パンチの独り言

(2024年7月29日〜8月4日)
(不平等、混沌、黒船来襲、差別意識、普通の生活、判定、規則とは)



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8月4日(日)−規則とは

 独り言では、人権や平等に関する主張に、疑問を呈することが多いが、理解できるだろうか。それとも、下らない主張を繰り返す、似非人権擁護派に、全面賛成だろうか。差別の話も、同じことだが、弱者保護の名の下に、あれ程極端な、逆差別を、声高に訴えるのは、明らかな間違いと思う。
 だが、今の時代、そんな批判を口にしたり、社会媒体に書き込めば、あっという間に、槍玉に挙がり、集団私刑の的になる。曰く、人権を踏み躙り、人の生きる権利を、奪うものだと。だが、その根拠は、余りに偏った考えに基づき、常識的で論理的な思考では、理解不能なものでしかない。だから、社会媒体には、手を出すのは勿論、見ることさえ、やめておけ、と言われるのだ。しかし、あの世界からの圧力は、増すばかりであり、異常思考の集団から、逃れる為には、ある程度の妥協も、止む無しと言われる。果たして、そうだろうか。異常は異常として、片付けるべきであり、その為に、ある程度の論争を、経る必要があるなら、その時間は無駄ではない、と思う。例えば、性別が関わる問題で、染色体の構成が、取り沙汰されるが、これは勿論、生物学的性別であり、社会が勝手に定めた、意味不明な分類とは、明らかに異なるものだ。精神的とか、心理的とか、そんな問題を論じたければ、勝手にすればいいが、規則を定めるに当たっては、生物学的な差異を、基本とするしか、方法はないだろう。そこに、人権を持ち出し、平等を語るのは、明らかな誤謬であり、混乱を招くだけだ。一方で、社会媒体で、度々、批判の的となってきた、ある科学者が論じる、科学的な性別には、数多あるという説は、科学のある分類法によるもので、規則なりへの適用には、馴染まないものだ。一見、論理を展開するようで、その実、的外れな議論を、進めるのは、あの世界でも、明らかな過ちであり、不毛な議論の典型だろう。規則は規則として、遵守すべきものだし、簡単に揺らいではならぬものだ。

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8月3日(土)−判定

 誤審の話が、喧しい程だが、どう考えるべきか。確かに、大袈裟な話だが、一生を賭けて、努力したものが、一つの誤審で、台無しとなる。堪ったものじゃない、と思うのも、無理の無いこと、となるのかも。だが、人間が関わる限り、誤りは付き物で、避けることは難しい。
 とは言え、目に余るものが、次々に出てくると、誰もが、一言となる。その上、社会媒体の端末が、手にあり、そこには、証拠の写真や映像が、次々に届いてくる。以前なら、放映時間の中で、一回か二回、再生されるのが、精々だったものが、番組企画者の意図など、何の関係もなく、何度でも繰り返され、皆が、それに躍起となる。今回も、そんな話題で持ちきりで、尽きることのない話が、おそらく、今後かなりの月日、続けられるに違いない。勝敗の判定を、人間が下す限り、そこに、間違いが生じるのは、止むを得ないことで、競技によっては、白黒は、見る者によって、極端に違ってくる。前の初開催に、初めて実施された競技も、その一つだろう。特に、誰が仕切るかで、規則が微妙に異なるだけでなく、勝敗の決め手さえ、様々に変貌してきたから、今、この大会では、という括りで、見ることが不可欠となる。今回も、主審の声を無視して、締め技を続けた末に、決着がついたとされたものや、同体とも見えるものを、一方の勝利とした判定など、相変わらずの状況だ。剣を使う競技では、遙か昔は、審判の判断で、優劣をつけていたが、今は、全て機械による判定で、それについては、異論は出ない。但し、規則は速さのみではないので、揉めることもある。さて、そんな中、この国の武士道の一つが、未だに、祭典に採用されないのは、との疑問があるらしい。ただ、これについても、依然として、審判の目による判定であり、微妙なものが多い、という点からして、新たな揉め事となる、との見方が強い。だったら、世界大会までで、その先は、望まぬ方が、との意見もあるようだ。それにしても、競技規則とは、何と複雑なものか。ただ、穿った見方をすると、強過ぎる競技者を、排除する為のもの、と言われることもある。

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8月2日(金)−普通の生活

 社会媒体に、規則はあるのか。今更、こんなことを書いて、何の意味があるのか、訝しむ人の方が、多いだろうか。囀りを、有効に活用した人物は、管理企業の判断で、利用停止を言い渡されたが、その後、不振に陥った企業を、引き受けた、新興企業の社長は、正反対の判断を下した。
 このことは、つまり、絶対的な正解は無く、人それぞれの判断による、ということだろうか。その一方で、その場に開設しようとすれば、何かしらの注意書きを、読まされている。これが規則だとしても、公序良俗などという用語には、様々な解釈があり、結論が出せない、ということなのだ。だが、社会には、法律があり、それに基づいて、善悪や懲罰が決められる。だったら、そちらの方が、優先されるのか、と問うたとしたら、多くの人々が、でも、判決も判事次第、海の向こうなら、陪審員次第ではないか、と答えるかも知れぬ。要するに、時と場合ではなく、人によって判断が異なる、とすべきなのか。だったら、自分の好きにする、と答える利用者は、件の前大統領だけでなく、多く居るに違いない。では、無法地帯で済ませるのか。今の世界的状況からすると、そうもいくまい。ただ、軍事侵攻然り、人質奪還然り、何事も、力のある者が、優位に立つ状況は、その他大勢の、庶民にとっては、不都合となる。それでも、皆に平等に発言権が与えられる、社会媒体の世界は、普段の生活の窮屈から、抜け出す為の手立て、となるように見える。だったら、そこで、発散すればいい、となるのだろうか。仮令、その発散が、他人を傷付けたとしても、自分の為が優先し、他人のことなど、どうでもいいと考えれば、それでよしとなるか。今の時代、そうもいくまい。だとしたら、一部の裕福で、権力を有する人以外は、黙っておくのがいいのか。それとも、出鱈目でも、発散することで、生きる糧を手に入れた方が、いいのだろうか。ただ、今、ここに書いたことは、どうでもいいことに思える、普通に生活する上では。

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8月1日(木)−差別意識

 朝の連続小説で、法曹界に携わった女性の話が、取り上げられている。戦前の差別が、如何に著しいものだったかを、伝える部分もあったが、丁度、戦後の平等からの、別の差別の問題を、取り上げている。ただ、当時の世相を、反映したものかは、まだ明確にはなっていない。
 海の向こうの人種差別のように、見た目の明確な違いに、基づいた差別は、理解し易いと同時に、対策も講じられる、と言われる。だが、混血が進み、違いが不明確となると、話はずっと込み入ってくる。一方で、表面的な対策が、整備されても、心の問題は、いつまでも残る。その上、最近の苛めにも現れる、差別の問題は、双方の心の問題とされ、解決不能と思える程だ。上の問題は、殆ど区別がつかない中、出自を問題とするものだけに、事はより複雑となる。学校での、男女の区別に関して、一時期盛んに取り上げられたのは、医学部での性別による、点数格差の問題だった。内部文書でしか、規定されておらず、表面化することが、決して無いと思われたが、告発があれば、破綻する。それ程露骨でなくとも、入試科目の操作で、調整を図る動きは、ずっと続いており、根深い問題と思えてくる。その中、女子のみに限る、大学組織で、不正が発覚した、と報じられた。その後、監督官庁に、陳情に訪れた、当該大学の教員組織が、映し出されていた。ごく普通に、扱われた事件だったが、その映像から、穿った見方をすれば、別の面が疑われた。そこには、男性教員のみが、並んでおり、女子大学の、男女格差が、如実に表れており、その上で、今回の事件が、根深い問題とも見える、ような気がしてしまった。卒業生の子女に、便宜を図ってきた、とされる話からは、当然ながら、女性にしか権利はなく、仮令、現職教員でも、男性には、一切の権利が無い、と思われるのだが、もしそうなら、陳情団には、何かしらの差別感が、あったとも思える。何方が、何を思うのか、考えればきりが無い。

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7月31日(水)−黒船来襲

 海の向こうの大統領選では、交代が起こると、役所の上の方は、総入れ替えとなる、と言われる。そんなことが起きても、正常を保てることは、ある意味、素晴らしいのかも知れぬが、兎に角、効率は恐ろしく悪い。それに比べ、こちら側は、何が起きようとも、役所の上も下も、変わらぬままだ。
 経済成長が続く中では、これこそが、成長の源泉と言われ、官僚政治こそが、繁栄の基盤とまで言われた。だが、泡が弾けて、停滞から下降へと移ると、様相が一変し、官僚政治は、諸悪の根源とまで言われるようになった。あちら側からすれば、思う壺であり、強固な制度が、築き上げた繁栄が、自壊していくのを、眺めながら、溜飲が下がる思いだったろう。本来なら、国ごとに、組織運営の考え方は、大きく違うものだが、戦後の盲従から、繁栄へと繋がった道筋で、考え方を、無理矢理変更させられ、サイドブレーキをかけられたことは、国の運営どころか、企業運営にまで、悪影響を及ぼした。今も、役員報酬に関して、向こうからの圧力で、伝統が切り崩されているが、自治体とて、同じような状況だ。と言っても、これは、外圧よりは、内圧によるもので、西の大都市圏で、芸能人首長が、持て囃された頃から、様相が一変した。ただ、人気商売だけの首長は、運営そのものは、役人任せだったから、破壊されることは、無かったのだが、例の弁護士が登場して、更なる激変が起きた。役人達を、徹底批判し、組織崩壊を招いたからだ。多くの自治体で、同様のことが起き、閉塞感を払う為に、縁もゆかりもない人間を、選んだことは、変化を起こしても、安定した運営は、築けそうにない。昔なら、役人上がりの、助役や副知事が、跡を継ぐことで、安定を手にしたものが、変化を望む余り、修復不能な事態へと、突き進んだ結果、荒廃へと堕ちてしまった。同様のことが、企業で起きつつあり、それこそが、改善への道と、説明されるのだが、何とも理解不能である。黒船ばかりでは、夜も眠れぬ。

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7月30日(火)−混沌

 男女の格差や差別が、問題視されてきたが、いつの間にか、別の枠組みが、導入された。性別で、区別すること自体を、差別と断じて、忌み嫌う動きが、出てきたからだ。こんな話は、実は、古今東西、あらゆる所であったのだが、一種、扱うべきではない、との判断から、封印されていた。
 だが、女性解放が、声高に訴えられるようになり、虐げられた人々の間で、性によらない判断を、望む声が上がり始めた。当初は、同性愛という括りが、大部分であり、生物学的に見て、異常なものとして、蔑視の対象とされたが、徐々に、それが、ヒトに限ったことではなく、生き物全般に、存在すること、とする研究までもが、紹介されるようになると、ある意味、異常性よりは、生き物として、当然の事柄のように、扱う人々が出てきた。ただ、その辺りから、話が拗れてきたようだ。男女、雄雌の区別だけでなく、それ以外の範疇が、盛り込まれるようになり、そこから先は、ある意味、制御不能となった。何でもあり、と呼んでしまえば、それまでだろうが、まさに、そういう観を呈してきたのだ。多様性の時代、と呼ばれる考え方が、台頭するに従い、この状況は、ほぼ放置状態となり、全ての類に、権利があるというのが、社会の通性になったのだ。多様性とは、あらゆる可能性を、受け入れるべきこと、となれば、当然の帰結なのだが、さて、どうだろうか。こうなってくると、道徳や倫理について、どう扱うべきか、はっきりしなくなる。何でもありだから、好都合と考える集団には、いいのかもしれないが、何かしらの拠り所を、求める集団には、何とも不安定な時代だ。だからこそ、世界全体に、不安感が漂い、閉塞感が満ちてきた。既存のものへの反発から、変化を求める人々には、好機となったようだが、それは、単に不安定さが増し、進むべき道を、見失いかけているようなものだ。強力な独裁者が、登場するのか、はたまた、単なる混沌が続き、諍いからの争いが、強まるのか。それとも。

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7月29日(月)−不平等

 当然のこと、と頷いた人が居るだろうが、その一方で、理解に苦しんだ人も、居るのではないか。平等という観点で、格差が、屡々取り上げられるが、それより、即物的で、明確なものは、男女の差別にある、と思う人は多い。その観点から、様々な事柄が論じられ、解決策が講じられる。
 特に、注目されるのは、割合の問題だろう。男女は、ほぼ同数居て、社会での役割も、同等であるとされる。だとすれば、あらゆる場面で、対等であるべきで、となれば、割合も同じとなるべきだ、とする考えがある。何度か書いたように、子を産むなどの、生物学的な差異に関しては、明白なものであり、割合が極端になるのは、当然のことだ。しかし、社会的な役割などは、男女による違いが、歴然となるものは少なく、ほぼ同じ割合となるべき、となる。それが、問題視されてきたのは、明らかな差が見られ、その根底に、差別的な意識がある、という理由からだ。その中で、多くのものに、手を入れることで、対等を目指し、その過程で、少なくとも3割を、という指標が示されてきた。その位に達すれば、発言権も得られ、同数を目指すことも、難しくなくなる、という考えからだ。さて、最初に書いた、当然のこととは、何のことか。ここまでの流れから、読み取れることは、まず無いだろう。この問題は、大学入試における、女性枠の設置に関する話だ。偏りがあるから、それを是正する為に、確固たる枠を設ける、という考え方で、3割を目指すものと、よく似た手法である。だが、もう一方で、平等を考えようとする場合、この制度は、どう見るべきか、議論の余地がある。だからこそ、理解に苦しむ場合が、出てくる訳だ。他方、高校では、同数とする制度に、異論が唱えられ、試験による評価を、反映すべきで、その結果、偏りが出るのも止む無し、との意見が、強まっている。何方の場合も、背景は様々で、事情も様々である。杓子定規に、割り切れないからこそ、正反対の結論となる。どうする。

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