何とか世代、という言葉がある。ある世代を指して、呼称を決めるが、全体的にある傾向を、指し示していると言われる。この国で、最も有名なのは、団塊世代だが、これは、敗戦後に、出生率が著しく増加し、子供の数が、急増したことを、指している。世界的傾向の一つ、でもあるのだが。
但し、国毎に、その特徴は、異なっているようだ。共通するのは、人口急増により、公共施設の不足が、大問題となったことや、大学の入学定員が、不足する中、競争率が急激に高まり、問題となったことだろうか。それに対して、国や自治体は、それぞれに対策を講じ、学校の規模や数の拡大が起きた。確かに、それにより、表面的な問題は、解決したように見えたが、現実には、国家予算の不足や、社会制度の変革など、別の問題が、起き始めた。平和な時代が、始まったとは言え、別の不安定が起き、世界各地で、紛争が起き始めた。そこには、冷戦時代の始まりという、分断があったが、海の向こうでは、徴兵制の問題から、大学紛争が始まった。一方、こちらは、世界平和の希求、という理念もあったろうが、もっと身近な問題で、同様の大学紛争の激化が起きた。そこでは、団塊の世代が、大きな役割を果たしたが、実際には、その上の戦中世代が、彼らの指導者として、更に大きな役割を、果たしていた。それに、同じ世代が、皆同様の考えをもち、行動に出ていた訳では無い。一括りにする危険性は、まさにここにあり、今も続く、団塊世代の問題も、個別のものとして、考える必要がある。一方、それに続く世代も、それぞれに呼称があり、今、話題となるのは、Z世代と呼ばれる、年代の人々だろうか。何処を指すのか、定かではないが、従来とは、明らかに異なる、思考様式をもち、それに基づく、行動様式も、明らかな違いがある、と言われる。確かに、目の前に居る若者は、理解不能な挙動を、示す場合があるが、それが、全体として、というものかは、疑問が残る。根本的な面では、大した違いもないのに、大袈裟に捉えている、とも思えるのだ。
一国の大統領が、平気で嘘を並べる。こんな光景が、現実に起こるとは、誰も思っていなかった。それも、前々回の選挙で、対立候補を、蹴落とす為として、有る事無い事並べて、牢獄へ送り込め、と叫ぶ姿に、支援者達が、拍手の嵐となるのに、呆れ果てたものだが、結果は、勝利を得た。
彼の論法は、それまでも、それからも、一切変わっておらず、まるで、餓鬼大将の様だ、と称した人も多い。その一方で、強硬手段に出ることを、厭わずに、反対勢力を、殲滅させようとする言動は、確かに、強い国を望む人々に、強烈な印象を、与えたのだろう。だが、その結果として、分断が、一層進むこととなり、感染症騒動は、彼の嘘を暴き、彼の戦略の過ちを、次々に露呈していった。そちらの結果は、次の選挙での敗北、となった訳だが、依然として、その結果を嘘と断じ、直後の議事堂占拠に至っては、民主主義の否定としか、思えぬ状況を呈した。にも拘らず、再び、二大政党の一つの候補となり、今、選挙戦が進められている。それも、接戦どころか、ここに来て、再逆転したとも伝えられ、一体全体、あの国は、どうしたのか、とさえ思えてくる。その思いを、更に強くさせるのは、囀りを買収した人物が、全面的な支援を、しているという状況にある。新興企業を率いる立場から、従来とは異なる仕組みを、好ましく思う傾向が強く、また、企業の規模が違うとは言え、同じような立場の人間として、賛同する部分もあろうが、それにしても、あの嘘の数々について、どんな思いを抱くのか、その点だけは、理解に苦しむ。確かに、企業経営において、大小入り混じった嘘が、必要となるのは、理解できなくもない。しかし、あの前大統領の嘘は、私利私欲に走った結果でしかなく、組織や国の利益を、考えたものとは、到底思えない。にも拘らず、賞賛の言葉を送り、全面的支援を表明する。確かに、何にも縛られぬ発言は、重要なのかも知れないが、かと言って、嘘ばかりでは、と思う。
人工知能が、話題となり始めたのは、前世紀の終わり頃か。計算と記憶を、専らの機能とする、計算機では、それぞれの代わりにはなるものの、人間の代わりとは、なり得ないものとされた。そこで、ものを考える機能を、加えようとしたのが、始まりだったと思う。当初は、はてな、と思われた。
その後、その能力の高さが、評価され始めたのは、盤上の戦い、と言われる、チェス、将棋、囲碁において、高段者の人間を、打ち負かせ始めたからだ。遂には、頂点に立つ人間をも、上回る能力を、誇っていたが、これも以前書いたが、人間相手の勝負とは、異なる展開を示すからには、それ相応の戦略が、必要となる訳で、その後は、あまり話題とされなくなった。確かに、全ての手筋を記憶し、その中から最善手を、選び出せばいい、という戦略は、計算機の得意とする所で、それを、人工知能と呼ぶべきか否かは、定かではない。一方、その後、学習能力の向上を目指し、教師付きの時代から、自己学習を、専らとする仕組みが、導入されたことから、今話題とされる、生成人工知能が、登場するに至った。これもまた、当初は、夢と期待を抱く人々から、絶賛の嵐となったが、その後は、負の面ばかりが、強調され始めた。職場からの人間排除は、以前の、工場の仕組みと全く同じ展開で、その後の経過を、顧みる限り、疑わざるを得ない。一方、小説や絵画などの、作品の生成に関して、懸念が出されたが、こちらも、その後は、音無しとなったようだ。現時点での、最大の懸念は、偽情報の生成のようだが、これもまた、鼬ごっこの様相となりそう、との見方があるものの、徐々に、対策が講じられるだろう。この話題も含め、現実には、最も大きな問題と思えるのは、悪意をもった人間の関与、となる。海の向こうの前大統領は、その発言が、衝撃的なものだけに、人気を博す反面、厳しい批判が浴びせられるが、最近も、選挙に勝とうと、嘘をばら撒き続ける。道具は、使いようだろうが、人間は、そうもいかぬ、という訳だ。
何度か取り上げたが、経済紙の文化面には、毎朝、履歴書なる記事が、掲載される。成功者の物語は、時に、自慢話となり、読むに堪えないから、その月は、無視を決め込むが、多くの場合、謙虚は言い過ぎとしても、冷静に、客観的な視点を、披露する場となっている。
今月は、珍しく、外国人の執筆だが、投資関係の話として、経済紙には、格好の話題提供となっている。新たな投資方法を、編み出したとして、評価が高いそうだが、仕組みの方は、今一つ理解できない。買収は、専ら、敵対的なものだが、彼らの手法では、株主も、従業員も、市場でさえ、利益が得られるという、友好的なものだそうだ。この国も、経済低迷が続く中、外圧の一つとして、登場したのが、敵対的買収であり、「ハゲタカ」と呼ばれた、輩達は、利益のみを貪り、不要となれば、捨て去るものだった。この人物は、そんな手法ではなく、損失を整理し、新たな体制を、構築することで、再生を図るという、友好的買収を、実施してきた。彼によれば、この国は、極端に閉鎖的で、嘗ては、外国企業の参入を、妨げるなどの、国を挙げての工作が見られたが、今は、そういう点ではなく、従業員をはじめとして、役員に至るまで、多様性に欠けた体制が、目立つことが、大きな問題と断じる。その中で、この国の特徴として、今後の方向性を示し、所謂「地産地消」ではなく、投資に関しても、自国向けに行う、「地産地投」が肝心、と説いていた。これはまさに、制度変更から、個人投資家の急増が、話題となる中、実際には、その多くが、海の向こうに投じられ、国内企業の株や投信には、あまり向けられなかった、という話と繋がる。何度か書いてきたが、少子高齢化などの問題から、縮小傾向が、懸念される国において、どう振る舞えばいいのかが、重要な問題となりつつある。地産地消も、地産地投も、重要な心掛けであり、鎖国とは異なる、自立の道を、模索する必要がある、と思う。
人件費の違い、と書いたが、実は、これは半分しか、正しくないものだ。現実には、原材料費の問題が、同じように関わっており、こちらに関しては、彼方と此方で、人件費とは、正反対の傾向を示す。物価として考えれば、十把一絡げなのだが、物品ごとに異なっているのだ。
これが、よく分かるのは、ずっと昔の状況からだ。半世紀近く前、海の向こうとこっちの、人件費の差は、かなり小さくなっていた。これは、まさに、為替の影響であり、固定相場制から、変動相場制への、移行に伴い、此方の貨幣価値が、暴騰した為だ。高度成長期に、産業の発展が見られ、追い付き追い越せ、という状況も相俟って、貨幣価値が、以前に比べて、3倍にも達した。そのことで、それまでなら、人件費も、貿易格差の要因となったものが、一気に、肩を並べるようになった。にも拘らず、依然として、外で食べることを、互いに比べると、大きな差が生まれる。それは、彼方では、自分で作れば、食料品の価格のみで、済むのに対して、外では、作る人、給仕する人などの、人件費が加わり、原料費との比較から、此方に比べて、彼方では、大きな差が出来たからだ。この状況は、おそらく、今でも、あまり変化が無い。この理由は、一次産業の規模の違い、から来るものと考えられるが、それ自体の改革を、望む声がある一方で、味などの品質の違いが、小規模生産だからこその、利点となるのだから、一概に、考えない方がいい。その上で、この国の物価が、彼方やその他の先進国と比べ、低く抑えられて来たのは、当然のことだろう。ただ、今後、どんな方向に進むかについては、はっきりとはなっていない。一方で、少子高齢化問題も含め、自国で、需要と供給を、保つ必要があることから、自給自足の考え方を、適用しようとすれば、物価の問題も、更には、人件費の問題も、他国との比較ではなく、自国での均衡から、考えれば済むように思える。独自の形を、模索すべきと思う。
観光立国、の話が出た時、どんな印象をもっただろう。旅行好きの人は、自分に関係あることとして、歓迎の意を表したかも知れぬが、一方で、そうでない人々は、何の関係もない、と思っただけかも知れぬ。ただ、対策が講じられ、始まってみると、様々な変化が起きた。
多くの外国人が、訪れ始めると、観光地の混雑も、大きな問題となったが、最大の話題は、利便性の高い電化製品などを、多数購入する行動、所謂「爆買い」が起きたことだ。確かに、貿易関税などの問題で、自国で購入するより、遥かに安価で手に入るから、自身の為だけでなく、親戚や友人の分まで、購入したらしい。この行動に出たのは、ある国からの人々に限られ、その後は、収まっていったが、観光そのものとは、全く無関係の現象に、影響の予測が、難しいとの印象を強くした。その中で起きたのが、感染症騒動であり、人の動きの制限が、第一との見立てから、観光そのものが、世界から消滅した。観光との、政府の掛け声に、乗った人々は、奈落の底に、落とされた気分だったろうが、選択の余地無し、との判断となれば、如何ともし難い。一気に縮小した気分は、解除宣言が、出されるまで続いた。騒ぎが収まり、徐々に、観光客が、国内外から来るようになると、気分は、一変したようだ。そこに、為替交換率の問題が、重なったと言われ、その点では、世界で最も魅力的な国、とされたからか、多くの外国人が訪れ、顕著な消費行動が、見られるようになった。だが、この問題は、為替からだけではない。現実には、高度成長期にある中でも、外で食べることと、家で食べることで、経費の違いを比較すると、外国に比べ、こちらは余り違いがなく、人件費の違い、から来ると解釈されていた。その後の経済低迷から、物価抑制が続き、人件費も抑えられたままで、外国との格差は、開くばかりとなった。それこそが、外国人観光客の、購買意欲を、誘う最大原因と思う。今後、変化するのか。
今時、資産運用は、当たり前となり、証券や信託などだけでなく、一般銀行までもが、仲介に当たっている。確かに、金利低迷が続き、預貯金での運用は、無意味となる中、遂には、目減りの話まで、取り沙汰されては、庶民の資産は、何処に向けるかが、肝心となっている。
そうなってくると、引退した世代や、現役世代だけでなく、将来ある世代にまで、影響を及ぼす必要が出てくる。そんな考えからか、金融機関は、初等中等教育の現場に、出向いてまで、資産運用の重要性を、植え付けようと躍起になる。だが、この考え方、何か間違っていないか。確かに、自分の生活を豊かにし、老後を、安心して暮らせるように、と願うのは、万人の望みに違いない。しかし、それも、国があってのことで、安定が揺らいでしまっては、元も子も無くなる。昔、高収入の運動選手が、今も福祉国家として、世界に名を馳せる、自分の国から、別の国に移り住んだのは、高額な税を嫌い、自らの生活を、自分で支えることを、選んだからだが、その後、名ばかりの国が築かれ、金持ち優遇が、実行されるまでになった。だが、一般庶民にとり、自分が生まれ育った国は、そこに住むことが、当たり前であり、税金を納めることで、国を支える義務がある。ところが、愚民政治の典型で、兎に角、何が何でも、税金を減らすことを、公約と掲げる、愚かな政治家が、蔓延る時代で、今度の選挙も、その掛け声ばかりが、連呼されるようだ。だが、支出さえ絞れば、実現可能とばかり、政権交代を実現したのは、ついこの間であり、それが、如何に悲惨な展開となったかは、記憶に新しい。それでも、懲りない連中は、消費税も所得税も、廃止したり減税すれば、人気が取れるとするが、国の運営に、重大な支障を来すのは、火を見るより明らかで、愚策の典型となる。資産運用の教育でも、これほど重大なことを、真面目に伝えずに、自分達が関わる、運用の魅力のみを、伝えるのは、以ての外だ。