パンチの独り言

(2024年9月16日〜9月22日)
(今だけ、不足と過剰、深謀遠慮、分かり易さ、対抗措置、見ぬ振りせず、大芝居)



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9月22日(日)−大芝居

 今月読んだ本で、まだ紹介はできないが、東京喜劇なるものに、関するお話だ。喜劇役者というより、ある年代より上なら、3人組のお笑いで、人気を博した方が、記憶に残っているだろう。この本は、内容も興味深く、取り上げた人物の、人となりを含めて、面白可笑しく紹介していた。
 偶然の一致に過ぎないが、一方、経済紙の履歴書で、今月取り上げられたのは、本の中で、違う種類の演劇として、一世を風靡した小劇場劇団の話で、不思議な偶然を感じながら、今も読んでいる。ただ、本の内容では、喜劇とは、ただ笑わせればいいものだが、そこに綿密な準備があり、台本通りの展開が、重要なのに対して、小劇場劇団は、古典芸能から、新劇と呼ばれる演劇が派生し、さらにそこから、はみ出してきたものだが、内容の面白さより、何らかの理論武装が、重視されている点が、お笑いだけの喜劇とは、大きく違っている、と書かれていたことだ。その点で、評伝として、対象となった役者は、枠を外れた面白さから、生真面目な演劇まで、幅広く演じることで、小劇場劇団とは、全く異なる世界の人間、と著者は言いたいのだろう。ただ、何方にしても、演じる訳であり、その範疇で、何を目的にするかで、姿形が、全く異なるものとなる。更に、この役者は、衰退の一途を辿る、喜劇の世界において、どう演じるかを、緻密な計算に基づき、決めてきたという話だ。ドタバタのように、ただ面白ければ、それでよしとする、お笑いが流行った頃、それまでの緻密な喜劇は、大衆から見放され、当時の有名役者も、姿を消していった。だが、その中で、取り上げられた役者だけは、全く別の形で、種々雑多な役をこなし、ただのお笑いのみならず、大真面目な劇まで、演じ続けてきた。そこに、著者は、何かを見つけたのだろう。多くの作品を世に出し、人気を誇った映画監督からも、様々な注文を受けて、それらをこなしていったとある。成る程、所詮は芝居でも、それが心を打てば、いいのだ。

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9月21日(土)−見ぬ振りせず

 では、教育現場の虐めは、どうだろうか。話題となり、問題視されてから、もう何十年も経つが、一向に、無くなる気配を、見せようともしない。何が問題か。こちらも、懲罰を下せば、何とかなるのか。それとも、人間の心の奥底にある、何らかの感情が、元となるから、無理なのか。
 解釈の変更があり、その後は、ある意味では、認定そのものは、大きく変化した。だが、それ以前も以後も、おそらく、大きな変化は、起きていないと思える。虐めは、一向に無くならないし、報道からは、被害者の状況は、悪化の一途を辿っている、とも見える。解釈については、興味深い話が、何度も紹介された。被害者は、虐められたと思うのに、加害者達は、何も感じていない、と言うより、何も覚えていない、という点だ。同窓会で、十年以上経過してから、そんな話が出た時に、被害者は、一つひとつの行為を、明確に覚えているのに、虐めた側は、何一つ覚えていない、とされる。この点にこそ、この問題の奥深さが、現れているように思える。解釈を変えても、大きな変化が起きないのは、その為だろう。一方で、その場で解決すれば、行為そのものは、少なくなるように思える。時間が経過してからでは、覚えていない連中に、何の処罰も下せない。まるで、飼い猫が、悪さをした時、叱っても無駄とか、後からでは、猫畜生は、何も覚えていない、とか、そんなことを言うのと、そっくりそのままに思える。畜生に関する話と、同等に扱っては、いけないと思うが、その程度のもので、少し、悪意と記憶が残る、人間に対しては、その場での懲罰が、有効となるかもしれない。要するに、見て見ぬ振りは、禁物ということだろう。大人の関与も、重要となることだが、子供同士の事柄でもある。しかし、人間の本性として、差別意識があり、それに基づく、何らかの虐待行為が、起きるのだとしたら、それを防ぐ手立ては、無いに等しいのかも、だ。とは言え、放置ではなく、関与は必須だろう。

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9月20日(金)−対抗措置

 虐めの問題は、無くなりそうもない。だとしたら、被害者は、ただ我慢するしかないのか、はたまた、何らかの力を借りることが、できるのだろうか。当初は、この国でも、学校が、現場となることが、多々あった。だが、陰湿なものを含め、それらが、極端になるに連れ、歯止めが掛からなくなった。
 その内、海の向こうから、異なる解釈が、流れ込んできた。虐めの定義として、それまでの客観性より、被害者の主観が、重視されるものとなり、改善の方に、向かうように思えた。だが、現実は、殆ど何も変わっていない。何故なのか。理由は、定かではない。が、例えば、海の向こうの前大統領の、言動からは、何となく、見えてくるものが、あるように思う。つまり、被害者が、何と言おうが、加害者は、同じことを続け、法的にも、社会的にも、その立場が、守られるという事実だ。それも、彼の場合、権力を握った、あの数年だけでなく、その前後全てに渡り、同じことを繰り返したのに、何の反省もなく、何の刑罰も、受けていない。その事実から、こういう話、特に、権力を笠に着て、強権的な言動を、繰り返すことに対し、仮令、罰則があったとしても、その行為自体が、消滅することは無い、ということが分かる。だとしたら、何をすべきか。元に戻って、ただ我慢するしか、残っていないのか。刑罰が、行使できなくとも、最低限、相手の力を、削ぐことは、できそうに思う。前大統領が、再選を果たせなかったのは、その結果の一つだが、その一方で、また再び、代表として顔を出し、同じことを繰り返すのは、どういうことか、不思議に思える。とは言え、接戦と雖も、結果として、同じことが起きれば、力を削ぐことには、なるのだろう。これと同じことは、企業にせよ、役所にせよ、あらゆる組織で、権力を握った人間に対して、行えると思うが、どうだろうか。但し、それは、罰を与えるという意味ではなく、権力を奪うという結果だけだ。力による虐めには、それしかないと思う。

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9月19日(木)−分かり易さ

 民主主義の基本は、多数決にある、と言われる。だから、多数意見が、最終的に通ることとなり、それが、正しいものとされる。これって、何も間違っていない、と思うだろうか。何の議論もせずに、すぐに投票に移り、結論を出せば、異論を唱える人も出てくる。何故だろうか。
 採決の段階で、多数か否かを、決めること自体は、民主主義の典型だろう。だが、議案そのものが、適切かどうかを、様々な意見を聞いてから、判断したい、と思うのは当然だ。だから、そこまで含めて、議論の上で、多数決で決める、という筋道であれば、何の問題も生じない。そうだろうか。最近の傾向は、大多数が、その通りの段階を踏み、最終決定を下す。だが、少数意見の中に、採り入れるべきものが、存在する場合は、無いのだろうか。そんな疑問を投げかけると、だから、議論を繰り返すのだ、との返答が来る。しかし、議論するだけで、修正を施さねば、少数意見は、葬り去られてしまう。これでは、少数派の意見を、聞いてやった、というだけにしかならない。こういう手順を、追うことこそが、民主主義である、という人も、以前ならかなりの数居た。だが、最近は、相反する意見を、互いに投げ合うだけで、受け止めることなく、議論が終わる場合が多い。だから、意見交換は、殆どの場合、意味を成さないし、議論は、現実には、成立していない。単なる儀式として、議案提出があり、その後に続く、議論も、形式のみとなる。これが、問題となるのは、まるで、口喧嘩のように、自分の主張を繰り返し、そこから、何らかの結論を、導き出そうともせず、議論が終わることで、これではまるで、対立するだけで、啀み合いとしか、ならないことだ。以前から、国会などでも、同様の儀式が、行われてきたが、それでも、何らかの歩み寄りが、あったように思う。今、世界では、対立や分断といった、極端なものばかりが、好まれるようだが、どうだろう。明確さは、そんな所にはないのでは。

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9月18日(水)−深謀遠慮

 喫緊の課題が、今や、殺し文句のように、なっているのではないか。確かに、今ある問題を、解決しなければ、次に進めない、という考え方もある。しかし、そのやり方を繰り返し、振り子が振れるように、必要な方、必要な方へと、対策を講じ続けるのは、時に、逆方向へと進むことになる。
 このやり方は、以前から行われており、別に、今始まった話ではない。だが、衆愚政治と揶揄されるように、大衆の好みに合わせて、都合の良い施策を、講じ続ければ、別の問題が積み上がり、最終的には、破綻を迎え兼ねない。そこまで、極端な話でなくとも、高齢化対策の多くは、喫緊の課題の一言で、近視眼的で、視野の狭いもので、長期に渡って、続けられるものでは、ないように感じられる。また、全体として、人口減少が、表面化する中、何処が適切なのか、見通す必要があり、その水準の中で、どんなやり方が、適切なのかを、考え抜く必要がある。最近の報道内容を眺めると、そんな観点で、議論しようとする、気配は全く見えず、ただ、騒ぎを大きくして、上前をはねるなど、利益追求が、第一となっているように見える。少子高齢化についても、少子化の問題は、補助金などしか、考え付かないようだが、報道では、意識の問題こそが、第一とされる。この乖離について、議論は進まず、何となく、進むべき道を、見つけられない、としか思えない。家族の中の、子供の数に、大きな違いが、現れている場合、その違いの理由を、見つけない限り、意識問題は、取り掛かりようがない。一方で、高齢化については、確かに、団塊世代が、大きな障壁となるが、こちらは、時間による解決しか、現実には、起こり得ないように思える。80代後半から90代は、まさに、平均寿命の水準であり、それを越せば、自然減少が始まる。そう見越した上で、どの対策を、講じるべきかを考えねば、長期に渡る解決を、実現できないのは、当然ではないか。では、何を、どうするのか、それが問題だ。

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9月17日(火)−不足と過剰

 昨日のような見通しを書けば、反論が来るだろう。来るより前に、もう悲観的な見通しが、公式に出ている、という報道もあった。だが、その数値とて、作為が感じられる、と見えないだろうか。今朝の経済番組では、全く別の内容から、この国特有の問題へと変わり、その結論に至った。
 残念ながら、番組内容は、見当たらないので、簡単に紹介すると、人型ロボットが、海の向こうで、新たに開発され、家事支援の目的で、主に、掃除洗濯を担わせる、というものだった。あの国の嘗ての姿から、奴隷の代わり、と思ったのは、こちらの勝手な考えだが、面倒と思うのが、その二つとは、という考えが過ったのだ。で、その後の展開として、将来的には、高齢化が著しく、介護が喫緊の課題である、この国への導入を、計画していると話が転じ、職員不足のデータへと、話が移っていった訳だ。そちらの話は、はじめに紹介した記事にあり、そこには、前回推計から減少した理由が、予防への備えによる、とさえあった。だが、ここで示された15年後の想定では、団塊世代が、80代後半から90代となり、ここでも、増大の頂点を、迎えることとなる。つまり、その後は、減少へと転じ、施設も職員も、過剰となる訳だ。監督官庁は、当然ながら、その後の変遷を、予想していても、数値を発表せず、心配を煽る方に、話題の重心を置く。それに向けて、補助金が拡充され、企業努力も加わり、急速に、供給を増やし続ける。だが、その後には、何が残るのだろう。世界各国で、戦後の人口増加は、著しいものがあった。そこへの対応として、様々な整備が行われ、不安を解消してきたが、今の状況はどうか。その後の人口比率の変遷は、次々に、別の対応を迫り、後追いにせよ、何とか帳尻を合わせてきた。だが、それが過ぎれば、余ったものは、不要なものとなり、時に、塵とさえなる。需要と供給と言えば、確かにそうだが、先の見通しなく行えば、こうなるのだ。そろそろ、気付くべき時が。

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9月16日(月)−今だけ

 情報社会だからこそ、偏った報道内容を、どう受け止めるかが、肝心となる。特に、不安や心配を、煽る姿勢を、露骨に表す中、示された数値を、どう解釈するかなど、重要な点を、点検すべきだろう。今朝も、そんな話の典型例が、公営放送から、流れていた。
 少子高齢化は、喫緊の課題として、嫌になる程取り上げられる。特に、自分が、その範疇に、当てはまるとなれば、他人事として、知らぬふりもできぬ。だが、問題解決法として、何をすべきかについては、冷静に考える必要があり、安易に受け入れるにせよ、断固として拒否するにせよ、何方にしても、筋道を立てて、考える必要がある。その報道は、首都の高齢化率が、過去最高に達した、というものだった。高齢化の傾向は、特に、大都市圏において、顕著となっている。いや、正確には、子供の数は、過疎地程、減少が著しく、そちらの高齢化率の方が、遥かに高いのだが、割合ではなく、総数で考えると、人口密集地の方が、遥かに深刻な問題となる。ただ、ここで示された数値には、二種類あり、それらを、冷静に眺める必要がある。この主張は、以前から、独り言に書いてきた話であり、それが、数値として示されたことは、本来であれば、考える端緒とすべきことだろう。そこには、65歳以上の所謂高齢者と、75歳以上の、後期高齢者の割合の推移が、それぞれ示されており、前者は、去年に比べて、5千人増えたのに対し、後者は、5万4千人増えたとある。どちらも増えたことで、高齢者の問題が、深刻さを増したと伝えているが、後者の方が、遥かに多く、その解釈は、団塊世代の為、と断定していた。つまり、この傾向は、確かに、高齢化率は、増加し続けるだろうが、後期高齢者数は、減少に転じそうだ、と見えないか。この点が、施設設置や介護支援者増加を、恒久的な施策として、目指すことの危うさを、表しており、注意を要することを、示している。喫緊の課題は、今だけのものだ。

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