厳しい言い方しかできないが、確率でしか物が言えないのに、断定したことが、最大の失敗だった。宗教ならば、信じる者は救われる、という具合で、何事も済まされたが、科学は、残念ながら、宗教とは違う。事実に基づき、真実を暴き、真理に到達する、というのが、目標だからだ。
ただ、その営みの背景には、宗教が大きく影響を及ぼした。事実は、一つしかあり得ない、という考え方は、まさに、一神教からくるもので、それを信じるからこそ、事実を、真実を、真理を、という目標に向かって、邁進できるとされた。しかし、人間の営みでは、多くの確率的な事象が、介在している。だからこそ、人生は、確定的なものとはならず、様々な出来事の末に、成功を手に入れる喜びが、訪れることとなる。だが、安全安心という心理は、こういう営み自体を、存在し得ないものと、してしまったらしい。大衆の心は、絶対確実なものを、追い求めるようになり、その期待に応えようと、政治家は、出来もしない約束を、してしまう。世の中全体に、確実なものを、手に入れようと躍起になり、科学者が常とする、確率に基づく物言いは、忌み嫌われるようになる。一方で、感染爆発を、防ぐ為の手立ては、絶対確実が求められ、その約束の下、強制的な手段が講じられた。ここに、最大の問題があった。ただ、それは、冷静に見れば、当然の成り行きであり、それを覚悟の上で、強制せねば、防げないとの考えも、ある意味、当然のものだったのだろう。但し、その後の展開は、幾つも重なった確率の上で、人々の命は、永らえることとなり、今に至る。だとしたら、あの断定的な物言いは、間違いだったのか。その通りである。結果論から言えば、明らかな過ちで、それを、修正する必要がある。でなければ、科学の営みを、続けることは、不可能となるだろう。だからこそ、何度も書いたように、総括が必要であり、どんな確率的な事象が起き、どうなったのかを、明らかにせねばならぬ。
確率でしか、物が言えないのに、何故、断定的な物言いを、してしまったのか。政治家が、人の命を預かる、という場面で、二者択一を迫られ、決断する場合、断定的になるのは、ある意味、当然のことだろう。ただ、それが、間違った選択だった場合、責任を取る必要が出てくる。
感染症の伝染では、多くの確率的事象が絡み、結果として、甚大な被害が広がる場合がある。それを、防ぐ為には、何らかの決断が不可欠で、これまでにも、屡々、そういうことが起きた。と言っても、医学の進歩が、及ばぬ間は、決断の多くは、神や仏に縋るもので、祈祷師などの存在が、政治家を支えてきた。しかし、種痘をはじめとした、医学の進歩により、多くの感染症は、未然に防げるようになった。ワクチンは、その典型であり、天然痘の病原体は、もう自然界には無く、研究室で保存されるだけ、となったと言われる。また、今回の紛争で、一時的休戦が、強く訴えられたのは、小児麻痺を引き起こす、病原体に対するワクチンの接種の為で、これもまた、子供の命を、奪わぬまでも、深刻な後遺症が、問題となったものが、接種の拡大で、殆ど無くなった、と言われていた。だが、病原体そのものの存在は、自然界にあったようで、紛争地での未接種により、顕在化し始めたらしい。さて、そんな話の一方で、感染症騒動については、全く異なる展開のようだ。効果的なワクチンが存在せず、感染拡大を、防ぐ手立ては、人の動きを無くすのみ、と言われてきたが、新開発の登場で、状況が一変する、と言われた。だが、現実には、科学者や製薬会社の見解が、コロコロと変わる中、皆の期待は、急速に萎んでいった。感染予防の目的で、ほぼ強制的な接種により、達成できる筈が、重症化予防と話が変わり、それも、確率的な事象でしかない。だが、動き始めた人々は、断定的な物言いを続け、他人を救う話から、自分を守る話へと、変わった挙句に、さて、結論は。副反応なる確率が、出た時点で、論理破綻が見え始めた。
今回の騒動の中、科学と宗教は、相容れないもの、のように見える。だが、歴史の上では、殆どの期間、そんな関係だったのではないか。但し、優位性が異なり、宗教が、専ら弾圧する方に、動いていた。宗教が作り上げた物語に、科学で見出された真理が、合致しなかったからだ。
とは言え、科学の発展において、宗教が果たした役割は、非常に大きいと言われる。但し、これは、西洋に端を発したものであり、考え方の根本として、一神教の教えが、強い影響を与えたからだ。その中で、宇宙の仕組み然り、ヒトの体の構造然り、物語とは異なる事柄が、次々に見つかる中、否定するだけでは不十分と、発見した人々を、弾圧する動きに走った。と言っても、これもまた、宗教者の一部が、教えに従おうと、闇雲に行ったことで、徐々に、関係は改善されていった。一方で、考え方の点でも、宗教的な背景自体が、否定される場合もあり、神は賽子を振らない、と言って新しい考え方を、拒絶したという話は、有名だ。となっても尚、目の前で起きる事象は、その大部分が、決定論的な考えで、理解できるもので、確率で考える必要は、なかった。だが、今回の騒動では、その点が、最大の問題として、人々の前に立ちはだかった。感染も、重症化も、そして、死に至るか否かも、全て確率で考える必要があり、白黒を明確にする考えは、通用しなくなった。にも拘らず、多くの科学者は、死への恐怖を煽る為か、断定的な物言いに終始し、人々を、混乱に陥れた。絶対的な安全・安心を、切望する人々には、断定的な話は、分かり易く響くから、確かに、その戦略は、ある意味、功を奏したのだが、喉元過ぎれば何とやら、断定的な話が、起きなかったことへの、反発は強く残り、その一方で、それらの措置で、確率的には小さくとも、何かしらが起きた人々からの、訴えの声は、大きくなるばかりだった。その観点から、何が間違っていたのか、総括が必要なのだが、その気は無さそうだ。
科学と宗教の関係は、どうなっているのか。普通に考えれば、何事も、論理的に思考することで、真理を追い求める、科学の営みは、宗教とは相容れぬもの、と思える。科学者の多くが、神や仏を信じないのも、信じるという行為より、論理的に考えるという行為を、優先するからだろうか。
その上に、科学技術の発展は、人間の生活を、格段に向上させた、とされれば、古臭い宗教より、科学の発展を信じて、学ぶと共に、そこに何かを発見することに、価値を見出すのも、当然のことに思える。そんな風潮が高まる中、この間の感染症騒動が、起きたのではないか。一部の科学者が、強く主張したことに従い、政をはじめとして、多くの力が、都市封鎖やワクチン接種へと、注ぎ込まれた。特に、人が集まることは、禁忌とされ、伝統的な祭りの多くは、中止を余儀なくされた。神社や寺が絡むことが多く、その意味では、科学の力が、宗教活動を、押さえ込んだように思える。特に、それが強く感じられたのは、犠牲者が多く出た、一部の国であり、宗教者が、死に瀕した人々に対して、行なったとされることが、更なる犠牲者を、産み出したとされるからだ。だが、その一方で、この国では、アマビエに代表される、祈願の印に、注目が集まった。人を集めるのではなく、単に、一人ひとりが、願を懸けるだけなら、問題は起こらない、とでもいうのか、宗教に縋る習慣は、人々の心の奥底に、確かにあるとさえ、思わせた。そう思えば、医学が未発達な時代、何かが起これば、神や仏に縋るのは、当然の行為であり、人間の力が、及ばぬ範囲では、それしか思い当たらなかった。そこに、起きた騒動では、科学が全ての如く、扱われた結果、どうなったのだろう。一見すると、既に収束したことで、解決したように思えるが、その実、あの騒動の最中、様々に行われた、科学的な措置が、どんな経過を辿り、どんな効果を産んだのか、何も判っていないように思える。これでは、暴走にも見えるが、どうか。
宰相交代の理由は何か。多くの人々は、支持率低下が、最大要因と見ている。その上で、資金流用など、様々な問題が指摘され、立て直しが不可能となり、退陣となった、という訳だ。だが、これ、本当だろうか。世論調査は、確かに、そんな数値や意見を、集めてきたのだが。
前宰相が、総裁選を勝ち、就任を決めた時、多くの報道は、酷評していた。経歴から、確かに、外交の手腕は評価できるが、長く低迷を続ける、経済対策に関しては、素人同然という話だった。で、結果はどうか。少なくとも、相場は好転しており、経済対策が、失敗だったとは、とても言えない。更に、長く続いた、意味不明の中央銀行の方針は、総裁交代により、転換が図られ、今度も、世界の進む方向とは、逆向きとは言え、正常な状態に戻りつつある。一方、外交については、宰相就任に伴い、自らが兼任することは、ほぼ不可能となってから、その任に当たった人物達は、それなりの功績を挙げ、更に、宰相自らが判断する中では、一貫した姿勢を示すことで、世界からの評価も、高まっていると思う。これらの事柄の中で、自らの政党の人々が、犯した過ちに関して、徹底的に糾弾しなかったから、などという理由で、退陣に追い込むのは、如何なものか。ここでも、報道の姿勢が、露骨な情報操作であり、純粋無垢とは、言えそうにない、愚かな国民を、ある方向に導いてきた。結果は、彼らの思惑通りであり、目的を果たした連中は、次の標的の登場に、またぞろ、同じ礫を投げ続けている。今回は、前任者より、更に、特徴が掴めず、どこに得手があるのかさえ、見えていない。そこに来て、例の如くの圧力に、もう屈したのか、前言撤回を繰り返し、一貫性の無さを、露呈している。だが、流石に、無能ではないだろう。その上、念願の地位を、極めた所で、些か戸惑う面も、あるのやも知れぬ。順風満帆とは行かぬまでも、低空飛行でも、何とか舵取りを続けて欲しいものだ。雑音を遮断して。
はじめの頃は特に、と言っても、今でもそうだろうが、「独り言」は、分かり難いと言われる。結論を急がず、分かり易い話だけで、終わらせないように、と心掛けているから、当然のことなのだが、今の時代、白黒の違いを、はっきりとさせた、分かり易い話が、好まれるようだ。
学校で習っていた頃、分かり易さとは何か、考えたことも無かった。殆どが、ただ覚えるだけのことで、それを確かにしておけば、何事も解決したからだ。理解とは、ただ鵜呑みにすることではなく、少し考えた上で、ああ成る程、と思えるようになることを、指している。ところが、白黒をはっきりさせれば、何も考える必要は無くなる。白が好きか、黒が好きかを、選べば済むことで、どちらに与するかが、重要となるだけだ。だが、見れば判るように、白と黒は、全く異なるもので、相容れないものとなる。好きか嫌いかに基づく、こういう区別に頼るだけだと、確かに、違いが明確になり、理解できた気になる、かも知れぬ。だが、それは、単に、異なる考えの人間を、排除するだけで、議論をすることも、互いの考えを受け容れて、合意に到達することも、叶わなくなる。断絶とか、分断とか、そんな言葉が、盛んに用いられるのは、まさにこんな状況であり、その判断基準となるのは、違いが明確な、対立する意見の、何方に与するのか、という一種好悪に基づくものとなる。何故、こんなことになったのか、理由は分からないが、いつの間にか、分からない話には、参加することなく、ただ分かり易さだけを、追いかければいい、という風潮が大勢を占めるようになった。そこに現れたのが、海の向こうの前大統領で、当選する数年前までは、相手にされなかったが、熱狂的な支援を受け、いつの間にか、頂点に立っていた。それが実現して初めて、相手にしていなかった人々が、危機を強く感じ、考えることの大切さを、思い出させようとし始めた。だが、一度、甘さを知った人間には、どうか。
正しい情報を手に入れ、賢く生きたい、と思う人ばかりだろうか。だが、正しい情報とは、何のことだろう。実際に起きたことを、伝える場合では、例えば、災害であれば、被害者が何人、被害家屋が何軒、といった具合に、数値で示される。ここに、間違いは起きそうにない、と思える。
だが、被害者についても、今では、災害そのもので、怪我をした人、亡くなった人、という分類だけでなく、関連死なる言葉が、使われ始め、その認定に確固たる基準がない。また、被害家屋、と呼ばれるものも、地震などでは、半壊とか全壊とか、単純な区別だけでなく、程度によって、更なる分類が、持ち込まれる場合がある。正確な、という意味での「正しい」については、どんな基準を設けるか、どんな分類を施すかなど、様々な要因が絡んで、不正確さが増すばかりに見える。では、科学の世界はどうか。数年前に、世界を、恐怖に陥れた、感染症騒動は、死者数が激減し、忘却の彼方へと、追いやられたようにも見える。だが、いまだに行われる、検査体制では、流行性感冒同様に、定点観測が行われ、流行の程度が記録される。ここまでの経過で、一般大衆にとっても、多くの不思議が頻出した。例えば、感染の始まりが、何処だったのか。一般的に、感染経路や仕組みは、どんなものか。発症後、死へと至るのは、どんな形だったのか。何故、一部地域で拡大し、犠牲者が急増したのか。等々の、感染症そのものへの疑問とは別に、科学者達が、激論を交わしていた、予防対策に関する、人の動きへの規制、都市封鎖などの効果の程、予防の為とされるワクチンの、効果の対象が、何だったのか。また、その副反応と呼ばれる、劇的な症状の原因は、一体全体何なのか。特に、効果については、免疫に対する、従来の一般的理解とは、異なる形の説明が行われ、また、その上での、接種拡大の意義の説明に、異論が生じたのは何故か。正しい情報を、欲しがる人々は、右往左往の末、何処に向かったのか。