パンチの独り言

(2024年10月21日〜10月27日)
(放任主義、大人の責任、手掛かり、鵜呑み、評価、愚かなのは、基本中の基本)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月27日(日)−基本中の基本

 30年程前に、起きた事件について、覚えている人が、殆どだろう。ただ、最近の傾向からすれば、生まれる前の出来事に、何の関心も抱かず、その重大性にさえ、気付かぬことに、何の違和感も抱かぬ人が、居るようだ。それだからか、はたまた、別の理由があるのか、番組が流れされた。
「挑戦者たち」と題された番組は、これまでも、科学技術の進歩と、その成果についての、人物像を背景とした、物語を送り続けてきた。新と銘打つ所から、旧作の人気が、知れるものだが、高度成長期に、どんな活躍があり、どんな進展があったのか、その評価は高かった。二匹目の泥鰌かどうかは、知る由もないが、使い古された論法が、通用するかが、問われるのだろう。それはまた、知らぬことを、恥とも思わず、知ろうともしない世代に対し、どんな反響が得られるのか、という問いでもある。今回流れたものは、はじめに触れた事件の背景で、特に、多数の死者を出し、多くの後遺症に苦しむ人を、残した化学物質を、宗教団体が、自らの存続をかけて、作り上げた過程と、その中心人物の状況を、伝えるものだった。ちらっと見ただけで、語る価値があるとは、思えないけれども、最終盤の展開には、首を傾げてしまった。曰く、道を誤ったのは、犯罪者本人の問題もあるが、彼の周囲の問題でもある、とでもいうものだった。劣悪な研究環境から、将来への期待を、抱けなくなった人物が、思い通りに研究を行える、環境を提供した宗教団体に、感謝するというものだが、こちらには、ただ単に、人間としての、単純で基本となる、考え方の喪失、あるいは逸脱、という印象しか残らなかった。確かに、研究を志せば、自らの才能を、存分に発揮できる環境を、望むことは、当然に思える。だが、人を殺すしかない化学物質を、仮令、新発見の方法で、製造したとしても、それが、何にどう用いられるかについて、何の責任も感じないのでは、人間失格としか、言いようがないと思う。

* * * * * * * *

10月26日(土)−愚かなのは

 海を挟んだ、彼方と此方で、佳境に入ってきたが、それらの様相は、如何にも、理解し難いものとなっている。此方は、政権与党が、金の扱いにおいて、数々の不正を繰り返し、関係者を次々と処分したが、総裁の引責辞任から、念願の新総裁に就いた人物は、言行不一致に陥っている。
 一方、彼方については、高齢不安から、副大統領に譲った所から、一気呵成に、攻勢に転じたものの、ここに来て、政策不安から、危ぶむ声が高まる。となれば、対抗候補に、勝算ありと言われるが、あの嘘吐きに、何を期待するのか、全く理解不能となる。ここに来て、此方も、暴言、妄言の数々となり、暴君の片鱗を、見せつつある中、偽情報の漏洩や、嘘八百の数々に、呆れるしかないが、激戦には変わりなく、このまま、投票当日となりそうだ。何方の側も、世論調査が行われるが、その結果からは、何も断定できず、何方の勢力も、不安に苛まれつつある。原因は、はっきりしており、未だに、何方に与するかを、決めていない人の割合が、異常に高い為だ。だが、それ以上に、問題とすべきは、これらの調査の手法にあり、連合体からの離脱の是非を、決める為の国民投票を、実行した国では、事前の調査では、離脱せずとの割合が、過半数となることが、明白だったからこそ、時の宰相は、この一大決心を、国民に委ねることとなった。だが、蓋を開ければ、正反対の結果となり、その後の国の政治も含め、不安定が極まり、政治不信は、極まることとなった。同じ状況が、現在の海を挟んだ政局にあり、十日後には、結論が出るのだが、そこまでの喧騒は、尋常ではないと思える。その上、ここまでの経緯からは、選挙後の分断は、更に深まることが、予想されるだけに、決着が着く筈も無く、混乱が、更に強まるのか、はたまた、何かしらの安定が、訪れるのか、と見守るしかないようだ。さて、如何なることやら、所詮、愚民政治の行末だが、根本を改めぬ限り、この状況に、変化は起きない。

* * * * * * * *

10月25日(金)−評価

 著名な美術史研究者の訃報が届いた。ある美術館の創設期に、重要な役割を果たし、その後、大学教授へと転身し、多くの著書もある。彼の話は、四半世紀程前に聴いたが、西洋画、特に、宗教画の意図に関して、わかりやすく話す姿勢が、強く印象に残っている。
 専門家、と呼ばれる人々は、難解な内容を、難しく話すことが多い、と批判されるが、実力の無い人程、その傾向が強い、とも言われる。その点で、彼の話し方は、示唆に富むもので、庶民にも、とっつき易いとの印象を与えた。その意味で、自分が話すならば、という想定をもつと、参考になる部分が多かった。彼は、専門家として、多くの作品選考にも携わり、重要な役割を果たしていた。こちらに関しては、門外漢だから、どんな評価が下されるのか、全く分からない。ただ、あの世界は、独自の評価基準をもち、作品の質を、正しく見ているのか、様々に議論されている。その状況は、古今東西を問わず、問題とされており、今、著名な画家として、評価の高い人々も、生前、全く評価されず、不遇なままに生を閉じた人も多い。先日、観てきた展覧会の主も、その一人と言われ、天才と呼ばれつつも、美術学校進学後は、高い評価も受けず、職をも転々とすることとなった。南の島に、転居後に、彼の日本画は、全く異なるものとなり、今は、それが高く評価されている。だが、生前は、長く評価されず、当然、それ以前の作品に、光が当たることも無かった。それ故か、若い頃の作品は、売り歩いたからか、各地に散らばり、個人蔵となっていた。評価が高まるにつれ、それぞれが発掘され、今回も、その多くが展示されていた。天才ぶりは、其処彼処に現れ、驚くばかりだが、当時の画壇では、誰かの思惑か、評価されずに、埋もれたままだった。まるで、江戸時代のあの日本画家のよう、と思った人も居そうだが、絵の評価とは、そんなものかも知れぬ。誰かが、評価するまでは、見向きもされず、埋もれてしまう。最初の彼が、どんな役を果たしたのか、これから論じられるかも、

* * * * * * * *

10月24日(木)−鵜呑み

 社会媒体で表示される、求人の知らせで、危ないものを、紹介していた。いい大人達が、寄って集り、普通の募集との違いが、明白だと断じる。そんなものに、何故騙されるのか、との声が上がるが、問題がそこにある、とも思えない。犯罪に手を染めた、若者達の挙動は、不審極まりない。
 傾向と対策の時代、こんな例示で、思い直す筈、とでも思うのか。確かに、高額収入や連絡方法など、それらの特徴は、例の募集に付き物だ。だから、その特徴を示し、それを見たら疑え、と伝えさえすれば、如何に愚かな人間も、気付く筈、という訳だ。だが、と思うのは、こちらが、穿った見方しか、しないからかもだが、そうなれば、その特徴のみを見つけ出し、それが無ければ、大丈夫と思い込む、のではないだろうか。これまでも、様々な詐欺が横行し、その度に、特徴を訴えることで、騙されないように、との警告を発してきた。すると、犯罪集団は、それには触れず、別の言い回しを、駆使することで、新たな被害者を、絡め取ってきた。鼬ごっこ、と言われる所以だ。だとしたら、あの世代が得意とする、傾向と対策は、殆ど無力であり、今度こそ、と欲に駆られた若者達は、同じことを、繰り返すだけだろう。募集や勧誘の手口は、すぐに修正され、指示役と呼ばれる、犯罪集団の一角も、別の手練手管を、弄するに違いない。要するに、問題の核心は、そんな言葉遣いや、心理的操作にあるのではなく、本質的な、物事の判断基準の、逸脱にあるのだ。論理的思考の大切さを、何度も強調してきたし、批判的な精神の重要性も、口が酸っぱくなる程に、繰り返してきたが、まさに、そこにこそ、問題の本質がある。これに、気付けぬ人々が、まんまと、犯罪の片棒を担ぎ、恰も、自身をも被害者と、思い込む姿勢にこそ、こんな犯罪の温床が、あるのではないか。そういう育て方をした、あるいは、そういう育ち方をした、という点に、気付かぬうちは、この犯罪は、無くなりそうにない、と思う。

* * * * * * * *

10月23日(水)−手掛かり

 やればできる、と豪語するのは、本人達の勝手だが、何もできなかった時に、周囲の責任にするのは、止めるべきだ。これもまた、あの世代の特徴、と言われることの一つだが、実際には、それ以前から、そんな人間は、社会に掃いて捨てる程居た。ただ、放置されず、厳しく叱責されたのだ。
 他人の責任にしても、結局、自分が叱られれば、どうしようもない。それはまた、組織の中では、低い評価となり、昇進が遠ざかる。その結果、評価を高めようと、努力する人も居れば、ここには、居場所が無いとばかり、転職を繰り返す。自己批判の気が無く、責任転嫁に終始すれば、そんな人生しか歩めず、結果として、社会への貢献は、望めなくなる。そんな人物が、家族をもてば、どうなるのかは、大体想像が付く。ただ、そんな中でも、鳶が鷹を、では無いが、違った性根の子供が、現れることもある。今の世の中は、貧困家庭では、恵まれぬ子供しか育たず、貧困が、更なる貧困を呼ぶ、などと断じる人が居るが、それは、どうかと思う。確かに、様々な困難を抱え、成功を手にするまでの、道程は、険しいものとなるだろうが、そうと決まったものではなく、自分なりの選択が、ある筈なのだ。それを、悲観的に捉えさせ、さも、手を差し伸べるが如く、振る舞う人々こそ、彼らの可能性の芽を、摘んでいるのではないか、と思っている。努力が、全てではないものの、それを怠れば、何も手に入れられず、厳しい状況に追い込まれる。だからこそ、先を夢見て、日々の研鑽を積むことこそが、大切な筈なのだが、まるで、可能性が無いかのように、断言した上で、支援を得ることのみが、唯一の解決策、と誘いかける人々は、一見、親切の塊に見えて、その実は、正反対の思惑で、動いているだけではないか。確かに、貧富の差は、如何ともし難く、越えられぬ壁、のように見えるが、実際には、聳えるように見えても、手掛かりがあり、越えられぬことは無い。自己批判は、その為に必要な、道具の一つではないか。

* * * * * * * *

10月22日(火)−大人の責任

 では、何を間違えたのか。最も大きいのは、社会からの関わりを、ある意味、断ち切ってしまったことだ。子供の成長に合わせて、周囲の様々な人々が、それぞれに、関わりをもつ。その際に、単に、褒めるだけでなく、時には、叱ることも必要で、どちらもせずに、放置したことが、最大要因だ。
 その上、同じ年代同士の関わりも、多くの制約を受けた。ここでも、褒めることは、正方向の関わりとなるが、何かしらの文句をつければ、負の方向となり、虐めなどと糾弾される。これは、海の向こうから、持ち込まれた、定義の問題が、元凶だろう。harassmentというものが、それ以前には、加害者側の感覚を、主体とした基準だったものを、被害者側が、どう受け取るかで、決めるとしたことが、諸悪の根源となった。それに加えて、平和な時代だからこそ、傾向と対策が、重要な手立てとなり、それを教え込むのに、褒めることが、最も重要な手段となった。誰からも、批判されず、勝手気儘に振る舞う人間は、個性豊かな人物として、高く評価され、それが、成功への道の如く、取り上げられるに至っては、もう、手の施しようが無くなった。そこまで来て、改めて、問題が意識され、対策が、喫緊の課題などと、宣う人々が登場した。しかし、虐めの問題も、個性の問題も、そのままにして、かたをつけるのは、容易なことではない。一方で、そんな時代にも、かなりの割合の人間が、普通に振る舞うのは、何故なのか、あまり論じられてこない。これは、自己批判の有無による、違いなのだが、気付かぬようだ。その意味では、こんな時代でも、捨てたものではなく、それなりに、能力を発揮できる人材は、出てきている。だから大丈夫、などと言うつもりは、毛頭ないが、その他大勢の問題は、今の状況では、片付きそうもない。世代内で、作用し合うことが、困難というのが理由だ。だとしたら、やはり、上の世代が、責任を果たさねばならぬ。どうすべきか、考えてはどうか。

* * * * * * * *

10月21日(月)−放任主義

 週を跨いでしまったが、Z世代のことを、続けてみよう。検索してみると、世紀末を挟んだ、二十年程の期間に、生まれた人々のことを指すという。但し、定義は曖昧で、かなり幅があるらしい。まあ、いずれにしても、大戦後、半世紀を経た頃に、生を受けた人間のこと、ということだ。
 何故、彼等が、それほど奇異な行動を示すのか。様々な見解があるだろうが、こちらが思うことは、一つだけだろう。長く続いた平和な時代が、強く影響を及ぼしている、ということだ。それでは、余りに茫洋として、掴み所が無い、と思うだろうか。つい先日、この国では、国政選挙が、始まったが、それに対して、街頭で、若者達に、問いかける場面が、映し出されていた。その中で、ある若者は、投票に行く、と話していたが、もう一人は、行かないと答えていた。理由を問われ、分からないから、と返答していたが、そこで映像は終わっていた。この遣り取りこそ、あの世代の典型と思った。まず、分からない、と平気で答えることである。誰も教えてくれないから、何も分からない、というつもりか。だが、選挙は、国民の義務の一つであり、それを知ることも、義務のようなものだ。その上、情報が溢れる時代、ちょっと検索すれば、何でも表示される。その手間が惜しい、とでも言いたいのか。一方で、この状況に、違和感を抱かないことが、あの世代の特徴の一つではないか。これは、はじめに書いた、平和が続いたことが、影響を及ぼした一つだと思う。平和が続く中、厳しい状況に、追い込まれることは減り、ただ漫然と、過ごすことができる。その上、虐めの問題から、叱られることもなく、同世代でも、互いに批判しない。それでも、自己批判ができる人間は、何も困らないが、できない人間は、他人の批判が必要で、それ無しでは、成熟できないのだ。そこに、最大の問題がある。その上、褒めて育てる、などと馬鹿げた育児法が流行り、捻じ曲がった心は、矯正されることなく、好き放題となる。

(since 2002/4/3)