パンチの独り言

(2024年7月22日〜7月28日)
(撤退劇、既成打破、色眼鏡、責任転嫁、不幸者、似非科学、自明)



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7月28日(日)−自明

 機械は、人間が作り出したもので、決まった動作をする。だから、目的を達成する為に、人間が行う作業を、代わりに行わせることが多い。元々、人間にしか出来ない、と言われた作業も、最近は、その殆どが、機械で出来るようになった。喜ばしいこと、と思うかどうかは、人による。
 機械化の前には、自分にしか出来ない、と信じてきたことが、ある時を境に、一変する。高度な技術の筈が、機械に取って代わられ、働く場所を失うからだ。多くの技術は、その肝心な部分が、明らかになると、途端に、機械の開発が進み始め、以前なら、想像もできなかったことが、実現することとなる。製造業には、そんなものが溢れ、工場で働く人の数は、減り続けてきた。だから、機械が、人間の仕事を奪った、と思うのは、お門違いというものだろう。効率化が求められ、人間の関与は、なるべく少なくする。製造業の常となる、こういった考え方は、技術の進歩と共に、発展してきた。ただ、その過程で、すべきことは、他にもある。技術者の、肝となる考えを、機械に移植することだけでなく、機械化によって、図られた効率化を、有効に活用するのだ。一見、仕事を奪うだけ、とも思える機械化だが、それによって、向上した効率を使い、別の方へと動くことだ。同じことの繰り返しで、製品を産み出してきた、やり方だけでは、早晩、限界が訪れる。多様化と呼ばれる考え方が、日の目を見るのも、機械化によって得られた時間を、活用するからだ。そこでは、技術者の多種多様な考えが、反映されることになる。同じことを、繰り返したからこそ、思い浮かぶものもあれば、それとは全く別の、新しい考えが、降ってくることもある。人間の能力は、限りがないもの、と見るかどうかは、人によるのだが、そう考えれば、機械化も、最近の生成人工知能も、巧く扱うことが、肝心だろう。今、職にある人間は、そう考えるが、さて、次の世代は、どう考えるべきか。答えは、明らかなのだが。

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7月27日(土)−似非科学

 非科学的な主張に対し、厳しい批判を浴びせ、誤りを指摘する、という科学者が居るのは、ご存知の通りだが、その一方で、大学の教員の中に、科学的な根拠も無しに、自らの主張を、学生に向けて発信する人間が、居ることには、殆どの人が気付いていない。理由は、簡単だ。
 そんな人間は、社会的信用が無く、誰も相手にしないから、と言われる。だが、その人物の目の前に居る、学生達は、どうだろうか。もし、講義を担当しており、その中で、持論を展開するのみで、その学問で、通説と言われるものを、全て排除していたら、どんな展開があるだろう。常識的には、そんな人間が、教壇に立つ筈が無い、との答えが返ってくるだろうが、現実は、小説より奇なり、である。随分前のことだが、ある私立大学に、そんな人物が存在した。嘗て、国立大学、それも頂点とされる所に、職を得ていた人物は、最高峰の学生達に、持論を押し付けたが、ほぼ全ての学生が、聞く耳を持たなかったそうだ。結果として、悪病が蔓延せず、その代わり、本来、習うべき事柄の一つが、抜け落ちた、と憤慨する嘗ての学生も居たが、その程度の被害で、終わっているうちに、定年を迎えて、かの私立大学に、迎え入れられた。当初、異変に気付かず、放置状態だった。早晩、馬脚を露わしたが、解雇理由とはならず、他部局への異動となった。そこで、また、同じことが繰り返されたのは、ある意味、悲劇だったのかもしれない。とは言え、学生達は、疑問にも思わず、不思議な学問を、受け入れたようだ。今、この話題を出すのは、同じ事象が、多くの大学で、起きているようにも見えるからだ。真偽の程は、確かではないが、教員が、研究上で自分の主張をするのは、当然のことながら、そこに、科学的根拠が欠落する場合、どうしたものか、と思えてしまう。話題性を優先させ、根拠を示さずに、主張を繰り返すのは、一見、確かなものに見えることもある。だが、科学としては、駄目なのだ。

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7月26日(金)−不幸者

 不幸な人々が、確かに居る、という一言は、何故必要なのか。理解できぬ、と思うのは、通常の感覚を、有していないからなのか。何とも解せぬ話だが、今の社会は、そのことで持ち切りである。一つだけ、思い当たるのは、比較の問題で、自分よりも下が居る、の安心感だろうか。
 そんな感覚を、抱いたことの無い人間には、理解不能なのだが、解釈としては、成り立ちそうに思う。昔、組織の中で、最底辺の人間を、処分した所、その上の集団が、最底辺と化してしまった、という話を聞いた。これが、実しやかに語られるのは、昆虫の蟻でも、同じ現象が起きた、という研究があるから、という話だ。だが、真偽の程は、明らかではない。で、格差の話は、どう展開しそうか。全員が、中流との意識を、抱いていたのは、半世紀程前の、高度成長期だ。乗り遅れまいと、必死になって、集団についていくことで、自らの存在証明も、価値も、何とか満足させていたが、所詮、上に立てる筈もなく、ただ単に、集団の中に居る、という考え方が重要だった。だが、成長が止まり、下降期に入り始めると、落ちることへの恐怖が、頭をもたげてくる。その結果、下に誰かが居るか否かが、最重要の指標となった。この辺りから、格差の話が、取り沙汰され始めた。誰か他の人々が、不幸であれば、自分には当てはまらぬ、という考え方だが、全く理解できない。ある意味の、楽観主義から、生じたものと思えるが、海の向こうでは、安定した頃は、楽観視していたのに、一つ躓くと、一度に悲観的となり、自分を格差の下に置こうとする。その代わりに、そうなった責任は、当然の如く、社会や他人にあるとする。海のどちら側でも、同じように、閉塞感が広がり、厳しい時代を迎えた、と言われ続けるが、これもまた、本当かと思える。確かに、成長期にあった、夢を抱ける雰囲気は、消し飛んでしまった。だが、だから不幸だ、と言い切れるのか。何かが間違っているように思う。

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7月25日(木)−責任転嫁

 社会の不満が蓄積し、今の事態を招いている、と言われる。そこで、屡々聞かれるのは、ある年齢より上の世代で、自分達は何とかなるが、次の世代は、厳しい時代を迎える、とか、今の社会問題は、格差にあり、その対象となる層から、社会全体に、不満が広がる、とか、いう話だ。
 前提を除き、他者への配慮を、見せているように思えるが、さて、どうだろうか。彼らの多くは、発言では、配慮を見せているが、その実、自分達が実権を握るか、あるいは、そうする世代に属している頃、殆ど何もせず、今の事態を招いたからだ。現実には、何もしないのは、現状維持を表し、そのままを継続することを、意味する。だからこそ、自分達は何とかなる、と言い切れるのだ。もし、実権を握った時に、何かしらの変化を、起こしていたら、今はまだ混沌とし、自らの将来さえ、見通せなかっただろう。その代わりに、後の世代に、積み残したものを、今更のように、問題として掲げ、彼らに押し付けている。こういう輩を、忌み嫌うのは、責任転嫁が、彼らの心の奥底にあり、それを、言葉で飾ることで、誤魔化しているに過ぎないからだ。だが、今更、どうにもならない。だから、今の主流となる世代に、変化を起こせ、と誘っている訳だ。ただ、これは、何かしらの見込みの上で、言っている訳ではない。単に、見掛けを良くし、嫌われたくない、という卑しい心からではないか。それにしても、格差の問題も、度々取り上げられるが、その実態は、明確になっていない。確かに、食費さえ捻出できない、という家庭が沢山ある、と報じられるが、その数も、内容も、明確にはされず、格差のみを強調する。論理立てて考えようにも、こんな情報不足では、如何ともし難い。特に、収入額と支出額の比較は、それぞれの事情により、簡単には導き出せないが、それでも、何らかの比較と、その詳細を精査せねば、本当の課題は、見出せない。騒ぐことが、先に立つと、こんな事態を招く、いつも通りに。

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7月24日(水)−色眼鏡

 ここでも、ゴミとこき下ろしたが、その理由の一つは、体制批判一辺倒だったのに、あの感染症騒動では、死への恐怖からか、与する姿勢を露わにしたからだ。だが、海の向こうの前大統領は、それ以前から、批判を繰り返した。こちらは、不都合な情報を、抹殺する為に。
 既成への反発を、感じる人々には、それが、強い指導者と映り、熱狂的な支援へと、結び付いたと言われる。真偽の程は、定かではないが、あの熱量に、何かしらの狂気が、感じられるのは、異種への違和感だろうか。何れにしても、報道に対して、強い憤りを感じたのは、止むを得ないことだろう。だが、その一方で、彼らが専ら依存する、社会媒体は、どうだろうか。こちらも、前大統領の挙動からは、自己中心的な考えが、増長される姿が、見えており、一歩外れれば、狂気へと転換しそうだ。指導者の考えに酔い痴れ、自分の考えを肯定し、絶対崩せない壁を、周りに築こうとする、そんな動きには、確かに、今の世界が直面する、強い対立や断絶が、映し出されている。体制批判は、以前と変わらず、権力を批判し、邪魔者を排除する動きは、端末に表示される世界で、強まるばかりに思える。情報を遮断しない限り、侵される可能性を、断つことができない、とも言われるが、論理を重視すれば、簡単に論破できる意見ばかりで、然程心配する必要がない、とも思える。先日も、不正を働いた企業として、二つが取り沙汰され、政府の圧力が、破綻を導こうとする、とまで記す人々が、出ていた。しかし、自動車業界は、検査に対する不正として、処分されたものの、実害は殆ど生じず、その上、検査対象への、企業の考えも、確固たるものであり、監督官庁との連携が、不足していた、と思われる。一方で、健康食品業界のものは、被害者が先に出て、その原因に対して、食品の製造管理の不備が、指摘されたものであり、明らかな不正である。この二つを、同列で語るのは、非論理的としか思えぬ。

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7月23日(火)−既成打破

 世界中で、政治の勢力図が、書き換えられている、と言われる。単なる、政権交代の場合もあるが、それでもなく、既成のものへの反発が、強まっている、という意見もある。だが、本当にそうだろうか。確かに、社会媒体では、その動きが急とも見えるが、どうにも飲み込めない。
 その典型であり、先頭を切ったと言われるのが、海の向こうの前大統領なのだそうだ。既成の政党を、乗っ取ったとまで言われ、今回の選挙でも、候補として勝ち残った。一見、そんな具合に思えるのだろうが、実態は、全く異なると思う。確かに、選挙戦では、対抗馬を、次々と追い落とし、絶対的な支持を得て、このまま、返り咲くとの見方もある。だが、この流れの中で、多くの評論家が、見落としているのは、支持の理由ではないか。そんなのは、決まっている。閉塞的な時代に、打ち破ってくれる、強い指導者を、待ち望んだ人々に、彼は救世主となったのだ、と。そんな解釈を、実しやかに語る、熱狂的な支持者が居るのは、確かなことだが、その他大勢は、どうだろうか。また、それだからこそ、本番での成り行きは、依然として、混沌としたままである。この理由は、簡単なことで、党を挙げての支持が、得られていないからだ。一致団結が、党大会で示された、との話を持ち出すだろうが、それとて、あそこに集まった人々の、演出に過ぎない。乗っ取ったという話も、現実には、利害を考慮して、何方に与するのが、好都合かとの判断に過ぎず、一瞬で、寝返る話だろう。これは、現大統領が、撤退を余儀なくされた、事情にも表れており、改選される議員の、訴えが当てはまる。確かに、感染症騒動の後、政治への不信は、先進国に広まった。その中で、現政権の綻びは、修復不能のように、見えてきた。だから、という訳だが、更に、既成政党への不満が、という話を持ち出すのは、どうかと思う。依存性の強い人間が、そんな判断を下しても、早晩、寝返るようにしか、思えぬ。

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7月22日(月)−撤退劇

 予想は、見事に外れた。一度決めたことを、貫くべきとの考えで、撤退は無いと予想したが、決めたとの報道だ。何だ、所詮その程度のものか、と見る向きもあろう。確かに、政治に通じる訳でも、海の向こうの考えを、見抜ける訳でもない。単に、人間として、あるべき姿は、と。
 だが、現大統領は、おそらく、「お前では勝てない」との意見に、屈したのではなかろう。一致団結を呼び掛け、全力で戦う為に、老体に鞭打っても、と思っただろうから。だが、このままでは、自分達が、議員選挙に勝てない、と言われ続けては、如何に頑固爺いでも、抗い切れなかったのだろう。でも、これでは、本末転倒ではないか。一国の長を、決める選挙より、自分の議席を、と訴えるのは、余りに情けなく思う。流石に、方針転換を、決めた以上は、そのことは、棚上げとなり、何事も無かったかの如く、選挙戦の最終盤が、繰り広げられる。にしても、こちら側は、こうなれば、最終候補が未定、でしかない。撤退の条件として、後任候補を、指名したとも伝えられるが、それとて、このご時世だ、思惑ばかりが飛び交い、一致団結どころか、決められない、という事態を招きかねない。以前なら、二大政党共に、率いる人物が、存在していた。それも、長となるべき人間ではなく、党を率いるという意味で。現大統領は、その代表格とも言われたが、当時の予想に反して、前大統領を、引きずり下ろす為として、出馬を決断し、勝利した。さて、今度は、どんな展開となるか。報道は、それ見たことか、とばかりに、勢いを増し、有力紙を始め、自分達の慧眼を、ひけらかすに違いない。だが、こんな茶番の連続では、大衆の支持は、政治も報道も、得られる筈が無い。だからと言って、新興勢力が、との声もあるが、そちらに関しては、期待が持てない。一時的には、人気を博しても、結局は、実務能力に乏しく、国を率いるだけの力は、一朝一夕には、身に付かないからだ。

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