国は、依然として、過ちを認めない。研究分野で、選択と集中こそが、その推進の原動力になる、と主張し続けてきたが、世界の中の順位で、翳りが見え始めてから、その傾向は弱まるどころか、強まるばかりと報告される。それ自体、誤った分析に基づくが、政策の過ちは、明白だ。
その中で、地震予知は、典型例と言われる。予知の可能性の有無こそが、選択であり、結果として、集中させた方で、成果が上がらず、失敗と断じられた。しかし、研究そのものより、業界での政治や、政治家や官僚達との、密接な関係構築に、精を出す人々は、手を替え品を替え、自らの失敗に、触れようともせず、新たな提言を、掲げ続けている。だが、根本の誤りを、正すことなく、小手先だけを、変えたとて、何も変わることは無い。一方で、役人も政治家も、自らを含めた、失敗の元凶が、磔にならぬよう、選択の誤りを、認めようとせず、修正版で、誤魔化そうとする。地震でも、感染でも、人の命が関われば、恐怖を利用して、大衆を誘導すればいい。だが、結果は、すぐに出される。地震が起きねば、空振りに終わるし、起きたとしても、的中とならねば、批判の矢に晒される。感染も、賭博の予想の如く、多数の死者と煽ったが、結果は、散々なものだった。仮令、それで命が永らえても、何方の場合も、研究としては、大外れである。そんな選択をした連中を、厳しく処分せねば、高額な研究費を、溝に捨てた責任は、取れないだろう。逆に言えば、所詮、何方に転がるか、分らぬものなら、はじめから、選択せずに、少額をばら撒けばいい。これまでの研究行政は、その観点から、進められてきて、それによって、この国は、科学立国を自称できていた。驕れる者は久しからず、となれば、政策転換は当然のこと、ここ四半世紀程の、緊縮財政を、改めるのは勿論のこと、次代を担う人材の、育成を目指すのならば、研究のみならず、教育に対しても、見直す必要がある筈だ。
地震予知の問題は、何も解決されていない。その上、西の方でも、東の方でも、大地震に見舞われ、多くの被害者が出たことで、予知の可能性を、盛んに主張した研究者達は、自ら招いたこととはいえ、針の筵の上に、座らされる気分に、陥ったのだろう。自業自得である。
その一方で、国は、彼らを強く支援し、予知に続く対策を、講じることこそが、防災対策の最大事と、扱ってきたことから、撤退することもできず、限定的な形での、予測を出すように、関係者に働きかけたのだろう。その結果が、今回の混乱を招く、一大要因となった。プレートと呼ばれるものが、動くことにより、地震が発生するという、仮定を立てれば、周辺にも影響を及ぼし、連続して起こる、という今回の筋書きも、可能なものとなる。余震と呼ばれたものも、二度目の方が、大きくなることが、明らかとなったから、筋書きは、信憑性を増したようだ。だが、それとて、局所的な断層で、起きた事象と、プレートと呼ばれる広範囲なものを、同列に扱うことが、可能かどうかの検証は、なされていない。今回と同類の要因による、東で起きた大地震は、確かに、数ヶ所が、次々とずれることで、結果的に、大規模なものとなった、と言われるが、そちらに、余震の話が、適用できるか否かは、定かではない。にも拘らず、こんな制度が、定められたのは、何故か。確かに、大震災への恐怖は、非常に大きいものだけに、備えが必要だが、それと予知との関連は、結び付かない。長年に渡り、支援を続けたものへの、執着にも似た対応は、何だか、科学研究支援の考え方に、根本的な誤りが、あるように思えてならない。選択と集中の、典型例として見ると、一度犯した過ちを、何度も続けることに、呆れるばかりだ。確実性を増す為に、選択が必要と言われるが、それが、馬鹿げたことに映るのは、まさに、こんな例があるからだ。予知同様、分らぬものを、選ぼうとするのは、愚の骨頂と言うべきか。
地震が起きる度に、その被害の甚大さに、驚かされるが、今回は、全く異なる様相を、呈していた。遠方の地震であるにも関わらず、広範囲に渡って、様々な制限がかかり、交通機関などに、多大な影響を及ぼしたのだ。地震そのものの被害ではなく、一種二次被害のような形で。
この状況に、多くの人々が、首を傾げただろう。一体全体、何の目的で、こんなに大仰な措置が、取られたのかと。その後、明らかとなったのは、巨大地震に対する、臨時情報なるものが、設定されており、今回は、想定域での発生から、発表されたということだ。連続して発生する可能性があり、次には、更に巨大なものが、襲ってくるかも知れないから、避難などの準備をせよ、というものだった。ただ、それを伝える報道を、見聞きした人の多くは、その目的が、曖昧にしか思えず、解せないとの感覚を、抱いたのではないか。例えば、連続して、巨大地震が起き、それによって、津波に襲われる、海岸地域であれば、心の準備も含め、何かしらの行動を、起こす必要が、あるのかも知れないが、今回、影響が及んだ地域は、それに限らず、広範囲に渡っており、その理由が、思い当たらないからだ。元々、この国の地震研究は、予知に、その大半を費やしてきた。その過程で、嫌気がさして、国外に流出した研究者も居たが、拠点大学を始め、多くの研究者が、予知研究に、全力を尽くしたと言われる。だが、結果として、予知は叶わず、海の向こうからは、災害時の対策こそが、優先されるべき、との見解が寄せられ、方針転換を、余儀なくされた。そこで、諦め切れぬ研究者が、苦肉の策として、編み出したのが、今回の措置だろう。この流れで、気になるのは、感染症騒動同様に、専門家と呼ばれる人々が、研究費稼ぎの為に、感染爆発や巨大地震という、恐怖の種を、ばら撒く姿である。どちらも、空振りが続けば、研究そのものへの信頼が失われ、窮地に陥るのに、何故に馬鹿げたことを、と思う。
この所の経済状況は、まるで、誰が原因を作ったのか、という話が持ちきりで、一体全体、何を導きたいのか、と思える。確かに、政策変更があっても、無くても、何かしらの変化を招き、それが継続すると、景気後退という話まで、起きかねないのだが、誰の責任かを知って、何が変わるのか。
経済においては、変化のきっかけが、確かにあったとしても、それが勢いを増すのは、殆どが群集心理による、と言われる。不安や心配が、恐慌へと繋がれば、皆が同じ方に向かって、突っ走ることとなり、勢いがついた相場の動きは、簡単には止められず、まさに、経済恐慌の状況へと、陥っていく。歴史は、確かに、それを表しており、人々は、今度こそ、惑わされまい、と思いながら、結局、同じことを繰り返す。群集心理とは、そういう状況を表し、多くの研究が行われ、防止策も紹介されるが、人の波に飲み込まれると、殆どの人が、冷静さを失い、以前と同じ過ちを、繰り返すのだ。これを、防ぐ手立てはあるのか。重要な疑問だが、各自が、落ち着いて眺め、考えることしか、解決法は無いようだ。特に、本当の恐慌が起きると、仮令、自分自身の資産が、直接的な被害を受けていなくても、結局、世界全体の経済状況が、悪化することで、徐々に、影響が及んでくる。ある意味、諦めるしかなく、流れに任せるしかない。が、そこから脱却する段階に、入った時こそ、好機が訪れた、となる場合が多い。そこで、どんな動きをするかが、肝心ということだろう。と言って、本当にその時が、好機なのか、実際には、誰にも分からず、過ちを犯す場合も多い。まあ、全体として言えば、全てが長期の変化であり、何れにしても、長期的には、成長を続けるという仮定をおけば、細かな動きを考えるより、じっと待ち続けるのが、得策となるだろう。我慢が大事、との考えなのだが、群集心理としては、簡単にはいかない。最善は、忘れることだ、とも言われるのは、心理状況を、見てのことだろう。
乱高下が続く相場に、例の如く、不安や心配の声を、取り上げている。確かに、海の向こうは、好調な経済指標を、維持し続けていたが、陰りが見え始めた。だが、これが、破綻へと繋がるかは、全く別の話だろう。こんなことを書くと、また、根拠のない楽観を示して、何の意味があるのか、と言われるが。
現実には、今回の変化は、政府筋の政策決定を、厳しく批判する勢いを、急速に増した。変化の要因は、誤った政策を、進めようとしたことへの、警鐘が示されたから、という意見がある。だが、長い目で見れば、今回の乱高下も、どんな着地点を、見つけ出すかで、大きく変わってくる。数日の変化が、まるで、金利の決定が、間違っていたから、と結論づけるのは、如何なものか、と思えるのだ。これまでの好調さから、何もせずとも、増え続けるものと、勝手に思い込んだ人々に対し、警鐘を鳴らしたことは、確かに事実だろうが、それは、これまでの経済の歴史を、振り返れば、当然のことに違いない。では、注ぎ込んだ資金は、どうすればいいのか。落ち着きを、取り戻すように、との意見がある一方で、素早い対応こそが、重要との意見もある。慌てて動き回るのは、これまでの日々の取引で、収益を上げてきた人間には、当然の措置とも思えるが、これ程までに、急激な変化では、一つひとつの手が、後手に回ることが、十分に考えられる。塩漬けは御免だ、との意見も、至って真っ当と思うが、本来の塩漬けには、まだ、この先が続く必要がある。急激な下落の後、上昇を見せたものの、安定には程遠い状況で、元の勢いを、取り戻すとは思えない。だったら、暫く、様子を見ることが、第一ではないか。少なくとも、今週一杯は、投機筋の動きに、惑わされぬことが、必要となりそうだ。と言っても、新規の制度で、参入した人々には、殆ど人任せだから、何の手出しもできないだろう。だからこそ、慌てぬことだ。老後までは、まだ時間があるだろうし、そうでなくとも、人生は長いのだから。
先週の政策変更から、末には、強烈な下落に襲われた。それだけでも、投資家にとっては、かなりの衝撃だったが、週明けには、次の大波が、襲ってきた。歴史的な下落であり、既に、命名しようとの動きさえある。これだけで、済むとしたら、命名騒ぎだけで、終息するのだが。
年の初めから、税制の変更もあり、海の向こうの活況も手伝い、イケイケドンドン、とでも言うしかない程の、上昇を続けてきた相場は、何かしらのきっかけを、待っていたかの如く、世界的な下落に襲われている。高値を更新し続け、天井知らずの相場、などという意見まで、飛び出していたが、やはり、異常な変化は、正反対の変化を、招くようだ。これまでにも、こんな現象は、何度も起きており、長年、投資を続けてきた人々は、またかという気分だろうが、年初から、始めたばかりの初心者には、何とも強烈な、精神的圧迫となったのではないか。とは言え、そんなことを、ぶつぶつ呟いたとしても、損失が無くなる筈もない。再出発を期すか、あるいは、これを機会に、もっと確実な資産運用に、転換するかの、決断を迫られている、という気分なのかも知れない。でも、どう出たとしても、一度運用に手を出したら、何処かに注ぎ込むしかなく、箪笥預金に、戻すことはあり得ない。だとしたら、今は、様子見を続けるのも、手の一つだろう。所詮、日銭を稼ぐ為のものではなく、長期に渡る運用の中で、老後の資金を、捻出していく、という計画だったのだから。一方で、こういうことが起きると、必ずと言っていい程、誰の責任かを、問う声が出てくる。そんなことをしても、損失が、戻ってくる訳もなく、何の解決にもならない。にも拘らず、こういう輩は、必ず登場する。警告を発していたとか、予想通りの展開とか、結果が出てから、言い出すことは、誰にでもできる。一方で、こんな予想が、当たるか否かは、実際には、どうでもいいことだ。堅実な成長が、経済の拠り所なのだから。
教育現場の疲弊ぶりが、連日のように伝えられる。時間外労働は、当然のことであり、それに加えて、本来の教員業務とは、無関係なものが、山積しており、劣悪な労働環境、と言われている。これでは、成り手が居ないのも、止む無しか。最近の不安・心配傾向の、典型に思えるが。
その一方で、教育の質の低下も、盛んに叫ばれる。教育の多様化が叫ばれ、本来の授業科目とは、異なるものが、次々に導入される中、資質不十分な教員が、不慣れな授業を行い、折角の多様化も、水の泡となると言われる。そこで、期待されるのが、専門家の参入と言われる。この制度自体は、かなり以前に導入されたが、運用の難しさから、毎年の採用人数は、低迷していた。そこで、監督官庁が、必要性を強調し、支援に乗り出したが、依然として、横這いのようだ。確かに、専門家からの教育は、重要なのかもしれないが、初等教育では、それより、全般的な配慮に基づく、普遍的な教育が、求められる中、この状況は仕方ないように思える。更に、教員養成課程を経て、資格を得た人々が、不祥事を起こす中、専門家だからと、児童・生徒の前に、出てくることに、不安は拭えない。昔は、でもしかと呼ばれた、教育職も、今や専門職の一つで、採用試験を見れば、かなりの難関に思える。資格も、試験も、一定の水準を、保つ為の方策だが、特別な例外措置を、どう考えるべきか。確かに、全てが不祥事を起こす訳でも、全てが教えられない訳でも、無いのだが、今の世相からは、こういうやり方が、妥当とは思われにくい。やはり、十分な資質をもつ、優秀な人材を、養成することが、最善策であり、そこから、新たな役割の必要性が、出てきた時にも、対応可能な人間を、選び出すことこそが、王道というものだろう。付け焼き刃を、繰り返した挙句に、荒廃を招くことは、避けねばならぬ一つだ。本来の教育とは、無関係なものへの関心を、重視するやり方は、人気を博しても、長続きはしない。