自分自身に関して、どう評価するのか。重要な問題として、何度も取り上げられるが、唯一の正しい答え、がある訳ではない。一方で、最近の風潮で、気になるのは、自信過剰というか、過信というか、どんな表現が、当てはまるのか分からないが、兎に角、やればできる、という態度だ。
自信が無くて、何もできない、という人が居る一方で、何でもできる、と信じ込む人が居るのは、何故なのだろう。それも、実際に、その事柄をやることは無く、どんな結果が出るかについて、推測するしかない状況で、他のことでも、何の成果も得られなかった人が、矢鱈に、やればできる、と主張する心情は、全く理解できない。その上、自分が、それをやらない理由で、誰もやらせてくれない、とか、機会が与えられない、とか、そんな事情を、付け加えるのを眺めると、この人物は、一体全体、何を言いたいのか、と思ってしまう。自信を喪失して、精神を病む人が居る一方で、こういう自信過剰に出会うと、不思議さばかりが、表面化してしまう。ただ、彼らの自信は、実体が無いだけに、具現化することなく、いつの間にか、忘れ去られる。簡単に言えば、付き合う必要も無く、放置すればいいのだろうが、実は、こういう人々も、精神を病んでいる、のではないかと思う。どんな助言も、頑固ささえ漂う、強固な自信には、何の役にも立たない。仕方なく、叱ったりするが、それは、殆ど逆効果だろう。その叱責も、やらせてくれない、理由の一つとなり、彼らの自信は、揺らぐことなく、続くだけだ。一番の効果は、やらせることで、現れるのだが、これとても、幼稚な精神構造に対しては、別の理由となって、その後の言い訳に、用いられるだけだ。どうにもならぬ、とはその通りであり、自身で気付くまで、待つしかないだろう。こういう人種が、増えたのは、最近のことで、そこに、何らかの理由が、ありそうに思える。まあ、何度も書く必要は、無いだろうけれども。
情報社会となり、人々は、弱者にならぬよう、収集に躍起となる。だが、何をどう信じたらいいのか、さっぱり分からないのではないか。以前なら、信頼できる情報源を、見つけ出すことで、安心が得られたが、今は、そんなものも、多くの塵に埋もれて、探し出せないのだ。
その一方で、種々雑多、玉石混淆の情報に、触れないことに、危機感を抱く。となれば、どんなものでも、手に入れさえできれば、それで安心する、となってしまう。ところが、その内容は、正誤入り混じっており、時に、作為的な嘘が、ばら撒かれている。となれば、詐欺の被害に、遭うこともあるし、時に、そういった犯罪に、加担することさえ、起こりかねない。だとしたら、どうすればいいのか、悩む人が多いようだ。どの世代も、自分で判断ができず、路頭に迷うと、他人の判断に、委ねる傾向が強い。だが、集団心理から見れば、多数が信じる情報が、必ずしも正しくなく、ただ、勢いに乗っただけの、塵でしかない場合が、多いのだ。批判的に、とか、論理的に、とか、そんな見方の重要性を、盛んに取り上げてきたが、まさに、この状況は、そういった判断基準を、如何に有効に、活用するかが肝心だろう。そうは言っても、基準そのものは、人それぞれに違いない。その中で、主観ではなく、客観的に見て、どう判断するかが、重要となる。その結果を、互いに突き合わせ、同じ結論に、到達するのなら、正答に近づいた、と言えるのではないか。但し、ここでも、注意すべきことがある。自分の感覚で、答えを導き出すことが、肝心であり、その過程で、氾濫する情報に、惑わされた時点で、批判も論理も、破綻する場合が、多くあるからだ。溢れる情報に、惑わされずに、独自の判断を、という要求は、誰もが応えられるものではない。その点に関しては、何らかの蓄積が、必要となるのは、自明なのだろう。経験が物を言う、などと言われるのは、そんな所からだろう。さて、動くしかないか。
海の向こうはまだだが、こちらは、既に結果が出た。と言っても、それは単に、選挙の結果であり、例の如く、その後に判明する、違反の数々は、これから発覚する。但し、それらの多くは、候補者本人の責任ではなく、誰か別の人間が、その人の為を思って、やっただけ、と結論づけられる。
以前なら、様々な商売同様、選挙活動も、対面を常としていた。だが、今はどうか。種々の社会媒体が、登場することで、対面ならば、一人ひとりに、出会うことから、物事が始まっていたが、不特定多数に対して、数限りない働き掛けを、行うことが、可能となった。殆ど手間を掛けずに、多くの人々に、同じ意見を、送ることができるだけでなく、その後の連鎖で、鼠講の如く、参加者数の増殖を、続けることが、可能となる。確かに、手法の制限が、設定されており、監督官庁から、一目でわかる形で、広報が行われている。おそらく、世界的にも、同様の制限がかけられ、規制されているのだろうが、社会媒体を使った、多くの詐欺事件から、想像できるように、規制をしても、摘発ができるかは、怪しいものと思える。特に、内容については、先ほどの広報からは、理解できそうにない。一方で、前にも取り上げたが、囀りの企業を、買い取った人物が、投票行為に対して、報酬を出すとの話は、どう見ても、違反に見えるが、件の人物と、彼が応援する候補者の、これまでの言動と、その後の展開からは、そう断言できない、と見えてしまう。その上、選挙自体の結果が、出た後での摘発が、結果を覆すことが、できるかどうかも、判然としない。何しろ、前の選挙での不正を、あれ程に訴えたにも関わらず、結果は変わらず、合法との判断が、下されたのだ。こちらに関しては、何方が間違っていたかは、明らかに違いない、と一般的には、受け取られているが、何しろ、支援者達は、依然として、疑うことをやめず、今回も、騒動を起こす、とさえ脅しているようだ。で、結果は、どうなるのか。
発案から、半世紀を超えて尚、反対の声が消えず、様々な不具合を指摘されるのは、提案の内容やその意義より、反対の理由や、そこから生じる問題が、多くの人々の共感を、得たからなのだろうか。その一方で、発案当初とは、導入の意義が、明らかに変貌したのに、と思うのだが。
国民総番号制なるものが、情報化社会の進歩に伴い、不可欠となるとして、発案されたのは、1970年のことだった。当初から、反対の声は根強く、その後、個人情報の保護が、叫ばれるようになると、その強さは、更に増したとされる。それらの反対を押し切る形で、自分番号なる制度が、導入されたのは、情報共有の利便性が、第一の理由とされる。確かに、確定申告では、以前のような煩雑さが、解消されたとされ、それが、健康保険制度にも、波及し始めたとされた。がしかし、その後の展開は、予想外のものとなり、利便性より、各種の不祥事が、殊更に強調され、個人情報保護どころか、他人との混同など、信じられない事象まで、発生する始末だ。確かに、番号は、人間とは違い、冷たい存在でしかなく、それ自体が、文句を言う訳でもない。だから、初期設定において、何かしらの過ちを犯せば、そこから生じる問題は、多岐に渡るだけでなく、深刻なものとなりかねない。だからこそ、設定時の確認は、二重三重に行われたはずだが、間違いの原因は、殆どが人為的なもので、役人と本人の双方が、怠ったからなのだ。一方、利便性に関しては、国家の威信に関わる、税制については、ほぼ全てに関して、整備が進んだのに、個人の健康に関する方は、遅々として、進んでいないらしい。特に、重要とされるのは、医療機関が、情報を共有できることの筈だが、整備が進まず、問題の指摘ばかりとなる。その原因は、病院の協力が望めず、検証が進まないことで、医療現場の人手不足も、影響を及ぼしている、と伝えられる。だが、本来の目的は、不足の解消にこそ、あるのではないか。現場と監督官庁との連携不足、この解消に必要なのは、歩み寄りだけなのだが。
奇襲を受けた時、衝撃を受けると共に、悔やんでいただろう。実効支配する、ゲリラ集団は、無垢な人々の影に隠れ、綿密な準備を進めた。その結果として、一年程前、音楽祭典の最中に急襲され、こちらも 1200人の無垢な人々が殺され、250人が人質に取られた。
その後の大規模な爆撃も、それによる、4万人を超える殺害も、組織の殲滅を目的とする、政府にとっては、意味のあるものと解釈される。この話については、何度か取り上げたように、単純な殺し合いとして、見るべきではないだろうが、かといって、人道と称する形で、不当としか見えぬ解決策を、講じるべきでもない。確かに、国際機関は、難民達に取るべき措置を、最優先と見做すが、敵対する勢力に、彼らの大部分が、含まれていないことを見れば、容易く解決できるもの、とは考えられない。更に、この問題を、拗らせたのは、国際機関の組織で、この地区の難民を、支援する役割を負う人々が、実際に、奇襲に加担したことが、明らかとなったことで、信用失墜としか思えぬ事態となった。つい先日、彼らの国内での活動を、禁止する措置に出た、との報道に対しても、人道支援を、前面に押し出して、国際機関が反論を展開するが、一部の解任のみで、解決したとする態度に、怒り心頭に、ということだったのだろう。寄り添う相手は、難民であるにも関わらず、暴力の行使に走った組織を、支援したとなれば、本来なら、もっと厳しい措置を、世界は取るべきだったろう。一方的、という表現が、ここでも使われそうだが、人道を掲げる人々が、こんな態度では、期待できそうにない。では、解決への道は、閉ざされてしまったのか。その点に関しては、先日の番組で、ある調査会社の政治学者が、述べた意見が、極端とは言え、的を射てるかも、と思えてしまった。曰く、自治区や隣国に潜む、組織に対して、徹底的な爆撃を繰り返し、地下本部や中心人物を、殲滅しただろうから、もう必要が無くなったのでは、というものだ。
嘗て、ならず者国家(rogue state)と呼ばれた国々の幾つかは、次の代の大統領によって、悪の枢軸(axis of evil)と呼ばれるようになった。内戦を除けば、歴史上初の本土攻撃に曝され、それを仕掛けた勢力に、与する国を挙げたものだが、一つだけ例外がある。
その国が、軍事侵攻を仕掛けた、独裁国家との距離を縮め、武器供与だけでなく、軍隊そのものを、派遣するに至った、と伝えられる。この機に乗じて、という思惑もあろうが、新体制に移行して、更に困窮の度合いを増した、独裁国家は、日々の食糧にも窮する、と伝えられる。その中、せっせと、新兵器と称するものを、打ち上げ続けるのは、どんな深謀遠慮があるのか、知る由も無いが、特別待遇の軍隊さえ、維持することが、難しくなったのでは、などとの憶測が飛び交う。何れにしても、面倒なことが、更に増えた訳で、海の向こうは、どう処すべきか、と様子を伺っているのか。はたまた、選挙の結果が出てから、新たな方策に、出ようということか。それにしても、前大統領は、賞欲しさか否かは、誰にも分からないが、兎に角、例の調子で、自分なら御せるとばかり、乗り出したものの、何の成果も上げられず、その上、一時とは言え、扱いを変えたことが、隣国の前政権の宥和政策と重なり、体制強化に、与したとも言われる。これもまた、独裁政権にとり、利己的な振る舞いを、正当化するに繋がり、事態の悪化を招いたようだ。だからこそ、今回の選挙で、返り咲くとなれば、懲りもせずに、自分ならできるとばかり、紛争地域を踏み躙り、勝手気儘な策を、押し付けることになりかねない。このことも、世界全体が、憂慮する点であり、海の向こうの内政に留まらない、影響の大きさに、固唾を飲んで見守る、しかないと言われる所以となる。それにしても、冷戦時代には、強大な存在感を、得ていた国でさえ、こんな事態に見舞われるとは、混迷の時代に、あると言うべきだろうか。
盛り上がらなかった、のではないか。その上、与党が過半数を割っても、政権交代の気配は、全く見えておらず、先行き不安を、煽りまくる姿勢が、例の如く、大勢を占めている。その中で、不安定な政局を、どう切り抜けるかが、肝心と言われるが、本当に、そうなのだろうか。
別の見方をすると、来週の、海の向こうの選挙を、見守ろうというのが、大多数なのでは、と思ってしまう。自国の問題を、他国の問題によって、解決できる筈が無い、と思う人も居るだろうが、それ程に、手詰まりなのでは、と思う。将棋や囲碁において、睨み合いが続き、局面が、定まらぬ時には、打開策が必要、と言われる一方で、いや、相手任せにするのも、一手ではないか、との意見もある。対戦では、相手の動きが、重要な要素となるが、国の政治では、そんな相手が、常に存在する訳ではない。その代わり、全体の流れによって、どう動くかを決める必要が、ある場合もあり、庶民も、自分達の投票行動で、結果が出たとしても、その先の思いが、ある訳でもない場合も多い。今回の選挙は、まさに、そんな様相を呈し、結果が出ても、当事者でさえ、考えが決まらず、途方に暮れている、ようにも見える。それは、言行不一致の新宰相の、責任感の欠如から来る、との見方もあるが、渦中の人々にとり、与党も野党も、ある程度、予想通りの結果だったとは言え、次の一歩を、決めていた訳でもなく、今も、出方を待つ姿勢、なのではないかと思えてくる。こんな状況だから、あの世代の若者達が、自分達の不明を、恥じることなく、選挙前も選挙後も、ほらみたことか、と思い続けているようだ。未来を、見通すことができず、自分にも、他人にも、そしていい大人達にも、期待できない、と思うからこそ、そんな状況で構わず、このままで、問題無いと思う、のではないかと思えてくる。ただ、あの世代を相手にせず、自分達のことだけを、考えたとしても、この状況は、何だかなあ、と思うしかない。