社会媒体への批判が、強まり続けている。確かに、極端な意見ばかりで、互いに罵り合い、憎み合う姿は、見るも無惨なもので、それが極まると、嘘でも何でも、相手を貶めることができれば、と思い込む人々は、作り事を書き並べ、何処かから、偽物の映像画像を、持ってくる。
そうなれば、それらの社会媒体に、流れる情報は、信用ならぬものとなる。にも拘らず、多くの人々は、依存性を持ち続け、害悪を感じつつも、覗くのを止められない。そんなことが、重大な問題となる、と言われていたが、いつの間にか、そんな人さえも、どこか別の所に、目を向け始めたと言われる。これを、良いことと捉えるのは、早計ではないか。何が、代替となっているかを、見極めないと、社会の歪みは、同じように進みかねない。パンチは、独り言だけでなく、数年前から、囀りにも、警句を並べており、間違いを、気付かぬままに、鵜呑みにするのでなく、沈着冷静に、分析的に、捉える必要性を、訴え続けている。一方で、専門家と呼ばれる人々は、社会媒体に巣食う、誤った解釈を、断じることに躍起となるが、彼らの意見もまた、社会媒体特有の、極論でしかなく、過ちを犯す人々の、間違いを否定するだけで、自分達の考えが、どれ程偏ったものか、考えを巡らすことがない。学問の世界であれば、議論を繰り返すことで、徐々に、正しい方に向かう筈だが、完全否定でしかない、こういう遣り取りでは、二つの間違いを、互いに、戦わすだけにしかならず、本来の議論の姿は、失われている。門外漢でも、自分の理解の範囲内で、疑問をぶつけることはできる。なのに、専門家の一部には、攻撃されたとしか受け止められず、反撃のみを、唯一の手段と思い込む。こんな形では、何の成果も得られない。何方も何方と、思うことこそが、肝要なのではないか。
年が明けてから、連日のように、暗い話題を書き綴る。そんなのを、読む人々は、何を感じるのか。大体の予想がつく。そんな話は聞きたくなく、一切、目や耳に入れないよう、心掛ければいい。そうすれば、惑わされることなく、自分なりの生活が、送れるというものだ。
確かに、その通りと思う。だから、下らない情報など、追い回す必要もなく、ただ、身の回りに起きる出来事を、眺めて過ごせばいい、となるのだ。それもまた、その通りと思う。何故、巷に溢れる、悪意に満ちた話や、出鱈目な話ばかりを、追い回すことで、心を乱されるのか、となる訳だ。それを、実行できるのなら、そうすればいい、それも、自信を持って。だが、不安に駆られたり、心配に苛まれる人々には、それができない。簡単と言える人は、何も恐れることはない。自分が信じたことを、そのままに、実行すればいいだけだ。だが、一度躓くと、そうもいかなくなる、らしい。不安や心配は、そういう人の上に、降ってくる。それを避けて通るのも、打破するのも、難しくなった時、再び、情報を追い求めるようになる。信頼の置ける人が、周囲に居るのなら、まずは安心だ。だが、肝心な人さえ、振り回されて、惑わされてしまうと、どうにも、手立てが見つからず、再び、手にした端末に、目を向けて、そこに表示される、玉石混交の、情報と呼ばれる、種々雑多なものを、読まねばならなくなる。パンチも、その一人かもしれない。気付いているだろうが、そうでなければ、囀りなどの社会媒体に、何故、これ程に悪質な、情報が溢れているのか、指摘することもできない。でも、自分では、振り回されているとは、思っていない。それに、こんなに下らない落書きに、戸惑うよりも、腹を立てることもない。沈着冷静に、そこに書かれたことや、掲げられた映像を、眺めた上で、論理の通らぬ部分を、見つけ出そうとする。批判的に、物事を見ることは、然程、難しいことではない。やってみては、と思う。
権力さえ握ってしまえば、したい放題、と思う人も多い。だが、本当に、そうなるのか。誰にも分からない、と言うのも、おかしなことだ。確かに、民主主義と雖も、誤った方に走り出したら、独裁者の存在を許し、彼に従うこととなる。一度学べば、大丈夫との声も。
前回は、何度も暴言を吐き、暴走の兆しは、何度もあった。にも拘わらず、結局は、大過なく済んだ、と言う人も居る。それこそが、民主主義の表れ、と見る向きもある。前回選挙の、議事堂乱入は、あの時期の、最大の危機だったろうが、それも、何とか、収まった。だから、大丈夫との声。本当だろうか。今回は、金の亡者どもが群がり、権力の暴走を、支援するのかも、との声も聞かれる。言論の自由を、標榜するのは、勝手だろうが、その端々に、権力の濫用が、見えていると思うのは、こちらの穿った見方故か。それにしても、囀りについては、表示される発言の数々に、呆れることが増えた。一方に与し、それが力を得たと見るなり、断定的な妄言を、書き散らす輩が、次々に登場するのは、この仕組みの問題点を、明示していると思える。だったら、そんなものは、無視すればいい、とする意見も、当然あることは、知っている。自分自身は、こんな具合で、余りに度が過ぎるものは、嫌な気分になりつつも、無視しているのは、確かなことだが、他の無垢な人々は、どうなのか、と老婆心ながら、思うだけのことだ。買収し、暴君の権利を回復させた人物も、ごく最近、事実か否かの自己点検を、止めると表明した、別の社会媒体も、判断は、利用者がすればいい、との姿勢だろう。ただ、権力者の意見を、鵜呑みにして、別の意見を、切り刻む輩が、巷に溢れることで、それが、多数派となる流れには、やはり、懸念を持っておいた方が、いいように思う。だから、こんな所でも、度々触れておき、警鐘を鳴らしたくなるのだ。
金の亡者が群がる中、肝心の人物は、何をしでかすのか。と言っても、前回と異なり、今回は、ある程度の予測がつく、とも言われている。ただ、あの人物の欲望は、尽きることなく、続いており、おそらく、今回も、散々振り回される人が、出てくるに違いない。
分かり易いのは、取り巻きどもと同じように、金銭欲だろうが、それ以外にも、権利欲や名誉欲が、ついて回る。それらが、常人とは全く違う形で、表に出てくるだけでなく、世界で最大の力を有する、と言われる立場から、強い影響力を及ぼし、標的とされた人や企業や国までもが、甚大な害を被る。だからこそ、就任前から、世界中に恐怖が広がり、その勢いをかって、更なる影響力を、とでも言いたげに、放言を繰り返す。それ自体を、押し留めることは、今の仕組みでは、できないことが、明らかになりつつあるから、標的となった人々は、その後の成り行きを、見守るしかない。まるで、餓鬼大将が、勝ち誇る姿を、見せつけられるが如く、推し黙るしか手段は無いようだ。その上、呆れ返るのは、前回選挙の無効を、声高に訴えた挙句、暴徒達を、議事堂に導いたことさえ、正当化する始末で、あの時に起きた、事件の数々も、彼の頭からは、全て、ある謀略によって、作り上げられたもの、との結論が導かれ、その元凶は、別にあると断言する。いやはや、もう止められない。あの国が、そういう判断を下し、民主主義の結果として、今回の勝利があるだけに、言いたい放題となることは、当然の権利なのだ。更に、就任してしまえば、仮令、犯罪をしたとしても、その罪を問われない、という特別待遇となり、ここから先は、誰にも止められないようにさえ、見えている。だが、民主主義とは、独裁者の存在を、許すものではない。だからこそ、前任期に、約束したことの、ほんの一部しか、実現しなかった。今回は、用意周到だから、と見る向きもあるが、さて、どれ程のものか。庶民にとっては、ただ見守ることしかできないが。
利益相反(conflict of interest)、という言葉が、様々な業界で、飛び交っている。意味を調べてみると、ある人物が、二つの立場で、追求すべき利益や目的が、競合するあるいは相反する状態にある、ということらしいが、どうもよくわからない。何なのか。
それも、政治、経営などの、利益が、直接的に現れる分野だけでなく、最近は、医療や研究にまで、及ぶと言われ、論文を発表する際に、利益相反が、存在しないことを、宣誓させられる、とも言われる。新発見や理論構築など、学問追究の世界に、何か、得体の知れないものに、縛られる気分、が広がっているようだ。ただ、どの世界においても、利益の追求が、最大の目的となり、それを最優先する余り、他への損失が、広がる恐れがある。そんなことを考えながら、海の向こうの新大統領が、何をしでかすかについて、広がる懸念を眺めてみる。前任期では、突発的発言や、非論理的な言動に、振り回されたこともあり、今回も、同様のことが起きる、というのが懸念の中心だが、どうだろうか。前回の不規則発言に、取り巻きは振り回され続け、立場や地位を奪われ、大損失を被った人も、居るのだろう。だが、今回は、大きく違う点がある。何が起きそうか、ある程度の予測がつき、それに基づいて、自らの利益を追求できる、と目論む人々が、選挙前から、擦り寄っていたからだ。中でも、旧囀りを、買収した人物は、社会媒体が、あの人物の不規則発言を、掲載することへの、責任追及を逃れる為に、次々に、措置に出たのに対して、自由を優先すべきと、買収に踏み切り、権利回復を図った。その後、選挙が始まると、全面的な支援を表明し、当選の暁には、政権中枢に地位を得た、と言われている。彼の目論見が、何処にあるのか、未だに見えてこないが、利益相反を、懸念する声も大きい。というより、おそらく、利益享受そのものが、表面化しそうな気配だ。それも、こちらの隣の大国との関係において、次期大統領本人の思いを、成就させるように謀りつつ、その実、自らの企業の利益を、確保する手立てを、講じる形で。同様に、もう一つの社会媒体も、責任回避を謳い始め、準備を整えつつある。どうなることやら。
新年早々、暗い話題に、巷は溢れている。先行きの暗さが、強まっているとの報道は、止むことがない。だが、多くの人々は、どこがどう暗くなり、その結果、どうなるのか、という点について、説明することができない。だって、値上げが続くし、生活が苦しくなるし、とだけ。
それらは事実、かも知れないが、何がどうなると、そんなことが起きるのか、説明が求められると、答えに窮する。報道にしても、社会媒体にしても、同じ論調で、暗黒期を訴える。が、何がどうなのか、読んでも見えてこない。何故、こんなことに、なってしまったのか、と思うが、思っても無駄だ。何も解決しないし、何の答えも得られない。なのに、悪くなる、暗くなる、などと連呼して、ぶつぶつと繰り返す。いやはや、困ったものだと思うが、どうにもならない、ようだ。昨日の新聞では、「大学よ変われ」と題した論説が、掲載されていた。多くの読者は、それを、当然のことと受け止め、問題と強く意識しただろう。でも、と思うのは、穿った見方、なのだろうか。教育の空洞化として、紹介された内容は、学習時間の低下が著しく、設置されてからの歴史の中で、最低とされる、というものだ。大学が、嘗ての姿とは、全く変わってしまった、と嘆く関係者は、数え切れぬ程居る。確かに、半数が、講義以外には、週に2時間も、学習しないという調査が、棒グラフで示され、深刻な状況にある、とこの論者は語る。見出しには、「教育の空洞化」克服を、学習時間増えず、突破口は情報公開、就職活動の現状見直し必要では、という言葉が並ぶ。現実は、確かに、そうかも知れない。しかし、論者も含め、今の大学関係者が、学生だった頃、一体、どの位、講義以外に勉強していたか、思い出して欲しい。当時は、今と違い、また海の向こうとも違い、レポート提出は少なく、語学や数学以外には、予習も必要なかった。その中で、どれだけ勉強していたか。勤勉と努力で、成功を収めてきた、と言いたい気分は、理解できなくもないが、実際には、講義に集中し、知りたいことを、学んだだけだろう。何が違うのか、彼らは理解できていない。
昨年の話題の一つは、生成人工知能の登場だろう。当初、教育界に脅威が広がり、制限する為の手立てが、大真面目に議論された。次には、創造業界とでも言うか、文章ならば小説、画像ならば絵画や映画、等々の業界に、警戒の輪が広がった。著作権が、脅かされるとさえ。
確かに、当初、皆が驚かされたのは、この仕組みから、産み出された作品の数々で、それらが、まるで、人間が作り出したものと、変わらぬものとの受け止めが、盛んになされた。だが、少し時間が経つと、正反対の反応が出始め、その典型は、駄作を量産する、才能の無い人と同等のもの、といったもので、不足分を補う動きが、業界から出されても、その声は、少なくなっていないようだ。一方で、もう一つの問題として、重視されたのは、著作権をはじめとする、権利の問題で、特に、当初のものは、ネット上の情報を、掻き集めた結果であるのに、出典を明らかにせず、不正の温床と批判された。この点については、生成された文章を、不正確認のソフトで、確かめても、検索エンジンで、確かめても、同一の文章が、炙り出せないことから、元々の仕組みとして、出典を明らかにせず、複写を避ける手法が、適用されたことが、明らかとなったことで、仕組み自体への不信感が、高まることとなった。更新される度に、欠点を克服することで、著作権問題も、一旦は片付いたように見える。質の向上を指摘する声も、高まっているようだが、注文を出せば、即座に応じる仕組みでは、情報を切り取って、組み合わせるだけの、文章作成や描画だからか、所詮は、粗製濫造の典型、としか映らない。もう一つの問題として、盛んに喧伝されたのは、文章や絵画を作り上げる人の、仕事を奪うとの話だが、そちらについては、市場が何を望むのか、という全く別の問題が、立ちはだかる。さて、人から成る市場は、作品に、何を求めているのか。