ここ何回か、読んだ本で、時代小説を紹介した。あの作品は、純粋な創作だそうだが、他にも、あの著者は、火消盗賊改という、実在の人物を基に、小説を書いているし、また、仕掛け人という、新たな存在や、人を殺さぬ盗賊など、様々な題材で、小説を著してきた。
今、丁度、最後の作品を基とした、時代作品が、衛星放送で放映されているが、それ程に、どの作品も、人気を博したと伝えられる。先日、彼の功績を記念した文庫を、訪ねてみたが、その多作なことに、改めて、驚かされた。確かに、今読んでいるものも、情景の描き方が、魅力的と伝えられる程、当時の文化を、反映したものとなっており、発表当時の評判が、理解できるものだ。時代背景と共に、彼が得意としたのは、当時の食事風景で、元々、健啖家としても、知られた如くに、登場人物達は、旨そうに、味わっている。それにしても、何故、これ程多くの作品を、書くことができたのか、という疑問は、彼の創作能力に、思いを馳せるようだが、現実には、発表の場があった、という点が、今との大きな違いだろう。今でも、新聞には連載小説が、掲載されているが、当時は、週刊誌の殆どが、連載小説を掲載し、更には、小説を専門とする、月刊誌が、多く発刊されていた。活字離れが、取り沙汰され始めた頃、新聞の売り上げは勿論、週刊誌や月刊誌の売り上げも、激減していった。多くのものは、廃刊となり、姿を消した訳だが、その中で、連載小説という分野も、新聞を除けば、殆どが消え去った。締め切りに追われ、出版社が用意した、宿での執筆を強いられるのを、「缶詰」と呼んだのも、遥か昔のことだ。読者を失った、小説家達にとって、生き抜くのが、難しい時代となった。その一方で、無料で閲覧できる場が、多く開かれることで、発表の場を、取り戻したとの意見もあるが、所詮、収入の糧は、失われたままだろう。どうしたものか、と思いながら、記念文庫を後にした。
自動車産業は、確かに、どの国でも花形だが、だからと言って、技術開発などの努力を怠れば、憂き目を見ることとなる。今回の騒動は、駆動方式の転換が、端緒となったに違いないが、それ以前に、人員整理や合理化などの、経営努力も、重要な要素であることを、示した。
あの企業が、人気を博したのは、楽しい車を作ったからだが、それだけでは、好業績を保つことが、難しくなることを、二度に危機で示した、ように見える。大衆車では、満足しない消費者には、運転の楽しさや、走り心地の快適さが、優先となる。だからこそ、レース競技での好成績や、試乗の意味が、出てくるのだろう。だが、大衆車と呼ばれるのは、やはり、大半の人々が、車としての能力を、総合的に判断した結果であり、そこに、企業理念が反映される。電動を優先する動きが、急となった時でも、自社の技術を信じ、方針を貫いたことが、大衆車としての地位を、揺るぎないものとした。それに対して、揺れ動いた企業は、総じて、煮湯を飲まされ、従来からの不振を、脱することができなかった。とはいえ、こちらの車が、海を超えて運ばれ、人気を博し始めた頃、あちらの消費者が、評価したのは、駆動部分が格納された、あの場所の、整備し易く、単純な構造だったという。自国生産の大型車は、馬力も車内の広さも、追随を許さぬものだったが、製作者都合で、複雑化した部品配置が、不評だったと聞く。更に、追い討ちをかけたのは、環境問題が噴出し、燃費の良さが、求められた時勢だろう。これらが重なり、人気が凋落すると、強力な組合は、政府に圧力をかけ、不公平を掲げることで、保身に走った。関税も、現地生産も、その戦略だったが、結局、半世紀近く経過し、自国企業の状況は、改善されぬままに、放置されている、ように見える。現政権が、盛んに、関税導入を進めるが、その手は、所詮、自国産業の保身を、進めるだけで、企業の力の衰退は、止めることができない。愚かな前例が、目の前にあるのに、見て見ぬふりを続けるのは、愚の骨頂でしかない。
しつこいようだが、もう少し、お付き合い願いたい。件の二社について、気になることを、挙げておきたいのだ。企業経営についても、自動車産業についても、何の専門知識を持たないが、それでも、ごく常識的な範囲で、こんなことが、気になるのだということだ。
まずは、子会社化を提案した企業について。少し前のことだが、世間を賑わせた話題があった。有名な観光地への、自動車道として、紅葉の時期には、凄まじい混雑が起きる、その場所での出来事が伝えられ、何が問題かの、説明が掲載された。駆動形式の違いだそうだが、故障や欠陥ではなく、それ用の運転を、心掛ける必要がある、というものだ。燃料と電気との混合方式は、多くの企業が採用するが、特許の関係からか、少しずつ異なるものが、存在するようだ。それについての説明は、こんな所にある。それと共に、話題となったのは、電動自動車について、ラジオの販売から、持ち運び可能な再生機の開発で、一世を風靡した家電企業との、合弁事業を立ち上げたことで、この方面の業績不振が、今回の顛末への端緒となった。双方共に、技術開発に、定評があっただけに、何故、と思った人も多い。一方、もう一つの企業については、前にも書いたが、四半世紀前に、業績不振から、海外企業の支援を受け、黒船襲来により、再建を果たしたと言われる。ただ、この時も、自力での回復が、及ばなかった理由として、経営方針転換や人員削減など、社内での解決策を、講じられなかった為、との指摘もある。その後、確かに、回復したのだろうが、電動車主体の方針が、様々に迷走した挙句、現状の凋落へと、結びついたと言われる。これが、黒船のせいとする、責任転嫁は、論外としても、彼の下で、次代を担う人材を、育成してこなかった、つけが回ったのが、主要因だろう。その上、逮捕後の経営陣交代と、それに続いた、新たな陣営の下でも、業績回復は、成し遂げられず、今回の騒動へと、結びついた。それにしても、人員削減は、急にはできない、などと言い訳を吐く程、無能だとは、と思った投資家も多いだろう。何しろ、前回同様、その問題を、解決することが、最優先だった筈だからだ。
破談となった合併案の、一方の企業は、今、二度目の大きな危機に、瀕している、と言われる。前回は、昨日も書いたように、外国企業からの支援を受け、黒船来襲と呼ばれた、辣腕経営者を迎え、多くの切り捨てにより、回復の道についた、と言われていた。
しかし、社員の気質は、大きく変わることなく、気概のある技術者が去り、ある意味、従うだけの人間が、中枢に入り込むことで、不正が続いてしまった。逮捕劇から、逃亡劇へと、まるで、映画のような、ふざけた展開の末、経営陣が刷新され、愈々、新たな展開が、と期待されたが、所詮、人材育成を、疎かにした、つけが回ってきた。一方で、切り捨てによって、下請けとの関係を、断ち切ったことで、基礎的な生産能力も、失われていたことが、傷を大きくしたようだ。確かに、車好きに、人気のあるものを、という理念は、重要かも知れぬが、好業績を上げる企業が、大衆車を目指しつつも、燃料と電気の、混合駆動方式を開発するなど、画期的な技術開発に、裏打ちされた生産能力を、下請けと共に、築いてきたことと比べると、重要な視点が、失われていたことが、窺われる。そこに、収益重視の、経営理念の導入が、基礎の再構築より、見かけ重視の開発を、優先させることとなり、来襲以前より、悪化した状況を、招いたように思う。余所者の力で、回復したからか、自助努力が、培われることなく、再び、坂を下り始めた時、嘗ての技術力も失われ、経営手腕が欠落する中では、如何ともし難い、という状況に、陥ったことは、当然だったのだろう。再び、統合という形で、再建を、と目論んだものの、人員整理をはじめとする、再建への道筋さえ、見出せないようでは、こうなるのも、また、当然だろう。で、ここまで追い込まれ、身の振り方を考えると、さて、どうするのが、いいのだろうか。自分達で、切り開くしか、道は残っていない。
一週間程前の経済紙一面に、自動車産業の三大企業の名が、踊っていた。それも、明暗分かれる形での、見出しでだ。この所、自動車産業は、世界的な混乱の渦中にあり、この国でも、御多分に洩れず、業績不振や計画変更など、様々な波風が、立っているようだ。
だが、その中で、明と暗の報道が、状況の違いを、如実に表している。世界でも、ここ数年、一位かそれに準ずる業績を、上げ続けている企業は、不正問題で揺れ、半導体不足の余波から、厳しい経営状況にある、とさえ伝えられたものの、蓋を開けてみれば、結局は、業績好調の報道となった。それに対して、国内業績で、それに続く二社は、隣の大国での不振から、突然、合併の提案が、取り沙汰された。確かに、現状打破の為には、思い切った転換が、必要なのだろうが、企業体質が、余りに異なる中、どんな形で実現させるのか、との意見があった。そこに、今回は、頓挫の報せが入った。片方が、もう一方の停滞状況に、業を煮やして、子会社化を提案、と伝えられたばかりで、反発が大きく、現実化が不可能、との結論が出され、合併そのものも、頓挫したとされる。煮え切らぬ、と批判された企業は、世紀が変わる直前に、黒船来襲とばかり、経営者の席についた外国人が、大鉈を振るった結果、長く続いた不振から、急激な業績回復を、実現したと言われた。だが、人員削減や、下請け企業の切り捨てなど、膿を出す経営手腕は、賛否両論が並び、その後、独裁的な手法が、犯罪と断定されるに至り、今の経営陣へと、転換した訳だ。実際には、技術優先の経営が、収益優先となる中、多くの技術者が、去ったこともあり、技術力の低下は、否めないとも言われた。一方の企業は、神様と呼ばれた、経営者が立ち上げ、最先端技術の追求を、意識した経営が、続いてきたが、混合方式でも、また電動化でも、立ち遅れが目立っていた。それでも、もう一方が、電動化を、最優先で導入し、国内では、不正をきっかけで、統合させた企業の、軽自動車での導入と相俟って、先頭を走るように見えたが、混合方式を、捨てるとの方針が、突如放棄され、迷走が続いていたのに比べれば、ましと思われた。で、この結果だ。元凶は、一方の、相も変わらぬ経営体質にある、と思われるが。
海の向こうでは、大統領を先頭に、昨日の話題を、全否定し始めた。科学的か、論理的か、はたまた、倫理的かは、別として、主義主張に、合わないもの、と断じているらしい。となると、これまでの騒動は、どうなるのか。権利主張が、続かぬとなれば、暴れ出すかも知れぬ。
ああいう事柄を、どちらが正しいのか、という観点で、論じることは、ほぼ不可能だろう。科学的に、立証されたものではなく、様々な学説がある中で、何方か一方に、与する形で、進められた運動は、別の勢力が、権力を握った途端に、頓挫することとなった。ただ、何方が正しいのか、という結論が出ない内は、結局、好き嫌いの問題だったり、信条の問題だったりで、結論は永遠に出されない。まずは、温暖化について、それ自体の疑義も、重要な事柄なのだが、それに付随して、悪者とされた気体の、排出に関わるとして、元凶とされた化石燃料は、嘗ての栄光を、取り戻しつつあるようにも、見えてくる。その上、代替として、大いなる期待を持って、迎え入れられてきた、発電方式も、環境負荷という観点から、一概には、正義の味方、とも言えぬ状況にあり、それを利用した、駆動方式も、種々の問題から、見直されつつある。そこでも、脱炭素なる掛け声が、盛んに、かけられてきたが、ここに来て、異論噴出、といった感もある。ここでも、持続可能性が、重要な因子となる、と考えられているが、どうにも、検討が進まぬままに、掛け声ばかり、なのではないか。社会問題として、環境問題が、重視されるのは、半世紀以上前から、続いているが、人間の活動が盛んになり、その上、人口が爆発的に増える中、解決の糸口は、見つからぬままだ。一方、人間そのものの、嗜好に関する話題は、個人の考え方に、よる話だけに、解決は容易ではない。特に、権力者が、風見鶏ではなく、偏った見解を、押し通そうとすれば、歪みは、強まるばかりだろう。それも、少数派の問題となれば、多勢に無勢が、そのままに反映される。ここでも、社会媒体は、傾きを強めるだけで、何の役にも立たないようだ。
温暖化や、SDGs、果てはLGBTまで、兎に角、社会問題に触れることが、最低条件となる。だが、その扱い方は、それぞれであり、どうにも理解に苦しむことも、多々ある。何故なのか、簡単には、無理解によるもの、という解釈と、もう一つは、下らない話題、という解釈だ。
多くの事例では、掛け声が重要、と言われる。だが、掛け声ばかりで、中身の無いものや、掛け声自体が、受けを狙う余り、歪曲されて、間違ったものや、誤解を招くものに、なってしまう。これでは、社会をよりよくしよう、という話自体が、無意味なものとなってしまう。はじめに挙げた3つについても、解釈は様々である。例えば、温暖化は、世界的な気温上昇そのものが、通常の変動の範囲内に留まり、何かしらの原因による、との解釈が、当てはまらない、との指摘さえある。その上、悪者とされている、二酸化炭素の作用も、学会でさえも、賛否両論があり、現状の断定的な流れを、危ぶむ声さえある。次に、SDGsは、所謂「持続可能な開発目標」だが、持続可能そのものでさえ、理解し切れぬままに、目標を定める話が、矢鱈滅多らにある。多くが、魅力的な掛け声を、作らねばという命題に、捻じ曲げた話から、提言を作り出した、結果となっている。もう一つの、LGBTについては、更に多くのイニシャルを、続けることもあり、それぞれが意味する所を、書き出すしか、表現方法がないようだが、要するに、生物学的な性の区別では、表現し切れぬものを、集めた結果となる。人権などを引き合いに、全ての人々に、権利を与えようとする、動きの表れと見るが、果たして、その必要があるのか、検討不足が感じられる。人権は、確かに重要なものであり、それを侵害するような、制度や働きかけは、排除されねばならぬが、一方で、権利主張が、強まり過ぎた場合に、どう扱うべきかが、余り検討されておらず、差別意識の排除が、逆差別を産むとさえ、言われる所以だろう。これらを、安易に取り上げるのは、どうかと思う。