此処も含めて、発言に、気をつけねばならない、と言われる時代だ。嘗て、ある私立大学の、女性教授が、盛んに、捲し立てていたのは、放送で禁じられる、用語の数々だったが、幼少時、何の意識もなく、使ったものが、殆どだった。それらが、禁止されたのは、時代の変化か。
特に、その当時、海の向こうから、新たな考え方が、押し寄せてきた。苛めは、する側ではなく、受ける側が、どう感じるかで、認定されるべき、というものだ。同じことが、差別用語にも言え、受ける側が、どう感じるかを、発する側が、理解することが、必要というものだ。一民族で、成り立つ国家と、思われてきた国では、他民族への理解が、不十分なのは、当然のことであり、その上、戦争を挟む形で、強い圧政を、敷いてきたから、当然の結果ともなる。だが、その後の変遷は、ある意味、予想外のものだった。差別意識は、優越感の表れ、とも言われるが、一方で、その奥底には、劣等感があるから、と言われる。個別の問題であり、一概には言えぬ、と思われてきたが、手にした端末から、発せられるものの多くには、まさに、これが当てはまるようだ。優劣を、明確にすることで、優位側が、安心感を得る、という図式は、確かに、多くに当てはまる、と思われてきたが、実際には、劣等側に属すると、潜在意識で、認めているからこそ、相手の劣った部分を、殊更に強調し、貶めようと言い募る。その意味では、そんな輩は、相手にする価値も無く、無視するのが、最善の策なのだが、端末から発せられる、社会媒体での発言は、同類の、劣悪人種にとっては、便乗し易いものと映る。結果、炎上に似た、爆発的な閲覧が、起きることで、社会的な制裁と、似た現象が起きる。これは、どの立場の人間にも、起きることであり、王室や皇室なども、例外ではない。苦言を呈するのは、これまでの手立ての一つだが、通用しない相手には、無駄でしかない。匿名性を、悪用するのは、自身の価値を、無にするのだが。
差別の問題が、盛んに取り上げられる。一方で、多様性の時代と言われ、違うのが当然とされるが、こちらはこちらで、上辺だけの、正論を翳す人が、何と多いことか。優劣の問題は、何かしらの評価基準から、起きるのが当然だが、そこから生まれる、差別感は、別物だろう。
能力の上で、走るや跳ぶといった、体力に関する話は、差別の対象とされず、ただ単に、優れているか否か、の問題とされる。だが、それが、学力となった途端に、何やら、不思議な解釈が、施されるのだ。何方も、先天的なものがあり、その上で、努力の積み重ねが、影響を及ぼす。先天だろうが、後天だろうが、差別の問題となると、委細構わず、苛めの一種として、取り上げられるが、何故だろうか。そこには、障害者の親の、心持ちと似た、感情の表れ、と見るべきものがある。褒めて育てる為に、必死で、優れた点を探したり、劣った人間を、蔑む気持ちが、ふと湧いたりする。人の心は、所詮、その程度のもの、と諦めてしまえば、どうということのないものだが、これが、論争の対象となると、躍起になる人が居り、心穏やかには、いられない人も居る。だが、そんなこと、声高に訴えるものでもなし、また、罵り合う対象でもない。ただ単に、多様性の一端、と見れば済むことで、論争は、無意味としか映らない。だが、差別に遭った人、障害を抱えた人、その他、特別な環境に、置かれた人から見れば、只事ではなく、重要な事態、と映っているのだろう。しかし、そんなことで、優位に立とうとする人や、蔑むことで安心する人には、何を言っても通じない、のではないか。だったら、知らぬふりが、一番に思える。所詮、その程度の人間なら、相手にする価値もない、と心の中で決め込み、無視するのが、一番だろう。それでも、追いかけてきたら、どうしたらいいのか、と思う人も居るだろう。でも、それでも尚、知らぬ顔をして、逃げるのが、勝ちなのではないか。劣った人間は、彼方だから。
障害についての話が、あった。障害を持つ子供が、何かしらの才能を見せた時、多くの人々は、ある意味、感動するのだが、同じような子供を持つ親の中に、全く異なる反応を、示す人が居る、という話だ。凄い、という言葉の後に、うちの子は、と続けるのだ。羨ましげに。
自閉症と呼ばれる、人との関わりが、難しいとされる中に、特異な才能を見せる子供が居る。別の名前の症候群で、呼ばれるようだが、その原因は、よく知られていない。しかし、一度聞いただけの音楽を、即興で演奏したり、電話帳の文字と数字を、暗記したり、一般の子供や大人が、どんなに努力しても、できないことを、やってのける。先日の話では、立体的な物体を、木片や紙切れを使って、精密に再現できる、という才能だった。自動車の外形だけでなく、車内の構造までも、再現する能力に、驚嘆の声が寄せられる。確かに、それも特異な才能の一つ、に違いないが、この子供ができるのは、再現であり、何かを新たに作り出す、という能力ではない。だから、という訳ではないが、演奏も、暗記も、確かに、驚異的な能力に違いないが、さて、どう発展させられるのか、考えてしまう。神童と呼ばれた、ある音楽家は、確かに、幼少の頃から、他人が演奏した楽曲を、再現する能力を、発揮していた。だが、彼の凄さは、その後に、それを、より良い楽曲に変え、即興演奏したことだろう。才能とは、どんなものか、と考えてみると、この逸話は、重要な示唆を含んでいる。一方、親の漏らした言葉にも、重要な意味が、含まれていると思う。羨ましい、という感情は、誰もが持つものだが、その中に、差別感のようなものが、含まれるということだ。障害という言葉自体、忌み嫌う人が居て、差別的と批判されるが、そんなことと関係する人が、こんな感覚を、抱いていることに、目を向けるべきではないか。区別と差別、同じものを、どう見るかの違い、と言われるが、本性が違うように思う。
嘗ての大名が、保管してきた、戦国武将の書状を、眺めてきた。維新前には、大名屋敷が並んだ地域に、今も残る広大な敷地の中、その文庫は、ひっそりと建っている。周囲には、閑静な住宅街があり、観光地の喧騒とは、かけ離れた場所、とも言えるようだ。だが、内部は、違っていた。
元宰相の住宅も、その地域にあり、相続税の納入で、物納の為に、半減したとは言え、荘厳な門構えは、そのまま残されている。文庫以外にも、同じ大名屋敷だった、敷地には、学生用宿舎や、様々な建物があるようだが、文庫の周囲は、庭園となっており、静かなものだ。だが、内部は、この展示からか、多くの高齢者が、訪れており、皆静かに、書状の内容を、読み取ろうとしていた。こちらは、そんな教養は無く、武将の直筆とか、新発見とか、そんなものばかりに、目を奪われていたが、中でも、興味を惹いたのは、朱印と黒印の違いだ。予備知識無く、眺めているのだから、何ともはやだが、公文書と私文書の違い、とされるようで、ただ、その当時は、区別は、明確ではなかったようだ。戦乱の時代に、互いに、腹の探り合いをし、協力関係が、築かれたり、離れたりと、不安定だったようだが、その中で、あの「変」が起き、その後の展開は、混沌としてくる。起こした側の、娘を嫁に取り、濃密な関係と思われたものが、どういう訳か、敵味方となり、その後の流れは、歴史から学んだ人も、多いだろう。それにしても、よくこんなものを、保存できたものだ、と感心するばかりだが、目的を持ち、号令をかけた人物は、やはり偉大だったのだろう。書状の殆どが、重要文化財に指定され、歴史上の、重要な証拠として、認められている。今回は、それに加えて、新発見があり、それが、人を集める要因と、なったのだろうが、それにしても、予想外に多かった。興味を惹いたのは、もう一つ、あの所蔵庫から、武将が、許可を得て、持ち出した上に、切り取ったとされる、香木二片のうちの、一片が展示されていた。収蔵庫の中では、香りを確かめることも、できなかったが。
今、減税話で、話題となるのは、壁の問題だ。だが、この壁、何だろうか。税制は、複雑で、理解し難い、というより、毟り取られるものに、有無も無い、と思うのが、正直な所だろう。ただ、この仕組みは、海の向こうでは、大きく異なり、そちらはそちらで、理解に苦しむ。
後者の話は、以前も取り上げた気がするが、記憶は不確かだ。だから、という訳でもないが、ここでは、壁の話だけを、取り上げてみる。今回の見直しでは、壁の存在のみが、注目されている。しかし、この国の税制で、何故、壁と揶揄される、給与水準が設けられたのか、すぐには理解できない。とはいえ、壁の線引きについても、幾つもの不思議が、存在している。何故、103万円、となったのか。それは、いつから変わっていないのか。後者について、検索してみると、こんな記事に当たる。その他の多くの情報は、全くの役立たずで、皆の期待通りに、将来の何時になれば、壁が変わるのか、ということだけを、取り上げている。さて、元の記事では、103万円になってから、およそ30年の時が、流れたとある。元々、この水準は、物価の動向に従い、変更されるべき、との考えがあったようで、この期間、物価の変動が、それ以前と比べて、緩やかだった、と見ることができる。これは、今回の物価上昇から、給与水準の変更が、多くの企業で、行われたことと、ある意味、似たことのように思える。つまり、国の財布の紐を、預かる省庁からは、この期間、物価も給与も、殆ど変化がなく、却って、値下げを善とする、考え方が、社会全体に広がり、それに、甘んじていた、と見ることもできる。それが、事実かと言えば、そんなことはなく、物価は確実に、上昇を続けていた。しかし、一家の大黒柱を含め、給与水準は、一定に抑えられたままで、目減りさえ、感じられる状況にあった。そんな事情から、閉塞感が強まり続け、国民の生活は、厳しくなり続けた、とされるが、本当だろうか、と思う。
信憑性、という点で、最も重要なのは、誰の発言か、だろう。だが、自分と相手の間に、媒体が介在すると、話は複雑になる。誰かが、間に入っても、何かが、間に入っても、それは、一次情報ではなく、二次的なものとなる。それに加えて、発言者が、嘘吐きなら、信憑性は皆無と。
こういう話を、冷静に、分析的に、語る限りは、何の間違いも起きない。しかし、今の状況では、そんな雰囲気は無い。興奮した人々が、自らの主張を、声高に訴える中、誰が、冷静に、対処できるか。特に、近年は、心理的なものだけでなく、物理的なものも、暴力が、横行しているからだ。陰口を叩かれる、位ならば、それまでに築いてきた、確固たる信頼度は、揺らぐことはない。だが、身体的な暴力を、振るわれた結果、黙らされるとなれば、それを、回復する手段は、容易ではない。だからこそ、発言に注意したり、発言する場を選んだり、人は、それぞれに、自衛手段を講じる。でも、と思うのは、社会媒体は、どういう代物か、ということだ。慎重な発言を、繰り返したとしても、無知な人間や、悪意に満ちた人間が、溢れる世界では、思い通りにはならない。特に、誤解を招くというより、曲解することを、常とする人間を、相手とした場合には、どんな言葉も、無力となり、無駄となる。結局は、その場を去るしか、方法が無くなり、その結果、負けを認めた、とまで断じられる。これを避ける為に、何をしたらいいのか。最も単純なのは、触らぬ神に、よろしく、そんな媒体と、接触しないことだ。だが、そこでも、最近の様子では、誰かとの会話が、勝手に投稿され、批判の対象となったり、場合によっては、言ってもいないことを、伝聞として、書き込まれた挙げ句、炎上する場合もある。ここでも、人間関係が、重要な要素となる。相手を選ばずに、軽々に話した結果が、そうなったとしたら、人を見る目が無かった、となる。恨みつらみも、その一つだろう。知らぬ相手に、売られた喧嘩も、そんなものかも。
情報源の信頼度で、今話題となるのは、既存の媒体か、あるいは、社会媒体か、といった所だが、以前なら、人と人との関わりが、情報伝達の手段だったから、その人間が、信頼できる人か、あるいは、何度も騙されてきた人か、という違いから、判断が行われてきた。
そんな環境で、既存の媒体は、新聞にしろ、テレビラジオにしろ、ある程度の検証に、晒されるものとして、信頼を築いてきた。だが、近年、その地位が揺らぎ、危うさが増しており、そこに加えて、煽りの姿勢や、話題性優先の姿勢が、情報の確認を、怠る体制を、築いてしまっている。こうなれば、冷静に観る人間には、信頼に値しないものとして、鵜呑みにせずに、確認を常とする姿勢が、築かれるものだが、そうできない人間の方が、遥かに大勢居り、それが世論となるだけに、警戒を要する時代、と言えるのだろう。だが、今の論争は、二つの媒体が、互いを貶し合い、事例を挙げながら、信頼度の低さを、競っているように見える。こんな中、愚かな民衆、と呼ばれてもいる、大勢の人々は、何方に与みすべきか、見守っていたり、中には、論争に加わり、自身も、根も葉もない噂を、撒き散らすことに、気付かぬままに、当てもない論争に、熱中している。だが、冷静に、議論に加わる人とて、大袈裟に、持論を展開するが、さて、その主張が、どれ程に信頼できるのか、怪しいものと映る。昨日も、公共放送に乗り、その論争を取り上げた、討論番組が、放映されていたが、その中で、社会媒体を、擁護する人間が、主張した内容は、冷静な話ぶりに反して、浅薄な論理に基づく、事実誤認でしかなく、所詮、この程度の輩が、こんな時間を使って、既存媒体で、話し合う内容とは、とても思えないものだった。紹介したリンクからは、契約者しか、視聴できないが、12分過ぎに、その主張が流れるから、可能な人は、眺めて欲しい。社会媒体は、捏造や嘘に溢れるが、一次情報を、流す限りは、そうでないとの主張だが、復活を果たした、海の向こうの人物は、「移民が犬を食う」、と明言した。が、当地の市長は、それを否定していた。発言は、一次情報だが、彼は、これまで何度も、同じ過ちを繰り返している。