パンチの独り言

(2024年6月17日〜6月23日)
(科学とは、虚構の姿、疎遠に、順位の訳、片手落ち、別の答え、提案手順)



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6月23日(日)−提案手順

 就職した時の、研修でやった、と記憶する人も居るだろう。その後も、企画会議で、散々やった、という人も。だが、最近では、入社後の研修は、驚く程軽微なものとなり、こんな取り組みも、やったことが無い、という新入社員が増えている。本来なら、業務で役立つ道具なのに。
 ここまでで、思い付く人が居たら、それはそれで凄い、と思う。嘗てなら、付箋を手にして、黒板や模造紙に、記入したものを貼り付け、その後、そこに書かれた事柄について、議論を進めた、というやり方だった。脳の嵐、とでも評される、無理強いが続き、吐き出すものも無い、となった所で、一旦の休憩が入る。そこまでは、提案を、できるだけ多くすることが、重視されるから、他人のものへの批判も、控えるように、と指示された。その後、次の段階では、計画の立案に向けて、出鱈目に出された提案から、役に立ちそうなものを、選び出す作業へと移る。更に、それらを精査した上で、計画そのものを、文書化するという作業までが、研修や企画会議の目標で、その後の展開は、実施へと移る訳だが、こちらも、簡単なことではない。ただ、こういう手順を追えば、詳しく調べたり、深く考えたりすることなく、ある意味、気軽に提案を並べられ、他人のものと比較し、そこから選び出す作業により、議論を深めることも、可能となる、という話だった。今では、教育現場でも、盛んに行われ、多くの児童、生徒、学生が、積極的に参加し、互いの意見を交わすことで、何かしらの成果を得ることができる、とまで言われている。その上、対面が禁止される中、仮想空間上で、同じ作業を繰り返すことが、可能となったことから、離れた存在とも、意見交換が容易になった、と言われている。さて、道具は揃ったのだが、では、そこから、何を産み出せるか。大きな問題が、目の前に立ちはだかる。教育現場は、実現可能性が、問われることはないが、企業では、そうも行かぬ。さて、何から始めるか。

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6月22日(土)−別の答え

 実は、片働きと称した人物が、派遣されている国は、嘗て、この話題に関して、紆余曲折を経験した。それについて、以前書いたことがあるが、検索して見つけるのは、難しいだろう。女性の社会進出は、ある意味では、海の向こうの国が、先鞭をつけたと言われるが、今の状況は違う。
 先頭を走っている、と思えたのも束の間、大統領候補となった女性が、硝子の天井と称した、社会的な制約が、依然として大きく、障壁となっている。一方、はじめに取り上げた国は、海の向こう同様に、一気に、女性の社会進出が進んだ。嘗て、鉄の女と呼ばれた、宰相が君臨しており、その点からも、政治への進出が、進んだ証左となっていた。だが、あの国の人々は、目標を達成したことに、満足はしない。それより、そこから生じた歪みを、客観的に眺めたようだ。男女平等を目指し、社会進出が進むことで、家庭の問題が、生じ始めたことに、懸念を抱いたのだ。結果として、女性の家庭回帰が、進んだと言われた。確かに、権利を獲得する為には、社会的な地位を、確保する必要があった。しかし、そのせいで、家庭、特に子育てにおいて、強い歪みが生じたことに、気付いたのだ。ここからは、個人的な判断となる。自分自身の夢を、追い求めるにしても、それは、仕事だけでなく、子供を含めた家庭において、重要な目標が設定される。一つを手に入れても、もう一つを、手放してしまっては、何にもならない、と判断した人も多い、と伝えられた。結果として、子育て期間中は、仕事を一旦辞め、子供の世話に集中するという事例が、多く見られたのだ。役割分担には、様々な形態がある。それを、画一的に捉え、指標を設定することで、順位付けを進める。そんなやり方が、必ずしも正しくない、と示しているのではないか。制度を整えれば、何事も、完璧な形が、達成できる、とする考えにも、穴が一杯ある。だとしたら、別のことを考えるのも、大切なこととなる。

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6月21日(金)−片手落ち

 順位で、最も気になる、と言われるのは、男女格差だろう。毎回、発表される度に、低迷する順位に、憂いを込めて、批判の矢が飛ばされる。報道にとり、格好の的なのだが、中身を見るにつけ、余りの知恵の無さに、呆れ返るばかりだ。理由は、書くまでもないことだが。
 先日も、相変わらずの低位に、同じ論調が繰り返された。格差とは何であり、何処が問題かについて、論じる気配は、相変わらず全く無く、舶来主義同様、海の向こうから迫る圧力に、いとも容易く屈している。何度も書くが、役割分担が、どうあるべきか、議論の余地は無いのか。確かに、上位の国々でも、嘗ては、全く異なる社会制度が、敷かれていた。特に、最上位の国は、嘗て、他国に攻め込むことで、利益を得ていただけに、力を有する者が、全ての権力を持つのは、当然のことだった。しかし、時代は移り変わり、様々な形で、社会全体への寄与を、吟味してきた結果、今の状態へと辿り着いた。だから、最先端の社会様式として、目指すべき姿、と断言するのは、如何なものか。変化は、永遠に続き、完成には、程遠い状況が、これも、永遠に続くのが、世の常であろう。標準化を得意とする、国々が集まる地域では、当然の如く、自らが描いた姿が、理想形として、掲げられる。だからこそ、安易に、順位付けをし、及ばぬ国々を、徹底批判するのだ。彼方から見れば、当然だが、では、此方はどうか。ある公共放送の支局員が、この問題を捉えて、報告していたが、その最後の弁には、呆れてしまった。曰く、自分は、片働きをしており、この問題については、恥ずべき状況にある、という主旨だったと思うが、片働きとの言葉を、初めて聞いた。だけでなく、それがまるで片端か何かのように、話す姿勢に、呆れたのだ。役割分担は、多様なものであり、それぞれに異なる。海外赴任であれば、単身が当然となる、共働き家庭が、理想と見るべきか。それも含めて、議論すべきだろう。

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6月20日(木)−順位の訳

 何故、世界での順位が、気になるのか。中流を自認した時代、高度成長期にあり、先を行く国々を、次々に、追い越していった。最後には、一位にさえ迫り、世界的にも認められた、と思ったのも束の間、経済政策の失敗から、不動産をはじめとした泡が弾け、急坂を下っていった。
 と書く人も居るだろうが、現実には、経済的な上位は、保っている。とは言え、先日は、順位が落ちたと報じられた。一位に居座る国も、その次も、そして、今急速に伸びており、早晩、追い抜かすと言われる国も、どこも、人口がこちらより多く、一人当たりで考えれば、大差ないか、あるいは、ずっと下となる。嘗て、追い越すと言われた頃は、GNPが指標だったが、その後の、貿易問題から、今では、GDPが当たり前となっている。国民総生産から、国内総生産へと、変えられた理由は、生産拠点の移転が、問題解決への道筋、とされたからだ。労働団体からの圧力は、当然ながら、雇用の確保を目的とし、格差が広がれば、企業の体力が減退し、国内拠点を失うことで、働く場所が無くなる、というごく簡単な論理が、適用された訳だ。今では、国外での生産の方が、一部の業種では、大きく伸びたことで、逆転現象が起きている。しかし、企業の知名度は、どこで生産したかより、どの企業がを優先する、と言われる。だが、当時の揉めていた頃、拠点を移したら、消費者が、どこで生産したかを、販売店で確認し、輸入を好んだという話もある。何故、顧客を奪われたかは、企業の技術力だけでなく、そこで働く人々の能力にも、よるのではないか、という話だ。そう考えれば、下り坂ばかりだったとはいえ、依然として、力を有すると言われる国は、さて、この状態を保つことができるか。一人当たりで考えれば、まだまだ、十分な生産力だし、半導体の生産が、軌道に乗れば、どうにかなるだろう。楽観は禁物だが。昨日の夕刊に、同じような話が載ったが、偶然でしかない。念の為。

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6月19日(水)−疎遠に

 絶対なんて無いのに、安全安心を追い求め、足らない所や誤った点を、指摘し続ける。一方で、ありもしない、不安や心配を、盛んに指摘して、社会を煽り続ける。安定した時代が続き、退屈した訳でもないだろうが、情報社会は、そんな方に向かっている。報道が、先頭に立ち。
 これだけでも、大衆は戸惑うばかりだが、そこに、更なる圧力が、掛けられ始めた。社会媒体という、便利な道具は、手にした端末で、簡単に情報が手に入る。人より早く、手に入れねば、と焦るばかりの人々は、端末から目が離せず、前も見ずに、一心不乱に、読み続ける。自分が、危ない目に遭うだけなら、自業自得で済むが、それが他人に危害を及ぼせば、安全安心など、ある筈もなくなるし、不安や心配が、増えるばかりとなる。それだけでも、大問題だと思うが、当人達は、周囲への迷惑は、知ったことではない。自分の身を守ろうと、無謀なことを繰り返し、馬鹿げた行動を続ける。そこに加わったのが、捏造などの情報操作だ。少し眺めたり、読んだりすれば、すぐに、嘘と分かるものだけでなく、最近は、巧妙に仕組まれたものが増え、振り回される人が、急増しているという。何方が悪いかといえば、当然、嘘をばら撒く輩の方だが、社会問題としては、嘘を見破れず、その拡散に手を貸す人間も、放っておけない存在だろう。この問題は、大きくなるばかりだが、実しやかな内容を、それまでに蓄積された情報から、捏造する装置が、登場したとなれば、深刻さは増すばかりだ。論理とか、科学とか、そんなものを、基準として、評価することは、確かに大切なのだが、蓄積された情報を、元にして騙そうとする場合、そういう基準が、簡単には通用しなくなる。受け取る側も、複数の情報源に、当たることが必要で、その間での齟齬を、頼りとすることも、必要となるからだ。簡単に騙される人には、もうお手上げ状態である。だったら、端末との付き合いを、減らすしかないのでは。

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6月18日(火)−虚構の姿

 この所触れている、科学に関しての話は、世間一般の認識とは、大きく掛け離れたものかも知れぬ。確かに、科学は、立派な学問であり、体系が築かれ、確かな論理が構築されたものだ。科学者達が、書いたものにも、そんな話が盛り沢山で、とても庶民が扱うものではない、と思える。
 科学の業績として、学校で習う事柄の多くは、十分に吟味が為され、一つの方向からだけでなく、あらゆる可能性を検討した上で、確立されたものだろう。だが、そこに至る道筋に関しては、殆ど触れられず、特に、科学者の多くは、自分が犯した過ちについては、一切話そうとしない。人間誰しも、自分の存在を、大きく見せたいもので、その表れの一つと思う。だが、始まりから終わりまでの過程では、かなりの紆余曲折があり、時に、道を見失いつつ、ふと踏み込んだ所が、発見へと繋がったことも、多々ある筈だ。その道筋さえ、多くの人々は、まるで一本道だったかの如く、時には、自慢げに話すものだ。これでは、科学の本質が、伝わる筈もないし、虚構の姿に、惑わされることばかりとなる。そんなことの一つが、作家が記した、直感とか、本能的とか、そんな表現へと結びつく。だが、科学の営みでも、全く同じことが、行われてきた。特に、初めの段階では、思いつきの数々を並べ、それらを、一つずつ片付けることで、見込みのあるものを、選び出す作業が行われる。だが、一つでも確実なものを捉えると、状況は一変する。そこに論理を構築し、一本の筋道を作り上げるのだ。業績には、そのことしか記されず、恰も、はじめから、到達点への道筋を、思い描いていたかの如く、振る舞うこととなる。これでは、大層な話にしかならず、偉人物語ばかりが、遺されてきた。ただ、本当の結論が出るまでは、油断がならない。免疫で言えば、作家の夫君が、治療を受けて、劇的な改善を得たものの、副作用に苦しんだ。それと同じことが、ワクチンでも触れられる。何の結論も、出ていない。

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6月17日(月)−科学とは

 直感、本能とするのを、卑下したと書いたが、彼女の真意は、そこではないかも知れぬ。科学という御旗を、翳す愚か者達に、異なる考えを、示しただけであり、こちらが下とは、決して思わず、鉄槌を下ろしたのかも。一方で、科学的な思考が、歪められることに、警戒も。
 免疫の本質が、分からぬままに、主張を続け、過ちを犯しても、謝罪の気も無く、ただ、批判者を罵倒する。これが、科学者の姿と思われては、心外と思う人も多いだろう。科学的な思考において、重要なことは、事実をどのように解釈し、そこから、物事の本質を、如何に見つけ出すかであり、勝ち負けを決したり、上下を付けたり、そんな下らないことに、使うものではない。にも拘らず、こういう態度に出るのは、その人間の器の小ささと、心の貧しさの現れであり、恥ずべきことだ。それも、前にも指摘したが、著作の中で、一つひとつの事例を挙げ、批判を繰り返すのは、愚の骨頂で、不都合な批判には触れず、攻撃し易いものだけを、選び出してのことは、土俵の上で、決着を付けようとしない、相撲取りの如きものだ。では、作家が指摘したのは、どうだろうか。彼女が目撃した、夫君の病状について、科学的な解析が、行われた訳ではない。だが、だからと言って、見つけた変化が、科学でないとは言えない。専門非専門に関わらず、観察は重要な手段であり、そこから傾向を導けば、科学的な根拠が、確立できる。一方、似非科学と呼ばれる代物は、全く別の事柄に、科学の衣を纏わせ、誤った論理を構築する。例えば、ワクチンで言えば、素材に含まれるものを、槍玉に挙げ、その危険性を、科学的に証明したふりをするのだ。思い当たるものは、社会媒体に、次々と投げ込まれ、混乱を招いていた。悪質なもの程、科学を援用し、実しやかに論じられる。一方で、作家の主張は、直感、本能とされ、科学から遠ざかろうとする。この違いを見極め、過ちを論破せねば、科学は成立しない。

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