パンチの独り言

(2024年8月19日〜8月25日)
(伝統文化、機密情報、混同させる、権利拡大、頼らずに、周期性、近視眼)



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8月25日(日)−近視眼

 歴史は繰り返す、ということから、周期を考えてみた。30年は、長いだろうか、短いだろうか。何れにしても、そこには、家族としての営みがあり、その点では、この国限定の法則、かも知れないが、ある意味、先進国には、概ね適用できるのではないか、と考えている。
 但し、家族として考えると、30年という周期は、それを、三つの群に分けることが、できるのではないか。つまり、周期は、十年毎に、変わってくる、という訳だ。その根拠として、家族の中での、親子の関係から、同調も反発も含めて、互いの関与がある、と考えられるからだ。そう思って、これまでの百年程を、見返してみると、幾つか気付く点がある、と思えてくる。戦争との関わりは、確かに、非常に強いものだったが、長く続いた平和な時代とて、当てはまる点が、多く見つかるのではないか。高度成長と呼ばれた、時期に関しても、大体、30年程続いた後で、泡が弾けた、と言われた。一方で、その後に続いた、低迷期についても、凡そ30年だったことが、分かっている。その間に、細々としたことが起き、それに対して、三つの群は、それぞれに、異なる関わり方を、しているように見える。その関わり方によって、被害妄想的になる人も、享楽を貪る人も、それぞれに、人生を経験してきた訳だ。で、それに対して、社会全体として、どんな動きがあるかは、報道を眺めれば、分かる部分が、大きいように思う。心配や不安を、煽る為に、多用されるのは、その場の問題を、提起することであり、そう思って眺めると、その典型が、報道姿勢に現れている。少子高齢化が、今の問題とすれば、それを、声高に訴え、その一方で、高齢者の介護の問題を、取り扱うのも、極端なものとなる。だが、団塊の世代が、徐々に、鬼籍に入るのを、見ていると、今、問題視されている、施設の不足は、あっという間に、過剰な状況となる。長い目で見て、考えるべきことを、蔑ろにすれば、そうなることは明白だが。

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8月24日(土)−周期性

 経済活動では、過去にも起きた、と指摘されることが、屡々起こる。同一でなくとも、よく似た事象が、繰り返されるのだ。だから、経験則が活かされ、転ばぬ先の杖、などと言われるような、準備が行われ、被害を縮小させる、と言われる。ただ、外れることも多く、煮え湯を飲まされる。
 単なる反復だけでなく、周期性の指摘も、よくなされる。こちらも、時間経過と共に、図表を描くことで、何かしらの法則を、見出そうとする。当然、微妙なずれが生じ、懐疑心から、鵜呑みにされぬことも多い。ただ、周期性に関しては、別の要因を、指摘する声もある。以前、書いたかも知れぬが、30年という周期の存在が、指摘されることがある。特に、この国では、親子の関係が、凡そ30年の開きがあり、家族の関わりが、そこに影響を及ぼす、との指摘もある。先日、最高値を、更新したとして、大々的に報道されたが、前の高値は、凡そ30年前のものだ。更にその前となれば、高度成長期の真っ只中、戦前世代が、遮二無二働き、追い付け追い越せ、とばかりに、寝る間を惜しんで、努力した時代だ。その中で、戦後生まれた、所謂、団塊の世代は、貧乏籤を引かされた、とばかりに、日々不満を漏らし、社会制度の打破を、目指し続けた。彼等の子の世代は、再び、人口増へと向かい、同様に、歪みが表面化し、果ては、氷河期などと呼ばれた。その一方で、自己責任なる言葉が、登場したのは、彼等に向けて、だったと指摘し、その世代が、不満を爆発させた結果が、先日の首都の首長選挙で、予想外の善戦をした、候補の支持となった、との解釈がある。ただ、その中で、高齢者に対して、自己責任として、世代の中で、解決すべきとの意見が、強まっている、と指摘していたが、御門違いも、甚だしいと思う。その親の世代は、不平不満を、爆発させつつも、泡が弾ける前の、異常な高揚を、経験していた。無責任の権化として、享受した挙句、その後の低迷の中心に居たのだ。この輪廻を、どう思うか。

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8月23日(金)−頼らずに

 で、難民の話はさておき、としたら、炎上してしまうか。確かに、真の意味での、定義通りの難民については、何かしらの対策が、必要となるだろうが、現状では、簡単には、受け容れ難いものがある。虚偽や捏造、果ては、定義外のものが、山のように積み上がっているからだ。
 一方、軍事政権が、主権を取り戻した国では、ある民族全体に、迫害の危機が迫り、隣国への脱出が、続いていると言う。こちらに関しては、一般的な難民受け入れとは、全く異なる方策が、必要となるだろう。政府転覆も含め、国の形そのものに、問題ありとされるからだ。まあ、そんなこんなで、さておき、としたいのである。一方で、移民の問題は、全く別の事柄となる。特に、安い労働力を、経済活動での、不可欠な要素とすれば、移民受け入れは、当然のことだが、それが、その他大勢の人々の、雇用を奪うとなると、また話は別となる。この辺りに、問題の本質があるが、更に、治安維持の問題も、大きくなりつつある。この国でも、様々な形で、外国人労働者を、受け入れてきたが、期限を決めても、不法滞在を決め込み、その上、失職するに至ると、犯罪に走る事件が、度々起きている。経済優先が、叫ばれるのは、分からなくもないが、実際には、一部の人々の搾取だけ、となる状況であり、異常とも思える。人口減が、深刻になるから、外からの労働力が、不可欠との論理も、解せない部分が、非常に大きい。楽をしたい、という気持ちも、分からなくもないが、これもまた、根本から、考えるべき問題と思う。地産地消とか、自給率とか、自分達で、という指標を、盛んに、引き合いに出す人も、こういう話になると、全く別の考えに、取り憑かれている。何故、論理的に、考えようとしないのか。合理的とは、どういう姿なのか。真剣に考えずとも、答えは、明白なのではないか。一人ひとりが、すべきことを、やっていきさえすれば、住み易い国は、簡単に、できそうなのだが。

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8月22日(木)−権利拡大

 今暫く、付き合って欲しい。移民、難民の話だ。通過するだけで、厳しい制限を、と書いたのだが、陸路の移動で、確かに、その国を通過するのであれば、何かしらの手続きが必要となる。難民ならば、例外措置もあり得るが、単なる移動であれば、尚のことだ。それを、とやかく言うのは。
 海の向こうでは、以前から、不法移民が取り沙汰され、選挙の度に、銃規制や中絶と共に、論点となってきた。壁を築くにしても、容易なことではなく、更に、海からの侵入は、防ぎようがない。ただ、あの国では、合法的だとしても、彼らを、alienと呼び、人気映画放映後は、気味悪い存在として、呼称自体を、嫌う人も出た。話を戻そう。移民か難民かの区別は、昨日のサイトにあるように、確かな定義があるものの、その適用範囲と解釈は、余りに多種多様であり、国によって、異なる扱いとなるのは、止むを得ない。その中で、国の政策として、彼らをどう扱うかは、経済的にも、治安としても、重要なものとなり、今では、多くの国々が、最優先事項として、掲げているようだ。だが、人の移動は、古今東西、長きに渡って、続いてきており、海の向こうに至っては、原住民を、隅に追いやった挙句、移民大国として、名を馳せている。その上、繁栄の要因として、今だに、移民を挙げる人も多く、その中で、前大統領の主張は、如何なものか、と見る向きが多いのも、当然のことだ。ただ、難民認定に関しては、定義があるものの、首を傾げる部分も多い。最近も、難民を冷遇するとして、批判する人が多い、この国では、多くの事例が紹介され、惨状の如く、伝えられている。ただ、中には、どうかと思うものも、多々ある訳で、人権を持ち出して、同列に扱うのは、どうだろうか。性的志向の問題から、母国には、居られないから、という理由での、難民申請には、どうかと思ってしまう。人権が、適用範囲を、急速に拡大する中、今の多くの国々の動きが、始まったとすれば、要注意なのだ。

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8月21日(水)−混同させる

 翻訳に際して、ではなくとも、言葉の意味や定義に、戸惑うことは多い。最近も、世界情勢が不安定となり、その中で、外国からの人々を、受け入れるか否かを、論点とする話が、多くの国々で、聞かれるようになった。本を正せば、という話はさておき、この議論の中に、不思議がある。
 移民と難民、この違いに、目が向いたのでは、と思うのだ。移民は、immigrantであり、難民は、refugeeであるが、さて、その定義は何か。あるサイトによれば、定義が書かれており、これは、世界共通のものとなる。しかし、問題となる国々では、そこに移ってきた人々を、難民と呼びつつ、収入の一部、と言っても、場合によっては大部分だが、を、祖国に残してきた、家族に送金する、という話が紹介される。でも、難民とは、その国で迫害を受けるおそれが、とあり、家族とて、と思ってしまう。だとしたら、送金という状況は、どう解釈すべきか。かつて、寒冷地では、農閑期に、出稼ぎに出ることが、通例とされたことから、その一種と思えるが、だったら、移民と呼ぶべきでは、と思うからだ。この不思議には、耳を貸すことなく、番組は、その惨状を伝え続ける。国を移る為に、仲介者に、かなりの額を、支払ったとの話や、通り抜けるだけの国で、厳しい制限を課され、その挙句に、強制送還された、という話など、数々の悲劇が、伝えられている。だが、「難民」に限って言えば、この話は、矛盾に満ちている、としか思えない。なのに、何故、こういう伝え方をするのか。この国の報道の多くは、悲劇を好む習性があり、悲惨な話へと、脚色することで、番組の価値を、上げようとするらしい。そこで、誤解に基づく、脚色を施したり、場合によっては、作為的に、嘘を作り上げることさえ、厭わないようなのだ。となれば、受け取る側も、注意が必要となる。詐欺に騙されぬよう、と伝える一方で、自分達は、平気で、嘘を並べている。今の状況は、こんな感じではないか。

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8月20日(火)−機密情報

 再び、読んだ本の話題に戻ろう。先月の初めに、読み終えた本は、この国の情報機密保持に、関するお話だった。政治色が強く、また、暗殺された元宰相への、忠誠を誓うような、素振りに対しても、好感は抱けなかったが、この国が抱える問題を、正面から捉えた書物として、評価が高い。
 但し、論壇に巣食う論客達からは、正反対の批判が、届いているらしい。個人情報の件で、かなり揉めたこともあり、以前から、国民総背番号制に対して、意味不明な批判を、繰り返してきた勢力は、ここでも、非論理的な批判を、繰り返している。機密情報とは、何たるものかを、正しく説明できる人は、少ないと言われる。それ程に、国家の話と、隣近所の話を、同等に扱うのは、戦争へと突き進んだ、軍部のやり方に、同調しないからだが、さて、当時と、どんな点が異なり、どんな共通点があるのか、論じるつもりは、毛頭無いらしい。その中で、政府は、隣の大国をはじめとした、新興勢力が、経済成長の結果として、強い国力、ひいては軍事力を、得たことへの警戒もあり、情報機密に関して、強い制限を設けてきた。海の向こうでは、当然となっているものだが、そちらを眺めた経験のある識者からは、これまでも、散々、批判を受けてきた、笊の如き、制度に対して、厳格化を進めた訳だ。それが、知る権利を侵害とか、情報統制への一歩とか、そんな常套句で、批判を繰り返すが、その実、守るべきものを、識別する能力も無く、ただ、垂れ流しを繰り返し、権力批判に溺れるだけでは、何ともならない。隣の大国は、見せしめとも思える、外国人への圧力を、高めているが、これも、国内の情報統制を、厳しく保つ為の方策、でしかなく、経済成長という、最大の報酬が、失われつつある中、厳しさを増すばかりだ。ただ、国の体制から言えば、当然のやり方で、自由社会とは、全く異なるものだ。で、こちらは、どうだろうか。自由だからこその制限は、当然という見方が、本には貫かれていた。

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8月19日(月)−伝統文化

 40年程前だろうか、欧州のある国で、こちらの漫画番組が、放映されていた。一方で、その隣国では、伝統文化を傷つけるとして、法律で、放映も、書籍の販売も、禁止されていた、と聞く。前者では、国の伝統を守り、着飾る文化を、自分らで守っていたが、後者は、何故だったのか。
 今は昔、件の国では、漫画喫茶なるものまで、登場したとのこと、禁じても、興味が湧くものを、防ぐことができぬ、ということか。但し、伝統文化を、重んじる国らしく、これもまた、面白さだけでなく、また、子供らの娯楽だけでなく、いい大人達が、熱心に、読み耽る姿が、三日間の取材を基に、放映される番組で、映し出されていた。曰く、主人公の成長過程が、落ち込んだ自分を、奮い立たせてくれるとか、確固たる考えを持つことの、重要性を、再認識させてくれるとか、そんな具合だ。要するに、遠い東の端の、小国からもたらされた、誰もが理解できる、漫画という文化が、子供騙しに過ぎぬものから、大人が楽しめるものへと、変貌したということだ。外国からの旅行者が、電車中で、いい大人が、漫画誌を読み耽る姿に、呆れたと言われたのも、遥か昔のことだろう。読まず嫌いのままで、法律でまで、禁じたのも、先入観から来る、誤解だったとされ、今では、子供から老人まで、多くの人が、店を訪れている。その上、受ける影響の大きさは、成長過程にある、子供達同様に、大人でさえも、かなりのものらしい。上位に入った作品は、その多くが、こちらでも、人気を誇るものだが、総じて、主人公の成長を、綴ったものであり、そこに、共通点があるように、思われた。それにしても、戦前から続く、この国の漫画文化は、今や、世界を席巻しており、多くの人々が、ただ購読するだけでなく、主人公になりきるなど、オタクと呼ばれた文化までもが、広がりつつあるという。まあ、千年近く前に、綴られた物語も、多くの国で、読まれているから、全体として、誇るべき文化なのかも。

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