現代の風潮は、弱者保護が、基本となっている。恵まれぬ人々に、手を差し伸べる、というのが、先進国の統一見解で、移民や難民だけでなく、自国民に対しても、貧富の格差があれば、少しでも、差を縮めようとしている。だが、徐々に、考え方は変化し、厳しい時代へと、入り始めた。
確かに、援助の手を、差し伸べる姿勢は、明確になってきたが、その中で、貧富の差は、縮まるどころか、広がっている。移民や難民に、手を貸すのは、安い労働力を、手に入れる為であり、それは、富裕層の収入を、更に増やすことへと、繋がると言われる。一方で、庶民にとっても、生活の厳しさは、相変わらずの状況で、感染症騒動では、収入の糧を、断たれる一方で、様々な支援が行われ、一息ついていた。ただ、この図式が、ある現象を、助長したように、思えている。弱者保護の名の下に、支援制度が、更に強化され、整っていくのだ。ただ、それは、意識の格差を、広げることへと、繋がる面もあり、今の混乱は、まさに、その最中にある、と言えそうだ。社会的な問題として、どう解決するかは、喫緊の課題となりつつあり、論者達は、盛んに持論を展開するが、道程は、遠いものと言わざるを得ない。さて、話変わって、無料に関する話題だ。ここでも、様々な仕組みが、無料で提供され、庶民は享受している。社会媒体は、その典型だろうが、最近、様相が変わりつつあり、提供される情報の多くが、広告となっている。資本主義では、当然のことだが、運営者に、何らかの収入の確保が、必要となるからだ。ただ、彼等の運営姿勢は、当初言われたものから、かなりの変化を来し、岐路に立たされている。使用者側も、同様の状況で、押し付けられるものを、どう避けるかが、肝心となる。提供者側は、嫌なら使用料を、という姿勢のようで、成る程と思う。このサイトが、保管される場も、無料なのだが、今回の更新では、利用者の関与が、促された。当然なのだが、さて、皆ができたのか、知る由も無い。
証券サイトは、表紙の「ここ」に書いたように、1998年の初めに、以前、証券会社にお勤めだった、1000株さんが、始められたものです。その後、暫くした時から、パンチが参加するようになり、当時の参加者達で、集まるオフ会も、数回行われました。当時は、市場の様子も、低調でした。
つい先日、株価の平均が、史上最高値を、更新した時も、凡そ40年ぶり、と言われていましたが、このサイトが、開設されたのは、確かに、市場が低迷しており、国全体としても、泡が弾けた後の、下降期にあったのだと思います。投資家としてではなく、単なる興味本位で、サイトを覗いたのが、きっかけでしたが、1000株さんが、新しい仕事などで、多忙となり、閉鎖を考えている、という時期に、引き継ぐことになりました。と言っても、こういう場所は、自分で、全てを用意するのではなく、既設の無料提供サーバーに、設置する場合が、殆どでしたから、時代の流れと共に、あそこから別の場所へ、更に、別の所へと、引っ越しを繰り返しました。今、設置する場所も、今回、サーバーを、交換するとのことで、昨夜から今朝にかけて、登録されたサイト全てが、新たなものに、移されたとのことです。予定より、早く作業が済んだらしく、先程、連絡が入ったので、慌てて、書き始めた訳ですが、予定したものが無く、こんな形での、思い出話となりました。と言っても、参加当時の人々は、鬼籍に入った人あり、行方不明になった人あり、等々で、誰も、この独り言を、読みに来てはいません。サイトとして、四半世紀以上が経過し、引き継いでから始めた、独り言も、20年以上が経ちました。相場の状況も、大きく変わり、税制の変更などから、証券社員の皆さんの、働きぶりにも、大きな変化があったのだと思います。新しい場所ではありませんが、新しい保管場所で、今後、どんな流れが起きるのか。楽しみでもあり、そうでもないかな、と思う次第です。では、続きは、後ほど。
以前、何度か取り上げたが、とんでも、という括りがある。科学の名を騙る、非科学的な話だが、そこで用いられるのは、科学的な論理手法で、一見、正しいように見えるが、その実、とんでもない程に、馬鹿げた論法というものだ。今、それに近いものが、巷に溢れている、という。
近い、と言っても、科学とは無縁なもので、正反対な存在らしい。世の中に出回る、科学的な言説が、的を外すばかりで、信用ならぬ、という考えから、科学全体を、無駄なもの、無意味なもの、と断じる動きのようだ。その標的となるのは、例えば、感染症であり、地震予知であり、災害対応であり、病気の問題である。他にも、数多あり、数えればきりがなく、兎に角、気に入らぬものは、全て否定する、という姿勢で、その為には、科学的論理ではなく、直感や霊感といった、人間が、生まれながらにして、身につけている感覚に基づき、何かしらの知識を、身に付けることで、手に入れた論法とは、似て非なるものとなる。何事も、論理で築き上げるのではなく、一切を、断定的に決め付け、それを信じることで、安全や安心を、手に入れよう、とするものらしい。だったら、独り言で、度々取り上げる内容と、似たものではないか、と思う人が居るかも知れぬ。だが、そこには、大きな違いがある。確かに、上に挙げたことの多くを、徹底的に、批判する姿勢を、貫いていることは、事実だろう。だが、そこには、科学的な根拠があり、上にあるものを、主張する人々が、根拠として上げる、科学的なものが、信頼に値せず、疑いを持って、考え直す必要を、解いている。可能性、という意味では、どちらも当てはまり、互いの主張では、何方に重きを置くかが、重要となる。対して、非科学的な断定は、そんなものには、目もくれず、ただ闇雲に否定し、自分なりの安定を、手に入れようとするものだ。一種の宗教と見れば、分かりやすいが、信じる者は、救われるのかは、確かとは言えない。
合成樹脂は、科学技術の進歩と共に、その適用範囲が拡大され、日常生活の中に、深く浸透してきた。成型の容易さと、耐久性の高さから、評価が高いだけでなく、あらゆる分野に、使用されることとなり、不可欠な製品となった。だが、それが、突如として、悪魔の如き、悪者となった。
難分解性、という言葉が、盛んに使われ、その典型として、合成樹脂が、槍玉に挙がったが、更に拍車をかけたのは、水棲生物の多くに、それらの残骸が、悪影響を及ぼすと、報じられてからだ。廃棄物として、焼却炉で処分されると、有毒ガスを生じる、とされたこともあり、そのまま、埋立地などに、捨てられていたが、分解はされずとも、紫外線などにより、形を保てなくなり、細かな残骸として、水と共に、海洋に流れていく。その結果、大きな袋状のものは、生物の体内に取り込まれ、悪影響を及ぼすことが、盛んに報じられたが、その後、更に細かなものが、問題視されるようになった。となれば、突如として、調査の対象となり、研究対象となる。ここからは、走り出した車を、止める手立てがないが如く、凄まじい勢いで、報告が頻出し始める。遂には、製造過程から、環境に放出される、とまで報じられ、極みへと至っている。だが、この話、何処かで聞いたことが、あるように思う。同じ、合成樹脂の製造過程で、硬化剤として、使われる化学物質が、生物に悪影響を及ぼすとして、報告があったことを、覚えているだろうか。環境ホルモン、などと称せられ、性転換への影響など、盛んに、報じられた、と言っても、その後の顛末は有耶無耶で、結論は、定かではない。同じ穴の狢、なのでは、と思う所があるが、さて、どうなるのか。騒ぎを大きくしようと、声高に訴えるのも、同じ手法であり、影響についても、次々に報じられるが、どうだろう。科学が、道を外れることは、これまでにも、度々起こった。同じ轍を踏むのか、或いは、別の展開があるのか。悪用と思える論法は、避けねばならぬ。
以前から、何度も取り上げてきたが、目に余るものが、あると思う。天変地異に関して、この国では、ある庁が所管するが、彼等が、その度毎に繰り返す、一種のパフォーマンスに、呆れるばかりなのだ。確かに、地震や台風による災害は、起きれば、甚大な被害を及ぼす。だとしても。
警鐘を鳴らすことで、国民の安全を、確保するという主張が、度々聞かれるが、言葉の表現、言い回しを、多少変化させたとしても、動かぬ人は、動き出さないし、動く人は、慌てて走り回る。そんな言葉遊びに、大衆が振り回されるのは、何とも言えない、嫌な気持ちしか、起きないものだ。脅しに近い表現が、繰り返される度に、まるで、詐欺のようだ、と思う人も多いだろう。その上、報道は、それを鵜呑みにして、垂れ流すばかりで、こちらも、詐欺の片棒を、担いでいるとしか思えぬ。小さなことを、大ごとのように扱う姿勢は、終始一貫しており、何も起こらなかったら、良かったとまで、言いだす始末。どうしたものかと思う。呼び名の表記を、起鐘庁とでも、改めたらどうか、とさえ思うのだ。警鐘を鳴らすことに、躍起になる余り、問題の本質を、捻じ曲げた挙句に、過大評価を繰り返し、狼少年の如き、民衆を惑わす存在、となりつつある。確かに、天変地異は、警戒を怠ることなく、自分の命を、守ることを、最優先する必要がある。が、それは、他人に言われずとも、自分で、判断できるものだ。尊い命を、守れなかった、などと称して、自責の念を、訴える話が、度々流されるが、これとて、穿った見方をすれば、自責の念ではなく、責任逃れの為の、方便に過ぎない、としか思えない。嘘とまでは、言い切れないものの、過剰な反応を、起こそうとして、極端な表現を、繰り返すことも、恐れを抱かせて、無理矢理に、動かそうと、過大評価を繰り返すのも、彼等が、近年繰り返す、過ちの数々だ。冷静な行動を、というのであれば、静かに伝えればいい。無視する奴等は、その報いを受けるのだから。
予報の精度が、上がったと言われる。しかし、この所の台風の進路では、以前と変わらず、当てずっぽうでしかない、としか思えない、と考える人が、多い筈だ。どうしたことか、折角、評判が上がってきたのに、この為体は、と思う人も多いだろう。だが、所詮、その程度のもの、と思う人も居る。
地震の予知とは違い、天気予報は、確率を当てるにしても、余程簡単だ、と考えられる。起きるか起きないか、を問われる予知と、どんな天気になるか、を問われる予報とは、相手にするものが、大きく違うから、と思う訳だ。だが、現実には、そういうことが、根拠となる訳が無い。実際には、日々の天気の移り変わりが、これまで、百年以上に渡って、記録されてきており、それに基づいて、次はどうなるか、を予想するものが、天気予報であり、経験則から、同じことが、どう起きるかを、当てようとするものだ。ここでも、一種の繰り返しが、根拠となる。そう考えると、今回の進路予報が、何故、大外れしたのかも、大体の想像がつく。以前とは、全く異なる状況で、全く異なる進路を辿る、そんなものは、どんなに計算能力が上がっても、当てられる訳が無いのだ。確かに、最高速の演算速度を誇る、計算機が、次々に開発され、それが、現場で使われるようになると、限られた時間内で、行うべき計算も、より細かなものへと、進歩する。その結果として、日常的な、天候の移り変わりは、概ね、的中できるように、なったと言われる。だが、天気の急変については、全くの無力であり、それが、局地的なものとなれば、もうお手上げとなる。今でも、よく的中する、と言われるものは、情報提供者が、各地から送る天気を、できる限り多く集め、それに基づいて、変化を予想するようだ。これは、計算能力とは異なる、情報収集力に、頼ったものであり、これまでの天気予報とは、異なる仕組みと言える。さて、何方が、より優れているか。考えるまでもなく、虫の目か鳥の目か、ということだ。
絶対的なものではなく、見方次第で、如何様にも解釈できるから、周期性の問題に、賛同が得られるとは、思っていない。ただ、目の前で起きることを、どう見るか、という点で、選択の一つとなる、と思っている。親子の断絶や相関が、こんな所に、反映されるとしたら、と思うのだ。
だから、単なる30年の周期だけでなく、それが、三つの群に分かれ、それぞれ互いに、影響を及ぼしあっている、と見る訳だ。そう見ると、自分の上と下の世代に対し、普段感じていることが、何となく、見えてくるように思う。また、その下の世代、つまり、上下の世代の子供らと、どんな関わりが、生じるかを見てみると、納得できることが、幾つもありそうだ。とは言え、それが、分かったとしても、隔たりは、如何ともし難い。逆に言えば、上か下の世代が、何かしらの不利益を、強く訴えていたとしても、それを、自分事として、捉えるのではなく、彼らの問題として、扱うべきということだ。更に、10年の周期を考えると、新たな方策が、講じられるとしても、それは、10年も経てば、古ぼけたものとなり、通用しなくなる、という意味も、考えておくべきだ。よく、組織の存続が、論じられる時に、始めてしまったものを、辞めることの難しさが、取り沙汰されるが、それは、始める前に、10年を年限として、組織を立ち上げる、という考えを、提示しておかなかったから、と言われるのは、その辺りの事情も、あるように感じる。何かに、対応する為の手立ては、10年を区切りとし、全体としては、長い目で見ながら、対策を講じる必要がある、となる訳だ。この点を、理解しようともせず、その場の不平不満に、立ち向かったり、心配や不安を解消しようと、場当たり的な対応を、繰り返すのは、明らかな過ちである。その一方で、社会情勢の変化が、まるで、自然現象のように、人の手によらぬもの、と考えるのも、無理解の一つとなる。人が関わることは。人が解決せねば。