パンチの独り言

(2024年9月23日〜9月29日)
(教育費、核心は、収入確保、処し方、打開策、継なぐ、力を合わせ)



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9月29日(日)−力を合わせ

 若者達を、教え育む仕組みとして、何を目指すかは、国毎で異なるのは、当然かも知れぬ。だから、何処かの官僚の如く、海の向こうの仕組みを、闇雲に模倣し、べき論を展開することなく、猿真似をするのは、馬鹿げたことだ。一方で、状況の変化に対し、どう処すべきかは、考えねばならぬ。
 維新後に、範とした地域も、今では、共同体となり、国毎の違いを、どう保つかが肝心となる。その上、共同体を離脱した国は、独自の道を歩むとは言え、隣国との協力体制は、失われた訳ではない。次代を担う人材を、どう育成するかについて、自国の利益のみを考え、他国の不利益を無視するのは、全く間違ったことであり、最近のように、軍事侵攻を、正当化するような、馬鹿げた考えに、取り憑かれるような事態は、何としてでも、避けるべきことだ。その中で、海の向こうの前大統領の如き、私利私欲に走る言動を、正当なものとして、崇め奉るような、風潮に関しては、何処か、誤った教育と、理解に基づく、行動に思えてしまうのは、何故だろうか。無理に、協力せよと言うつもりはない。だが、こんな状況を、当然のことと、押し付ける力に対して、何も感じないどころか、賞賛するに至っては、何たることか、と思うしかない。高等教育の重要性を、今一度考え直す必要がある、と思うのは、こんな世界的背景に、疑問を抱くからに相違ない。一方で、自分さえ良ければ、という考え方に関しても、どうしたものか、と思うこと頻りなのも、大きな問題だろう。個人主義の台頭が、その背景にあると言われるが、個人主義が、その程度のものだとする考えには、強い違和感を覚える。これら全てが、教育の賜物だとしたら、それこそ、恐ろしいことではないか。協力が不可欠と思えば、私利私欲に走るより、相互の力を合わせることこそが、優先されるべきであり、その為に、必要な事を、教育の場で、伝えるべきだろう。その支援に、必要な経費は、誰が負担すべきか、見えていると思うが。

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9月28日(土)−継なぐ

 物価高騰が続く中、その流れに乗って、という訳でもあるまいが、学費値上げが、決まった。家計への影響は、甚大と訴える人も居るが、さて、本当の所はどうか。その一方で、最近、政治家を中心に、人気取りの話題の一つとして、盛んに取り上げられた、無償化の話は、何処に飛んだのか。
 と言っても、この手の話は、どれを眺めても、国民全体で負担するか、否かの話に思える。値上げの理由の一つである、交付金の減額は、税収が減ったことを、きっかけとするし、無償化は、まさに、その経費を、国が出すことを意味する。何方にしても、減税を訴えるしか、頭にない人々には、とんでもない話で、一方で、就学者を、扶養しない人間には、何の得にもならない、とまで言いだしそうな話だ。だが、今一度、次代を担う人材を、という観点に立ち返れば、何かしらの支援は、必要とならないか。維新後に、西洋化を目指す中で、この国が参考にした国々は、敗戦後に、理想国家の構築を目指し、指示を出した国とは違い、大学制度をはじめとして、全く異なる政策を、行ってきた。何方の真似をしたいのか、国民も政治家も官僚も、いいとこ取りばかりで、確固たる考えは、全く無いに等しい。その中で、愈々、「限界」に達したとして、決断を下したが、何が肝心なのか、今一度考えてみるべきだろう。教育は、人間を育てることにあり、それを、皆が共同で行うのは、当然のことだ。そこに掛かる経費も、ある程度の負担を、覚悟すべきだろう。だが、一方で、その恩恵に浴するのは、主に、その教育を受け、才能を開花した人間であり、彼らが、時間と経費の両方に対して、相応の負担をするのは、当然ではないか。今のこの国の状況は、そういう意味では、かけ離れた所にあり、何かしらの手立てを、講じなければ、取り返しのつかない所に、行ってしまう。特に、教育においては、世代を跨いで、継がれていくことが、不可欠であるから、断絶は、以ての外となる。

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9月27日(金)−打開策

 学費値上げの是非、何方に与するか。火の車の現状から、当然と見る向きもあるし、ふた昔前から、上げていないとなれば、尚のことだ。しかし、「限界」と叫んだ、協会長からすれば、自助努力ではなく、減額を続ける、交付金の予算見直しを、訴えることで、値上げは反対となる。
 何方が正しいのか、という点の議論は、無駄だろう。どう処するかで、何をどうするかが決まり、そこから先は、全く別の道へと、歩み出すしかない。その意味で、決定した大学は、その道筋を歩む訳で、それが、将来的に、どういう結果を産むかは、今後の成り行き次第だろう。だが、当事者は、そうもいかない事情がある。貧しい家庭に生まれ、才能を見出されたとしても、先立つものがなく、道を拓く可能性が、乏しいと思われる中、その壁が、一段と高まるとなれば、別の選択肢を、模索する必要が出てくる。一方、据え置きを決めた所を、目指してきた人間には、ほっと一息となるが、さて、その大学の将来は、如何なるものか、そちらの問題が出てくる。本来なら、何をどう進めるかが、予算獲得の前に、あるべき話であり、教育と研究を行う組織として、両立を目指すべきか、はたまた、教育主体に転じるべきか、で迷うのでは、と思われるかも知れないが、実は、その問題は、とうの昔に、解決済みなのだ。監督官庁は、予算削減の一環として、各大学のあるべき姿を、示せとの通達を出し、結果として、三つくらいの分類に、なったとされた。地方にある大学は、殆どが地域教育を目指し、その意味で、地域に住む若者が、進学できる環境を、整える必要がある。つまり、値上げは、禁忌事項となる。では、教育水準に関しては、どうあるべきだろうか。こちらも当然、水準を保つ必要があり、昨今の状況から、危機的と揶揄されることで、何らかの対策を、講じる必要がある。そこに、生成人工知能の台頭で、水準低下を危ぶむ声もあり、資金獲得以前に、何らかの措置が必要、と言われる所以だ。

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9月26日(木)−処し方

 同じ話題の続きである。今週中は、お付き合い願いたい。人材育成が、大学教育の主目的と書いたが、その中で、頂点に座る大学は、どの程度の人数を相手にするのか。入学定員は、三千人強だそうだ。嘗て、議員や官僚を輩出し、国を支える意味で、重要な役割を果たしていたが、今は。
 と考えると、やはり全体として、考える必要がある。少し古いが、こちらの資料によれば、国立大学全体として、一学年、十万人を僅かに切る。前世紀の終わりに、大台を切ってから、僅かに減り続けたが、ほぼ同じ水準だ。全体としては、あの大学の三十倍が、在籍している。政治だけでなく、産業を考えれば、彼らを対象とした、人材育成を考える上で、特別な例だけを、考えるのでは、やはり、おかしくなる。一方で、今回の例では、値上げをしたとしても、裕福な家庭出身者には、殆ど影響は出ない。にも拘らず、免除を引き合いに出すのは、世間の目が、正しく見抜けないからだろう。では、先頭を切って、ではなくとも、あの大学が決めたなら、と後を追う大学は、続出するだろうか。全国紙的話題ではなく、地域の話題にしかならないが、地方大学でも、同じ問題が議論されたらしい。結果、ある大学は、値上げせずの決定を、発表した。理由は、学生が来られなくなるから、というもので、当然ながら、家計が苦しい中で、進学を諦める人間が、出てくる傾向は、地方程強くなる、というものらしい。だが、火の車であることに、何の違いもなく、更に、独自の資金のあてが、ほぼ無いに等しい、弱小では何とするのか。この問題は、更に深刻なのではないか。法人化前の状況と違い、各大学が独自に決めればいい、という環境下では、横並びは憚られ、何事にも、確固たる理由が、必要となる。経営者たる人間には、その責任がある筈だが、どうにも、煮え切らぬ回答ばかりで、本気で、育成に励もうとするのか、心許なく思う。危機が迫る中、どう処すべきかが、肝心要だが、当人達はさて。

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9月25日(水)−収入確保

 連日書いた途端に、また報道があり、驚いた。それも、最終決定とあり、なんだ、まだ決めていなかったのか、という驚きだ。一方で、事前の周知期間は、恐ろしく短く、こんなことでは、大学紛争時代なら、とんでもない反発を、食らったとも言われる。さて、何が起きるのか。
 おそらく、何も起きないだろう。まずは、20年近く、全ての大学が、据え置いてきたからで、法人化の後、国からは、決定権を託されており、その中で、交付金が減り続けても尚、維持を決めてきたからだ。もう一つは、公表直後から、貧困家庭を対象として、対策を講じると、宣言したこともある。だが、何も起きないのは、それらの理由からではなく、単に、学生達が、そんな些末なことに、関心を抱かないからだ。進学理由は、人生を豊かにする為であり、十分な収入を確保し、生活を謳歌する為には、最高学府の、それも頂点にある場に、進むことが条件だからだ。そこで、何を学ぶかや、どれ程の経費が掛かるか、について、関心があるとは思えぬ。さて、一方で、報道を見ると、翌日の朝刊一面にも、掲載されたが、見出しは、「脱補助金頼み」とある。交付金ではなく、補助金とは、と思って記事を読んでも、「補助金」とは何を指すのか、明記されず、一方で、財政面の強化を謳う話が、強調されていた。つまり、財政が逼迫するのは、紛れもない事実だが、それを克服する為には、寄付金などの外部資金の獲得が、最優先とされ、独自基金を構築して、その運用益で経営を支える、という姿勢が、必要とある。その中で、収入のほんの一部でしかないが、授業料収入も、例外とはしない、ということだろう。ところで、この経営方式は、何処から来たのか。まず浮かぶのは、海の向こうだろう。公立私立の区別なく、運用資金を潤沢に有し、教育のみならず、研究にも注力しており、順位付けでは、常に上位校を占めている。だが、世界で見たらどうか。その議論をせずに、この転換は、どうだろうか。

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9月24日(火)−核心は

 値上げ報道の後、すぐに流されたのは、学費負担の問題で、それに追随するように、大学側は、免除規定の収入上限の、引き上げを決定した、と伝えられた。だが、この話、これまでの報道姿勢と、余りにかけ離れたもの、と言えないか。裕福な家庭出身者が、大半を占める、と言われる大学だ。
 何を主張したいかで、引き合いに出す数値も、その根拠さえも、平気ですり替えるのは、報道の常識なのか。ここでも、問題の本質を、捉えることなく、上辺だけをなぞる、論法が使われた。これでは、大学教育の問題を、直視することなく、金額の多少のみに、目を向けたものでしかない。大学の役割は、第一に、人材育成の為の、教育にあると言われてきた。ところが、この点でさえ、肝心の教員からは、自らの研究の為で、目の前に居る学生は、その要員でしかない、とする意見があった。この原因には、業績評価が、研究中心であり、人間の才能に左右される、人材の育成には、触れないという、強い傾向があった。そこに来て、予算削減の波が、襲いかかる中、研究費獲得は、教員の主要命題とされ、筋違いの方針が、優先されてしまった。だが、余裕を失った大学に、更なる圧力となったのは、実は、教育の質という点だろう。背中を見て育つ、と言われた世代と違い、一から十まで、全てを教わることが、当然と言われる世代が、今の大学生である。研究に邁進したい教員に、そんな連中の相手をする時間は無く、以前にも増して、放置状態となった学生は、好き放題を繰り返し、育成どころか、放し飼いでしかなくなった。その点で、今回の値上げは、どんな意味を持つのか。答えが、示されることは、無いようだ。全体の予算は、監督官庁の数値を見れば、ある程度理解できる。しかし、最近は減らしていないとなる。一方、頂点の大学では、この時期、急激に減ったとされ、その上で、昨年度まで、更なる減額となった。で、問題は、授業料収入である。これが2割増えても、ここまでの運営費の減額は、全く賄えない。これが現実なのだ。

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9月23日(月)−教育費

 学費値上げを、遂に決断した、と伝えられる。国立大学の学費は、長年据え置かれてきたが、ここに来て、頂点に立つ大学までもが、引き上げを決定した。だが、新聞報道によれば、5年以上昔から、一部大学で始まっており、今回、話題となったのは、頂点に立つ所まで、だからだ。
 一方、これまでの学費の変遷は、監督官庁が、発表している。ところが、そちらを眺めると、平成17年度、つまり2005年から、変化していないことがわかる。物価上昇が、最近頓に、話題となっているが、20年程前から、上がっておらず、ここにも、経済停滞の影響が、及んでいるのか。この図表からは、30年間の変遷が、見えてくる。この前半の15年間は、まさに、高度成長期の真っ只中であり、経済成長に合わせて、学費が、驚く程上がっていることがわかる。凡そ15倍の上昇であり、以前が安過ぎたのか、それとも、別の要因があるのか。一方で、私立との格差は、徐々に縮まり、1.5倍程となった。こちらもまた、色々な要因があり、簡単には、片付けられぬことだ。問題は、実は、ここまで挙げたことではなく、全く別の所にある。もう、昔の予算を、顧みることは、不可能かも知れぬが、この図表の最後の部分の直前に、国立大学の法人化なるものが、始まった。それと相前後して、国立大学への予算配分に、大きな変化が起きた。それが、毎年1%ずつ、予算削減を行う、という施策だ。これにより、20年もすれば、20%近くの予算減となり、今では、大学運営は火の車、と呼ばれる程となった。これが、学費値上げの最大の理由とされるが、実は、2割学費を上げても、この減少を賄うことは、できないと言われる。だとしたら、どういうことか。元々、大学教育に対する、予算配分は、ある意味、過剰なものであり、人材育成に対して、国民全体の負担を、考える上で、決められてきたものだ。だからこそ、国立も私立も、それなりの交付金を、受け取っている。その根幹を揺るがす事態を、どう考えるかが問題だ。

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