パンチの独り言

(2024年12月30日〜2025年1月5日)
(すべき事、民主主義?、言初め、治安低下、手放すか、流動性、放送百年)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



1月5日(日)−放送百年

 百年程前、首都が、大地震に襲われた時、人々は、恐怖のどん底に、突き落とされた。自然の脅威に曝され、何をどうしたらいいのか、全く見えなくなり、そこに、人間の恐怖が襲ってきた。時間のかかる新聞や、隣近所の井戸端情報しか、耳に入らない時、人間の悪事が、流布されたのだ。
 外国人というだけで、虐げられた人々が、社会が窮地にある際に、悪事を働くという話は、実しやかに広がり、一般大衆のみならず、公の機関までもが、惑わされてしまった。恐怖に駆られた人々は、未然に防ごうと、話題に上った人を、監禁したり、虐待したと言う。根も葉もない噂は、こういう場面では、一笑に付されず、真剣に受け取られる。情報が不足する中、警察や役所までもが、真剣に扱うとなれば、大衆の暴走を、防ぐ手立ては無くなる。その反省から、即時性を重視した、情報伝達の手法として、電波に乗せる放送が、始められたとされる。確かに、不確かさが、少し残っていても、時間をかけずに流れる情報は、役立つものだろう。だが、その二十年程後に、起きた大地震では、戦時下ということで、情報統制が敷かれ、僅かな情報しか、流されなかった。仕組みが、整えられたとしても、と思わされる。一方で、四半世紀程前に、ある地域を襲った大地震では、広域に渡って、被害を受けたことで、当初、どの報道も、ろくな情報を流せなかった。公共性の強い媒体では、仕組みの根幹が、破壊されると、こんな結果を招く、とされたものだ。その後も、この国は、大震災に襲われる。もう一昔を過ぎた、大地震と津波に襲われた際には、確かに、広域報道の役割は、果たせたものの、その一方で、局地的な情報には、放送は殆ど役に立たず、通信状況が、悪化する中でも、庶民が手にした端末から、様々な情報が、もたらされていた。どの事例でも、情報の重要性は、認識されるのだが、その一方で、正確さに限っては、物足りぬ印象だけが、残っている。巻き込まれた時、何をどうすれば、の結論は出ていないのか。

* * * * * * * *

1月4日(土)−流動性

 書くまでもないことだが、社会媒体の問題は、情報発信より、受信にありそうだ。発信は、本人が、それまでなら、周囲のほんの一握りにしか、伝えられなかったことを、世界に向けて、送り届けることが可能となり、それ自体が、大きな反響を呼んだ。しかし、受信はどうか。
 確かに、大震災直後に、情報が不足した時、大きな威力を発揮し、確かな情報は、一部の人々を救った、と言われた。だが、平時はどうか。暇を持て余し、何か愉快なことを、と願う人々は、手にした端末から、偽情報を発信し、他人を騙すことで、溜飲を下げた。単なる遊び、と受け取る向きには、他愛のないもの、としか映らないが、それによって、被害を受けた人々には、こんな行為は、許し難いものとなる。平時でさえ、そんな遊びに興じる人間は、緊急時となれば、喜び勇んで、社会を騙すことで、愉快を感じる。犯罪紛いと言われるが、まさに、犯罪そのものであり、許し難いと思うのも、無理はない。時に、抹殺したいとさえ、思う場合もあるだろう。だが、一方で、この仕組みがあるからこそ、既存媒体の暴走を妨げ、民主主義が守られた、と思う人も居る。典型は、隣国の大統領の戒厳に対する、民衆の反応だろう。だが、この話、真実はどうか。そうでない話ばかりが、盛んに取り上げられ、今も、内乱と見做し、権力の濫用を、問題視する向きもあるが、背景が見えぬままに、一方の社会媒体を利用した、勢いに任せる動きには、疑問が残る。同じ状況は、国内にもあり、県知事の不信任から、失職、選挙へと繋がった動きは、結果的に、再選となることで、どちらが正当か、という問題が片付いたとされた。しかし、ここでも、社会媒体が介在することで、全体の流れが、大きく変わったこともあり、何が真実かの検証は、まだ片付いていない。更に、問題を拗らせているのは、不信任への流れが、始まった事件について、真実は明らかではなく、委員会の機能が、果たされていない、としか思えないのだ。でも、社会媒体は、ある勢いを得て、そちらへと動きを、早めていた。そんなものが、信頼に値するのか、と思う。

* * * * * * * *

1月3日(金)−手放すか

 何度も書いてきたが、手にした端末から、自らの意見を、世界に伝えられるようになり、溜飲を下げた、と思った人は、数え切れない程だろう。だが、その一方で、報道では盛んに、弊害の数々が、掲げられている。中には、依存症となり、精神的な圧力を、感じながら、拒絶できない人も。
 その傷が、広がるばかりとなり、結果的に、自らの命を絶つ人が、出てくるようになると、仕組み自体への批判が、強まり始めた。どうすればいいのか、まだはっきりとしていないが、国によっては、若者達への制限を、決断するようになり、社会媒体自体の問題として、注目を集めている。当初は、自己責任が強調され、子供の場合は、親の責任を問う声も、高まっていた。しかし、一度与えた道具が、如何に害悪を及ぼそうとも、親の影響力は、それを上回ることは、少なくなったらしく、結果的に、行政が口を出し、法律による規制を、始めざるを得ない、との判断が下された。社会媒体の問題として、強調されたのは、匿名性だったのだが、若者に限っては、それよりも、仲間内での圧力が、著しいものとなり、所謂虐めと同じ状況が、起きたことだろう。こうなると、社会に対して、公開された状況ではなく、密室での出来事として、親も知らぬ間に、窮地に追い込まれる、子供の数が、急増したらしい。この事態を、重視した社会が、決断へと動いた訳だが、さて、どう展開するのか、まだ見えてこない。ただ、これ程の悪影響が、及び始めると、当初の期待は、失われたと見るべきだ。一方で、匿名性の問題は、依然として大きく、改善への道も、見えてこない。人間の本性に関わるだけに、規制だけでは、何とも出来ず、結局は、この道具を捨て去るしか、道が残っていないかも、とさえ思える。どうすべきか、考えるべきとの声もあるが、その一方で、仕組み自体を、変えるべき時が、来ているのかも。

* * * * * * * *

1月2日(木)−治安低下

 治安の低下を、嘆く声が上がるが、どうなのだろう。確かに、報道では、闇バイトなる、不可思議なものが、横行している、と伝えるけれど、その実情は、果たしてどれ程なのか、見えていないと思う。一方、職場のメールには、塵メールが、次々に届き、迷惑に放り込まれる。
 特に、後者は、ここひと月程、急増しており、それらの送り主は、PayPayとAmazonばかりだ。おそらく、これらの二つは、利用する度に、何かしらの報酬が、得られるものとして、盛んに宣伝しており、それに関わる形で、便乗しようとする、犯罪集団が、登場したのだと思う。それ以外にも、銀行絡み、カード会社絡みと、金融機関が、散見されるが、それらについては、口座も持ち合わせておらず、なんのことかと、訝しむのみとなる。闇バイトは、騒ぎの割に、大した金額でも、数も然程でなく、いつもの如くの、煽り報道が過ぎる、と思える。まあ、治安低下の観点からは、強盗事件であり、凶悪さに注目すれば、気を付けるべき、なのかも知れない。一方で、信用商売の筈の、銀行については、貸金庫からの窃盗が、大きな事件として、報道されていた。ただ、数としては、まだ一つだけで、特殊なものと扱うべき、かも知れない。とはいえ、窃盗に関しては、犯罪の全てを、確定させる必要があり、嘗ても、その件で、話題となったこともある。何百件も、窃盗を繰り返した犯人が、ついに逮捕された時、その数が膨大であり、検証に、膨大な時間がかかる、とされていたが、その中で、ある犯人は、全ての犯行を記録し、それによって、問題が解決した、とされた。何しろ、窃盗では、盗まれた人が、気付かなかったり、記憶が不確かだったりする。その手間が省けた、という話だった。今回の貸金庫では、それとは別に、持ち主が、盗まれたものを、報告したくない場合も、考えられるから、はて、どれ程の時間が、かかるのか。更には、全貌判明が、あるのかとの懸念もある。何れにしても、これら全てが、治安低下を表すのか、まだよくわからない。大したことにならずに、済むのでは、との思いもあるから。

* * * * * * * *

2025年1月1日(水)−言初め

 新しい年が、明けたと言っても、何の変化も無い。そんな気持ちで、新年を迎えた人が、多いのではないか。確かに、世界的に、大きな変化が起き、国によっては、政情不安を、思わせるような、状況に陥っている。だが、その一方で、多少の不安が、あったとしても、という思いも。
 だったらもう、このままでも構わない、と思うのも、致し方ない所だが、だからと言って、本当に、放置しておけばいいのか。そんなことに関して、戸惑う人が居るだろうし、だからこそ、何かをせねば、と思う人も居る。でも、ここ数年の様子から、何かしらの変化が、起きると思えるのか。それについても、見通しが立たない。だとしたら、もう、諦めた方がいい、とは思わないか。成るようにしかならない、という見方は、如何にも、投げ槍でしかなく、諦めでしかないが、本当に、それでいいのかは、はっきりとはしない。平和な時代が、長く続いたことで、成るようにしか、という思いの一方で、何をしても無駄、という思いもある。まあ、焦らず騒がず、様子を見るに限る、という考え方も、ありなのかも知れぬ。無理に、考え込んだり、無理に、動き回ったり、という具合で、頑張りたい人は、そうすればいい。だが、そんなに喘いでも、何も変わらぬのなら、という思いも、こういう不安定な時代だからこそ、ありなのかも知れぬ。新年早々、そんなことばかり、書いたとしても、何も始まらぬ。だとしたら、やはり、様子見に限る。そんなことを、考えながら書いてみたが、はて、何をどうしたいのか、やはり、何も見えてこない。だったら、まずは、このままでいい、という具合でどうか。と思いながら、初めの独り言を、書いてみた。

* * * * * * * *

2024年12月31日(火)−民主主義?

 もう何度も書いたから、飽きられてしまったろう。社会媒体が、これ程の地位を占め、結果的に、それ自体が、民主主義の徴、と思い込む人が多い。だが、それ自体は、どれもこれも怪しげで、民衆の代表的意見でも、正論の表れでも無く、ただ単に、戯言でしかない。
 こんなことを書くと、そんな態度だから、民意の表れを、見誤っている、と断じられそうだ。だが、本当にそうか。特に、この一年には、世界各地で選挙が行われ、それらが、全て、民意の表れ、と見做されるだけに、それらを、全否定する態度には、厳しい反論が、突きつけられるだろう。でも、どうだろうか。社会媒体に、満ち溢れる意見から、選挙の動向が、決まったとされるが、それらの意見が、どれ程の意味があり、的を射たものだったのか、その後の検証は、どうだろうか。海の向こうの、大統領選挙は、身勝手な意見の持ち主が、勝利を収めた訳で、となれば、今後の一年かそこらは、混乱が極まるとの見方が、大勢を占めるようだが、本来の民主主義からすれば、あんな人物の独裁が、罷り通る筈もない。だからこそ、前任期間に、起こるだろうと予想されたことは、どれも、中途半端に終わり、結果的に、感染症騒動から、再戦を果たすことが、できなかった。ただ、多くの予想通り、それに始まった、政治的な混乱は、軍事侵攻が、現実となったことで、世界各地に飛び火し、それこそが、民主主義の典型、とさえ評される事態と、なってしまった。でも、これとて、民衆が求めるものが、どんなものであり、それを実現する為に、どんな痛手を、負う必要があるのか、まだ見えていない。移民排斥も、その表れの一つだが、移民から成る国にとり、どんな行末となるのか、見えてこない。だが、そういう極端な反応こそが、民主主義であるとする見方は、だからこそ、確定しないものであり、今後の混乱は、反動となって表面化しそうだ。冷静に見る向きからすれば、こんな動きに、惑わされる必要は、無いとしか思えぬのだが。

* * * * * * * *

12月30日(月)−すべき事

 ここ数年、社会媒体の台頭が、著しいが、その理由は何か。一番に、思い当たるのは、数年前に起きた、世界的な感染爆発であり、それに伴って起きた、都市封鎖と、そこからの人間同士の、直接的な関わりの、激減だろう。それにより、人々は、生きた人間より、手にした端末を、頼りとした。
 端末の整備が、十分に進んでおり、通信も十分だったから、情報を求める人々は、端末に、必要な言葉を、入力することで、自分が必要とする情報を、的確に、手に入れられる、と思い込んだのだ。実態は、敢えて、説明する必要もない。玉石混交であることは、言うまでもないが、それ以上に、皆の依存性が高まるにつれ、石どころか、他人を騙したり、ある人物を貶める、害でしかない情報ばかりが、増え続けることとなった。人間の本性は、所詮その程度のもの、との解釈が広まり、媒体への警戒は、一気に高まったが、依存症の人々には、他の選択肢は無く、怖いもの見たさも手伝って、状況は、悪化の一途を辿った。本来なら、従来からある媒体が、範を示すべきだったろうが、騒動の最中に、煽ることばかりに、躍起となった連中には、そんな心得は、微塵も無かった。劣悪化した媒体は、情報操作に、力を入れるばかりで、その為に、嘘の数々を撒き散らし、暴かれそうになると、更なる嘘を重ね、模範となる姿勢を、自ら捨て去っていった。この組み合わせが、現状を招いた、と言えるのではないか。となれば、各人は、何をすべきか。依存から、自らを解き放ち、情報の真偽を、見極める為の力を、養う方に向かうべきだが、さて、何もしてこなかった人間に、今更、何ができるというのか。諦めにも似た声が、寄せられるけれど、このままでは、自分の立場さえ、失いかねない。だとしたら、遅きに失した、などと嘆くよりも、今できることを、見つけるべきではないか。大したことはない。鵜呑みにせずに、少し考えたり、別の場所を見れば、解決の糸口が、見つかるだろうから。

(since 2002/4/3)