パンチの独り言

(2024年9月2日〜9月8日)
(し放題、心の動き、不人気、受験戦争、有り様、行き先、誰の思惑)



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9月1日(日)−誰の思惑

 昨日の独り言の為、でもないだろうが、今朝の経済新聞に、こんな記事が、掲載されていた。電力供給は十分であり、原子力に頼らずとも、有り余る程に、作られている、という内容だ。但し、その実、送電網の整備が、追い付いておらず、不足の状況に、変わりがないとも。
 従来の発電地が、水との関係から、場所が限られていたのに対し、最新の再生電力発電は、全く異なる地域に、導入されている。その為、所謂高圧電線を、新たに設置する必要があり、その整備が遅れている、というのが問題、と記事は主張する。確かに、その通りだろう。だが、昨日の車の駆動系の問題は、それだけでは、済まない状況に、追い込まれている。送電網の整備が、遅れる原因となったのは、発電装置の導入が、税制などの優遇で、驚く程の成長を、遂げたのに比べて、転用も可能となる送電線には、一切の補助が、施されなかったからだ。だが、それが、原子力の衰退を、補う以上の給電を、可能とするにしても、今回の問題は、解決できるものではない。この話と同様に、駆動系の新方式導入は、多くの国々で、税制などをはじめとして、優遇措置が、実施されてきた。だが、その導入が招いた、別の不均衡が、国の間での競争を、捻じ曲げる結果となり、優遇の停止や、価格の上昇などが、相俟って、製造企業の方針転換に、結び付いたと言われる。営利目的で、動いている限り、より多くの利益を、上げることが、絶対目標となるが、単純な、需要と供給の均衡ではなく、何れの場合にも、外部要因の影響が、大きくなっている。確かに、初期の段階で、推進を図ろうとすれば、補助金などの必要性が、高まるのは事実だが、それが、恒常的なものとなっては、負担の偏重が、起きるのが当然だ。匙加減の問題、とも思えるが、そこに、様々な思惑や、目論見が横たわれば、状況は、一気に複雑化する。根本の問題が、怪しげな論理頼みだけに、こういう変遷は、当然のことなのだが。

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9月7日(土)−行き先

 電気自動車を、推す声は、一気に萎みつつある。理由は、これまで、独り言に書いてきた如く、燃料となる、電力供給の問題や、その為の施設設置、更には、産業振興における、国家間の不均衡など、挙げればきりがない。だが、大元は、論理構築の誤り、なのだと思う。
 確かに、化石燃料は、限りがあるもので、転換を必要とし、更には、二酸化炭素との兼ね合いで、忌み嫌われる存在、となっている。だが、限りの話には、多くの出鱈目があり、半世紀程前には、半世紀で枯渇とさえ、言われていた。その枯渇までの期間は、その度に、引き延ばされており、本当の枯渇が、来るようには思えない。一方、脱炭素なる言葉で、悪者とする論理も、こと電力に限れば、代替が追い付かず、結局、駆動系を変換しても、収支は変わらず、となることが、理解されつつある。そこには、原子力忌避の国策が、多くの政府から、宣言されたことが、大きく影響しつつあり、ある国は、変更不可能な決断で、自分達の首を絞め、今回の電動化についても、主要企業が、方針転換を、余儀なくされた。では、どうすべきか。ゼロイチの考え方ではなく、混合の考えを、優先させる方に、向かいつつあるようだ。無駄遣いを減らし、貴重な化石燃料を、大事に使うという方式は、この国の企業が、率先して導入し、今や、世界に冠たるものと、なっている。諦めが悪い、とさえ言われたようだが、現実には、一つに頼ることが、悪化を招くとなり、方針転換となった。この点も、何度か指摘したが、理解できただろうか。おそらく、世界の趨勢は、今後も、迷走を続けるだろう。理由は簡単で、そもそも、脱炭素という論理が、端から、破綻しているからだ。彼らの標的は、二酸化炭素だろうが、その理由さえも、確定したものではない。科学の危うさを、眺める気分だが、政治や経済が、極端に走るのに対し、科学は、そこまで、決定的には、振る舞えないのだ。事実に基づくだけに。

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9月6日(金)−有り様

 大袈裟な表現になるが、国の有り様が、問われているのではないか。政治の不安定が、問題視されるが、その根底には、国が何方に、どう進むべきか、という根本問題がある。それを見ないままに、国民が、私利私欲に走り、自分にとって、魅力的な施策を、示す政治家を選ぶ。
 所詮、愚民政治とは、そんなものであり、民主主義という名の下に、多数決で、全てを決めようとすれば、こんな流れになることは、火を見るより明らかとなる。だが、そんなことが、積み重なり、今の状況を、招いているのでは、と見直してみると、まさに、そんな流れの上に、立たされているようだ。例えば、海の向こうの大国は、元から居た原住民から、移民達が、権利を奪うことで、成立した。その上で、移民政策の下、安い労働力を手に入れ、富める者達は、自らの生活を、豊かにしてきた。移民の方とて、成功物語を夢見、まさに絵に描いたような、富を手に入れてきた。一方、当初の移民が、夢を見て飛び出した国々は、当時の繁栄を、失いつつある中、様々な手立てを講じて、今の成功を手に入れた。その過程で、植民地からの移民を、受け入れることは、安い労働力の極みであり、奴隷制度を、失う中で、築き上げた仕組みだった。だが、ここに来て、様相が変わりつつあり、移民排斥運動が、どの国でも、盛んとなっている。驚くべきは、壁が崩壊した後で、西と東が合わさった国の、旧体制だった地域が、その兆候を示したことで、四半世紀程前の状況を、忘れたのかとさえ思う。では、こちらはどうか。全く異なる体制で、繁栄を築き上げてきたが、ここに来て、少子高齢化が、深刻な問題となりつつあると言われる。だが、それとて、器の大きさに、限度がある以上、当然の流れであり、その中で、どう舵を切るかが、肝心なのだろう。営業手法とでも訳される、企業ごとのやり方は、まさに、こんなことの表れだろう。経営者は、流行に走るのではなく、確固たる方針を、出す必要がある。

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9月5日(木)−受験戦争

 半世紀程前、進学をした時には、今より狭き門だったと思う。進学率は、伸び続けていたものの、まだ半分程だったが、定員数が、遥かに少なかったからだ。だが、その後の経緯を、思い起こしてみると、世間の評判は、常に、競争の激化を、話題の中心に起き、人生の灰色の時期、と称した。
 ただ、当事者達の気持ちは、変わらぬままだろう。傾向と対策が進み、準備万端となっても、失敗の可能性は、零にはならない。だから、不安を抱えつつ、競争へと挑むこととなる。一方で、ここでも、報道の姿勢は、不安と心配を、煽ることに終始してきた。入試制度が変われば、それが、対策の難しさを増し、当事者にとって、困難な道となる、という論調は、皆が同じ状況にある、という点を、無視したもので、冷静な分析とは、著しく異なる、決め打ちでしかなかった。確かに、人の心理とは、容易く操れるものだ。少しの脅しと、不安を煽る論調で、簡単に、思い込ませることができる。だが、この話をはじめ、その目的は、何なのか。発言者本人でさえ、その理由を、説明できないのでは、と思えてくる。それ程に、使い古された論法を、多用するのは、何故なのだろう。興味を持たせる為に、必要な方便である、との解釈もあるが、何の興味か。また、場当たり的な、こういう作り話は、すぐにばれてしまい、信用を失うだけで、意味が無いように思う。そんな話題も、大切だろうが、そろそろ大学入試には、大きな変化が、起きようとしている。全員が、進学可能となり、競争の設定が、立ち行かなくなるのだ。その上で、人材育成の観点から、最高学府の存在は、不可欠だろうから、苦も無くやって来た人間を、どう鍛えるのかが、喫緊の課題となる。それは当然のこと、と思う人には、現状を、眺めて欲しい。多くの学生が、高校まで同様に、指示通りにしか、動かない状況では、社会に出てからが、困った状況に陥る。では、何が必要か。半世紀前を、思い出す。

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9月4日(水)−不人気

 不祥事が続き、低迷する支持率は、一向に、回復の兆しさえ、見えてこない。当然ながら、外部だけでなく、内部からも、刷新の声が上がり、退陣を迫られる前に、という訳でもないだろうが、次の政党の頭を、決める選挙には、出ないと決めた。潔いのか、はたまた、どんな思惑が。
 などと、政治に関することとなれば、好き勝手な意見を、並べ捲る報道は、大した考えもなく、乱立の様相を、面白おかしく伝えるばかりで、問題の本質を、捉える気配さえ、見えてこない。一方で、人気商売とは言え、こういう流れに対して、低迷の責任は、彼奴にあると言わんばかりの、論調は、保たれたままで、名乗りを上げた人物達は、綺麗事ばかりを、並べるだけで、こちらも、不祥事の真の原因を、洗い出すつもりは、毛頭無いらしい。だが、外交には、手腕を発揮できても、経済には、疎いだろうとの、前評判を裏切り、何方にしても、それなりの能力を、示してきた宰相に対して、どんな言葉を、贈るつもりなのか。確かに、軍事侵攻をはじめとして、移民問題などから、政治の混乱が、極まりつつある世界で、一種の安定を、保ち続けている国の宰相が、ここまで批判されるのは、如何なものか、と思うこと頻りだ。他人の評価を、正しく下すことができぬ、国民性の表れ、と言ってしまえば、まさにその通りだが、それにしても、と思う。不祥事に関しても、所詮、政治家の資質の問題に過ぎず、政党全体の問題と、捉えるのは、野党としては、当然の成り行きだが、個人的には、渦中の人物を、始末すれば済む、としか思えない。一方で、外交と経済については、国を成立させる、二大要因であり、それを、巧みに操ってきた人間を、ここまで、罵倒することには、呆れるばかりだ。確かに、趨勢として、変化が求められるのは、世界的傾向だが、それが、何を招くかは、始める前に、明らかとなっており、振り子の動きと、同じと見ることこそ、大切となる。揺れを小さくすれば、安心な筈なのだが。

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9月3日(火)−心の動き

 騙されるな、と何度警告しても、詐欺は、一向に減らない。何故なのか、と不思議がる人も居るが、理由は、定かではない、と言われる。ただ、被害者に尋ねると、理由は分からないが、何となく、信じてしまった、と言う。信じるのは何故か、理由が不明でも、何があるのか。
 社会媒体で、横行していた、投資話の詐欺は、ある意味、その典型だろう。確かに、著名人が、勧誘すれば、信じたくなるかも知れぬ。でも、本当だろうか。その前に、考えるべきは、何故、有名な人とは言え、勧誘話に、引き込まれたのか、という点だろう。肝心なのは、儲け話ということだ。将来への不安から、資産を、少しでも増やしたい、と願う気持ちが、そちらに向かった、最大の理由だからだ。少しでも、どころか、法外な額を、と望んでいたからこそ、そんな、ある意味馬鹿げた話に、乗っかった訳だ。詐欺の王道は、心理操作にある、と言われる。話を聞くうちに、引き込まれてしまい、信じてしまった、というのが、騙された理由の、大部分だからだ。心理にも様々あり、例えば、不安を煽るもの。これは、報道が、常道としているから、皆の知る所だが、資産運用も、それと抱き合わせで、語られることが多い。ただ、全てが、不安によるもの、とは限らない。例えば、銀行口座の情報を、手に入れようとする詐欺は、多くが、不正な引き出しがあった、と誘ってくるが、効果の程は、定かではない。ということで、新手のものは、ポイント獲得や、特別優遇という、新たな褒美を、見せびらかすものとなる。これは、心理としては、不安ではなく、欲望に触れるものだろう。一方で、古くからある家族の危機、という手段は、不安と言うより、同情のようなものか。ただ、稀に、そんな家族は居ないのに、相手をしているうちに、というものもある。これこそ、同情かと思うが、騙された本人は、話し相手になってくれたから、という理由だと言う。心理とは、何とも、不可思議なものだ。

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9月2日(月)−し放題

 無料の恐ろしさを、痛感するのは、騙されてからだろう。独り言を、書き記すサイトは、確かに、無料の場が、提供されるからこそ、長年に渡って、維持することができた。ただ、こういう場の提供は、中身の質に対して、殆ど責任を負わず、設置者も利用者も、自己責任を問われる。
 サイトを運営する側は、詐欺などに加担せぬよう、書き込みには、一定の責任を負って、削除などの措置を、繰り返す。長年放置されてきた場では、そういう塵が溜まり続け、悲惨な状況を、晒し続けるが、そこまで来れば、騙される人も出ず、被害の報告や責任も、起こり得ない。逆に、今注目を集める場こそ、注意を要する訳で、その意味では、社会媒体は、典型と言える。何度も、話題となっている、著名人を騙る、投資話は、その典型だが、それ以外にも、偽物の販売が、横行している。有名百貨店の名を騙ったものは、多くの社会媒体で、広告として、堂々と表示され、それ以外にも、安価な品を、求める人々を、騙そうとする業者が、世界各地から、押し寄せている。国境が無くなった、ということは、まさに、この状態を指し、それが、犯罪取締の足枷となり、一向に、減る気配を見せない。官憲は、お手上げ状態にあり、個人への注意喚起に、躍起となっているが、効果の程は、どうだろうか。基本的には、情報提供者が、何らかの責任を持ち、管理することが、求められるのだが、囀り改めXと称する、社会媒体では、国家権力との戦いから、発言の自由という、民主主義の旗印を掲げ、戦う姿勢を、貫こうとする。だが、その一方で、詐欺集団には、手を貸している訳で、自由と無責任が、ごちゃ混ぜとなるのでは、確かに、利用者が、細心の注意を払う必要が、求められる。但し、仮令、注意していても、犯罪に加担させられることは、起きかねない。問題は、起きた時の、媒体運営企業の責任、にあると言えそうだ。暴利を貪る企業が、加担を続けるようだと、世界的な制度が、必要となる。

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