パンチの独り言

(2024年12月16日〜12月22日)
(似非民主主義、一利なし、早生、何の話、茶番か、自分でやる、名でなく)



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12月22日(日)−名でなく

 誰かの話を読む時、何に気をつけるか。多くの人は、誰が書いたか、に気をつける、と答えるのでは。確かに、信用の置ける人が、書いたかどうかは、肝心なこととなる。だが、それだけでは、今の情報の洪水の中、いつの間にか、強い流れに、あらぬ方に流されかねない。
 では、どうすれば。何度書いたか、覚えていないが、兎に角、文章の中身を、吟味するしかない。そんな無駄な時間を、費やすよりも、さっさと、書き手を見極めて、それで済ませば、と思う人が多いだろうが、実は、それこそが、危険極まりない判断、と思えている。以前なら、人の名で、という基準だけで、済んだのだが、例の生成人工知能の登場で、誰かの名を騙って、全く異なる話を、作り上げることも、可能となった、ようにさえ思える。だとしたら、名に縛られずに、内容の吟味に、目を向ける方が、いいように思える。それは、現状の社会媒体での、匿名性の維持にも、対応できるものだろう。論理性はもとより、他の情報との整合性を、頼みとしながら、判断を下していけば、妥当な結果が、得られるように思う。ただ、鵜呑みにしたり、ただ、騒ぎに乗せられたり、そんな愚かなことを、繰り返す前に、自分なりの判断を、下す努力をしたらどうか。一方で、この独り言も、そうなのだが、匿名だからといって、好き勝手な嘘を、ばら撒く人間ばかりでなく、ごく真面目に、正論を展開する場も、あるものだ。こういう場を、選んで読み続けることで、吟味力や論理力を、鍛えることも、重要だと思う。こんなことを書くと、もし、信用できる人間なら、何故、匿名を選ぶのか、と訝る向きもある。それに対しては、最初に書いたように、名に縛られる人に、中身でなく、名で読まれることを、よしとしない、と思うからと答える。こんな世の中、こんな時代だからこそ、中身で勝負できるように、したいものと思う。ぜひ、次の年も。

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12月21日(土)−自分でやる

 著名人にとり、自分の声を、直接に伝える手段、とも見える仕組みだったが、それが、一般に流布し始めると、様相は、一変してしまった。確かに、情報は、多ければ多い方が、いいのかも知れないが、それが、玉石混交となり、遂には、塵の方が、遥かに多くなると。
 何故、こんなことが、起きるのか、と思う人も多い。こんな仕組みが、できる前から、身近にも、嘘ばかり吐く人間が、一杯居たのだから、何の違いも無い、と思う人が居る一方で、何を信用したらいいのか、判らないと訴える人が、増える一方とも言われる。確かに、身近な問題なら、あの人は、とか、この人は、とか、それまでの経験で、ある程度判断がつく。しかし、不特定多数からの情報が、無作為に届けられる仕組みでは、見ず知らずの人間の発言を、それだけで、判断せねばならず、それが、重要な情報だったりしたら、それだけで、運命が決まりかねない。そんな懸念を抱くと、手にした端末に、目を向けることさえ、恐怖でしかなく、何も手につかなくなる。だが、今の時代、その判断は、自分で下さねばならない。多数の目が、光る中で流される、従来の媒体なら、仮令、僅かな嘘があっても、全体としては、ある程度の本当の中で、安心ができるからだ。でも、これとて、今の時代、嘘に溢れる社会媒体の、真偽不明の情報を、垂れ流すようでは、何ともならない。だったら、どうしたらいい。簡単には、迷うのなら、見るのをやめるべし、となる。だが、情報を、手に入れられなければ、大変なことが起きる、と思うのなら、危険を覚悟の上で、何事も、鵜呑みにはせず、冷静な判断を、なるべく多くの情報を基に、下すように心がけるべし、となる。過渡期だけに、他人任せでは、何事も、安全安心とは行かぬ。だから、自身で、解決の道筋を、見つけなければならない。え、そんなこと、できる訳が無い、って。だったら、どうすれば。もう、他人に頼るしかないか。信用できる人を、探そう。

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12月20日(金)−茶番か

 こういうのを、同好の士、とでも言うのか。政党内での、候補者選びから、理解し難い状況が、続いてきたが、愈々、最終候補となり、最後には、復活を果たした、と伝えられる。では、同好とは、誰のことか。こちらも、すぐに分かるだろうが、囀りで、共に好き放題を書いている。
 特に、前回の任期中から、不規則発言が続けられ、多くの社会媒体が、自らの責任を、回避する目的で、一国の大統領の、発言権を、凍結させた、と伝えられた。だが、民主主義の根幹を、揺るがすとの判断を示し、媒体の一つを、買収することで、権利の回復を図った人物は、その後の、選挙においても、強力な支持者として、活躍したと言われる。問題視されたのは、これによって、確証の無いことや、出鱈目の噂を、撒き散らすことを、常とする人物が、暴言を繰り返す、という点よりも、政策における、極端に偏った事柄が、罷り通るようになる、という点だろう。だが、まだ、就任もしていないのに、既に、絶大な影響力を、及ぼし始めており、そこに、同好の士が加わることで、昆明が増すのでは、との懸念が、急激に膨らみ始めた。海の向こうの予算は、不思議な形で、組み立てられており、年度途中で、修正を入れねば、頓挫すると言う。毎年繰り返される、不思議な儀式の一つだが、今回も、それに関する議案が、議会で提出されたとされた。そこに、件の人物から、いちゃもんがつき、すわっとばかりに、次期大統領の圧力が、かかり始めたとされる。結果は、他の事例同様で、現場の混乱が、並べ立てられるが、肝心の次期政権の中枢は、そんな雑音に、耳を傾ける気は毛頭無い。こんな馬鹿げたことを、何度繰り返すのか、と呆れるのは、当然のことだが、それにもまして、大した考えもなく、ただ、文句をつけたとしか、思えない話が、こういう展開へと、繋がっていくのだ。さて、議員達の良識は、如何に。また、就任前でさえ、この騒動は、どうしたものか。

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12月19日(木)−何の話

 一次情報以外は、信用できない、とされるが、では、どう区別をつけるのか、実は、簡単なことではない。確かに、多くの社会媒体では、誰かの書き込みを、そのまま転載することで、流通範囲が、急激に広がる、と言われる。先程の基準からは、この行為自体は、値せずとなるが、どうか。
 ただ、転載するだけなら、元と同じ水準にある、と言えないだろうか。と思う人が多く、多くの参加者は、見事に騙される。問題は、こういう繰り返しではなく、情報の真偽において、問題ないものか否かなのだ。だとすると、一次だろうが、二次だろうが、嘘であれば、それだけとなる。これは、何度も繰り返されたから、もう、多くの人は、社会媒体そのものへの、信頼を失っている。だが、情報に飢えた人々は、そんなことより、何らかの話を、欲しているのだ。その為、嘘でも、印象的であれば、あっという間に拡散する。今回の殺人事件も、被害者の名前が、公表された途端に、野次馬達が群がった。その結果、同姓の警察関係者を、父親と見做す話が、騙り始められ、お節介な発信主は、それによって、事件の背景までも、滔々と語ることとなった。結果、多くの野次馬達は、今回もまた、次々にリンクを貼り、転載することで、拡散に加担した。だが、従来の媒体は、ここで慎重を期したようで、確認作業を行い、この話が、根も葉もないものと結論付けた。いつもの如く、熱し易く冷め易い、無能な人々は、端末を眺めながら、好き勝手な意見を書き、肯定、否定、双方に分かれて、激論を交わしてきた。この流れ、どこかで見たことが、と思う人も、多いだろう。高速道路上で、煽り運転により、夫婦を死に追いやった人間の、素性について、ある人物との関連を、掲げた話だ。これも、嘘八百であり、その後、発信者や加担者達には、民事訴訟が起こされ、係争しているのだろうか。この事件の場合、誤解を受けた本人は、民間人だから、ある意味、民事訴訟の対象となるが、今回は、警察関係者であり、公人となる。それを、知ってか知らずか、こんなデマを流す人間に、権利も何も無いだろう。だとしたら、もう、さっさと世間に晒して、と思うのだが。何れにしても、自分達の判断基準を、確かにせねばならぬ。

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12月18日(水)−早生

 確かに、天才と呼ばれた人の一部には、学校の世話にならなかったり、度々の飛び級で、こんな子供が、と思われつつ、大学に通った人が居る。だからと言って、優秀な人々が、全てそうである筈もなく、多くは、不満を抱きつつも、同世代の人間との付き合いを、楽しんだのではないか。
 こんなことを、連日書くのは、優待制度に乗る子供には、勘違い野郎が一杯で、自らの才能を、過大評価している、としか思えぬ輩が、目立つからだ。特に、親の意向からか、幼児の頃から、そんな取り組みに参加し、促成栽培よろしく、記憶力を糧として、より上級の問題に、取り組もうとする子は、その傾向が強いようだ。確かに、世間で取り上げられる、天才と呼ばれる子は、好きなことなら、何でもかんでも、覚えてしまうから、いい大人達には、驚愕の存在に映る。だが、嘗て、そう呼ばれた人々が、その後、どんな道筋を辿ったのか、調べるまでもなく、その他大勢に紛れ、見えなくなる例は、数え切れぬ程ある。神童と呼ばれたのに、ただの人となった、という話は、何かしら、悲惨なものと、思われるかもだが、多くの場合、持て囃された頃より、普通になってからの方が、ずっと安心できた、という感想が多いのも、事実ではないか。天才ぶりを、発揮せねばと、尋常でない努力を、積み重ねることが、無駄とは思わないが、それでも、普通でないことを、と望めば望む程、論理の道筋から、かけ離れていく。それこそが、天才的な閃き、と言いたい奴には、言わせておけばいい。所詮、その程度の人間に、騒ぎ立てることは、無駄でしかない。その一方で、当人は、周囲の勢いに流され、その道を極めよう、とするのであれば、そこから先は、険しい道が、待っていることに、親も周囲も、気づかねばならない。何処かで、諦められたから、良かった、と振り返る余裕が、出てくるくらいなら、まだましだ。そのまま、紛れてしまう一方で、当人の心は、輝きを追い求めたなら、悲劇にしかならない。誰の責任か、考えたらどうか。

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12月17日(火)−一利なし

 教育の効率化、という話を聞くと、首を傾げてしまう、と言うより、怪しげなもの、と思ってしまう。誰しも、自分の経験しかなく、他との比較も、難しい状況にあるから、断言はできないものの、人間の理解力は、然程のものでもなく、仮令、理解できたにしても、時間がかかる。
 その中で、効率を求める声が、高まっているのは、今、目の前で起きていることが、どれも、大層なことでもなく、どうでもいいことばかりで、それらを、理解したり、解決したりするのに、時間がかかる筈はない、と思うからではないか。本当の問題に、直面したことなく、ただ漫然と、日々過ごす過程で、こんなことなら、学校での勉強も、さっさと済ませれば良かった、と思うからではないか。そんなことを書くと、とんでもない、との反論が届きそうだが、その主が、どれ程までに、この問題について、考えたのだろう、と思ってしまう。その中で、この国でも、以前から何度も、取り沙汰されてきた、飛び級や飛び入学という、促成栽培に似た制度を、採り入れようとする、声が高まり、実際に、一部の大学では、実施されている。優秀な子供には、他の子が、取り組む授業は、つまらないもので、それを飛ばして、次の段階へ、という考えだ。確かに、この制度は、戦前には、行われていた。小学校から中学校への五修や、中学から高校への四修は、それぞれ、一学年足らない人でも、入試を受けられる制度で、特に、旧制中学から高校への道筋は、多くの人が活用し、優秀な者への近道として、評判も良かったようだ。では、それと、今の大学の飛び入学は、何が異なるのか。最も大きな違いは、入試制度だろう。特別枠として、別途募集され、合否も当然ながら、別枠となる。戦前は、同じ入試問題を解き、同じ評価基準で、合否判定が行われた。だから、入学後に、特別措置はなく、他の学生と同等に扱われた。現行制度では、高校での、最終学年で、習う筈のものが、欠けているとの判断から、様々な補助制度が設けられ、活用されているという。この点、どう考えるべきか。特別扱いは、所詮、効率を高めることには、ならないと思う。その上、自己評価の定まらぬ子が、進学してくることは、百害あって、と思えるのだが。

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12月16日(月)−似非民主主義

 隣国の大統領の処分が、決まったと報じられた。民衆の意見が通り、まさに、民主主義が、守られたとされるが、本当にそうだろうか。元々、民主主義と言っても、全ての民衆が、参加する形で、全てのことを、決める形と、投票によって、選ばれた人間が、決める形とがある。
 今、多くの民主的な国々では、後者が採用されて、議会が、その代表として、責務を果たしている。だが、今回の流れは、代表者たる人々が、民衆からの訴えに、惑わされるだけでなく、驚くべきは、世界の目がどうこう、などと宣う程で、自らの責任を、果たしているとは、とても思えぬ状況だ。結果として、大統領の権利を、奪うこととなったが、果たして、この判断が正しいのか、訝しむ声もある。特に、何故、あの宣言がなされたのか、その真意について、誰も確かめずに、今回の暴挙を、徹底的に批判し、こういう結果を招いた。あの国の法律では、権利を保証したにも関わらず、こういう流れとなったのは、代表者たる議員達が、自分達の責任を、十分に果たしていない、と思うがどうか。そんなことを、嫌われている国から、発すれば、当然の如く、強い反発が、巻き起こるだろう。だが、今の世の中で、民主主義とは、如何なるものか、そろそろ真剣に考えないと、取り返しのつかない、暴走を招く恐れがある。特に、海の向こうの次期大統領をはじめとして、社会媒体での発言を、無責任に繰り返す風潮が、際立ってくると、根幹から、揺らぎ始めているように、見えるのだが、どうだろう。責任ある立場の人間が、暴言を繰り返してきた、四年前のことを思い出すに、この道具が、誤った使い方を、されているように感じられ、その上で、無名の人々が、好き勝手な発言を、匿名性を頼りに、垂れ流す現状には、民主主義とは、明らかに異なる、主義主張が、なされているように、感じられるのだが、どうだろうか。一週間前に、数字の違いを、引き合いに出したのは、そういう意味だったのだが。

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