討論会と言えば、60年以上前、映像が流される中で、行われたものは、見栄えの良さを狙い、劣勢を跳ね返した、若手の候補が、その後の選挙戦を、優位に戦ったと言われる。あの候補者の年齢は、共に40代だったろうか。先日の討論会が、如何に異常な事態だったか、考えさせられる。
初めての討論会、とも言われる舞台は、まさに、出たとこ勝負だ。そのまま放送されれば、不手際も、失敗も、そのまま反映され、一気に流れが決まる、とまで言われてきた。だが、今回のものは、どうだったろうか。確かに、現職の高齢者は、穿った見方からは、高齢者ぶりを発揮して、先行きが、暗澹としている、とまで評された。一方で、前職の高齢者は、人気を博したと自認する、出鱈目論法を駆使し、根も葉もないことまで、口走る始末で、悪夢再来を、予期させるものだった、と言われる。選挙戦では、白黒はっきりさせ、当落を決める作業が、進められる。その中で、こんな状況では、誰も決められないのでは、との声も上がっているが、今更、どうせよと言うのか。党内の選挙戦を、勝ち抜いてきた人物に、代わりは存在しない。逆に、まだ、指名確定前と言われる、もう一方の候補については、再考の余地は、あるのだろう。だからと言って、今更、との声が上がるのも、無理のないことだ。ここ数回の選挙で、民主主義とは何たるか、多くの人々が、考えさせられてきた。下馬評も当然のことだが、それ以外の面で、誰をどう選ぶのか、という点だけでさえ、民主主義が、まるで綱渡りの如く、危ういものかも知れぬ、と思い始めた人も、少なくない。だからと言って、根幹を成す、選挙自体を、止めることなど、あり得ないし、できる訳が無い。だとしたら、どうすべきか。時の運に任せ、国の行く末を案じても、致し方ないと諦めるのか。はたまた、前回の選挙後の騒動のように、悪意に満ちた、不正が行われた、と訴える準備をするのか。何れにしても、騒ぎたい連中は、騒ぐ。
嘗て、この国でも、批判の的となった、「老害」について、海の向こうから、その典型が、飛んできたようだ。と言っても、真面目に、討論会を眺めた訳でも、新聞記事を読んだ訳でも、ないだけに、何がどう問題なのかは、全く分かっていない。見出しから、察するだけだ。
こちらでは、ある宰相が、言い出しっぺと思うが、老齢議員の退陣を、政党として求める、という動きが急となり、一気に、若返りが進んだ、と言われる。だが、今、眺めてみて、どうだろうか。確かに、当時の「老害」は、排除されたかも知れぬが、現実には、次に控えた連中が、その年齢に達し、再現されるだけのようだ。世代交代は、事ある毎に、取り沙汰されるが、どの場合でも、一向に進む気配が見えない。原因は様々だろうが、要するに、人材不足というだけだ。一方、海の向こうは、男女や人種と同様に、年齢による差別は、禁止されている。だから、高齢だからと言って、退場を求めるのは、御法度となる。とは言え、今の状況は、世代交代という観点からは、惨憺たるもの、としか言いようがない。二大政党共に、同じ状況であり、手札が足りず、高齢者の戦いを、妨げる要素が、見当たらないのだ。その中で、行われた討論会は、予想通りのものだった。有権者にとり、言えることは只一つ、手詰まりなのだ。古びた駒しか、手に無い状態で、それも、本来ならば、飛車角のように、縦横無尽に動ける筈が、動き方を忘れたが如く、右往左往するばかりで、こちら側からは、先行きに、不安ばかりが過ぎる。だが、候補者の一人が、大統領に就任した時、あちらでは、まさに混沌の始まり、との気配が漂った。にも拘らず、任期を全うできたのは、結局は、政治を動かすのは、彼自身ではなく、周囲の人間ということで、横槍が入ろうとも、常識の範囲内で、動き続けるということだ。では、何方が、適しているのか。何方も、任期中の成果としては、同程度だろう。どっちに転ぶのやら。
経済に関する話題を、続けてみよう。為替の変動に、一喜一憂するようだが、どうしたものか。確かに、輸出で稼ぎ、輸入に頼らざるを得ない、そんな国にとって、相手国での価格や、輸入価格が、上下するのは、困るのかも知れない。だが、日常生活において、どうだろうか。
そんなことを書くと、値上げが続く中で、何を惚けたことを、との批判が飛んできそうだ。確かに、変動をきっかけに、値上げに踏み切る話は、挙げればきりがない。だが、その一方で、物価上昇には、もっと別の要因が、強く関わることも、事実なのだ。日々変動する、為替に対応して、日用品の価格を、変動させていたら、それこそ、落ち着いてはいられない。変動制が、始まったのは、半世紀程前だが、その後、円高が続き、10年程経つと、3分の2程に、なっていた。一旦、落ち着いたように見えたが、その後も、円高は続き、今報道で触れられる、37年前の値に、到達していた。だが、その後も、この勢いは止まらず、結局、3分の1となったのも、こちらの泡が弾ける直前だった。結局、海外、特に、海の向こうの不動産を、盛んに購入したのは、まさにこの頃であり、円高様々だった訳だ。だが、互いの価格が、為替変動で、相対的に動いても、結局は、互いの生活に、変化が起きる訳ではない。固定相場の時代に、海外で働くと、帰国時には、都会に、家が建てられた、と言われたようだ。これを、今なら、為替の問題、とする人が居るかもだが、現実には、生活水準が、大きく違い、物価も、全く違っていた、ということだろう。今の状況も、為替が原因、と報道はしたいのかもだが、現実には、物価の違い、特に、人件費の違いが、大きいと思える。追いつけ追い越せの時代とは違い、今は、互いに、社会制度も含め、十分に整った時代となった。その中で、この違いが生まれたのは、何故なのか。その点を、議論すべきと思うが、どうだろうか。
選挙の度に、不思議に思う。何故、候補者皆が、挙って、減税を訴えるのか。誰でも、折角稼いだ金を、毟り取られるのは、有り難くはない。だが、それが、公共の利益に、回り回れば、自分に、返ってくるとなれば、理解すべきことだ。だが、一様に訴える、減税を、と。
税収が減れば、公共投資は、削り取られる。その問題が、最近、頓に、取り上げられ始めた。が、一方で、選挙となれば、またぞろ、減税である。馬鹿げたこと、と思うが、それは、候補者だけの問題ではなく、それに従い、投票する有権者にも、重大な責任がある。税の話には、興味深い話題があり、その一つが、著書が爆発的に売れた、ある芸能人のものだ。彼女は、折角稼いだ印税の、大部分が税金で、徴収されたことに腹を立て、ある大臣に訴えたらしい。その結果、収入の多寡に従い、税率を変化させる、累進課税の上限が、変更されたとある。今も、若者の多くは、高所得者は、自分の努力で、その金を稼いだのだから、彼らから、余分に税を徴収するのは、おかしいと思うらしく、そんな声が、巷に溢れている。だが、本の話も、それが売れたのは、社会のお陰であり、彼女が、興味深い本を著したから、だけではないのだ。それを、社会に還元することは、他の国民同様に、義務であり、そうすべきと思う。もう一つの話題は、ふるさと納税だ。出身地への寄与も含め、好きな場所に向け、税金を納める制度、なのだが、この馬鹿げた変遷は、真面目に取り上げる必要も無い。要するに、寄付の一種として、取り扱えばいいものを、役人の一部が、分かり易さと、利便性を優先し、作り上げた制度で、気持ちばかりの品と称する、高額の返礼品を、送り返したことから、話題となった。だが、住民税は、そこに住む人間が、その地の利を活かす為に、納めるもので、住民の利益として、投資されるべきものだ。それを、個人の判断で、別の場所に送り、私利私欲を得る。歪んだ仕組みでしかない。
半世紀以上昔の映画で、宇宙飛行士達が、長い旅路の果てに、辿り着いた星が、猿に支配され、ヒトは奴隷となっていた、という話があった。終わりの場面が、衝撃的だったのが、強い印象を残したが、この映画は、役者が猿に扮する、特殊メイクの始まりとして、伝えられる。
その後、技術や材料の進歩で、一人の俳優が、青年期から老年期までを演じたり、全く別人に扮したりと、様々な演出が、施せるようになった。今では、皺や染みはもとより、顔貌までを、変貌させる程になっている。その一方で、映画の世界では、画面自体を細工して、昔なら、見合い写真に筆を入れ、美しい娘になったのが、本人に会うと、別人かと思った、という笑い話だったものが、あらゆるものへと、変身できるまでになっている。ただ、何方の技術も、悪用されており、先日から話題にする、社会媒体での、詐欺への加担が、取り沙汰される。例えば、皺や染みは、若さを保ちたいと願う、高齢者や、より良く見せたいと願う、若者達にとり、重要な問題だから、それを、取り除けるのなら、と願う気持ちは、今も昔も変わらずにある。ただ、科学の進歩により、施術などによって、取り除くことが、可能となったものの、高額の費用が、悩みの種なのだろう。安価に、手軽にできるものなら、と飛び付く人が多い。そこに登場したのが、一拭きで、全ての邪魔物が、消え去る薬で、専門家が登場して、効果を謳うと共に、皺だらけ、染みだらけの人が、一拭きで、それらを消し去る映像が、流される。要するに、特殊メイク後に、それを拭き去るだけのことで、何の事は無い。これも、明らかな詐欺行為であり、更にその上、有名番組や放送局で、取り上げられたと記せば、騙される人も、多くなる。これこそ、ここ数日、話題にしてきた事柄の、典型なのだ。認可制と違い、自由に流せる仕組みで、価値ある情報を、との目論見は、いつの間にやら、無法地帯と化しているのだ。
あの世界の広告が、如何に悪質なものか、体験してみなければ、判らないのかも知れぬ。有名人を騙る話は、本人達が訴えることで、注目を浴び、その結果、根絶されるだろう、とは誰も思わぬ。詐欺事件同様、手を替え品を替え、新手が登場し、その度に、報道は騒ぎ立てる。
根本は、騙されぬことではなく、手を出さぬことだ。かくゆうパンチも、一度騙された。有名企業のロゴが、飾り付けられた広告で、売り出された装飾品に、手を出したのだが、見事に、偽物が届いた。発送地は、隣の大国に、飲み込まれた地域で、当然ながら、引き落としも、済まされていた。その後も、同じものが、手を替え品を替え、表示されるのは、あの世界が、そういう悪質なもので、回っていることを指す。使われた大手企業にも、おそらく、直接的な苦情が、届いているだろうが、直売ではなく、小売形態であり、その上、海外拠点となれば、手の施しようがない。こちらも、騙される奴が悪いとばかり、高い研修料でも、支払ったことにした。限界であり、崩壊である、と思うのは、こんな違法行為が、放置されており、その防止に乗り出せば、収益が上がらず、破綻するに違いないからだ。運営企業の、経営戦略の問題だが、一方で、利用者達の考え方が、大きな問題となりつつある。ただより安いものはない、との戒めは、こんな所にも現れ、人によっては、何度騙されても、という状態にある。それも、商品を買うのなら、損をしたと思えばいいが、資産運用となれば、損得が、将来に強く影響し、一度の損は、次の得で、取り戻そうと目論む。そこに付け込むのが、詐欺の常道だけに、一度始まった図式は、簡単には消滅しない。電話によるものも、根絶には程遠い状況で、かと言って、媒体そのものを、消し去ることは、論外となる。こちらの話も、社会媒体の利便性が、残る限りは、同じ状況だろう。となれば、騙されぬようにするか、手を出さぬようにするしかない。
経営戦略は、崩壊したのではないか。社会媒体が、世の中に登場した時、多くの人々は、その価値を見出せず、ただ、漫然と傍観していた。だが、参加人数が増え始め、発言の数も増えてくると、情報源や議論の場としての価値を、見つけた人々が、それを引き合いに出し、漸く、市民権を得た。
だが、これは単に、掲示板や議論の場に、限ったことであり、運営する側が、これによって、収益を得られるかは、不透明なままだった。時代の寵児と呼ばれた人達は、そこに、経営の上での、膨大な収益源を見つけ、そのことを、盛んに喧伝し始めた。それにより、この世界での、金の循環が成立し、無料という魅力に、引き寄せられた人々が、有名無名に関係なく、盛んに参加するようになった。となれば、有名人の支援者も、集まるようになり、閲覧数が急増することで、宣伝効果を、訴えることが可能となり、何方にとっても、魅力的なものへと、発展してきた。だが、ここに来て、歪みが、急速に高まっている。名の売れた人達を、騙る輩が、詐欺の材料として、使い始めたからだ。無料だから、という理由で、掲げる連中は、余程の運がない限り、登場させた人物の、知名度だけでは、閲覧数を稼げない。しかし、広告料を払いさえすれば、特別扱いとなり、運営側が便宜を図って、盛んに、提供してくれる。となれば、閲覧数が伸びるだけでなく、仮想空間の特徴である、耳目を集める話題は、本当である、という都市伝説が、通用し始めるから、被害者の数も、急増することに。結果として、名を使われた人々が、被害者からの訴えにより、訴訟を起こすこととなり、この図式は、崩壊することとなった。これを端緒として、広告そのものへの責任が、問われ始めると、それまでは、何の経費もかけずに、収益確保できたものが、成立しなくなる。ここでも、生成人工知能により、検閲させれば、との意見もあるが、それとて万全とは言えず、結局、戦略そのものの見直しが、必要となる。さて。