企業の株を保有し、その国内外の活動を、大使館を先頭に、全面的に支援している。こういう国の存在に、知らぬふりで、触れることなく、海の向こうからの圧力に、加担したことは、大いに恥ずべきことで、今も続く、馬鹿げた批判姿勢も、科学的根拠と、論理的思考で、正すべきものと思う。電気自動車の台頭で、右往左往する中、監督官庁に対し、電池の標準化を、目指すべきとの意見は、各所から寄せられたようだが、何の動きも起きず、今に至っている。充電設備の充実を、目指すことは、確かに必要だろうが、現時点で、最重要なのは、消費者の利便性の追求であり、その為には、充電済みの電池を、交換する方式の標準化である。国内の製造業者が、かなりの世界占有率を誇るのに、そちらに動こうともしない官庁に、嘗ての姿は無いようだ。産業振興への、国の関与は、不可欠と思われるのに、何故か。

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6月11日(火)−矜持

 一週間程前、報道放送の見出しには、「不正」の文字があった。昨年末から始まった、自動車業界の激震は、物作り立国と呼ばれた国にとり、危機的状況にある、と見る向きもある。早速、批判の矢が、盛んに飛び交うが、その一方で、異なる様相が展開し、報道の不備さえ、囁かれる。
 確かに、検査項目に合致しないことが、行われていたのは、事実だったのだが、ほぼ同時に流れた詳報からは、全く別の面に注目が集まる。曰く、より厳しい検査を、実施していたのに、規則と合致しないからと、処分をするのは如何なものか、という訳だ。この展開は、報道の問題点と共に、それに振り回される、無垢な人々の、素直さと横暴さの表れ、と見る向きもあるが、何度も触れてきたが、論理性と科学的な見方が、社会全体に、備わっていないことの、弊害の一つと見るべきかも知れぬ。安全・安心が、絶対的な目標となり、製造者の責任が、厳しく問われる中、規制を厳しくするのは、当然の動きなのだが、それに対して、企業がどう従うかは、もっと議論しても良いし、相互の意思の疎通を、もっと図るべきと思える。今回の報道に関しては、監督官庁の言い分ばかりが、先行する形で、伝えたことが、世論操作の一つとなり、やっと閉塞感から脱した、とさえ思えた風潮に、水を差すこととなった。だが、冷静に見れば、何処かの自動車会社のように、検査を擦り抜ける為の、プログラミングを施すという、明らかに悪質な行為と異なり、自らを律する意味での、より厳しい検査の実施という、法外な行為を、罰することには、齟齬があったと見るべきで、過剰反応とか、体面の問題とか、そんな見方が必要かも知れぬ。ただ、その一方で、互いに忙殺された故の、確認の失念だとしたら、それもまた、反省すべきこととなる。自らを律するのは、当然のことだが、それとは別に、全体をより良い方に向ける為には、相互扶助も、必要なことだろう。倫理とは、それも含めてのことなのだから。

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6月10日(月)−復権への道

 この国が、嘗て隆盛を誇った産業に、再び注目が集まる。世界で独占が続き、日出ずる国、とまで言われて、その状況が、長く続くと思われたのは、四半世紀以上昔のことだ。今や、経済の停滞と同じく、凋落が続いた末に、嘗ての姿は、何処にも見えない、とまで言われる。
 確かに、独占したことより、最先端を走っていたことの方が、今考えると重要だった。先頭から外れ、あっという間に、集団から遅れ始めると、彼らの姿は、遥か彼方へと霞んでしまった。国家事業とまで言われ、その回復に、多くの資金と人材が、注ぎ込まれたが、焼け石に水となり、今に至っている。再び、と言われるのは、国の北と南に、大きな動きが起きたからだ。南では、すぐ隣の島国、と呼ぶと、例の大国が、怒る姿が目に浮かぶが、そこから、大きな工場が、進出したとの話だ。生産拠点を、探し続ける中、例の大国は、別の国々との衝突により、生産制限が、厳しくなりつつあり、先行きは見通せない。その中、今更のように、嘗ての大生産国に、目が向けられたのは、世界情勢と共に、この国の事情もあり、更には、労働者の技術力への、期待の大きさもある。一方、北には、国の梃入れもあり、最先端技術を、取り戻そうとの動きが、大々的に起きている。ただ、業界では、両極端の見方に、分かれているようだ。あの程度の資金では、最先端技術の導入ができたとしても、競争力の確保は、難しいとの見方は、妥当なものだが、それを承知で、まずは技術の確保から始め、先頭集団への返り咲きを、狙っているとの見方も、ある意味的を射ている。ただ、疲弊が続いた社会では、悲観的な見方が、大勢となるから、状況は、楽観視できない。一方で、そんな重い空気を、消し飛ばそうとする、強い意欲も、感じられるのだ。悲観が、簡単なのに対し、楽観は、成果を求められるだけに、困難を伴う。だが、自己評価も含め、正当なものを求めずして、未来は見えてこない。何をすべきや。

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