弱者保護は、強く求められるが、その一方で、そこから生じる、問題に関しては、どう対処しているのか。障害者の範疇を、無闇に広げた結果、こんな問題が、生じ始めたようだ。半世紀前なら、努力せよ、との一言で片付けられた、人それぞれの違いは、今や、配慮すべきものとなった。
確かに、苦手なことに、力を注ぎ込むのは、誰しも、嫌だと思う。苦手は、同時に、能力と気持ちを、対象とするからだ。前者については、嘗てであれば、出来得る限りの努力、を促され、嫌々ながら、それぞれに、頑張っていた。その結果、苦手が得意となった人は、評価の対象とされたが、いつまでも、苦手なままの人間には、別世界のことにしか、思われなかった。教育は、ちゃんと教え育めば、誰もが、それなりの能力を、獲得できる筈、という前提で成り立っていた。しかし、いつの頃からか、その思い込みは、崩れ去ってしまい、放置されることとなった。障害という名の下に、配慮さえすれば、放置できるのだ。こんな書き方は、乱暴に違いないが、配慮という話には、そんな側面が、明確にある。その中で、配慮を受け入れ、その状況下で、才能を輝かせるには、実は、羨望の目に耐える、そんな心の強さが、要求されることに、気付かぬ人が多い。ここでも、別の形で、対処されたことで、隠れた才能が、発揮されたという例が、数多あるに違いないが、苦手を克服した話同様、何かしら特別なことで、自分には、当て嵌まる筈が無い、という思い込みが、優先する。この過程で、多くのことが、見出されず、看過されることで、間違った風潮が、より強められる。配慮とは、本来ならば、苦手な部分に対して、他とは違う対処により、克服とは違う形とはいえ、その問題を解決することになる。だが、今の配慮の多くは、単に、放置する為の道具に過ぎず、当事者達は、何も達成できないまま、放り出されることとなる。この大いなる間違いに、気付かぬ内は、苦手は無くせない。
世の中は、解せないことだらけ、と思ったことがあるだろうか。こちらを読みに来る人には、独り言の書き手は、何とそんなことが多いのか、と思っているだろう。それ程、解せないことが多いし、それらの殆どが、解決されることなく、時に、悪化の一途を辿っている、とさえ思える。
数多ある中でも、度々取り上げるのは、弱者保護の話だ。何故、弱者とされる人が居るのか、ということだけでも、かなり大きな問題だが、彼らを保護せねば、という社会の考え方には、賛同できない部分が、矢鱈に多いからだ。パンチが子供の頃には、そんなことを、考えたことも無かったから、おそらく、弱者を保護せねばならない、という通念は、存在していなかった。仮令、存在したとしても、今、世の中で言われるような、保護対象は、その大部分が、当時は意識もされていなかったろう。そんな調子だから、ある年代以上の人間にとり、今の世の中で、当然の如く扱われる、弱者保護、例えば、障害者への配慮は、理解不能と映る場合が多い。こんなことを書くと、まるで、視覚や聴覚に、障害を持つ人々を、酷く扱う話のように、思う人が居るだろう。だが、そんなことは、決して無い。街で見かければ、声を掛けるし、助けを求められたら、相手をする。そんな当然のことが、できない人の話ではない。以前なら、障害と認識されなかったものが、最近は、○○障害と呼ばれ、配慮の対象とされている。だが、それは、単なる個性では、と思えるものが殆どで、配慮について、考える必要を感じない。そんな場合が、多いのだ。にも拘らず、社会は、さも大ごとのように扱い、配慮なるものを、周囲に対して、強要している。その一方で、当事者は、別の考えを持っており、特別扱いは、歓迎したいが、周囲の目を意識し、気付かれぬままに、施して貰えるのなら、となるようだ。全てにおいて、弱者なのだろうが、理解不能なのである。苦手を克服、と表現せずに、投げ出すのでは、どうにもならぬ。
為替の変動が原因で、海外からの旅行者が、増えている、とする論調がある。この論旨の愚かさについては、既に、何度か取り上げたが、依然として、同じままの話を、恰も正論かの如く、続けるのは、恥の上塗りとしか思えぬ。外国人が、得をしたと感じるのは、安いからなのだが。
それは、為替の変換を、施した後に感じるものだが、現実には、こちらの貨幣価値で、考えただけでも、十分に安価なのだ。これは、逆に、我々が、あちらの国々を訪ね、昼食を摂ろうとして、愕然とする時も、同じことだ。円換算で、高いと感じるのは、勿論だが、それは、現地の貨幣価値で考えても、高いのである。では、この違いは、何処から来るのか。確かに、様々なものが、値上がりして、それが値段に、反映されているが、そのことについては、国毎の違いは、然程でもない。最も大きな違いは、やはり、人件費に起因する。特に、その傾向は、半世紀程前から、存在していた。自宅で、食事の準備をして、食べることと、外食することとでは、海の向こうを始め、多くの国々では、大きな違いがあるとされた。それは、今に始まったことでは、ないのである。以前から、こちらでは、外食でも、自分で作っても、大した違いが、なかった。しかし、あちらでは、作る人間のことだけでなく、運んでくれる人間にも、経費が嵩んでくる。その上、海の向こうでは、支払い時に、更なるものを、上乗せせねばならない。こんな状況で、価格に差が出ない筈は無い。だったのだが、その上に、この半世紀に渡り、値上げが、禁句となった国では、それが、巡り巡って、人件費の抑制に、結びついてしまった。結果、経済の低迷までもが、加わったことで、厳しい生活が、強いられてきた、と考えるべきだろう。今、突然やってきた、外国人が驚くのは、無理もないことで、それだけ、人々の労働が、厳しい状況に、封じ込まれてきたのだ。さて、では、どうしたらいいのか。そろそろ、上昇の流れを!、だろ。
先日、半世紀以上昔の、映画の話を取り上げたが、当時は、未成年だったから、兄と出かけたと記憶する。ただ、もっと幼少期には、親に連れられて、出かけたことがあった、と聞いていたが、記憶には、全く残っていない。つまり、あれは、記憶の中で、最初の映画鑑賞だったのだ。
同級生には、映画鑑賞を趣味とする人間も、当時は多く、小遣いの少ない、時代だったから、封切館ではなく、二番三番となり、幾つもの作品を、連続上映する、小さな映画館に、出かける者も、少なくなかった。と言っても、今から見れば、遥かに多くの作品が、上映されており、国内作品も、まだ沢山あった。全体としては、自分が生まれた頃から、ずっと下り坂の業界で、今も、その傾向は、続いている。と言っても、新聞や番組では、今も、盛んに取り上げるし、年に一度の、様々な賞に関して、報道されるのは、依然として、娯楽の一つとしての地位が、揺るがないことを、表しているのだろう。とは言え、受賞作品の多くは、娯楽というより、そこに横たわる、隠喩というか、訴えるものが、あることが条件で、観客にとっては、必ずしも、いい印象を与えるものではない。高齢化の問題を、扱った映画が、消化不良に終わったとか、掃除をする人間の、何を伝えたかったのか、今一つ理解できなかったとか、そんな終わり方をするのは、こちらが、審査として、作品を吟味するのではなく、ただ単に、楽しみとして、鑑賞するからなのだろう。先日も、戦時中の、大虐殺の場として、誰もが知る収容所に、隣接した所長宅での、家族の営みを、伝える映画を観たが、さて、何を、どう伝えたかったのか。だから、何が言いたいのか。などと、頭を過ることは、多々あったものの、観る側にとり、どう受け取るべきか、結局は、そこに到達できなかった。場末の映画館は、もう存在せず、今では、通常のものと、公営のものが、ある位なのだが、後者である館内には、高齢者の姿が、目立っていた。
本日から、新札が出回るとのことで、盛んに報道される。偽造防止の新技術には、成る程と思う所も、あるだろうが、それ以外の話には、首を傾げるしかない。曰く、旧札は使えなくなる、という詐欺や、販売機の入れ替えに、苦慮する店が、新手を導入した、という話などだ。
前者には、特に、何事か、と思った人も、多いのではないか。ここでは、論理性に基づく、吟味力の重要性を、何度も取り上げてきたが、この話は、その典型に思う。社会媒体の普及以来、ではなく、それ以前から、他人の話を、鵜呑みにする人は、井戸端に多かった。その勢いが、高齢者層だけでなく、若年層にまで、広がったのは、やはり、媒体の責任かも知れぬ。海の向こうの討論会で、現職が、遣り込められた、として話題となったが、彼の地でも、同様のことが、起きているようだ。自分ができないことを、実現する人間を、崇め奉るのは、宗教の世界をはじめ、多くの所で、問題視されており、特に、近年は、その傾向が高まりつつある。討論会に対する、視聴者の反応は、まさにその典型だが、もう一方の、遣り込めた前職は、ただ妄言を繰り返すだけで、そこには、論理性の欠片も無く、吟味の価値さえ無い。にも拘らず、それを、崇め奉るのは、まさに、吟味力の欠落が、主原因なのだろう。討論で、遣り込める力を、競う話が、四半世紀程前から、この国でも、中等教育現場に、導入されてきた。その発祥地は、まさに海の向こうだが、彼方も、この為体である。世界全体が、そういう流れに、乗っかっている。その中で、分断が、急速に強まり、右傾化を、危ぶむ声も、左の人々から、盛んに、聞かれ始めた。元々、何方にしても、愚民政治の時代となり、飴をばら撒き、義務を廃するのが、常道となりつつある。半世紀以上昔の、混乱へと突き進むのでは、という懸念も、取り沙汰されるが、その一方で、新札の混乱は、何と暢気な話だろうか。ただ、鵜呑みは、先の大戦の二の舞、かも。
生成人工知能について、一時的な騒ぎは、収まったように見える。過剰反応としか、思えないものが、飛び交ったのは、まずは、教育の世界だった。対面が難しくなり、通信での教育が、利便性も加わり、主流となりかかる中、不正行為の温床として、強い懸念が、伝えられた。
ただ、この問題については、対面を基本とすれば、試験そのものでの不正は、防止できる。一方で、課題提出については、懸念通りの、機械任せの状況が、一般化する気配は、現実のものとなりつつある。ただ、こちらに関しても、これまで、旧態依然とした形で、漫然と、思考より、転記を主体とした、課題に依存する体制に、問題がありそうだ。特に、言語翻訳を、主な課題とする場合、既に、提出者の言語能力を、問うことは、困難となりつつある。それ以外にも、創作活動において、数々の懸念が出されたものの、実物が、登場するまでは、仮説に過ぎないままだ。様々な業種にとり、人間の労働が、機械に置き換われば、職を失う人が、出るかも知れぬ。そんな懸念も、数多紹介されたが、こちらも、試してみるだけでは、何も起きそうにない。そんな中、書物でも、取り上げるものが、登場し始めた。と言っても、これもまた、帯だけのことで、内容は、別の話に終始する。先月読んだ本も、翻訳や通訳に関するもので、互いの言語で、異なる文化があれば、通じるようにすることが、困難となることを、縷々説明していた。ただ、例示しても、理解し難いままだ。先の大戦の最終盤で、戦勝国となった国の、元首が集まり、こちらに対して、宣告を出した際の、内容について、翻訳の問題として、説明がなされたが、言葉の綾を、伝えようとしても、伝わらなかった。元首の話し合いで、既に、異言語の遣り取りが、あったのだから、その点から、説明を始めれば、と思われたのは、著者が、その異言語を母語とする、人間に思えたからだ。全編に渡り、そんな論調が続き、難物と化していた。
半年経過した、ということで、特番の如く、報道番組の大半を、費やして伝える。そのこと自体を、間違ったこと、というつもりなど毛頭無い。だが、内容については、どうだろうか、と思うばかりだ。悲惨な光景を、映し出し、支援が必要と訴える。その気持ちは、解らなくも無いが。
この心持ちは、忘れない、という一言が、表しているのだろう。確かに、記憶に留めることで、震災への備えを、怠らぬように、すべきはすべきだが。その効果は、如何に、と思う人も多い。倒壊した建物を映し出し、依然として、手付かずの状況にあることを、切実に訴える。その一方で、和風家屋が、あらぬ方に揺れる映像には、事前に注意喚起を出し、心の傷を、抉らぬような配慮、が垣間見えていた。忘れるな、と訴える一方で、目を閉ざせ、と伝えるのには、納得が行かない。大震災の時も、津波の光景に対して、同じような措置が、取られ続けていた。被災者は、どんな印象を持ったのか、直接尋ねたことは無いが、矛盾に満ちた遣り取りに思える。更に、矛盾を際立たせるのは、復興の遅れを、盛んに伝える姿勢で、確かに、それが事実なのは、百も承知の上で、何処がどう、変わっていっているのか、現状を、悲惨な光景だけでなく、順調に進む光景も、合わせて伝えて欲しい。被災者も、これを機に移住した人も、遠くに住む人も、それぞれに、気持ちは揺れ動くが、この悲惨一辺倒の伝え方には、もっと疑問をぶつけてもいい、と思う。報道に対する信頼が、揺らいでいるというより、既に、失墜してしまったというべきだろうが、そうなったのは、こういう脚色や演出が、露骨となった頃からだろうか。当事者達の気持ちを、逆撫でするが如くの、作り物の映像には、誰も、心動かされぬ。生成人工知能による、捏造映像を、懸念する声も、批判する声も、あそこから出ている限り、大衆には、何も届きそうに無い。お前が言うのか、という気持ちだけが、湧き立つだけだ。