パンチの独り言

(2024年10月7日〜10月13日)
(不正競争、行き先は、不正出発、誰が敵か、見込み違い、英才教育、平和活動)



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10月13日(日)−平和活動

 受賞が決まり、喜びに溢れる姿が、画面に映し出された時、どんな感想を、抱いたのか。これもまた、人それぞれだが、これまでの反対運動の、歩みを思い起こせば、喜びも一入、という人が多いのだろうが、こちらは、全く別の感覚で、複雑な思いが過ぎった。
 あの団体について、検索をすれば、情報が提示される。その内容を読んでも、どうも、しっくり来ないのは、ある年代から上の世代、に限られたことかも知れぬ。結成は、70年近く昔だが、その後の経過について、少しだけ触れられているのは、組織の中心が、誰になるかにより、3つに分裂していた、ということだ。今、受賞した組織は、その後の展開により、全く姿を変えたものかも知れぬが、こちらは、分裂後に、散々揉めていた時代を知るだけに、複雑な気持ちの方が、強くなるのだ。何故、同じ目的をもって、活動する人々が、仲違いをしてしまうのか、まだ、社会のことを、詳しく知る前だったから、不思議に思った。彼らは、彼らなりの信念を、抱いていたからこそ、互いを、受け容れられずに、くっ付いたり、離れたりを繰り返し、結局、そういう団体とは、異なる組織として、今に至ったと書いてある。確かに、そうなのだろうが、こういう活動については、丁度、大学紛争も、盛んだった頃だけに、同じ目的や目標を、もちながらも、互いを批判し合い、結果的に、仲違いへと至る心情は、全く理解できなかったものだ。論理的に理解し、論理的に考えれば、同じ結論に至るのが、当然だと、若気の至りで、信じていたものだが、その根本は、老いてもなお変わらない。その一方で、政治的なものも含め、社会活動の多くは、表面的には、同じ信念を抱きつつも、徐々に、細かな点で、行き違いが生じ始め、最後には、違う方へと歩んでいく。今も尚、組織は、複雑なままらしく、今回の受賞は、その中の一つなのだろう。これを機に、何かが変わるのか、はたまた。

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10月12日(土)−英才教育

 今年も、国内受賞者が、出なかった。これでまた、学問の危機を、訴える声が上がり、改革を求めるのではないか。だが、何をどう改革するのか。これらの声を上げる人々の、意見が様々であるだけに、政策担当者は、悩ましい所だろう。実は、悩むべきことではないが、すぐにそうなる。
 例えば、歴代の受賞者でも、意見は大きく分かれている。大研究室を率い、巨額の研究予算を、獲得することで、受賞できたとされる、ある有機化学者は、専ら、選択と集中の信奉者だった。ただ、受賞後に、考える所があったのか、方針転換を図り、正反対のことを、言ったりしている。一方、こじんまりとした研究室を、運営しながら、細々と研究を続けてきた、ある細胞生物学者は、少額を満遍なく、ばら撒く方式を、推奨している。注目を集めずとも、価値の高い研究が、行えることを、自ら示してきた、との自負もあり、一部の研究者だけを、尊重する、今のやり方に対して、異論を唱えている。ここ数年の、受賞者が出ない現状では、後者の意見が、評価される筈だが、監督官庁より、予算を取り仕切る官庁が、後者を、忌み嫌う姿勢を、見せ続けるだけに、解決への道筋は、容易に作られそうにない。更に、もっと優秀な人材を、育成する必要を、訴える人々は、研究どころか、教育現場にまで、選択と集中の導入を、推し進めようとする。幼い頃から、優先的に英才教育を、施しさえすれば、研究は勿論のこと、学問を率いるだけの人材を、育成できる、と信じて疑わないのだ。だが、この考え方には、大きな間違いがある。多くの受賞者は、確かに、英才教育を、受けてきたに違いないが、その実、その他大勢を含めた、一部の大学に、集中するのではなく、幾つかの大学や、それに至る高校において、全体教育を受けてきた、世代に集中している、という事実がある。この考え方を、否定しようとするが、どうにもならないだろう。幅広く学ばせ、機会を均等に与える、姿勢こそ重要なのだ。

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10月11日(金)−見込み違い

 急速な経済成長が、鈍化し始め、投資先として、資金流入が盛んだった、不動産業界も、暗い影を落とし始めた。人口だけでなく、経済力でも、一大大国となった隣は、こちらの失敗を参考に、この荒波も、乗り越えられる、と考えている。だが、本当に、そうだろうか。
 今朝の経済番組では、今回の景気刺激策が、効くかどうかを、識者が説明した。彼によれば、経済成長、不動産問題、少子高齢化という点で、こちらとの酷似が見られる、とのことだが、本当だろうか。確かに、文字の上では、同じ現象が、起きているのだが、少なくとも、世界の工場と呼ばれたのは、低賃金の故で、沿岸部から内陸へと、広大な国土をもつから、生産性は、長く保てると言われた。だが、既に、沿岸部の工場に、内陸から労働力が、引き寄せられたことから、この予測は、外れてしまった。その上、投資対象とした、不動産に関しても、土地を対象とした国と、建物だけを対象としたのでは、大きく異なる経過を辿り、建設途中で、頓挫した廃墟が、多く見られるのは、別の事象と思える。もう一つ、成長期にあって、こちらとの大きな違いは、現地生産への移転、という問題だろう。模倣から始まった、技術の発展は、同じ経過を辿ったが、ある水準を超える前に、弾け始めたことと、国の体制の問題から、安全保障の懸念が起き、移転が起きていないことも、大きな違いと思う。これでは、各企業の力を、伸ばすことが難しく、国の保護下でしか、繁栄が続かないことを、意味するからだ。その中で、鈍化から衰退へと、移り始める中、人口減少という、労働力不足が、深刻化する問題と、高齢化による、介護等の社会問題の噴出が、重く伸し掛かっている。一見、よく似た現象と思えるが、その実、ここから先は、大きく異なる展開が、予想されるのではないか。その意味で、前例があるから、というのは、あの国の政治家達の、傲慢さから来る見込み違いでしかない。

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10月10日(木)−誰が敵か

 つい先日、あの紛争の端緒となった、攻撃から一年が経過し、様々な意見が出された。遠い所での出来事として、関心を抱かない人々に、批判の声を浴びせる人も、その根拠については、如何にも薄弱で、的を射ていないと思え、どうしたものかと思う。自分達の権利を守る、との主張は分かるが。
 その中、国際機関の長が、見解を発表した。その始めの部分で、攻撃を仕掛けた勢力を、厳しく批判したことは、重要だと思う。但し、その機関の中でも、攻撃の際に支援した人々がおり、そのことに触れなかったのは、残念至極だ。重要なことは、誰が仕掛けたか、ということであり、それまでの背景ばかりに、目が奪われるのは、肝心なことを、見失うということだ。その一方で、攻撃され、人質を奪われた国が、反撃に出て、攻撃した勢力が、人質と共に潜伏する地域に、激しい爆撃を加えたことに、多くの報道が、批判を浴びせかけた。その理由は、戦闘勢力と無関係の、子供を含む、無垢な人々が、犠牲になっていることで、仮令、人質解放の為と雖も、正当化できない、とするものだ。当初から、その意見に同調できないのは、その地域を実効支配する、戦闘勢力に対して、これらの無垢な人々が、支援してきたことであり、一方で、自治政府と呼ばれた、無能な人々が、長年に渡り、様々な形で、私腹を肥やしてきたことに対し、力に頼ることこそが、自治をはじめとする、自らの権利を、手に入れる為の、唯一の手段としてきた、その流れにこそ、問題があるという点だ。無垢と呼び、子供達の犠牲を、最優先で伝える報道に対し、疑問を抱かないのは、どうしたものかと思う。更に言えば、爆撃に遭った人々から、爆撃した国への批判の声を、集めるだけで、端緒となった攻撃の主共に、対する批判の有無さえ、伝えようともしないのは、明らかな情報操作でしかない。当初の偽情報も、唾棄すべきものだが、正義漢ぶった、こういう報道姿勢こそ、強く批判されるべき、と思う。

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10月9日(水)−不正出発

 準備万端、という訳でもあるまいが、如何なものか、と思う。街角に、立ち始めた、ベニヤ板の看板だ。選挙が近づくと、候補予定者数に合わせ、その大きさを変えるから、確かに、手間の掛かるものだ。だが、まだ、解散もしていないのに、今頃から何故か、と思うのは当然だ。
 新宰相が、党の総裁に決まった直後、解散の話題を出した時、野党からは、その権利さえ無いのに、との批判が飛んだ。それは、その通りだが、出来レースと言われる中、そんな批判は、ただの遠吠えにしか、聞こえてこない。一方で、今回の交代の直接的原因となった、不正に関して、どんな弁明が聞かれるかは、確かに、興味のある所だろうが、その実、顔が変わっても、どの道、同じ話しか出てこないのは、予測がつく話だ。で、政治の世界が、馬鹿げた田舎芝居となる中、巷でも、それに対する付き合いかの如く、今回の準備万端である。慌てて、焦って、何かしらの失敗を、したくないと思うのは、役人達の性だろうが、それにしても、何も決まっていないのに、掲げ出すのは、如何なものか、と思うしかない。仮令、裏での準備が、万端整えられたとしても、それを、公のものとするのは、何事も、決まってからではないか。こういうやり方も、不正と同じ心理、と思うのは、こちらが深読みし過ぎだからか。一事が万事、こんな調子で、間違いのないように、とか、過ちを犯さぬように、とか、そんな調子で、物事を進める人間には、逆の意味で、大きな失敗をすることが多い。もしかしたら、準備万端で、掲げた掲示板に、何かしらの間違いが、見つかるかも知れず、所詮、その程度の能力か、と揶揄されることに、なるかも知れぬ。実際には、そんなことより、議論すべきことが、山積しているのだが、政の世界は、これもまた、所詮、その程度のものらしい。自分達で、満足した形になれば、禊となり、同意が得られた、となる。これは、実は、国民の責任でもあるのだが、さて。

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10月8日(火)−行き先は

 国内の産業を、支援する為に、何らかの方策を講じる。当たり前のことだが、何故、批判されるのか。これもまた、当然のことであり、国内事情のみで、雇用を確保するなどを、目的とするなら、何の問題にもならない。しかし、他国への輸出に、その優遇措置が、向けられては、駄目だ。
 特に、それが端緒となり、他国の産業が衰退し、雇用が失われれば、国内措置が、外国への攻撃へと、置き換わってしまう。上位二国は、まさに、その通りのことを、今もこれまでも、補助金という形で、支援を行ってきたが、それにより抑えた価格で、他国の産業との競争を、勝ち抜くとなれば、迷惑千万な話だ。ただ、そういう仕組みを持たない国も、様々な形で、企業に対して便宜を図り、国内産業の育成に、力を入れてきた。程度問題だろうが、過ぎたるは、ということだろう。一方で、今回の関税導入に、反対した国では、国民車と銘打った企業が、長く自動車産業を、支えてきた。ただ、この所は、共同体内での、厳しい規制に対し、巧妙な不正を行うなど、企業体質として、厳しく批判されている。にしても、あの騒動も、蜥蜴の尻尾切りで終わり、経営陣が、安泰だったのには、首を傾げざるを得ない。その中で、共同体は、更に舵を切り、電動化への道を、歩み始めた。ここにきて、先行する国からの、価格競争により、多くの企業が、撤退を決め始めたのは、確かに、あの国の小賢しい戦略に、寄る所も大きいが、大元の、燃料問題、温暖化問題、等々への解釈の誤りが、問題なのだろう。特に、検査不正の問題から、過剰規制の問題に、議論が移れば良かったが、現実には、規制に次ぐ規制という、馬鹿げた論理の展開で、自分で、自分の首を絞めることとなり、雇用への影響は、計り知れない。確かに、循環型社会の構築は、重要課題の一つだが、あるべき姿を、見誤ったまま、間違った方に向かうのは、愚の骨頂に思える。そろそろ、過ちを認めた上で、方針転換を図る必要がある。

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10月7日(月)−不正競争

 彼の国の前宰相は、出身地域と同盟関係にあった国の独裁者と、ある意味、良好な関係にあった。歪んだ性格から、様々な苛め行為に及んでも、毅然とした態度で、応じていたから、とも言われる。だが、彼女の引退後、両国間、どころか、西側諸国との関係が、破綻した。
 隣国への軍事侵攻に始まり、その後の国際圧力に対し、ガス供給停止を、脅しの材料にさえ用いた、独裁者の独断ぶりは、正常な精神からとは、とても思えぬ行状である。多くの西側勢力の、強い経済制裁に対し、新興国の中には、異を唱えた国々もあったが、その中で、経済大国となった国は、制裁ではなく、信頼関係による解決を、強く訴えてきた。この国とも、最初に取り上げた国は、彼女の在任期間に、良好な関係を築き、工業生産に関しても、協力関係を結んでいた。だが、ここに来て、第二位の国との関係は、悪化の一途を辿っている。特に、頂点に立つ国とは、経済が発端だろうが、安全保障における、国を挙げての怪しげな挙動から、多くの製品の貿易が、厳しい状況に陥っている。その中で、彼の国が属する共同体が、ある自動車製品に対して、厳しい関税を課すことを決定した。最後まで、反対を唱えたようだが、導入の勢いを、止めることはできなかった。何故、と思う人が多いだろうが、あの地域も、その動力系の導入に、諸手を挙げて賛成した筈だった。が、勢いを増す企業の、低価格戦略に、対抗できぬと、多くが撤退し始める中、結論が出された。経済紙によれば、その背景には、「隠れ補助金」の存在があり、国の補助を受けて、生産した製品の価格を、抑えたことが、主要因と主張する。その図表では、件の国に次いで、その支出額が多いのが、第一位の国なのだ。嘗て、南半球の農業国から、農産物の不正輸出と、訴えられたのは、まさにこの絡繰りと同じで、国内での産業支援に、使われたものが、輸出品へと波及しては、保護主義どころか、不正そのものとなる。全体の均衡を、考えぬままの、利己的なものでしかない。

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