隣国の騒動は、どうなってしまったのか。最高権力者の宣言が、唐突だったのは、その通りだが、その真意が定かにならぬまま、彼の責任を問う声が高まり、その途上では、民主主義との声もあったが、その後の展開は、単なる権力争いにしか、見えてこない。真相は如何に。
この騒動は、就任直前の、海の向こうの人物には、どう映っているのか。内乱という表現は、まるで、例の映画の内容を、彷彿とさせるもので、不穏な空気に満ちている、ようにも見えるのだが、宣言の経緯が、明らかにならぬままに、一方的な措置が進むことには、あちらの国内でさえ、意見の分断が、起きているようだ。それに対して、前回の選挙結果を、受け入れぬと宣言した時、支援者達が、結果の確定を阻止しようと、議会への乱入を起こしたことに、当事者達は、いずれも、刑罰を受けたようだが、件の人物は、扇動の罪にさえ、問われないまま、候補者選びの狂騒が、全てを棚上げした。その過程で、あの人物は、あの地位にある人間の、罪を問うことができない、とさえ叫んでいたが、こちらの騒動では、内乱と限れば、罪を問う例外があるとなっている。では、あの乱入は、どう解釈できるのか。賛否が分かれるだろうが、やはり、その一種と見る向きがあり、歴史の上では、遡って、何らかの処分を求める、ことが起きそうにも思える。そんな人物に、不安を感じるかを問えば、多分、自分は違うとの返答が、届くのだろうが、それにしても、民主主義とは何なのか、こういう問題全てから、考えさせられている。これまで書いてきたように、民主主義を守る為に、発言の自由を、保証する必要があるのは、当然なのだろうが、その発言そのものが、罪に問われるようなものの時、どうすべきかは、定まっていない。と言うより、新媒体の登場前は、議論の末に、結論を導く形で、ある方針が定まっていたが、登場後は、行き先を見失い、迷走を続けているように思える。落ち着いて、議論する間も無く。
媒体の如何に関わらず、一方的な意見が溢れ、それが巷間に流れている。先月の読んだ本でも、紹介したように、書籍でさえ、極論が展開され、その主が専門家と呼ばれる人々となると、どうしたものか、と思う。そんな劣悪な情報を、有り難く頂き、振り回されるのは、御免蒙る。
そんな思いで、取捨選択して、情報を吟味できれば、それに越したことはない。だが、情報を渇望する人々は、そんなものを手にしておらず、一目置かれる人の、意見ともなれば、つい、鵜呑みにしてしまう。元々、そのことに通じた人は、多くを知るだけに、何事も断定せず、多くの例を羅列して、それぞれの可能性を示す。特に、科学者には、その手の人種が多く、例えば、原発事故の時も、多くの可能性を示すのみで、安全・安心を断言せず、不安や心配に苛まれる人々に、役立たずとの印象を、強く植え付けた。その反動でもあるまいが、近年は、逆の例が屡々観察され、社会媒体でも、書籍などの旧来の媒体でも、極端な意見や、断定的な言い回しが、目立つようになった。中でも、わかりやすい、と評判のいい人程、その傾向は強く、仮令嘘でも、安全や安心を、保証するとなれば、人気が出ることとなる。その一方で、心配や不安が残る話題には、危険性を断定し、回避を促す意見が、好まれる傾向もある。医薬品やワクチンは、それぞれに、効能があるものの、副作用の可能性や、効果が期待できぬ場合など、注意を要することがある。そこに、非科学的な弁説が、付け入る隙が生まれ、流布されることとなる。ここでも、あらゆる可能性より、何かしらの断定こそが、好まれる傾向があり、極論が流布される。これらの情報に、頼るしかない人にとり、信じ込むことが、唯一の術となり、そちらへと誘導される。正論で、否定された場合にも、異論と断じられ、議論の余地なく、完全否定される。断固とした拒絶の態度は、力強く映り、結局、抜け出せなくなる。本人の姿勢によるだけに、何もできない。
媒体毎に、対応法を変更する。という考え方に、どの位の人々が、賛同の意を示すのか。どうにも、結論が見えない議論で、この先、どんな解決法が出されるのか、さっぱりわからない。揉めている間に、身勝手な人々は、妄言を繰り返し、他人を貶めていく。どうしたものか。
どんな媒体でも、発言する人間に、ある程度の節度が無ければ、放言の場となる。典型は、来週には、返り咲きを果たす人物だが、あの特殊例の登場から、多くの人々が、自分も、という態度を示し始めた。要職にある人は、そんな馬鹿げたことを、する筈が無い、と信じていた人にとり、今は、混乱の極みと化している。なす術も無く、ただ、呆然と見守るしかなく、その上、危険人物の発言から、何が起きるのか、と不安に苛まれるしかない。そんなことを言っても、所詮、ああいう人間に、できることは限られており、前回も、そうだった、と話す人がいる一方で、今回は、用意周到に、服従する人や、お零れを期待する人が、群がっているから、前回のような、どたばたにはならず、突き進むに違いない、とする人が居る。どちらが正しいのか、おそらく、退任後にさえ、結論は出せないだろうが、それにしても、と思うこと頻りだ。解せないのは、同盟国の企業が、買収を決めたことに対し、現大統領が、認めなかった、という話で、どんな思惑が潜むのか、庶民には、理解できない。その上、機に乗じようとしてか、以前の入札で、破れ去った企業が、再登場を表明し、その社長の妄言には、まさに、耳を疑うしかない、と思った人が殆どだろう。特に、侮蔑発言は兎も角、買収後の計画が、表明されると、更に、疑惑が深まった。買収後、他企業に売り払い、それでおしまい、とでも言いたげな計画は、独占禁止法に、抵触しないように、とのことらしいが、それにしても、この論理は如何なるものか。ただ単に、安い買い物をして、泡銭を手にしよう、とするだけに見える。
同じ土俵で、と言われた途端に、意外な、という表情を見せる。論客と呼ばれる人々の、特徴の一つかも知れない。わざわざ、相手の土俵に上がり、同じ調子で議論するなど、馬鹿げたこと、と思っているようだ。だが、媒体の問題を、論じるのであれば、当然のことだ。
ただ、いつ頃からか、こういう場面が、見られなくなった。原因の一つとして考えられるのは、対談の消失だろうか。一時注目を集めた、朝まで議論をする番組は、いつの間にか、議論どころか、ただの言い放ちの場と化し、集まった論客は、好き放題に持論を展開した。ある宗教の、幹部の一人が、登場した時には、驚いた人も多かったろう。何しろ、前の週の話は、棚に上げられ、完全否定をも辞さない、出鱈目の連続だった。その後、インターネットの発達で、その中で議論する場が、設けられた。ある掲示板では、パンチも違う名で、発言したものだが、匿名性を頼りに、極論を展開する、参加者の発言に、辟易としたものだ。その頃、大いに耳目を集めたのは、2chと呼ばれた場所で、何の役にも立たない、馬鹿げた話の交換に、躍起になった人も、多かった。これらの場も、一方的な発言でしかなく、議論とは名ばかりの、言い放ち合いとなっていた。今の状況は、この辺りの場所が、下地になったのでは、と思う。先日の話で言えば、発電所の事故後、ごく普通に、科学的な説明を、繰り返した人物達は、彼らから、村民とか御用学者とか、侮蔑の対象として、糾弾されていた。その一方で、恐怖をばら撒くことで、不安を煽ることに、力を入れていた、大衆媒体の人々は、冷静な解説を、排除することに、躍起となり、非科学的な輩と共に、出鱈目を流布していた。彼らの殆どは、相手の発言を、聞く耳を持たず、都合の悪いことは、根拠の有無に関わらず、完全否定を繰り返した。固まりかけていた、下地の上に、強固な嘘の上塗りを、繰り返してきたことが、今の状況ではないか。社会媒体だろうが、大衆媒体だろうが、同じ狢である。馬鹿げた断言を、却下することでしか、相手ができないとなれば、沈着冷静に、挑むしかなかろう。2chでさえ、そんなことが起きて、暴走が収まったことがあるのだから。
昨日のような話は、如何に実しやかに書かれても、少しの知識を有する人を、騙すことはできない。と思うのだが、論理的思考を、身に付けた人でさえ、騙されることがある。有名なものは、一世紀以上昔に、一世を風靡した、千里眼、透視の話だろう。今なら、奇術の類だ。
流石に、物理学を専門とする人間が、核反応のことを、理解できぬ訳はない。引退後も、文筆活動に勤しむ、大学教員や、同世代で、大学紛争の際に、研究活動を諦め、予備校講師として、高い評価を受けた上で、晩年、物理学専門書を、著した人物も、そんなことには、騙されなかったろう。だが、事故後の姿勢は、件の発電方式を、放棄すべきというものだった。理由は、環境への放射性物質の放出が、生物へ悪影響を及ぼす、とのことだったようだが、物理的性質と、生物のそれらに対する反応や、防御の仕組みには、知識が及ばなかったようだ。同様に、文化人と呼ばれる類の人々も、直後から、拒絶反応にも似た論陣を張り、猛反対の声が起きた。その後の、政府の方針は、政権交代から、急展開が起き、元の鞘に収まった。反対派の声は、依然として強いままだが、論旨は以前と変わらず、毛嫌いにも似たものに見える。公害問題についても、同じような話が多く、論理的思考や科学的理解が、絶対的なものではなく、単に、主張の為の道具に過ぎず、用心せねばならない。特に、陰謀論や利害関係などが、絡んだ時には、注意を要する。一方、社会媒体においても、科学者の一部は、盛んに発言するようになり、誤った書き込みに、警鐘を鳴らそうと躍起だ。ただ、ここでも、主義主張が優先され、的確性を欠いた、不十分な指摘が、目立っており、注意せねばならない。その上、文筆活動ができる人が、自著の中で、媒体での誤った発言を指摘し、糾弾するようなことは、慎むべきことと思う。論争は、同じ土俵で行うのが、常識だからだ。多勢に無勢と言っても、反論の嵐覚悟で、発言すべきだろう。
物事を、論理的に考える重要性を、何度も書いてきた。その為には、科学的な知識や考え方が、不可欠となるのだが、この扱いに関して、四半世紀前に流行った、とんでもと同等か、それ以上に深刻な事態が、起きていると思う。社会媒体という、拡散速度の高いものが、元凶だ。
四半世紀前は、書籍という形で、社会全体に、非科学的な誤解が、急速に拡散した。と言っても、印刷物に頼る限り、その速度は、然程でもない、と言える。更に、科学者達が、警鐘を鳴らし、妄言を否定する為に、科学を正しく伝えようと、別の書籍を著し、出版していた。印刷物による拡散は、読者が、主観に沿って理解することで、とんでもない誤解が、広がる原因となった。しかし、否定本が、出回るに従い、正しい理解が広がることで、徐々に落ち着きを取り戻した、ように見えた。しかし、信教にも似た、誤った信心は、簡単には一掃できない。科学を捻じ曲げ、都合よく解釈する手法は、潜伏するように、地下活動を続けていた。そこに、社会媒体なるものが登場し、彼らの活動は、息を吹き返した。大震災や大災害など、何か大きなことが、起きる度に、非科学的な解釈が、実しやかに語られ、不安に駆られた人々の、心に突き刺さった。例えば、原発事故では、これまでの大事故同様に、制御不能に陥り、強い懸念が広がった。そこで、語られたことは、熔融した核燃料が、地下深くまで到達し、更なる被害を広げることや、暴走した核反応が、核爆発へと繋がることだが、どちらも、起きていない。にも拘らず、今でも燻る妄言は、発電所での爆発が、核爆発だったと、囀りの中で断定する。十分な理解力を備えず、単なる思いつきで、周囲に嘘をばら撒くだけの存在は、手にした端末から、世界へと発信できることで、満足を得ている。だが、原爆の開発などで、核爆発の条件が、如何に到達困難かを、知る人には、戯言にしか映らない。同様に、核反応の暴走についても、核分裂連鎖反応の条件が、如何に微妙なものかは、以前起きた、ウラン濃縮での事故を、思い出せば、専門知識がなくとも、理解できそうなものだ。何れも、恐怖を煽る風潮に、乗っただけの、愚かな人間の戯言に過ぎない。少し考えれば、騙されずに済む。
先週末、職人の話を聴いた。伝統の中に身を置き、徐々に衰退する業界で、長く活躍してきた人だけに、多くの示唆があるのでは、という期待が、会場を包んでいた。だが、仕事を始めた頃の話は、今と何も変わらず、身の程知らずで、世間知らず、そして、自己中心的な考え方ばかりだ。
今との違いが、あるとすれば、周囲の対応の仕方、だろうか。非常識な考えで、失敗を繰り返す中、周囲は、見守るでもなく、優しく諭した訳でもない。過ちを正し、どうするべきかを、厳しく指示されたそうだ。今との最大の違いは、叱られるかどうか、だと思った。以前から書いてきたように、最近の若者達は、叱られたことが無い、と繰り返す。だから、厳しい言葉を、投げられたこともなく、怒鳴られたことなど、ある筈も無い。確かに、職場で、若者達に対して、間違いを指摘し、どうすべきかを指示すると、そんな反応が返ってきた。彼らの殆どは、叱られたことが無く、それに近いことをされると、心が折れたとか、凹まされたとか、そんなことを言い続ける。だが、相手は、慎重に対応し、訴えられないように、注意を怠らない。それでも、自分が失敗したと、自覚していれば、折れたり、凹んだりする、言葉を投げられた、と受け取るのだ。そのままでは、この職人も、どうにもならなかったろうが、周囲からの力もあり、徐々に、自らの足りなさを認識し、それを認めた上で、評価されようと努力した。結果として、一目置かれる存在となり、成る程と思わされる、話が多く聞けた。中でも、他の職人が対応できず、自分も、注文に応えられず、叱責どころか、取引中止を言い渡されても、尚、改善を行い、最後には、客から認められ、その後の他の仕事まで、受けることになった、という話には、驚かされた。何しろ、先入観に過ぎないが、職人は、短気で喧嘩っ早いと思っていたから、そんな忍耐と我慢強さに、驚いたのだ。職人気質は、不可能とは言いたくなく、更に、負けず嫌いが加わり、こんなことを、可能にしたのだろう。当然なのだが、最近、こういう話に、触れなくなったなと感じた。凹むも折れるも、一切存在しない。そう思うと、何が大切か、少し見えた気がする。目上が、叱らねばと。