パンチの独り言

(2024年9月9日〜9月15日)
(回避なのか、本当か、身の丈、永続化、米騒動、支え合い、何が変わる)



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9月15日(日)−何が変わる

 不安や心配は、尽きぬものだ。それに乗じて、混乱を起こさせようと、蠢く連中が居る。毎度のことで、聞き飽きた、と思われるだろうが、その連中が、今時の話題を取り上げ、また、騒ごうとしている。生成人工知能の登場で、人間社会が、どんな変化を来すか、という問題だ。
 制作者は、ただ騒いでも、芸が無いとでも思ったか、一流の人々に、見解を述べさせていた。だが、肝心の登場人物は、「天才学者」とか何とか、紹介文が添えられたが、さて、こちらの知識不足か、とんと聞いたことが無い。だが、画面に登場した人物は、如何にも、といった具合に、人工知能の登場で、何が変わるのかを、説明し始めた。でも、制作者の用意した、原稿を読んでいるのか、その内容は、「婚活が変わる」など、月並み程度のもので、全く響いてこない。あの肩書きを、付けて貰えることで、出演を承諾したのか、はたまた、別の理由があるのか。それこそ、あの発言が、本心からで、その程度の人間に過ぎないのか。真相は、分からない。一方、こういう時代だから、ひょっとすると、放映直後から、社会媒体で、話題になったのかも、とも思えるが、うっかり、直後の検索を、怠ってしまった。にしても、あれ程までに、凡庸な内容を、延々と流し続けて、何の意味があったのか。いまだに、見えてこない。確かに、歴史的には、作業の自動化などで、仕事を奪われた人も、居たに違いない。だが、それとて、ほんの僅かであり、多くの人々は、激変した職場環境に、適応しつつ、新たな働き方を、身に付けていった。では、今回の変化は、どうだろう。些末なことは、様々に起きるだろうが、天才達が宣うような、変化が起きても、大きくは変わらないのではないか。これまで同様、新たな技術の導入で、利便性が向上し、効率が上がる、といった変化は、確かに起きるだろうが、不安を煽る程のものは、起きそうにない、と思う。画面のこちらの答えは、「何も変わらない」というものだ。

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9月14日(土)−支え合い

 身勝手な理由、と書いたが、独り言を読んできた人には、その意図が伝わるだろう。市場原理とは、確かに、経済学上の考え方の一つで、需要と供給の均衡から、様々な物の価値が、決まるというものだ。だが、そこに、暴利を貪ろうと、暗躍する人間が、介在すると、別物に変身する。
 息子が立候補し、再び、老いさらばえた姿を、晒していた元宰相と、彼のお気に入りの一人が、改革と称して、市場原理を旗印に、様々に横車を、押し続けた時代、それに乗じた、不埒な輩が、暴利を貪っていた。利害関係が、どこまで及んだかは、窺い知れぬ所だが、少なくとも、担当大臣だった、似非経済学者は、その後の移籍の数々も、利益の一端と見える。確かに、供給が滞れば、物の価値は、高騰し続け、物価上昇の一因となる。だが、それが、何らかの思惑に基づき、操作されたものなら、市場原理とは、呼べない代物となる。価格操作は、多くの事例で、違法行為とされ、厳しい罰則が、設けられているが、暴利を貪る連中には、びくとも堪えぬ、もののようだ。このように、本来の意味とは、全く異なる形で、適用される市場原理は、経済活動においても、忌避される行為であり、それを掲げて、横車を押すなど、以ての外と言うしかない。一方で、世界的な均衡が、基本となりつつある中、この国の経済は、縮小を余儀なくされ、嘗ての栄光は、錆び付いてしまった。だが、限られた器で、どう生き延びるかが、肝心となりつつある中、嘗ての考え方は、通用しないものとなり、身近な中での活動こそが、重要と見做されつつある。市場原理の市場が、何を指すのかを、考え直す必要があり、似非学者の主張など、傾聴の価値は、無いに等しい。その中で、国内に目を向け、継続的な活動を、維持する為の手段を、講じる必要は、不可欠なものとなる。地産地消は勿論、自給の問題とて、蔑ろにはできぬ。となれば、支え合いという考えも、今更ながら、肝要となる。さて、どう処すべきか。

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9月13日(金)−米騒動

 まだ、終わっていないかも知れぬが、今回の米騒動を、どう思っただろうか。米が無くなった、大変だ、食べる物が無くなる、という論旨で、報道は、懲りもせずに、煽り捲ったが、結果は、どうだったか。確かに、これまで同様、店の棚から、物は無くなった。思惑通りに、だ。
 その後の展開も、いつも通りの茶番劇が、演じられた。ある首長の、備蓄米放出には、思い付きで、駆け回るしかない、人気商売の哀れを、見る思いだったし、各商店での、悲鳴の上げ方にも、報道の偏重を、見る思いだった。だが、この成り行きは、前の年の作柄から、十分に予想でき、更に言えば、今年の作柄予想から、少し待てば、何事も無かったかの如く、皆が、炊いた米を口にできる、確信が得られた。にも拘らず、一向に、打開策が見えない、軍事侵攻の行方から、暇を持て余す報道は、国内事情の話題へと、重心を移していった。とは言え、それより安直なものとして、政治の混乱が起き、大洋を挟んだ、彼方と此方で、格好の話題が、見つかったことで、一時の勢いは、衰えを見せた。と言うより、既に、新米の出荷が始まり、底を突いたとして、悲鳴が上がっていた、販売状況は、問題なくなった。ただ、価格に関しては、驚くべき水準に、達したようだ。それを眺めるに、今回も、騒ぎを起こすことで、上前をはねた連中が、暗躍したのでは、と思えてくる。それに加担し、騒ぎを拡大させるのは、考えも無しに、騒ぐだけの報道であり、最終的に、法外な出費を、負担するのは、見事に乗せられた、愚民だけでなく、良識ある庶民も、割を食うこととなる。終わっていない、と断って始めたのは、まさに、そのことであり、供給が、正常に戻ったとしても、崩れた需要の均衡は、別の形で、消費者にのしかかる。確かに、物価上昇は、顕著となったが、さりとて、昨年の5割増しの値は、如何なものか。ここでも市場原理と称する、身勝手な理由が、出されるものの、法外は法外では。

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9月12日(木)−永続化

 今更鎖国?などと思った人も、居たかも知れぬ。だが、流石に、身勝手な独り言と雖も、戯れ言を、並べる訳ではない。地産地消をはじめとして、自律的な仕組みを、どんどん取り入れて、他国に頼らぬ形を、整えてはどうか、という意見だ。でも、資源の無い国に、それは不可能。
 という反論が、直ぐに返ってきそうだ。更に、少子高齢化により、労働人口が、減り続ければ、働く人の数が、足らなくなるから、他国からの移民に、頼らざるを得ない、との返答も。だが、何方についても、皆、惑わされているに過ぎない。資源については、確かに、燃料をはじめとして、国内での生産は、全く足らない状況にある。乱暴な言い方だが、掘り残した石炭や、木々を資源とする、燃料への転換は、有り得る話だし、更に、原子力も、対処次第で、どうとでもなる。一方、労働力はどうだろうか。こちらも、きつい仕事が、嫌われる傾向は、確かにあるが、それは、賃金との兼ね合いで、変えようは幾らでもある。また、今、様々な事情で、働いていない人を、どう扱うかを、真剣に考えるべきだ。介護現場で、人不足が、深刻化している、と言われるが、こちらも賃金との兼ね合いが、第一の課題となる。安かろう悪かろう、という時代を、過去のものと見做し、全体の均衡を、真剣に考えて取り組めば、ほぼ全ての問題が、解決すると思う。これは何も、流入人口を減らせ、という話ではなく、単純に、今までのように、安直な取り組みで、安易な解決法に、走るのを止めて、循環社会、文字通り、持続可能な国を、築こうという話だ。その為に、ある程度の痛みが、必要となるのは、当然のことだろう。ただ、この痛みとは、懐具合に関することで、けち臭く、安値ばかりを、追い続けてきたことを、きっぱりと諦め、自分も含めて、社会全体で、支える仕組みを、構築することを、指している。欲望を、求める方向を、大きく変えることで、国の繁栄を、継続させる、ということだ。

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9月11日(水)−身の丈

 鎖国が続く中、この国は、独自の文化を築いた、と言われる。その後、列強の圧力に屈し、開国した後は、似たような成果を上げても、突き詰めていなかったこともあり、知識や技術において、追い付こうと躍起になり、凄まじい勢いで、吸収を重ねてきた。で、並んだつもりだったが。
 列強の圧力が、再び厳しくなると、同等の水準との判断からか、対抗することとなり、結果、完敗を喫した。敗戦により、それまで築いた繁栄を、ほぼ全て失い、地に堕ちた訳だが、そこからも、再び、追い付け追い越せとばかりに、復興の勢いを増し、遂に、追い越した、と思える所まで来た。だが、そこから先は、目標が、見当たらないことから、進むべき道を、見失ったのだろうか。所謂、不動産投資という、魔力に取り憑かれ、泡が弾けてしまい、経済破綻から、再び、低迷の時代に、陥ったことは、皆が知る所だろう。さて、今の状況はどうか。確かに、地道な努力により、回復の勢いが増し、以前同様の水準に、到達したと言われる。その一方で、少子高齢化という現象は、小さな国に襲いかかり、恰も、回復不能な状況に、あるかの如く、評されている。だが、それは、大きさが決まった、器の中の現象として、当然の成り行きであり、その中で、どう生き延びるかが、肝心なのではないか。先頭を走れば、確かに、以前のように、前例や先例を参考にした、傾向と対策は、成立し得ない。だったら、全く別の考えを、編み出すしかないのだ。今こそ、先頭に立つ国として、どう振る舞うべきかを、考えてみてはどうか。そんなことを、考えてみると、最近、重視される考え方の、地産地消や、分相応という考えが、これから先、大切にすべきものとなる、と思えてくる。ただ、その為には、消費社会で培った、欲望に走る傾向を、改める必要がある。あるもので、賄う考え方は、鎖国時代には、当然のものだった。確かに、当時も、欲に走る話は、あっただろうが、そうだとしても。

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9月10日(火)−本当か

 やはり、突然の車線変更は、一方通行の高速道路でも、驚かされるものだ。それが、対面となれば、周囲への影響は、計り知れない。にも拘らず、あの企業は、何年にも渡って、広告を流し続ける。他の企業が、急停車により、事故回避を実現する、と謳う広告を、流しているのに。
 技術の高さを、誇る姿勢は、開発において、推進力となるだろう。だが、全体を見渡すことなく、一部のみを切り取る形のものでは、却って、逆効果となりかねない。同じ企業が、自動運転に関しても、現在の技術で、どこまで可能かを、誇示してみせる。ただ、こちらは、誇大広告とされかねず、最近、とんと見なくなったのは、その指摘があったから、との穿った見方もできそうだ。曰く、高速道路で、ハンドルから手を離したまま、目的地に、到達できる、というのだ。確かに、現在の水準では、前を走る車を追随し、車線を保持し続けることが、可能となっている。しかし、目的地に到達する為には、前の車が、同じ経路を辿るしかなく、その仮定を置かねば、どこまでも続く道路を、走り続けるしかない。一切の説明もなく、実現可能と謳うのは、広告においては、誇大と見做され、警告を受けるに違いない。そんな細かな指摘がなくとも、通常の感覚であれば、疑わしいと思うのだが、近年の大衆は、鵜呑みを常とするから、禁じなければ、騙されることとなる。一方で、単純な追随ではなく、指定した目的地に、無事に到達する為の技術は、様々な条件があり、未だに実現していない。特殊な例を言えば、嘗ての列島改造をぶち上げた、元宰相は、都心の自宅から、生家までを、三回曲がるだけで、行けると噂された。実証した記事を、見つけたので紹介しておくが、こういう特異な例では、現在の技術でも、ある程度可能かも知れぬが、通常は、不可能である。更に、他の交通や歩行者との兼ね合いから、今の技術では、十分な安全確保が、できないと言うしかない。

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9月9日(月)−回避なのか

 週が明けても、自動車の話の続きである。今暫く、お付き合い願いたい。技術革新の塊、とも言われる、自動車は、電気自動車が、その先端技術、と思う人が居るだろうが、現実には、化石燃料と電気の融合、の方が遥かに、先を行っている。その一方で、別の技術も、凄まじい勢いで、開発されている。
 この国では、高齢者の事故が、起こる度に、防ぐ方法の話題が、取り上げられてきた。単純な踏み間違え、としても、その指示に、従わぬ仕組みが、必要では、という意見だ。それに限らず、あらゆる運転技術を、機械任せにしては、という意見もあり、所謂自動運転の開発が、ここ十年程、急速に進められてきた。但し、これは、大きく分けて、二つの異なるものとなる。一つは、事故を未然に防ぐ、誤操作に対する対処であり、典型は、緊急時の停止がある。一方で、目的地に、自動的に運ぶ、という技術も、開発が進んでいるが、こちらは、数ある選択肢から、どれを選ぶか、という点で、前者とは全く異なる技術だ。本質的には、後者の方が、遥かに複雑であり、達成までには、かなりの道程となる。その為、中途の段階を分け、段階的な開発が、進められているようだ。一方、前者は、既に、危険を察知すれば、それを回避する為の手段は、講じられるようになり、映像からの入力と、感知器からの入力に、分かれる場合もあるが、何れも、実用化に至っている。しかし、ただ、止まるだけでは、不十分との考えもあり、回避方法として、車線変更を選び、それを可能とする技術も、開発された。某社の広告では、それを、披露しているが、眺めるに、不安が募るのは、どうしたものか。後続車や対向車で、自分が運転していたら、どう反応するか、という点に、かなりの心配が起きる。数年前から、紹介される度に、限られた想定のみでの、検証だからこそ、そういう印象を、受けることが分かるが、どうしたものか。安全性の観点から、多面的な想定が、当然と思うが、数年経ても、同じなのは疑問だ。

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