パンチの独り言

(2025年3月10日〜3月16日)
(どうなる、ただより高い、これもただ、無知の極み、言い過ぎ、責任転嫁、夜明け)



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3月16日(日)−夜明け

 平和が長く続き、この国では、高度経済成長が、続いた中では、皆が、将来への不安を、抱くことなど、無かったに違いない。だが、その中で、企業や組織の、運営にあたる人々は、何処か、漫然と過ごし、同じことを繰り返せば、このまま、成長が続くと信じ、将来に目を向けなかった。
 その為か、徐々に、歪みが強まり始め、膨らんだ泡が、弾けた時には、何の対策も講じられず、ただ萎むに任せ、停滞どころか、下降の一途を辿り、四半世紀を超える、長い期間、成長を止めたばかりか、様々なことに、縮小や圧縮が、覆い被さっていた。となると、成長期に、何の努力もせず、傲慢な気分で、騒ぎの中で、踊り狂った人々は、突然、奪われた機会に、恨み節を繰り返し、将来への不安ばかりを、叫び出した。折角築いた、繁栄の数々も、するりと手を抜け、世界に冠たる、最新技術についても、手放すこととなり、不安が膨らみ続けていた。今、やっとのことで、その衰退期を、脱したと思われるが、染み付いた悲観論は、簡単には、拭い去ることが、できないままとなる。この様子に、怒りを覚えつつ、どうすべきか、と悩んでみるが、あの連中の、歪んだ心を、正常に戻すことは、簡単ではない。だが、これから、将来を担うべき若者に、この状況が、どれ程の悪影響を、及ぼしているか、考え始めると、問題の大きさに、どうすべきかと悩むしかない。それがまた、負の連鎖を、広げることとなり、窮地を脱することが、難しくなりそうだ。だが、現実には、この手の問題の大半は、自分達が作り上げ、解決の糸口を見つけたり、良い方向への思考を、始めようとすることを、自身で、妨げているだけだろう。悲観論も、馬鹿げた考え方だが、それを、若い世代に、押し付ける姿には、呆れるしかない。こうしても駄目、ああしても駄目、と繰り返しても、何の解決にもならないばかりか、そんな姿を、若者達に見せて、何の得になるのか、と思う。確かに、厳しい状況に、追い込まれたのは、自分達だけの、責任ではないが、だからといって、今のような、消極的な取り組みでは、何の打開策も、見出だせそうにない。だとしたら、将来への不安を口にするより、どうすべきかを考え、それを実践する方が、遥かに良さそうに思う。

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3月15日(土)−責任転嫁

 伝えることが、重要だとする主張に、反対する訳ではない。だが、何事にも、万全、万能な手立てが、ある訳でもない。特に、強調すべきことは、送り手の責任ではなく、受け手の心掛けによる、という点だ。話を聞くか否かは、本人の勝手であり、聞かないのも、本人の責任だ。
 そんな状況で、送り手の責任ばかりを、問う意見が出てくるのは、馬鹿げたことだ。まるで、商店主が、客から虐められる、あの図式とそっくりで、だからこそ、もっと注意すべきこと、と思うのだ。責任転嫁の典型で、何の責任も果たさずに、知らなかったとか、言われなかったとか、そんな言い訳を並べるのは、如何なものか。まあ、こんなことを、書き並べても、肝心の非常識な連中には、何の影響も及ぼさず、我関せずのまま、相手の責任を、声高に訴える。いつから、こんな具合に、なり始めたのか。定かには、覚えていないが、今の状況は、まさに、その最中に思える。その上、責任ある立場の人々でさえ、同じような形で、他人の責任ばかりを、強調して、追及し続けるから、この状況が、改善される兆しは、全く見えてこない。何しろ、偉い人々でさえ、そんな言動を続けるのだから、自分が、少しくらいそんなことをしても、問題ないと思うからだ。いやはや、どうにもならぬ、と諦めるしかないが、実害が及べば、流石に、何かしらの反撃を、するしかない。でも、こんな非常識連中ほど、自らを、弱者であると演じ続け、被害者然と、相手の責任を問い続ける。こちらとしては、無理筋の論理に対し、筋道を立てて、説明した上で、本人の責任を、問うこととなるが、さて、どんな結果になるか。これまでの経験では、まずは、敵が増えるばかりで、味方となる人は、殆ど現れず、精々、攻撃をしないが、賛同もしてくれず、ただ、黙りを決め込む。触らぬ神に祟りなし、とは、まさにこんな状況で、努力が報われることは、少ない。そんな状況でも、この悪い状態を、少しでも改善させたい、と思うからこそ、こんな所でも、書き連ねるのだが、さて、変わるものか。主張だけは、続けていきたい。

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3月14日(金)−言い過ぎ

 連日で、忘れない、という話題が続くと、考えさせられる。確かに、重要な事象を、記憶に留めることは、災害を避ける為にも、また、戦争などの、多くの人々に、悪影響を及ぼすことを、行わない為にも、不可欠なことだろう。でも、それは、書かれたものを読めば、できるのでは。
 教育の重要性でも、触れたことだが、多くの人は、教科書に書いてあっても、それらを教室で習っても、覚えられずに、すぐに忘れてしまう。だから、書いたものではなく、語り部のように、実際に経験した人に、話を聴くことが、重要とされる。だが、百年以上前のことを、実際の経験者に、とは、不可能なことであり、既に、大戦での、大空襲の経験者や、被爆の経験者は、もう居なくなり始めている。そんな時、語り部が重要、と主張する人々は、語り継ぐ為の人材を、発掘しようとする。だが、経験者という括りと、単なる語り部が、同じと言えるのか、と思ってしまう。書かれたものより、語られたものの方が、より強く、心に響くと言われるが、その違いは、理解できない。何方にしても、興味が無ければ、同じ結果にしか、結びつかないのでは、と思うのは、考えが浅いのか。一方で、経験者が、存命中に、撮影された資料も、多くが残されている。これもまた、人が話すことが、重要だとするなら、それを流して、聴かせればいい、のではないか。こんな文句を、書くことに、意味があるとは思えぬが、こんな日が来る度に、繰り返されるのに、辟易としているからだ。教育の重要性を、強調する人も、語り部の重要性を、強調する人も、同じような考えに、囚われている、としか思えない。だが、それが、施策に結び付き、そんな事業に、更なる出費を、注ぎ込むのなら、もうそろそろ、おしまいにしては、と思う。忘れない、という掛け声も、届かぬ人には、何も響かず、少しくらい、働きかけても、無駄かも知れない。それは、あの波が、押し寄せてきた時の、一部の被害者にも、通用することで、厳しい言い方をすれば、自業自得でしかない。それでいいのでは、とは、言い過ぎだろうか。

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3月13日(木)−無知の極み

 教育の重要性は、誰もが認める所だが、その一方で、施されたものを、溝に捨てるような話が、沢山あるのは残念だ。確かに、毎日、教室で、大人しく座らされ、無理やり、覚えることを強いられるのは、負担ばかりで、良いことなど一つも無い、と言いたくなるだろう。
 しかし、好きなことだったら、何もかも覚えられるのに、それ以外は、とんと駄目となれば、業務に支障を来す。そんな当然を、知らぬふりして、やり過ごすのは、どうだろうか。また、如何に、専門的な知識が、不足していようとも、毎日の生活に、必要な事柄くらいは、誰しも、朧げながら、覚えているものだ。では、真の意味で、最低限とは、どの程度のものか。この問いに対する答えは、無いだろう。確かに、この国では、義務教育期間において、その最低限を、習得させるとあるが、全ての子供らが、その全てを理解し、記憶しているとは、誰も思わない。それより、僅かながらも、痕跡が残れば、それで良いとなる。だったら、皆がその程度で、さっさと終わらせて、残りの時間は、遊んでいるだけで、良いとはいかぬもので、まあ、最低限、中学を出る頃までは、無理でも、授業に出ておけ、となるのだろう。でも、そんな落ちこぼれのような、人間達の話ではなく、政治家となった人や、一国の主人のような、顔をしている人物には、もう少し、ましなことを、喋って欲しいし、まともな意見を、並べて欲しい、と思うのは、当然だろう。ここでも、専門的なことを含め、全てを記憶し、理解せよ、という訳ではない。少なくとも、目の前にあることを、理解しておくべきだし、また、真っ当な主張を、して欲しいと願う。もしできないなら、さっさと、職を辞して、野に下るべきだ。それはまた、非常識な言動についても、当てはまることとなる。自分勝手な解釈を、繰り返すばかりで、社会的道徳も倫理も、持ち合わせていないのなら、公な立場も、責任も、果たせそうにない。どうも、最近の傾向では、誰かが、何らかの形で、賛同してくれれば、それで良いと結論する。非常識な仲間が、そばにいてくれれば、それで、皆の前に立ち、上に立つことができる、などと思うのは、何故だろうか。そんな輩は、殆どが、手に入れた地位に、居座ることが多く、厄介な存在となる。

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3月6日(木)−これもただ

 収入が増えても、物価高の割合が、それを上回れば、生活は厳しい、と盛んに報じられる。確かに、その通りだが、人それぞれに、購入する物品は異なり、一概には、言えないことと思う。この話と共に、国独自の事情として、手取りが少なくなるものが、あると言われる。
 ある人が、そんなことを、顔本に挙げていた。そこには、一定の収入で、国毎に、手取りが異なる、という状況が、にしてある。本人が、まとめたものなのか、あるいは、何処かに、掲げてあったものなのか、出典が表示されておらず、はっきりとはしない。更に、リンクを張ると、こちらの匿名性が、保てなくなる可能性もあり、その情報は、示していない。ただ、内容から、本人が言いたいのは、この国が、如何に、税金や社会保険などの、公共的な負担が大きく、生活が圧迫されているか、ということだろう。しかし、これは、必ずしも、正しくない。何しろ、手取りを、受け取った後で、出ていく金は、必ずしも、普段の生活だけが、相手とは言えないからだ。例えば、表の一番下にある、海の向こうの国では、年金は、こちらと同様の、仕組みを維持しているが、健康保険は、事情が全く異なる。皆保険として、導入が、検討されつつあるとはいえ、あちらの事情は、健康保険が、強制的なものではなく、自主的なものであり、それも、保険額に、かなりの差異がある、と指摘される。更に、保険が保証する範囲も、保険それぞれで、大きく異なる為に、多額の保険額でも、医療を受けた時に、多額の医療費を、請求される場合も、少なくないのだ。となれば、手取りが多くとも、何か事があれば、多額の負担を、強いられることとなり、困窮状況に、陥る可能性がある。この辺りのことを、何も考えずに、ただ数字だけを、追いかける人々は、視野が狭いのだろうが、それだけでなく、そうなる要因がある、と言えそうだ。自分達が、如何に恵まれない状況にあり、その原因は、国の政治による、との結論を、導こうとする、思惑が、第一にある。だから、多くの数字の中で、その主張を後押しするものだけを、拾い出している訳だ。これでは、正しい議論は、できそうにないが、同じ思いを抱く人々には、好都合なものに映り、盛んに、同じ情報を、共有しようとする。その目的で、社会媒体は、便利な道具なのだ。受け取った側が、注意するしか、この拡散を、止める手立ては無い。

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3月12日(水)−ただより高い

 無償化が進む一方で、多くの物品の値上げが続く。生活が、更に苦しくなれば、庶民の要求は、更に強まるだろうか。だが、この図式は、何となくだが、負の連鎖に思えてならぬ。悪くなるから、もっと助けてくれ、という話は、理解できるだろうか。誰が、誰を、助けるのか。
 無償化についても、誰が、その原資を賄うのか、その疑問は、残ったままだ。公的な支援であれば、税金以外で、賄うとすれば、悪名高き国債しかない。だが、既に、借金は膨らむ一方で、孫子に残していいのか、という議論があった。その解決法が、一切出されぬままに、国会の議論は、無償化へと舵が切られた。でも、この話、まずは、原資の問題だけで、理解不能な状況であり、その上、渦中の人々が、果たして、この制度変更で、どんな変化を、手に入れられるか、そちらについても、疑問符は、山のように積み上がる。元々、教育について、この国では、社会全体で支える、という考え方があったが、それは、機会を得る為のことで、そこに、どれだけの経費が、かかることになるか、という点については、全く別の問題とされた。文字が読めるか、という課題でも、この国の文盲率は、かなり低かったと言われ、その理由が、寺子屋にあり、維新後も、義務教育化により、支えられてきた、と伝わっている。ただ、この問題は、今、話題となる無償化の対象とは、全く違うと思う。初等教育ではなく、それ以降の教育であり、要求が、最も高まっているのは、高等教育ではないか。ここまで来ると、社会が支えるべきか、という問題が高まる、と思うのだが、どうもこのままでは、そこまで突っ走るのか、とさえ思えてくる。だが、最低限の教育ではなく、高度な教育を、望むのであれば、それは、自身の為では、という話を出すべきだろう。前にも書いたが、やる気のない人間が、大学に溢れたら、もう悲惨の一言だからだ。

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3月11日(火)−どうなる

 ただになる、という話も、何かしらの金が、支給される、という話も、愚民政治の典型であり、その根拠や理由が、定かでないものは、特に警戒を要する。今、この国で話題となる、無償化という提案も、その点からすれば、何の目的で、何かしらの条件があるか、不明確に思う。
 確かに、物価上昇で、生活が苦しくなるから、出費が減れば、それだけで、助かるとなる。その点について、異論はないと思うが、例えば、給食費については、殆どが、義務教育期間に充てられるから、親の義務を果たす為の、一種の補助金と見れば、理解できる、と言えばできる。でも、その分の金が、何処から来るのか、ほぼ誤魔化されている。国や自治体から、出されるものは、当然、税金で賄うのが、筋となるが、そうなった時に、社会全体で、合意が得られているか、という点について、不明確なままだ。特に、自治体が、地方税から出すとなると、ふるさと納税なる、意味不明な納税制度が、歪みを、更に大きくする。何しろ、ふるさと税を、納める人の多くは、その見返りを、期待しており、その分が、住居のある地域での、税収減少に、繋がるとなれば、無償化の恩恵を、受けることが、公金を奪うことに、なるだけだからだ。さて、その一方で、教育分野での、無償化の広がりは、高校以降のものへと、及び始めている。その結果、ただで、教育が受けられることは、貧富の差が、教育の質に、影響するという意見に、対応することとなる。でも、肝心の生徒や学生は、そのことにより、より高い質の教育を、受け止めるだけの、準備ができているかについて、議論されることは、殆ど無い。誰しも、交換条件が、重要と考える時代に、無料という点は、確かに有り難くとも、その結果として、意欲が芽生えず、ただ漫然と過ごすことに、繋がりかねない、という意見もあるのだ。だとしたら、何の為の政策なのか、無意味となるだろう。社会全体で、必要となることを、支えようとするのは、何も間違ったことではないが、だからといって、ばら撒けばいい、とはならないのだ。学校での、無気力な態度や、消極的な態度が、この手立てで、変化が起きるとは、とても思えず、更に、感謝の念も、芽生えないままでは、どうにもならない。どうするつもりなのか。

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3月10日(月)

 米の値段は、どうなるのか。外食主体なら、ある意味、関係ないことだが、自分で、食事の支度をする人には、主食たる米の値段は、大いに気になることだ。確かに、物価上昇が、起き始めてから、あらゆる物品の値段が、上がり続けるが、米の事情は、少し違うらしい。
 あの、お馬鹿な似非経済学者が、大臣だった頃、怪しげな論理で、社会全体を、混乱に陥れた。「市場原理」なる言葉は、当時、経済界では、自己責任と同様に、殺し文句として、盛んに使われた。需要と供給の均衡、という図式は、確かに、その通りではあるが、供給にしろ、需要にしろ、不安定に違いなく、こんな解釈で説明すれば、どんなことでも、言い包めることが、できる筈だ。今の物価高騰も、まさに、その最中にあり、需要と供給で、説明しようとするが、現実には、既に、論理破綻を来している。一部の野菜は、天候不順を原因に、収量不足が続き、高嶺の花に、なりつつあるが、全てに通用する話ではない。そこで、一部の専門家は、肥料の高騰や、人件費の問題を、そこに注ぎ込む。これは、必ずしも、需要と供給の話ではない。だから、別の説明が、必要となる。これ程簡単なのだが、何とかの一つ覚えの人には、不都合な事象だろう。では、肝心の米は、どうだろうか。こちらも、役所の情報を、鵜呑みにすれば、供給について、何の問題も無い、となる。前の年と違い、猛暑が続いても、それへの対策が、功を奏したとの話で、作柄に関しても、平年並みとある。なのに、収穫が始まる前頃から、前年の不足が、影響したとして、市場に出回る量が、激減したと言われ、店頭から、米が姿を消し、群がる庶民に、米価高騰が、覆い被さった。それも、収穫期には、解決するとの見解は、見事に外れた、と言われ、依然として、高値が続いている。原因は、定かでなく、皆の不安が広がる中、政府は、備蓄米の放出を、決定した。とは言え、やっと準備が整い、入札が始まるそうだが、価格の変動が、起きるかは、定かでない。入札となれば、今の価格との比較で、誰がどう決めるのかが、最大の問題となる。買い占めに走った人ばかりなら、損失を避ける為に、高い価格を、維持しようとする、という話もある。さて、どうなることやら。

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