昨日も、一週間前にも、書いたことだが、弱者保護や弱者支援の考え方で、受け容れ難いと思うことは、沢山ある。歩行困難者が、車椅子を使うことに、異論を唱えるつもりはないが、そこで、皆から注目されるのは、恥ずかしいと言われたら、どう対処するのだろうか。
こんな遣り取りを、何度か行っていると、怒りに似た感情が、湧き上がることもある。ああ言えばこう言う、という形で、要求が高まってきた時、要望を出す障害者と、直接遣り取りするなら、まだ、対処法が、あるかも知れないが、仲介者が居ると、ただの邪魔者となる場合がある。本来、支援者は、双方の意見や考えを、聞き取った上で、解決策を講じるものだが、こと弱者保護に関しては、一方的となる場合が多いからだ。その結果、弱者は、絶対強者と化し、周囲の人間を、混乱に陥れる。だが、これは、弱者自身の責任とは、言い難いものがある。仲介者が、ただの伝達者になるばかりか、そこに、権力を付け加えて、対応する人間を、窮地に追い込むのだ。曰く、困っている人を、助けないのは、非人道的だ、と。だが、それは、常に、程度問題のことだ。最初に書いた、車椅子を恥ずかしいと思う人間を、どう扱えば、いいのだろう。恥ずかしいという感情は、他の人と違うから、という所から、生じるのだろう。だとしたら、特別扱いは、全てがそうなる。避け難いことを、要求された時、対処法は、無くなってしまう。その上で、非人道的、と言われたら、それは、何だろうか。今、例えば、聴覚障害者の為に、手話通訳や筆記代行などの役割が、置かれている。これもまた、恥ずかしいという感情を、前面に出せば、成立しないものとなる。また、弱視の人を、前列に座らせるのも、同じことだろう。弱者の支援とは、これらの問題を、全て解決してこそ、成立するものだ。だが、今の状況は、明らかな過ちを、当事者に押し付け、その責任も、押し付けている。これでは、支援とはならない。
新興の社会媒体だろうが、旧来のブログだろうが、何処に書いたとしても、また、仮令、炎上するなりして、世間の耳目を集めたとしても、問題解決にはならない。ただ、興味本位の人々が、調子に乗って、書き加えるだけで、そこには、正論たるべき論理も、尊重すべき定理も無い。
所詮、世間の考えは、時代の流れに従い、千変万化するものだ。その場では、多くの賛同を得て、確固たるものに、なったように見えても、暫くすると、鍍金が剥がれ、地金が顔を出す。その結果、そこに展開された論理は、破綻の憂き目を見て、賛同者は散り散りとなる。中でも、弱者保護の考えには、取って付けた論理が、飾り立てられ、如何にもと思える姿に、呆れさせられることが多い。だから、ここでは、何度でも批判し、問題点を、指摘し続ける。弱者にも、色々とあるのだが、多くは、少数派と呼ばれる。大多数を占める人々から、少数派は、迫害されたり、差別されたりする、と指摘されるが、彼らの支援者の多くは、独特の論理を展開する。性的なものは、昨日も取り上げたが、理解不能な部分もあり、様子見の必要がある。一方、障害者と呼ばれる、ある能力が、備わっていない人々に対しても、過剰な対応が、求められることが多く、逆差別とさえ、思えるものも散見される。例えば、読み書きに、不便を感じる人は、沢山居るようだが、彼らに対する支援が、時に、異常としか思えぬものに、変貌する。多くは、当人からの要望に基づき、自分の欠点を補う為、と称して備えられる。だが、完全な欠陥でない限り、人それぞれの能力の違いは、歴然としてあり、ある人々のみを、救済する仕組みには、支援と言う名の特別待遇、と思えるものがある。その上で、要求する支援者は、歩けない人間が、車椅子に乗るのは、当然の権利であり、彼らに歩くように促すのは、間違ったこと、と断じている。だが、支援の方法は、一つに限らない。その意味で、別の方法を探る努力を、投げ出させるのが、支援だと信じ込むのは、間違いでしかない。
動物には、性の区別に、三つの段階がある、という。遺伝的な違い、性器の違い、そして、心の違いだそうだ。魚では、性転換が有名で、集団の中に、雌がいなくなると、雄の一部が、雌の性器をもつようになる。また、実験生物の蝿で、雄が雌の行動を示し、心の性差と言われた。
ヒトとても、動物の一種である。同じように、異なる段階で、異なる性差を示す、という現象が起こるという。その際に、心の問題として、受け入れ難くなり、精神的な抑圧を、感じる場合を、今は病名を付けて呼ぶ。先日、画期的な判決と報じられた、この病気を抱える人間に対する、判断については、報道も盛んに取り上げた。ただ、その論調は、嘗てのものとは一変し、心の問題のみを、殊更に強調し、心と体の不一致、という点には、殆ど触れていなかった。確かに、ホルモン投与により、様々な変化を、起こすことができる。だが、当初、この問題を取り上げた頃には、性器そのものへの違和感が、根源となるとされ、それが病気として認定される、大きな要因とされた。今回の判決は、全く異なるものだが、法律上の問題として、取り上げた話であり、医学上の話とは、異なるのが当然だろう。ただ、ここでの一番の問題は、戸籍という、公的な記録に対して、どう対処すべきか、という点を、法的に論じたことだ。社会媒体では、当事者か否かは、特定できないものの、同じ病の人間が、形成手術が必要とされ、受けたことで、認定されたのに、何故、今更、こんなことが、と訴えていた。別の見方をすれば、投与を止めれば、元の体に徐々に戻ることから、やり直しがきく訳で、何度でも変更可能となった場合、どう対処するのか、という問題も生じてくる。法律と医学の、見解の違いについては、当然として、内縁の配偶者という扱いがあるように、ここでも、記録上と世間的な違いを、容認する方法もある。一方で、認知症の命名者が、自身で発症した時に、違和感を覚えたとされるように、こういう問題を、医学の世界だけに、任せるのは、どうかとも思う。
また、海の向こうの大統領の話を、持ち出したりしたら、執着心の塊、と思われるだろう。ある意味、その通りなのだが、ここでも、報道の姿勢が、あまりに酷いので、一言書きたくなる。まるで、野次馬の如く、他人事であり、浅薄な考えを、大衆に向けて送る、杜撰なものだからだ。
討論会の失態は、多くの支持者にとり、一大事となった。それは確かだが、ある新聞、海の向こうでは地域紙ばかりで、一部のみが、全国で購読できるようだが、その大新聞が、撤退を勧告するような社説を、掲載したと伝えられた。恰も、不安や心配から、大いなる決断をした、とでも言いたげだが、本心は、ただ面白おかしく、嬉々として、老人批判をしただけで、国政の行方や、国のあるべき姿など、念頭には無かった。それ程に、報道の世界が、劣悪化しており、体制を批判することにも、一本筋が通った形ではなく、その場その場の、風向きに合わせた、コロコロと変わる態度に、怒りを覚えると共に、諦めにも似た感情が、強まり続ける。何故、これ程に質が落ちたのか。理由の一つは、長く言われた、活字離れの現象がある。新聞購読者の数は、減少の一途を辿っており、業界自体が、危機に瀕している。それ自体、人気取りへの転換を、図る端緒となっており、その心持ちが、編集方針にも反映され、愚民政治と同様に、大衆の目を、気にするばかりとなった。もう一つは、社会媒体の台頭で、それにより、種々雑多な意見が、世界全体に満ち溢れ、それまで、独占的だった、報道の業界も、一部の人気取りに、脅かされるようになった。結果、正論を書くことは、批判の対象にしかならず、矢を受け止める手立てを、持ち合わせない報道は、風見鶏の姿勢を、取る以外に手を失った。このままでは、信頼が失われるばかりだが、そのことへの危機感は、然程大きくないように見える。だからこそ、今回の社説となり、掌を返すような、開催国代表の発言報道、となったのだろう。
毎年、夏が来る度に、危機が叫ばれていた、電力事情は、どうなったのか。最近は、とんと聞かなくなったが、解決したのだろうか。一部には、再生云々の整備で、との声もあるが、現実には、全く役に立たないとの話も。結局、何がどうなったのか、わからないままに、時は過ぎる。
騒がれた当時に比べ、ある発電方式は、その割合を激減させた。廃止論を唱える人々は、我が意を得たり、とばかりに、悦に入っているだろうが、現実には、こちらも、誤った方向に進むのを、考え直す意見が、大半となりつつある。一つ二つの失敗で、大事なものを失うのは、愚かなことだが、歴史としては、きちんと、帳尻を合わせることが、行われてきたから、この例に関しても、同様のことだろう。人間の考えとは、足らないものと、見るべきであり、言い出しっぺは、反省することなく、鬼籍に入るのだろうが、残された者は、解決策を講じなければならない。電力事情が、逼迫しているのは、今も昔も変わらず、その点を、考慮に入れながら、全体の均衡を図る必要がある。当然、燃料などの問題も、同じ範疇にあり、一方的な意見で、流されていては、根本解決は、望めそうにない。その中、日々の移動の手段である、車の問題も、同様の範疇にある。こちらも、温暖化なる化け物に、襲われる恐怖から、一方的な流れが、半世紀近く前から続くが、その間に、事情は大きく変化した。化石燃料を無駄なく使う、とでもいうのか。元々、燃焼系の駆動は、無駄が多いことが、問題となったが、この国のある企業が、奇想天外な仕組みを、開発したからだ。合いの子とでも、表すべきか、移動に従い、それまで捨てていたものを、回収する仕組みを取り入れ、燃費が、格段に向上した。この開発を、急いだ理由の一つが、電気自動車への転換を、迫る政策だったが、望み薄な状況を、打開した点でも、評価が高い。今、依然として、電気系への進展が、図られているが、そろそろ限界が見える。答えは?
討論会での不手際から、撤退を問う声が、所属政党からも、出ていると報じられる。それを、ある意味、面白おかしく、伝える報道姿勢には、改めて呆れるばかりだが、朝の経済番組で、扱き下ろしている経済評論家の、風見鶏的言動にも、いつもながらに、呆れてしまった。
選挙の結果が、どう転ぶかについて、現時点で、予想がつかないのは、当然のことだ。だからこそ、こんな無責任な意見が、飛び出してくるのだと思う。特に、最も悪質なのは、かの政党の議員から、撤退と差し替えの提案が、飛び出したことだ。これまで、対抗馬が見当たらず、仕方なく、賛同していた、とでも言いたいのか、この豹変ぶりには、確固たる考えが、ひと欠片もないことを、表している。そうでなくとも、複雑な過程を経て、選び抜くことで、最適な候補を、国民に問うのが、この選挙での役割であり、党の代表を選ぶのは、党員の務めとなっている。では、今回の選考過程は、如何なるものだったか。現職が、有利に働く中、勇退でもしない限り、二期目に出馬するのは、当然のこととされる。それは、前回の選挙で、敗れた前大統領も、同じことだった。人気は凋落しておらず、狂信的な支持者からの、絶対的な支持を得て、二期目の当選も、確実と目されたが、結果は、敗北となった。評論するのは簡単で、思いがけずの当選が、悲観的な予測へと繋がり、様々な混乱を来したことから、次は御免となったのだ。にも拘らず、今回も、候補として残ったのは、ある意味不可思議でしかない。で、高齢者同士の戦いが、始まったのだが、今回の討論会の結果は、ある程度、予測できていたのではないか。それを覚悟の上で、何方の候補も、残ってきたのに、結果が、惨憺たるものだと、風見鶏的言動が、頻出することとなる。依存体質が、こんな所にまで、蔓延することに、懸念を抱くのは、当然だろう。とは言え、今更である。惨敗を喫するのなら、不徳の致す所だ。続けるべきと思う。
世界各国で、選挙が実施されているが、状況は、現政権にとって、有利なものではない。全体として、変革を求める声が、有権者から、上がっていると伝えられるが、果たして、そうなのか。ここでも、報道の姿勢は、何か、他人事ばかりであり、自分達の責任を、問うてはいないようだ。
確かに、ここ数年の、異常な状況は、政を司る者にとり、決して好都合なものではなかった。天変地異が相手では、所詮、誰がどう足掻こうが、変わりがなく、ほぼ全てが、失政と片付けられる。その通りの展開なのだが、根本的な所では、天変地異とは、全く異なる要因が、関わっているように見える。経済の成長が第一と、それを目指して、政策を組み、異常事態にも、的確に対処した、と思ったのだろうが、その点だけでも、かなり多くの失敗があった。原因の殆どは、交換条件の不備、といったものだったようだ。だが、その嵐が過ぎ去り、愈々、元の生活に戻れる、と思った矢先に、世界的な物価高騰が、襲いかかってきた。こちらの原因は、ある国の独裁者の暴走、に違いないのだが、それを食い止められぬばかりか、そこから生じた様々な変化に対して、講じた策の多くが、的外れだったどころか、全体の均衡を、保てぬものだったからだろう。こう批判されれば、現政権の殆どは、と言っても、大国の一つは既に次に譲ったが、それは誤解だと、弁明するだろう。しかし、あの騒動で、施されることに、慣れてしまった国民は、その反動としての、毟り取りにも思える、政策変更に、否の声を上げただけだ。その意味では、説明不足、舌足らず、という意見もある。がしかし、現実には、やはり、義務と権利の繋がりや、自由と責任の両立が、現代社会で、重要となるにも関わらず、その浸透どころか、逆の見方ばかりが、重視される風潮に、世界全体が、流れていることに、気付くべきだろう。痛みを伴う、という意見で、押し通してきた国では、他と違い、政権の安定が見込まれるようだが。