この所、読んだ本についての、感想を記していなかった。二ヶ月程前に、読んだのは、翻訳に関するものだが、ここでも、何度も取り上げた、生成人工知能との関わりで、生業自体が、成り立たなくなった、とまで言われる業界だ。その危機感も、含まれた内容だが、煮え切らなかった。
始まりは、80年程前の、丁度この頃、連合国側から、全面降伏を突き付けられた、国の政府の中枢が、誤訳としか思えぬ、勝手な解釈から、受け入れを拒絶し、歴史に残る、新型爆弾の惨禍を、招いたという話だった。だが、その相談とて、異言語間での話し合いに、基づくものであり、著者は、その両方に長けた人物なのに、その点の言及が無く、こういう話し合いが、どんな経緯を辿るのか、といった、通訳者の役割を、論じる機会を、逸していたことが、残念としか思えなかった。更に、その後に続く話は、確かに、著者自身には、重要だったろうが、文化圏の異なる場所では、事情も定かではなく、多分、彼らの国でも、そんな昔のことは、理解不能と思えて、意図を測りかねた。で、機械翻訳は、如何なものか。そちらに関しても、何が問題で、業界では、どう扱われているかなど、全く見えてこないのは、どうしたものか。残念でしかなく、最近の書物の典型、という読後感だけが、残っていた。文化の違いが、言語の違いとなり、その間の調整役として、通訳の存在が、重要視されるのは、今に始まった事ではない。だが、その辺りの事情を、事細かに解説した、一般向けの書物は、殆ど見当たらず、国内でも、人気を誇った通訳者が、著したものが、人気を博していたが、所詮、業界の事情と、関わった人々の、面白おかしい話だけで、通訳の妙なるものが、紹介されてはおらず、がっかりした覚えがある。まさに、そんな話を、聴きたいと思い、そういう機会を、与えてみたら、件の通訳者は、どんな話をするか、と期待したものだが、あっという間に、この世を去った。で、この本も、当てが外れた訳だ。
今朝の経済新聞、一面トップの記事に、やはりと思った人が、多いと思う。但し、記事の内容には、処理水放出後も、押し寄せてくる、あの国の漁船の数が、減少しておらず、こちらから輸出するものとは、別の扱いになっている、とあるものの、水揚げの状況は、書かれていない。
元々、隣の大国は、舌の枚数が、幾つあるのか、想像がつかないが、今回も、記事から批判すれば、屁理屈を捏ねるに違いない。曰く、こちらの水揚げは、他の漁場からで、処理水とは無関係だが、そちらからのものは、危険な水域からのもので、禁輸は当然の措置だ、という具合に。まあ、記事に、駄目押しがないのは、近年の傾向で、一つのデータは、保証してあるのに、別の肝心なものには、触れようともしない。報道が、十分な調査に基づかず、論破に至らぬのは、今に始まった事ではないが、それにしても、と思うこと頻りだ。一方で、欲に目が眩んだ連中は、国の政府が、どんな手段で、禁じたとしても、平気で嘘を吐き、証拠がない、と言い張るだろう。政府も、所詮、科学的根拠も無しに、他国の政策を、批判することに慣れ、言いたい放題を繰り返すだけで、証拠を上げようとは思わぬ。こちらの政府の主張や、世界機関の見解によれば、検査したとて、何も検出できず、恥を晒すだけだからだ。それに対して、件の新聞は、鬼の首を取ったかの如く、不正を暴いたかのように、書き立てている。だが、所詮、子供の喧嘩のように、根も葉もないことを、言い散らかすだけだ。大人の対応としては、不十分な証拠で、喧嘩に付き合うより、ぐうの音も出ない程の、証拠を並べて、後は知らぬふりを、続けるのが、得策だろう。この手の話は、最近頓に目立つが、科学で押し切る姿勢は、互いに、見せようともしない。逆に言えば、科学の論法は、絶対的ではなく、幾ら証拠を並べても、0とも1とも言い切れず、中途半端に終わるからだ。とは言え、この件については、隣の主張は、馬鹿げている。
変化と共に、世代交代を求める声が、高まっているという。昨日書いたように、先を見通さぬままに、変化だけを求めても、ろくなことにならない、という訳だが、では、若返りはどうか。こちらも、見通しは暗い。適任が居らぬ、という訳でもないだろうが、さて、どうしたものか。
老害と、批判されるのは、当然と思うが、世代交代の目的は、何だろうか。顔を挿げ替えれば、印象が変わり、何かしらの変化が、訪れるとの期待からか。だとしたら、変化ばかりを求めるのと、何ら変わらぬ、愚かなことに思える。特に、上からの圧力が強く、それに耐えることばかりを、強いられてきた世代と違い、今は、自由に振る舞え、勝手なことも、許される時代だ。その中で、育ってきた人々が、どんなことが、出来ると言うのか。こんなことを書くと、やらせてみなければ、判らないとの返答が、戻ってきそうだ。確かに、人間は、地位が作るものであり、時に、無謀と思える任用が、新展開を起こすと言われる。だが、上のやることに、目を向けようとせず、ただ、身勝手な主張ばかりを、繰り返してきた人に、何が出来ると言うのか。これこそが、老害の極み、と言われそうだが、正直、そんなことしか、思い浮かばない。この国の宰相が、身を引くと宣言し、その政党は、頭を決めることに、騒がしくなっている。その中で、長老達の判断が、全てを押し切るのか、はたまた、若い世代が、爆発力を発揮するのか、予想は様々だ。だが、首都の首長を、決める選挙で、意外な得票数を、獲得した候補を、例に引いて論じるのは、まさに、迷走へと突き進む、変化待望論の典型であり、何の戦略も、ないままとなる。かと言って、何度も、駄目出しを食らった、常連を担ぐのは、どうかとも思える。とは言え、ぶっ壊すとの掛け声で、人気を浚った元宰相の例も、あるにはあるのだ。何方もどっち、とは言え、さてどう転ぶのか。老獪からは、鍛えた上で、と宣うのが、精々と思えるが。
世界各地で、変化を求める声が、高まっているという。多様性を、尊重する考えから、移民受け入れに、寛容だった国々が、物価高騰と相俟って、労働状況が、悪化するに従い、排除へと切り替え、保守的な姿勢へと、転換している。ただ、それが、極端な動きとなり、安定性が失われつつある。
確かに、閉塞感が高まり、不安や心配が、募り始めると、現状打破の動きが、不可欠に思えてくる。だが、そこで、極端に走れば、別の多くの問題が、噴出し始め、結果として、変化は、別の悪化を招くこととなる。現状維持が、唯一の選択ではないが、それにしても、変わりさえすればいい、という考え方には、大きな危険性が、含まれている。特に、先進各国では、感染症騒動と、軍事侵攻から、今までの状況は、必ずしも正しくなく、変更を余儀なくされている、との風潮が高まる。そこに、移民問題が絡んでくるのは、全く別の要因だが、植民地政策から、継続してきたものに、新たな流入が加わり、混乱は、著しく高まっている。では、こちらの様子はどうか。前にも書いたが、官僚政治が、中心となる制度では、変化が起きたとしても、殆ど何も変わらない、となってしまう。以前の政権交代は、公約として示されたことが、全く実現できず、支持者の落胆へと繋がった。天変地異も加わり、全体として、混乱へと結びついた、流れの元凶は、不慣れな政治家による、とされたが、現実には、官僚政治の限界が、表面化したに過ぎない。さて、若い世代から、変化を望む声が、高まっており、先日の首都の首長選挙が、その表れ、と見做す意見もあったが、どうだろうか。方向も定めず、ただ、変わればいい、という考えに基づく動きは、迷走を続けるだけで、何の成果も、得られないと思う。若者が望むから、という強い意見も、種々雑多な目標が、林立するだけでは、混乱するだけで、成果を得るには、至らないように思える。何をどう変えるのか、考えを纏めるのに、時間を使うべきだろう。
出来ないから、努力をする。これを、当たり前と思うか、それとも。今の時代、何方だろうか。ある年齢以上の人は、当然のこと、と思うと同時に、その努力を、殊更評価しようとは、しないだろう。当たり前だからこそ、誰もがやるべきことで、自分の努力が、特別ではない、と。
だが、何時の頃からか、情勢が変わりつつある。出来ないことを、無理に、やる必要は無い、と言われ、その上、出来ないことを、無理矢理、努力で何とかすることは、無駄な努力でしかない、と言われるようになりつつある。そこに加えられたのは、出来ないのは、先天的な障害であり、それを、回復する手立ては無い、という専門家達の意見だ。文字が読めない、話が聞けない、二つのことを同時にできない、等々、挙げれば、きりのない話となる。確かに、発達障害と呼ばれるが如く、本来なら、発達の過程で、習得できる筈の機能に、欠陥があるとされる。出来ないことを、無理強いするのは、精神的な圧迫に過ぎず、その機能を、放棄することで、他の機能を伸ばせば、という考えに基づく、と言われている。だが、多くの大人達には、はて、と思うことがある。自分の成長過程で、確かに、壁にぶつかったことが、度々あったが、その度に、何らかの形で、解決策を講じ、他人と同じかは、はっきりとしないものの、それなりの形で、能力を獲得したことがあった。その段階で、努力と呼べるものを、したかどうかは、はっきりとせず、それより、いつの間にか、何かしらの形で、他人と同じようなことが、出来るようになっていた、ということだ。今、障害と判定された子供らは、確かに、精神的な圧迫を、感じずに済み、安心できている、のかも知れない、が、その一方で、本来、身に付く筈の機能を、獲得する機会が、奪われることで、一生続く不利を、背負い込まされている。この状況は、果たして、正しい判断と言えるか。ある日突然、欠けていた機能を、獲得できた人にしか、分からぬ話だろう。
評価を、と書いても、多くの人は、それが望めぬ世相に、諦めるしかない、と思うだろう。だが、そんな話は、ずっと以前から、続いていたのではないか。世間の目を、気にするしかないのは、狭い国土に、大勢の人が住み、多様性より、単一化を、望む国民性から、当然と言われた。
その中で、発展を続けてきたのは、何故かという点に、今更ながら、注目すべきではないか。他人の評価は、今も昔も、厳しいままだが、それに対する、自身の反応が、大きく違っている、とも思える。何度も、酷評してきたが、褒めて育てる、などという馬鹿げた子育てが、推奨され始めてから、評価の厳しさに、批判が集まるようになった。そうなると、緩い評価が尊ばれ、出来なくとも、構わぬとの姿勢が、人を育てる為の、唯一無二の手法と、持て囃される。育てる側が、誤解しただけで、事が済めば、大禍はなかったろうが、現状を眺めるに、そうは行かずに、悪い方へと進んだようだ。特に、緩い評価に慣れ、過ちを犯しても、叱られないのを、当然と考えるようになると、どうにもならない、状況が産み出されることと、なったのではないか。そこに、仕事がきつい、業務外の役割が多い、親が煩いなどと、次々に、問題点を指摘し、忌み嫌われる職業の、一つとなったのは、ある意味、当然の帰結かも知れぬ。これでは、魅力に感じられず、仮令叱られても、その後に、達成感が得られることで、意味を理解できる、ということも、起きないとなれば、教師への憧れは、抱ける筈も無い。負の連鎖が、ゆとりの時代から、続いた結果が、今の状況とすれば、打開には、かなり思い切った舵取りが、必要となる。と言っても、実は、大したことではない。ただ単に、厳しい評価を、復活させ、その上で、達成感を、得られるような、環境を整えればいい。身近な事柄に、こんなやり方を、意識しさえすれば、様相は一変する。ただ、その間、周囲からの、的外れな批判を、無視することは、必要だ。
先週、教育現場の荒廃が、深刻という話を書いた。そこで、問題としたのは、実は、荒廃ぶりを、報道が盛んに取り上げ、それがきっかけで、成り手が減っている、という話でもあった。情報に、振り回される時代にあって、こんなことが、日常茶飯事となり、現場の混乱が強まるのだ。
誰だって、楽に暮らしたいだろう。だから、簡単に稼げる仕事があれば、そこに、多くの人々が、群がることとなる。だが、ある程度、物事を理解できる人には、そんな容易いものは無い、という結論が、歴然としている。どんな仕事でも、苦楽は、共にあるし、収入の多寡は、単純に割り切れない。やってみることが、何より大切であり、その中で、努力することが、肝心となる。人生の教えとして、長く引き継がれたものだが、最近、失われつつあるようだ。以前から、触れてきたように、長く続いた平和な時代は、何事にも、傾向と対策があり、それを徹底すれば、誰もが、成功を手に入れられる、とされている。だが、傾向は兎も角、対策に関しては、即席に、簡単に、という点のみが、強調されており、長い目で見た、努力の重要性が、蔑ろにされている。地道な努力、などという言葉も、盛んに口にする人が居ても、いざ、それを続けるとなると、如何に、簡単で、楽な方法があるのか、という点に、興味が集中する。その意味で、現代社会では、教育という、継承されるべきものが、軽んじられており、継ぐべき人々が、関わらなくなって、久しいと言われる。例えば、努力にしても、同じことを、ただ漫然と繰り返し、慣れることこそ、重要な対策、と思い込む人が多く、話を聞いていると、呆れるしかなくなる。さて、では、次の人材を、育てる為には、何が必要だろうか。第一に、職業の評価を、正しく行い、尊重することが、必要だろう。きついとか、厳しいとか、そんなことばかりに、目を向けるのではなく、重要な役割として、社会的な評価を、高めることが、重要となる。そういう目で、見て欲しいものだ。