パンチの独り言

(2024年7月15日〜7月21日)
(暗殺未遂、予想屋、思い付き、誰の為、言い負かす、能力、信任)



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7月21日(日)−信任

 他人に任せる、という話を書くと必ず、お前はどうだ、と尋ねてくる。有り体に言えば、能力に乏しい人程、そういう傾向が強い。特に、任された筈なのに、あれこれ注文を付けられ、それに振り回されるから、任されたことにならぬ、と言いたいのだ。お門違いも、甚だしい。
 まずは、任せる為には、吟味が必要であり、無能な人間を、採用することは、あり得ない。だが、程度の問題であり、相手の能力が、不足であっても、他の人々の支援があれば、何かしらを行える、となれば、任せることとなる。依頼者側の吟味力が、十分でないと、役不足ではなく、力不足が露呈し、依頼が破綻する。だが、その責任は、依頼者側にある。人を見る目が、無かったからだ。一方で、ある程度の信頼を置いて、任せたとしても、何の関与もなく、放り出すのも、どうかと思う。助言は必要であり、足らない部分を、補うことも、時に、必要となる。それでは、任せたことにならない、と思う人が居るが、これは、どうだろうか。人は、常に、単独で事を成すのではなく、多くの人の手を借りて、成し遂げるのである。と考えれば、依頼者だからといって、手を貸さない、とはならない。ただ、受け取り方により、以前同様の、命令となり、従うことが必要となる。これでは、確かに、任せたことにならない。でも、受け取り方によるのだ。任された、という信頼さえあれば、上司だろうが、上役だろうが、助言の一つとして、考慮に入れればいい。ここで、何で、いうことを聞かない、となっては、まさに、任せたことにならず、単に、操り人形を、拵えただけとなる。こんな信頼関係が、築ければいいのだが、今の社会は、そうなってはいない。特に、下に居る人間が、盲従することを、第一としており、それが、自分の成長を妨げる。そんな時、こんな人間は、上に立つ人間が、邪魔をしている、と思い込むから厄介だ。一方、上も上で、命令を控える必要が、当然あるのだ。

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7月20日(土)−能力

 能力のある人間、と聞いて、どんな人物像を思い浮かべるだろう。何でも出来る、万能な人間、はたまた、一芸に秀でた、天才肌。そんな人々が、頭に浮かんだろうか。確かに、そういう類の人も、能力があるとして、皆が認めている。だが、それだけだろうか。少し考えてみる。
 嘗て、ある学者が、こんなことを言ったとされる。「科学とは、何とも都合のいい世界で、どんな天才が登場しても、その人物の寿命は、たかが百年であり、その間に出来ることは、限られている。だから、その他大勢の凡人達が、活躍できる余地が、沢山残されている」と。どんなに能力のある人でも、1日の時間は限られ、一生も限られる。その中で、出来ることは、全体から見れば、ほんの僅かに過ぎない。だとしたら、どうすればいいのか。ある著名な数学者は、予想とか課題とか、そんな風に呼ばれるものを、生前に遺した。後世の人々に、その解決を託した訳だ。彼の名が、今も語り継がれるのは、確かに、直接遺した業績故だが、それにも増して、この形で遺したものに、多くの数学者達が、必死で取り組み、解決の糸口を、探っていったからでもある。人間の能力とは、自分で行うものと、他人に託すものの、両方において発揮できるのだ。そう考えると、一緒に仕事をする人を集め、彼らの力を借りて、自分の目的を果たす、というのも、その一つとなる。適材適所として、才能のある人間を、的確に集め、的確に配置するのは、指導者の役割とされるが、これもまた能力の一つだ。今、海の向こうの騒ぎを始め、多くの国々や組織で、揉め事が起きているが、その多くが、この点を見落とし、自分達の一時の欲望を、満たす為だけに、動いていることに、端を発している。高齢問題が、取り沙汰されても、代替が見つからず、今に至ったのに、今更のように騒ぐのは、愚の骨頂であり、自らの愚かさを、露呈するだけだ。彼の手腕に期待し、支える側に回ってこそ、勝機があると思うが、どうか。

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7月19日(金)−言い負かす

 多様性という言葉が、喧しいと感じる程に、訴えられる中、社会媒体では、種々の意見が、飛び交っている。中には、反対意見と思しきものも、散見されるが、さて、どう扱うべきか、議論は成立するのだろうか。例えば、多様性の中には、多様性を認めない、という意見もある、とは。
 それ以上に、書き込まれていなかったから、真意の程は、明らかではないが、多様性を押し付ける勢力に、反撃する為に、発せられたもののようだ。ただ、これ自体を、間違いとするのは、それこそ、大きな過ちだろう。一方で、この主張が、互いの主張を尊重した上で、という前提があれば、問題は起きないが、ただ、反論しているだけで、だから、相手の考えが足りない、と結んだのでは、何にもならない。そんなこと、当然ではないか、と思う人も居るだろうが、今の世の中、これを明記しないと、賛否を表明することも、叶わなくなる。ただ、単に、相手の考えが及ばず、多様性が存在しないことも、多種多様の世界では、当然のことだ、と言うだけだったら、喧嘩を売るだけ、となり兼ねない。しかし、それらの事柄を、互いに認めた上で、互いの意見を尊重して、今出すべき答えを、探そうとの意図なら、大いに歓迎すべきだろう。また、これは、多様性を押し出す勢力が、陥り易い考え方で、他の考えを、全面否定することに、終始するのなら、そこには、多様性の考えは、貫かれておらず、単に、勝ち負けを求める、未熟な人間の妄言に、過ぎないこととなる。こんなことを書いてくると、やはり、多様性の話自体は、ごく当然のことに過ぎず、敢えて、議論するまでもない、ということが見えてくる。だとしたら、最近の議論は、何の為に行われているのか。当然のことを、確認した上で、多種多様な意見を、それぞれ尊重して、その中から、現時点での正答を、導こうとするのか。もしそうなら、何の問題も無い。が、どうも、様子は違うようだ。だからこそ、多様性を認めない、などと書く。

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7月18日(木)−誰の為

 保護法、という名称から、思い当たった人は少ないだろうが、これもまた、ここで何度も取り上げてきた、弱者保護の一つなのである。それも、国が率先して、進めようとしたもので、今、問題となっている点は、側面の一つに過ぎない。それも、保護とは名ばかりで、別の目的の為の。
 この問題を扱った学問は、嘗て、先進国では、大変持て囃された。ヒトという種の存続を、確かなものとする為には、優秀な形質を選び出し、それを継承させることこそが、第一と置いたからだ。しかし、今では、人権蹂躙の典型として、厳しい批判の的となり、嘗て、名を馳せた学者達も、糾弾されている。この世に存在せず、反論の機会も与えられない中、このやり方は、どうかと思うが、弱者保護を謳う人々は、こんな輩が多いのだ。今回の事件も、その観点から、長く係争されてきたものだが、その実、ここで触れてきたような、誤った弱者保護の手法と、思える部分もある。嘗ての保護法は、国を挙げて、進めてきたものだが、それに関与した人々は、実際には、弱者の保護ではなく、その他の人々の、権利を守ることを、優先させていた。実は、弱者保護の大部分が、これと似た状況にあり、強者が、自らの権利を守ったり、発言権を維持する為に、使っている方便の一つに過ぎない。その点を、厳しく断じるのだが、本人達は、自らの行為に酔い痴れ、高貴なものの一つのように、主張し続ける。確かに、弱い者とて、ヒトとしての権利があり、それを尊重する必要がある。しかし、嘗ての学問同様に、障害者は、社会から排除され、権利を奪われてきた。それは、先進国に限らず、後進国でも、お荷物として扱われ、時に、抹殺の対象とさえなった。そんな歴史を、反省することで、弱者保護や、障害者の権利尊重が、訴えられているが、その裏で、関係者らの利益や、社会的地位の確立に、結び付いていることは、どう考えるべきか。今回の終結は、そんな所にも、及べばなあ、と思う。

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7月17日(水)−思い付き

 生成人工知能が、話題となり始めたのは、1年少し前だったろうか。それ以前に、対話形式で答える仕組みが、公開されたそうで、それでも1年半程前だそうだ。話題になってから、脅威となり、それ以降も、文章だけでなく、他の媒体も、応用可能となる度に、驚異の度合いは増している。
 確かに、状況を書き記せば、それに応じた答えを、即座に提示し、それなりの水準を、保つと言われるから、人間任せより、機械任せの方が、遥かに効率的で、確実な手段と言われる。その一方で、仕事の質を重視すると、新入社員が、徹夜で仕上げたような、底の浅い、視野の狭いもの、との指摘もある。そこで、過渡期には、仕事の出来る人間が、その利用法として、質より量で勝負するが如く、多くの提案を、させるようにする、との話が出回り始めた。人間と違い、次々と要求を出しても、ある意味、素直に従うから、便利だと言う。取捨選択は、有能である自分自身が、行えばいい、という訳だが、どうだろうか。最終結果を、論じたとしても、当初の、機械が行う提案が、どんな代物だったかは、その場で提示されず、有用な使い方か否かは、判断できなかった。一方で、自分自身が、提案を考える時に、どんなことをするかを、改めて考えてみると、全く異なる手順であることに、気付かされる。件の専門家は、なるべく多くの提案を、並べることで、幅広く考えることができ、妥当な提案を、仕上げることができる、としていたが、多くの人は、ほんの一握りの提案を、瞬時に思い浮かべ、そこから、思考を始めるのでは、ないだろうか。ここに、大きな誤解があるが、物事を考える、と言われた時に、多くの人々は、提案そのものを、思い付く為に、長い時間考え抜く、と受け取るようだ。だが、実際には、思い付くのは、殆ど瞬間的であり、それを形にする為に、あれこれ検討しようと、残りの時間を費やしている。だとしたら、上の生成人工知能の活用法は、間違っているように思える。

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7月16日(火)−予想屋

 先見性に乏しい人間を、競馬の予想屋のよう、と揶揄するようだが、報道に比べると、予想屋の方が、遥かに科学的、論理的だろう。今回の未遂事件から、形勢は一気に傾き、そのまま、結果が出るとさえ、断言する連中が居る。確かに、討論会の失態から、続く展開から、そう結論付けたいのだろう。
 だが、選挙戦は、まだ始まってもいない。その中で、こんな予想を出すのは、調査に基づき、世論を分析してのこと、と答えるに違いない。だが、いつ頃からか、世論調査は、全く信用できず、出口調査さえ、操作の思惑が、露呈し始めた。確かに、現時点では、現職にとり、かなり不利な状況であることは、否めない。だが、前職は、その実績から、政策の方向が定まらず、迷走することが、予想されている。それでも、今の高齢者よりまし、と見るのは、報道関係お得意の、口八丁に過ぎない。一方で、感染症騒動の際、報道の為体が、露呈していた。科学的根拠を、吟味する力が無く、論理の破綻を、見破る洞察力も無く、ただ、伝達者として、世界機関が、ばら撒き続けた、恐怖の扇動を、大衆に撒き散らしただけでなく、その上で、とってつけた解説を、滔々と述べ続けた。無垢な人々は、判断する材料も与えられず、ただ、右往左往を繰り返し、接種を強制されれば、素直に従い、検査を要請されれば、せっせと通い続けた。今も、同様の状況が、続いているが、その原因は、報道が、総括を求めず、自らの加担を、恥じることなく、無かったことに、しているからだ。政治は、それに比べて、容易いもので、見込み違いも、予想外れも、所詮、施政者に、責任を負わせれば良い。後出しならば、何とでもなり、したり顔で、予想をひけらかす、評論家の得意技となる。だが、感染症の際と同じで、世界情勢は、無責任な評論とは、全く別の形で、進んでいくしかない。その中で、どうあるべきか、あの輩が、そんなことを、考えるつもりも無いことは、明らかだろう。他人事としか、思っていない。

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7月15日(月)暗殺未遂

 いやはや、驚いた。如何に、汚い言葉を吐いても、相手を罵っても、果ては、犯罪者呼ばわりしたり、無能者呼ばわりしても、仮令、そんな言葉の暴力を、浴びせかけたとしても、銃による暗殺を、企てられるとは、言語道断である。海の向こうの、分裂の深刻さを、表すと言われるが。
 だが、この話は、そこが問題ではない、と思う。確かに、銃社会では、こういう暴力沙汰が、これまでにも、度々起こってきた。毎回、二大政党間での論争となり、相容れない主張が、戦わされてきた。だが、今回のものは、その中でも、特別視されることに、なるに違いない。まだ、銃保有の正当性などに、言及する話は、出てきていないが、早晩、そうなるだろう。だとして、さて、今回は、どんな主張が、戦わされるのか。それとも、そんな瑣末なことより、選挙の行方こそ、重大事とばかり、忘却の彼方へと、押しやられてしまうのか。運の良し悪しが、才能の一つと言われるが、今回のものを、そう片付けてしまうと、こちらの元宰相の事件に、目が向いてしまうかも。だが、狙撃の標的となったことには、何ら変わりがなく、ほんの僅かな違いが、結果に結び付いたとされる。その上で、これを運と呼ぶのは、どうかと思う。実力の内と言われる、運は、総じて引き寄せるものであり、単なる確率を指して、才能や実力と結び付けるのでは、論理もへったくれも無い。生き残ったからこそ、選挙にも勝利する、などという意見もあるが、根も葉もない話だ。一方で、社会媒体は、思ったよりも、盛り上がっておらず、瑣末なことには、群がる人々が、いざ、核心へと向かうと、大人しくなるのか、とさえ思えてくる。反面、報道は、騒がしさを増しており、元々、政治に関する話は、無責任に出来るからか、勝手な暴言が、度々登場して、今回の被害者同様、妄言とさえ思えるものも、散見される。ただ、選挙の行方は、何方に転んでも、大差無しと見え始めており、これでもなお、盛り上がるものか。

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