パンチの独り言

(2025年2月24日〜3月2日)
(既視感、泡銭、説教、報道の自由、畑違い、餓鬼の喧嘩、衆人環視)



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3月2日(日)−衆人環視

 昨日の口喧嘩は、ある意味、公衆の面前で、行われたから、操作のしようも無かった。しかし、それにしても、と思うのは、あの人物の資質である。確かに、罵り合いを始めれば、皆の前で、引っ込みがつかず、また、負けを認めることも、あり得ない話だ。だから、ああなった。
 国の頂点に立ち、率いているとの自覚は、ああいう場面では、当然の言動に結び付く。だが、それを、報道陣の面前で、それも、全世界に、配信されていることが、確実な中で、演じることは、かなりの危険性を伴う。結果、厳しい批判が、双方に向けて、浴びせられている。ただ、これまでなら、会談とは、はじめの部分だけ、それも儀式的な所だけ、報道陣を引き入れ、その後は、関係者のみで、密室で行うものだが、そこで交わされた会話は、互いに、都合の良い部分だけを、情報操作して、流すこととなっていた。だから、本当の遣り取りは、そこに居合わせた人間にしか、わからないものとされた。だが、今回の、ある意味、口喧嘩でしかないものは、そうではない。だから、報道も、操作のしようがなく、喧嘩の当事者達も、今の所、発言そのものを、否定することさえ、行っていない。では、報道は、何も操作していないのか。珍しく、決裂する顛末を、全て目撃したからだろう。ある放送局は、全文紹介を、行っている。だが、それ自体が、何の意図か、と尋ねれば、前後関係、文脈を、伝える為、とでも説明するだろう。しかし、今朝の経済紙は、そうではなく、激昂に至った部分のみを、切り取った形で、「主なやりとり」とした。放送局のものでは、後編にあたる部分で、副大統領が、口出ししたことで、話し合いが、いつの間にか、口論となった経緯が、見えてくる。いつも通りとはいえ、海の向こうの餓鬼大将は、口調を荒げて、負けない姿勢を、示すのに対して、もう一方は、ある意味、冷静を保ちつつ、当初からの主張を、強く発していた。ただ、勝ち負けで言えば、はじめから、決まっていた訳で、説得に応じる気は、毛頭ない輩が、怒りに任せて、罵っていただけだ。これとて、何方に与するかで、全く異なる光景に、見えていたようだが。

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3月1日(土)−餓鬼の喧嘩

 報道に関しては、何度も取り上げているように、著しい偏りを、見せてはいけない、と思う。中立とは何か。そんな疑問に、答えを出すのは、簡単なことではなく、おそらく、皆が、それなりの中立を、目指しているのだと思う。だが、それが疑われる程に、極端な情報操作も、ある。
 今回の、罵り合いについては、何方に与するかで、正反対の見解が、示されるだろう。今までなら、囀りという、間接的な接触の場で、互いを貶める発言が、繰り返されてきたが、流石に、皆の前、それも、記者を交えての場で、相手の発言を、遮ってまで、自分の意見を、出し合うとは、誰も予想しなかった。一つには、餓鬼大将が、自分の住処で、自分の土俵だから、いつものように、好き勝手に振る舞った、というだけかもしれない。それは、まるで、囀りでの発言のように、相手の言葉など、受け止めることなく、言い放つ姿に似ていた。一方、軍事侵攻から、何とか平和を、取り戻したい、と奔走する人物は、何故、自分達を、突き放すような、言動を繰り返すのか、溜まりに溜まった疑問を、吐露したに過ぎない。だが、それが、短気な人間の、気に障ったのだ。ただ、それだけと見れば、どうということはない。だが、全てが録音され、全てが、全世界に向けて、発信されたとなれば、さて、どんな修復が講じられるのか。何しろ、一旦は、独裁者と呼んだことさえ、忘れたかのように、誤魔化してきた人間だ。交渉、取引の場では、その程度の嘘は、何の問題も生じない、とでも言いたいのか。何方にしても、発言の幾つかは、看過し難いものだった。世界大戦を、始めるようなもの、とか、何百万の人々を、犠牲にして、とか、そんな言葉が、勢いに任せて、飛ばされていた。一国の大統領が、発すべき言葉ではないし、公然と言い放つ態度には、嫌悪を催した人も、多いのではないか。今後の成り行きは、誰にも分からない。ただ、侵攻を始めた独裁者だけは、ほくそ笑んでいた、に違いない。

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2月28日(金)−畑違い

 賛否両論がある、と思うだろうが、その実、反対意見の方が、多いのではないか、と思う。パンチは、あの連中には、務まらないと思っているが、どうだろうか。今、海の向こうでは、企業経営者達が、国の政治に、参画している。それも、助言ではなく、中心的役割を。
 国を、企業体と見做せば、今の姿は、まさにそのものであり、だからこそ、企業を治めるのと同様に、国を治めることも、できるに違いない、と思うのだろう。だが、明らかな違いが、両者にはある。それに気付かぬまま、あれ程の収益を上げたのだから、国にとっても、そして、国民にとっても、素晴らしい政治を、成し遂げてくれるに違いない、と思うのだろう。でも、国の政治は、企業の収益追求とは、全く異なるものだ。同じとは言えないだろうが、大学運営を、企業経営者に、任せた例は、古今東西様々に、あるだろう。だが、教育は、収益追求ではなく、別の形の寄与の方が、遥かに重要となる。その結果、社会への貢献が、成せるわけだが、利益追求と同じ、と思ってしまうと、とんでもないこととなる。実は、大学を、研究機関と見做しても、同じことで、研究を、業績と利益だけで、評価することは、大きな失敗を、しでかすことになる。でも、国と大学は違う、と言う人がいるだろう。その通りだ。ただ、例として示しただけで、だから、経営者には、国の政治を、行えないとするのは、お門違いとされるに違いない。もう一つ、こちらの方が、遥かに大きな意味を持つが、企業は、社会の中の、一つの組織に過ぎず、国のように、国民全体、つまり、属する人間全てを、相手とするものとは違う、という点がある。にも拘わらず、効率追求を目的として、政府機関の職員を、評価だけでなく、首を切るなどと、言い出すのは、大きな間違いであり、更には、国民には、一部の富裕層を除き、国を去る選択が無いのに、何かしらの、圧力をかけるのは、以ての外だ。この不見識が、極まるばかりなのは、選挙民の選択の、結果に過ぎないが、犯した間違いを、正すことは、任期保証では、不可能だろう。一方で、企業経営でさえ、統治が重視されるのは、何故かを考えれば、今の動きが、如何に危ういものか、わかるに違いない。

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2月27日(木)−報道の自由

 半世紀程前に起きた、凄惨な事件のことを、覚えているだろうか。世界的祭典で賑わう、選手村で起きた事件は、今もまだ、紛争が続く地域の、民族間の戦いが、全く別の場所で起きたものだ。最近、これを、事実に基づき制作した、映画が上映され始めた。畑違いの人々を、取り上げる形で。
 この話題を、衛星放送の経済番組が、取り上げていた。嘗ての事件と、今も続く民族間の紛争を、結びつける形で、問題提起したのだろう。それと共に、この映画を制作した監督に、話を聴くことで、報道に対する考え方にも、触れていた。事件を伝える映像は、本来、競技を伝える為に、現地入りした、ある放送局の人々が、捉えたものだったが、伝えること自体が、犯人達の動向だけでなく、警察の動向をも伝え、捜査の詳細を伝えることが、事件解決に、必ずしも繋がらない、との批判が、事件発生中も、解決後も、飛び交ったと言われる。そこから、報道姿勢を、考えるべきとの指摘が、噴出していたようだ。このことは、こちらでも、同じ年に起きた、山荘事件でも、盛んに指摘されたが、一部の誘拐事件を除けば、何れの場合も、報道規制は、行われておらず、それによって生じた、問題の責任を、問う声は、収まることはない。番組では、それに加えて、旧来の大衆媒体だけでなく、社会媒体と呼ばれるものが、登場したことで、問題の本質は、伝える側のみならず、受け取る側にも、及ぶことを、伝えていた。今や、一般大衆が、興味本位で、切り取った映像が、臨場感を持って、伝えられる訳で、彼らに、報道姿勢と同様の、考えを抱かせるのは、無理難題でしかない。更に、生成人工知能が、この状況を、悪化させるという懸念も、盛んに伝えられており、伝える側からの解決は、期待できそうにない。となれば、受け取る側の、審美眼やら、吟味力に、期待するしかないが、さて、今の状況では、それこそ、望み薄どころか、ほぼ不可能に思える。どうしたものか。

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2月26日(水)−説教

 経済紙、夕刊一面には、小説家、大学教授、落語家など、色々な分野の著名人が、思う所を書いている。それぞれに、日々の営みに繋がる、話題を見つけ出し、それに対する意見を書くのだが、面白い時と、つまらない時がある。人間の意見に対し、そんな反応は、当然のことだ。
 昨日のものは、以前、隣の大国に、大使として赴いた人が、書いたものだったが、中々面白かった。赴任直後に、あちらの要人に面会した時の、逸話なのだろうが、「説教」をされた、とある。要人と言っても、政府の中枢に居座る、あの手の人々は、大使如きに、無駄な時間を、費やすことはない。相手は、あちらとこちらの関係を、良好に保つ為の組織の長で、重要な役割を果たし、時に、こちらの政治家とも面談する、と書いてあった。だが、威圧的な態度で、自らの国に従わぬ、こちらの国からやってきた大使に、「説教」を垂れるのだ。こんな雰囲気の中、こちらの人々は、その有り難い言葉を、受け止めるだけ、となると思う人ばかり、と政治家や官僚を、馬鹿にするのが、こちら側の意見の、大半を占めるのでは、という憶測を裏切り、彼自身も、他の政治家や要人達も、時間をかけて、一つひとつの説教に対し、反論を並べるのだそうな。だから、単純な挨拶の筈が、思いの外、時間がかかり、1時間程度は序の口、2時間以上もやり合った、ということもあるのだそうだ。見識の無さ、という意味では、まあその程度のもの、と見るべきなのだろうが、相手の土俵で、不見識な発言も、不用意な発言も、ろくな結果にならない、と思えば、流した方が、得策に思える。だが、あの国の人々は、どんな非常識な発言でも、相手が否定しなければ、それが、常識となり、正しいものとなる、と信じている。だから、こちらが、敗戦国になってから、何の証拠も無しに、虐殺や多くの事件を、事実として、世界へ訴えてきた。その度に、否定することが、常となっているが、その理由は、こんな具合だからだろう。外交に関して、無理難題を、押し付けること、と信じる人も居るようだが、現実には、互いの意見、見解を示した上で、妥協案を導くことが、その常道となっている。派手な振る舞いが、常となる人物には、無能な支持者が、群がっているが、どうなることやら。

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2月25日(火)−泡銭

 馬鹿げている、と思うが、その後も、大した進展は無い。米騒動は、依然として、高騰が続く小売価格に、消費者達は、悲鳴を上げているが、重い腰を上げた政府も、備蓄米放出には、暫く時間がかかるとして、即効性は無く、一方で、不埒な輩達は、幕引きを謀り、備えているのか。
 それにしても、何故、こんなことが、起きているのか、有識者とか、専門家とか、そんな風に呼ばれる連中から、今回も、まともな解説が、出てくる気配さえない。要するに、こういう事柄を、専門に扱う人間には、想定外の出来事は、解釈不能でしかなく、当然のことながら、解決の手立てなど、浮かぶ筈もない。一部の報道では、新規の業者が、参入したとされ、それも、IT関連や産廃業者、間違っても参拝業者ではなく、産業廃棄物を扱う業者のことだが、こんな余所者達が、暗躍しているとされる。最近は、それに加えて、建設業者も、との話もあるが、彼らに共通するのは、業績不振が続く中、賃上げが加わり、労働力確保に苦しみ、負の連鎖に陥っている、と言われる点だろうか。本業での利益が、上がらないとなれば、何処かに、金が降るようなものが、無いかと躍起になるのは、当然のことだろうが、それにしても、負の連鎖の上に、不慣れなものに、手を出せば、どんな結末を迎えるか、明らかに思える。火の車の経営に、高値で仕入れた上に、高額の利益を乗せて、売り抜けようとしても、さて、そう上手く事が運ぶか。そこに、混乱を強める、政府の動きが起き、どう逃げるのか、容易ではないだろう。だが、始めて仕舞えば、手は引けない。貯蔵庫を確保し、日々の出費が嵩む中、何処で何時、売り逃げるのか、流通の道筋さえ、持ち合わせていなければ、自分の首を、締めることに、なりかねないだろう。こんなことが、起きたのは、この国独自の、流通の仕組みにある、と言われる。仲介業者が、何重にも渡って、存在して、各段階で、収益を上げようと、手数料を取る。直売方式が、一般的となる中、その窓口を、仮想空間に設け、誰もが接続でき、手に入れられる、となれば、新規参入も、難しくはない。でも、だからと言って、誰もが、濡れ手に粟という具合に、できるとは限らない。煮湯を飲まねば、判らぬ連中には、二度も三度も起きることだ。

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2月24日(月)−既視感

 昨日の今日だが、取引とは名ばかり、と書いたが、それが仮令交渉術だとしても、やり方が、薄汚いと思える。特に、彼特有のやり方だとしても、一方に加担するふりを見せ、自分にとって、有利となる材料を、揃えようとするのは、外交という、均衡を考えるべきものに、そぐわない。
 こんな所から、ふと思い当たったのは、別の見方だ。もう一世紀程経つか、列強の国々が、勢力拡大を図って、植民地化を進めた頃、北方民族に支配された、隣の大国は、列強の書いた筋書き通りに、様々な権益を、奪われていった。当時は、それが、正当なやり方で、自国の利益を、最優先にすることが、世界全体の均衡より、重要である、と考えられたからだ。それを、思い出すと、今の状況は、よく似ている、と思えてこないか。列強が、互いの権益を争い、そこで、色々な圧力を、弱小国にかけ続ける。当然、自国の利益を守ろうと、弱小なりに、何れかの列強に、助けを求めるが、それとて、同じ穴の狢であり、交換条件が、様々に示され、結果的に、不利な条件を、飲み込むしかない。今の、軍事侵攻を受けた国が、まさに、その状況に陥っている、と見れば、あの大統領の、身勝手な発言も、類似の筋書きか、とさえ思えてくる。だが、それに対して、今や、先進国の仲間入りをしたと、自負している隣の大国は、どんな態度を示すのか。嘗ての、不当な扱いを、思い起こして、正義を振り翳すのか、あるいは、自らも列強の一つとして、漁夫の利を、得ようとするのか。嘗ての列強国は、今、近隣の紛争を、回避しようと躍起になり、救いの手を、差し伸べ続けよう、としている。だが、それとて、別の権益の移譲が、約束された途端に、掌を返すことに、なりかねない。一方、一世紀前に、列強に与せず、独自の政策を、地域全体に広げた、と言われるこの国は、それが受け容れられず、大戦へと引き込まれた、苦い経験を活かし、消極的な姿勢を、貫くのか、あるいは、正論を掲げ、世界平和の継続を、目論むのか。そんなことを、ふと考えてしまった。

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