何故、本が読まれなくなったのか。改めて、書いてみようと思う。前にも指摘したように、手にした端末から、せっせと情報発信し、他の人の意見を、受信することから、活字離れが、主原因でないことは、明らかだろう。としたら、本や雑誌、新聞などと、社会媒体は、どう違うのか。
はっきりしているのは、今の若者の多くは、読みたいものを読み、知りたいことを知る、だけのようだ。既存の媒体では、好むと好まざるとに関わらず、様々な情報が、流されてくる。だが、それらの多くは、何かしらの偏りが、含まれており、若者の多くは、騙されないぞ、という気で、接しているようだ。だとしたら、好きでもないものに、接する必要はなく、気持ちが良くなる、そんな内容だけに、接すればいいだけだ。そんなことが、今の世の中に、あるように見える。活字離れが、叫ばれた当初、社会媒体は存在せず、皆、仲間内での、おしゃべりに、興じるだけだった。そこに、社会媒体が登場し、受信のみならず、発信までもが、可能となったことから、皆の注目を浴び、多くの賛同者が増えた。その一方で、顧客を失い始めた、出版産業は、日々の報道を含め、信頼を回復する兆しは、見えぬままとなっている。で、昨日、一昨日の書籍に関して、一言書いておきたい。どちらも、海の向こうの大学教員が、著したものだが、厳しい批判を浴びせたのは、それらの偏向ぶりであり、主観から抜け出せぬ、無益な内容だからだ。研究者は、主観的な提案から、計画を練り、集めたデータを、客観的に解析することで、多くの人々の賛同を、得た結果、論文を発表できる。同じことを、書籍でも、行なっていれば、面白さは別として、信用できる内容、となっただろう。だが、今回の二冊は、何方も、その範疇ではなく、客観性の無い、極論を展開した、だけのものとなった。以前、読んだ本でも、高評価を与えた本は、研究に関わるものでも、それに携わった研究者ではなく、物書きが著したもので、それによって、客観性の担保ができた。多分、人気回復には、そんな手法が必要で、誰が読んでも、成る程と思えるもので、なければならない。
今月は、偶然だろうが、もう一冊、重荷となった本を、読んだ。20年前に、題名に惹かれて、予備軍に入れておいたが、価格の問題と、文庫化への期待で、放置しておいた。だが、出版社の方針は、文庫への道を、閉ざしてしまった。それでも、売れたらしく、20刷を数える。
重いから、移動中には向かず、就寝前に、読むこととしたが、すぐに杜撰な内容に、その気が失せた。長くかかったが、遠出の機会に、思い切って持ち出し、やっと読了した。和名では、常套句とされる、木を見て森を、の言葉があり、考え方の違いを、指すものと思ったが、原著では、AsiaとWesternの違いと、その理由を、語るとあり、少し違う感触だ。世界観の違いを、研究対象とする、研究者の著書だが、内容が杜撰となったのは、元となった研究の問題だけでなく、偏った主観が、本全体に溢れていたことで、彼によれば、分類好きの西洋とのことだが、まさにそれを当てはめた、分類整理の過ちが、反映されたものとなり、論理を重視する、と語りながら、その一方で、非論理的な結論の、押し付けに終始していた。科学的、と謳うのは、出版社や著者の勝手だが、その欠片も感じられず、怒りさえ、覚えてしまう。例を挙げれば、p217にある、科学における、二つの地域の違いだろう。ある著名な賞の、受賞者数の比較だが、90年代を、例として挙げ、そこに、宗教や討論の違いを、原因と掲げていた。しかし、この期間に、受賞したのは、こちらでは、文学賞の一人のみで、あちらは、50人近く居た。が、これが、恣意的なものなのは、次の10年間には、こちらは、化学と物理に、7名となった訳で、極端さは、かなり軽減する。その上、この賞の選考過程で、科学の先駆者たる地域が、優勢を誇ることを、考えに入れれば、如何に馬鹿げた論法か、容易に理解できる。事ほど左様に、狭隘な主観に、引き摺られる研究を、続けてきた人間が、本を著せば、こんな具合となる。もう、御免だ。
書籍離れは、言われて久しいが、文字離れとは、違うようだ。何しろ、せっせと、手にした端末から、発信すると共に、流れてくる情報を、読み取ろうとする。では、書籍の売り上げが、低迷するのは、何故だろうか。理由の一つは、良い本が、出ていないということだ。
そうは言っても、こちらは、大した読書量ではないが、毎月、読んだ本に、取り上げる程に、新刊本を買い、読んでいる。ただ、その多くが、落胆に繋がることは、残念でしかない。また、それこそが、低迷の主原因である。今月も、その一つに出合い、月末には、掲げる予定だが、その前に、ここで紹介しておこう。無知の科学との副題は、原著の、illusionとの表現から、錯覚と訳され、内容を表すもののようだが、どうにも、解せない内容であり、その上、通常の感覚から、かけ離れた調査結果には、歪曲さえ感じる。日常、使いこなす機器の、原理さえ知らぬのは、常識の一つであり、それ自体、新しい話題とは思えぬ。そればかりか、平均的な人間として、本の中で紹介される、人々の、無知ぶりには、誇張ばかりが、目立っており、著者達の偏見に、長く付き合うのは、苦痛でさえあった。中でも、極論としか、思えないのは、全ての人間は、自らの無知を認め、それを補う為に、集団や社会で、共有される知識を、活用する必要がある、という主張から、無知は、当然のことであり、放置して構わぬ、との結論に、到達させる姿勢だ。確かに、全てのことを、覚えておくことは、脳の容量からして、不可能であることは、自明だが、だからと言って、無知を放置して良い、とはならないのも、自明だ。社会で共有される知識は、そのどれもが、誰かからのもので、その誰かは、社会の一員であり、この本の、対象でもある。だとしたら、誰もが、それぞれに、自らの守備範囲の、知識を担う必要があり、他の無知は認めても、その範囲だけは、守る必要がある。この点が、著者達の無知を、表しており、「主張する本を書くのは、自分たちが無知であるという苦痛をやわらげるため」などと、書くこととなる。知識ではなく、智慧を大切にする、姿勢こそが重要だ。
異なる解釈が必要、という話は、正論を常とする場では、何か、違っているのでは、と考える人が、居ると思う。確かに、正論を、確実に届ける為には、断定的な表現を、心掛けるのが、最適なのだが、それを、相手にされたら、どう受け取るのか、考えてみるといい。いい気はしない。
正論の多くは、自分の主張を、完全否定するもので、拒絶反応が、すぐに起きる。だからこそ、正論を貫く人々は、厳しい反発に遭い、排除の憂き目を見る。だが、何方が正しいのか、火を見るより明らかで、議論の余地は無い。だからこそ、正論は、正論と呼ばれるのだ。だが、社会全体としては、全てが、正論で通る訳では無い、と信じる人も多い。その為、厳しい指摘に対して、道理としては、その通りだが、世間の民にとり、そうならないことが、非常に多い為に、それを、そのままに、受け取る訳には、いかないとされる。その結果、正論を掲げた人は、社会から排除され、抹殺される。真実を、追い求めたにも関わらず、その功績は、認められることはない。だったら、断定するより、ある程度の余地を、残したままで、正論の一部を、主張した方が、為になるのではないか。そんなことを、考えてしまう。と言っても、理解できる人は、確かに居る訳で、その結果として、過ちを犯した人は、結果的に、舞台を去ることとなり、正論を掲げた人は、最後には、認められるようになる。そんな思いから、複数の解釈が、可能となる文面を、書き込み続ける訳だ。結果として、どうなるかは、こんな場で語るだけでは、明確にはならない。しかし、別の場では、数々の成果を上げ、それに対して、評価が高まってくる。但し、その過程では、例の如く、貶めようと、躍起になる人々が、暗躍して、水面下で、排除に努める。理解ある人々は、その手の企てに、危機感を抱き、そうならぬよう、働きかけてくれるが、前者が、権力を握ると、ろくでもない結果になる。
伝達を考えると、何方かと言えば、送り手の問題、となるように思える。特に、嘘や出鱈目は、それを作る人間に、責任があるから、当然のことだろう。だが、伝言遊びの場合、それが起きるのは、送り手である前に、受け手であることに、原因があるように、思えないだろうか。
お解りだろうが、情報伝達においては、送り手だけでなく、受け手の問題が、重要となる。同じ言葉でも、受け取り方により、正反対の意味になる、こともあるからだ。例えば、新入社員への指導で、報連相(ほうれんそう)とか、確連報(かくれんぼう)とか、心得が紹介される。報告、連絡、相談も、確認、連絡、報告も、新入社員が、上司に対して行うべきこと、として説明される。だが、どの行為も、上司にどう伝わるか、別の言い方をすれば、どう受け取るかが、重要となる。人間関係が、度々問題視されるのは、送り手だけでなく、受け手の能力が重要で、組み合わせが、肝心となる。そうでなくとも、受け取り方を、どうするのかが、大事であることは、実際に、関わってみると分かる。この見方は、社会媒体について、考えてみれば、よく分かるのではないか。熱狂的な盛り上がりが、見られた時に、どんな遣り取りがあったのか、後になって、理解に苦しむことが、度々起こる。これは、伝達された内容を、正確に理解するより、勢いで、皆が熱狂するのは、送り手の問題というより、受け手の問題だからだ。すぐに乗せられる人は除き、多くの人々は、彼らなりの解釈で、送られてきたものから、真意を読み取ろうとする。ただ、解釈は様々で、時に、正反対となることもある。何が、原因かは、明らかだろう。人それぞれは、人それぞれだからで、解釈の仕方も、様々となるからだ。最も重要なのは、受け手の違いに対して、誤解されぬように、念入りに、準備しておくこと、と思う人が多いだろうが、必ずしも、そうはならない。断定的な表現より、異なる解釈を、許すような表現が、大事になるのでは、と思う。
情報収集が大切、と考える人は多いが、では、情報伝達は、どうだろうか。意外に、その大切さを、認識していない人が、多いのではないか、と思う。例えば、伝言遊びを、思い出して欲しい。二、三人を、経てみたら、話が、全く違っていた、という経験が、あるのではないか。
同じことが、実社会でも、起きている。伝聞の信頼性は、確かに、発信源の、意図的な嘘や、恣意的な捏造など、そんなものが、大きく影響するが、実は、伝達者の問題が、それ以上に、大きいとも言われる。間に、数人入ってしまえば、他の人々が、如何に信頼に値しても、たった一人の、無意識な行為により、話が全く違ってしまい、受け取った人々は、被害を受ける。噂話程度のものなら、笑い事で済ませられるが、重大な話題だった場合、とんでもないことになる。こんな間違いを、防ぐ為に、多くの人は、複数の情報源を頼りに、確認作業を行う。だが、全てにおいて、これが可能かと言えば、そうとは限らぬ。だからこそ、伝達の重要性が、情報社会において、強調されるのだ。でも、媒体はどうか。社会媒体は、信頼度が低い、と言われ続けており、鵜呑みにする人は、少ないと見做されてきた。しかし、最近の状況は、却って、従来の媒体の方が、意図的な情報操作が、頻繁に行われており、信頼できないとされ、その一方で、一次情報を流す、社会媒体こそ、最も信頼できるもの、との見解が、盛んに喧伝される。だが、玉石混交が、そのままなのに、どうやって、その情報が、一次か二次か、更には、捏造などの手が、入っているか否かを、判断するのだろうか。こんなことを書くと、そりゃ無理だ、と言われるだけだが、今、そんな状態に、私達はあるのではないか。だとしたら、どんな手立てを、講じる必要があるのか、を考えるべきではないか。法律などで、様々に、制限をかけるのは、勿論のことだが、ここまでくると、参加者全員が、何かしらの考えを、共有する必要が、あるように思う。時には、ある種の人々を、排除することも含めて。
社会媒体の評価は、如何だろうか。そんな疑問を、打つけられたら、どう答えるか。ある範囲では、高い評価を、とする声もあるが、全面的には、とはとても言えず、批判の声は、止むことが無い。理由は、簡単なことだ。自分も含め、参加者それぞれが、信用できないからだ。
大災害が起きた時、緊急の情報伝達が、遮断され、戸惑う人々は、手にした端末に、届く報せに、救われた、との意見もある。だが、その一方で、この機に乗じて、嘘や出鱈目を、撒き散らす輩が、人々の混乱を招き、快哉を叫んでいた。これでは、頼りにならない、との意見が、出るのは止むを得ない。更に、通信基地が、破壊された時には、ただの箱と化してしまう。今、紛争地帯では、衛星を介した通信が、唯一の手立てとなり、緊急時には、活躍すると言われる。が、これもまた、ただ嘘や出鱈目を、伝えるだけとなれば、無用の長物だ。それでも、多くの人々が、握りしめた端末に、目を向けるのを、止めようともしない。心理学的に、その理由を解説するが、どうにも解せず、これもまた、嘘の一つとさえ、思えてくる。だが、その勢いが、増した原因については、おそらく、多くの意見が、一致しそうだ。それまで、情報伝達を、独占してきた、媒体の信頼度が、失墜したからだ。特に、権力に与せず、一定の距離を置き、反論を展開するのが、常となっており、それによって、権力とは別の見方に、大衆が接することができ、ある程度の平衡が、保たれてきたことが、重要と考えられる。だが、世界的な感染症騒動で、一部の報道を除き、権力に与することで、病原体の封じ込めを、目指そうとした判断が、接種の問題も含め、大衆の信頼を失い、嘘や出鱈目を、政府に追随して、垂れ流すだけの存在、と見做す意見が、大勢を占めるようになった。だから、玉石混交でも、様々な意見が、聞ける場に対して、多くが流れるようになり、今に至っている。嘘と真実を、判別できないままに、だ。