パンチの独り言

(2025年3月17日〜3月23日)
(陰謀論、その果て、風物詩、黒塗り、無い物ねだり、教育の本質、下らぬ忖度)



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3月23日(日)−下らぬ忖度

 教育の本質、と言っても、時と場所により、異なるものだ、と考える人は多い。親が学んだことは、子が学ぶものとは、違っている。そんな見方をすれば、その通りなのだろうが、現実には、本当の核は、変わらないものだろう。事柄一つひとつは、違っても、本質は同じ、と。
 個性という言葉が、無闇に使われ、押し付けられた頃、自主性が、重んじられる、と言われたものだ。だが、当時の教育では、自主性とは名ばかりで、ただの押し付けでしかなく、子供達の考え方は、それに従うものだった。「ゆとり」の問題は、そこにあったのだが、当時の教育界では、それを見極める人は、少なかったのだろう。現場での混乱は、そのまま放置され、お仕着せの自由は、単なる足枷となった。評論家は、見抜けなかった人の、生き残りのようなもので、相変わらず、指導が肝心、と訴えていた。そこに問題がある、と指摘したが、記事の内容では、もう一つ、現場の問題を、指摘していた。それは、活動において、不安を抱く教員が、救いを求めて、依頼をした相手の、的外れな評価だ。大学からやってきた、専門家と称する人が、ただ褒めるだけで、何の問題も指摘せず、丸く収めようとする、という態度を、厳しく批判していた。でも、これは、現場を映す鏡でしかなく、厳しい批判を、生徒に浴びせる人間は、殆どの場合、二度と呼ばれない。生徒自身も、時に立ち会う、保護者からも、叱られたことに、恨みつらみを抱き、先生達に、文句を並べるからだ。無難な言葉を、並べてくれ、時に、的外れな褒め言葉さえ、与えてくれる人間を、望む人間が、如何に多いことか。そこに問題がある。しかし、それでも尚、厳しい言葉を、探究活動における、対等な立場として、浴びせることは、本質を考える上で、重要ではないか。それを、理解しないまま、忖度の上で、優しく対するのは、大間違いでしかない。それを、現場に理解させる為に、彼ら専門家が、居るという事実を、理解しない社会であり、時代なのだろうか。だとしたら、今の、探究を促す方針は、頓挫してしまうだろう。だからこそ、評論家は、その点を突いて、真面目な専門家を、応援せねばならない。期待できそうにないかも、だが。

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3月22日(土)−教育の本質

 教育において、最重要なものは、教え込むこと、指導すること、と考える人は多い。特に、最近の子供達は、巣の雛鳥の如く、口を開けて、親が運ぶ餌を貰うように、与えられるのを、待つだけと言われる。その中で、指導法や教育法が、重要となると考え、その技を磨くのだと。
 だが、教科書にある事項のように、選び抜かれたものを、正しく説明するならまだしも、生徒達が、自分の力で、調べたり、確かめたりしたものに、何かしらの助言を与え、先へ進めるように、となると、道や内容が、決まっている、教科書のようには、事が運ばない。そこに、昨日の話のように、教育評論家が、正しい指導法とは、などと宣うのだから、現場の教員は、たまったものではない。だが、教育の世界では、そんなことが、信じ込まれており、足らない部分を、どう補えばいいのか、悩み苦しむこととなる。決まりきったことで、答えが決まっていれば、それを、指し示すことこそが、唯一無二のものだろうが、何が答えであり、どう挑むべきかが、定まっておらず、自らの努力で、克服しようとするのに対し、正しい答えは、ある筈も無いし、また、そんなものが、あったとしても、生徒各自に、それを与えることが、必ずしも、正しいとはならない。それより、各人独自の、道を拓かせることこそが、重要なのではないか。でも、この手法は、教育に携わる人間には、不慣れで、不確かなものと映る。結果、実しやかに、王道を示すふりをして、馬鹿げた押し付けと、強制的な矯正を、施そうとするのだ。記事に関しては、経済紙のサイトでは、読むことができないので、今回は、撮影したものを、掲げておくが、著作権からすると、好ましくはない。ただ、問題の本質を、伝える為には、不可欠な材料となるので、敢えて、掲げておくのだ。さて、それを読めば、こちらの意図することは、伝わるだろう。一方で、こんな愚かな圧力を、かけ続けることや、それを受けて、真面目に取り組もうと、無駄な努力をする現場は、何とも情けなく映る。まずは、生徒の自主性に期待し、それを促すことこそが、第一であり、その為に、詳細な知識と理解を、求めようとせずに、無垢な疑問を、与えることこそが、重要なのだと、理解せねばならぬ。

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3月21日(金)−無い物ねだり

 教育の重要性に、異論を唱える人は、居ないだろう。だが、海の向こうでは、その監督官庁が、閉鎖の憂き目にあると言う。ただ、こちらの役所とは違い、あちらは、初等中等教育では、全て州任せで、進化論の採否さえ、異なると聞く。とは言え、何を根拠の決定か、疑わしいものだ。
 公教育に関しては、この国でも、長く続いた伝統を、時勢に合わせて、改めようとの動きが、四半世紀程前に起きた。「ゆとり」と呼ばれる代物は、不可欠なものを除き、子供らの自由に、任せた形に改め、自主性を育む、と言われたが、10年程で廃止され、目論見通りには、成し遂げられなかった。それと同時に始まった、「総合的な学習の時間」は、自主的な学びを、促すものとして始められ、今も、小中学校では続く。しかし、高校では、単なる調べ学習に、終始する傾向が強まり、自主性重視の見方から、探究なるものへの、転換が進められている。だが、現場の混乱からか、従前通りに留まり、掛け声通りには、進まぬ状況が、深刻となると伝わる。一方で、監督官庁からの、教員派遣が、進められるようで、その活動でも、探究として、自分の意見を纏めさせる、時間を設けるとの報道があった。自主性の観点から、評価する人も居るだろうが、これだけでは、「学習の時間」からの脱却は、望めそうにない。感染症騒動でも、冷静に数値を眺めることが、殆どの国民で、不可能なのが、露呈していたが、それを改善する目的も、探究には含まれ、数値解析と共に、分析的な論証に加え、それらを、発表する力の醸成が、目論まれている。現場の混乱は、これらの過程全てに、悪影響を及ぼすと、盛んに批判され、先日も、経済紙に、ある教育評論家が、実情と問題点を、取り上げていた。教育の重要性を、鑑みる上で、確かに、高度な水準を、目指すことは、不可欠となるが、研究を専門とせず、教え方を、学んだ過程でさえ、探究活動に似たことを、行わなかった教員に、水準を求めるのは、過度な圧力は勿論、無駄としか、思えぬものとなる。自主性という意味からは、子供らが、自分で気付けば、それでいいとして、注意喚起で十分と思うが、どうか。

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3月20日(木)−黒塗り

 公開が、請求される度に、ほぼ全てが、黒塗りされたものが、「公開」される。請求した人物の目的は、黒塗りの下に、記された内容を、公開することだが、請求された組織は、公序良俗を保つ為、と称して、請求を受け入れる代わりに、こんな措置を施したものを、「公開」する訳だ。
 これは、この国に限ったことではなく、他の国々でも、同様のことが、行われている。ただ、大きな違いは、その内容を、全面公開するまでの、期間を定めているか、否かであり、その結果、殆どの機密文書が、最終的には、公開されるとある。だが、それでも、例外があるもので、陰謀論信者達は、それこそが、陰謀の証拠だ、と訴え続ける。海の向こうで、ある大統領が、暗殺された事件は、こちらでは、丁度、衛星中継が始まった、その日に起きたことから、衝撃を受けたり、記憶に留めたり、する人も多い。だが、その後の捜査には、異議を唱える人も多く、特に、犯人が、逮捕後の移送中に、銃撃を受けて、死亡したことから、疑いが膨らんだままだ。その過程で、捜査資料の多くは、機密文書となり、公開されないままに、半世紀を超えており、陰謀論信者達は、それこそが、陰謀によるもの、と断じてきた。彼らが、崇拝するうちの一人に、今の大統領がおり、今回、これらの文書の公開を決めた。今後、次々と、それらの内容が、明らかになるのは、当然のことだが、もう既に、暗殺が、謀略によるもの、と決めつける、囀りが、出回り始めた。文書の分析を、望んだ研究者らが、今後、結果を発表することが、期待されるものの、どうも、不確かな情報が、満載された内容では、との懸念も多くあり、結果的には、何事も起こらずに、済まされる可能性が、大きいのではないか。まあ、どうなるにせよ、皆が知りたいと思えば、さっさと公開すれば、と思う人が多いだろうが、現実には、文書として残されたとしても、その確実性が、保証されるものでなく、所詮、噂話の一つに、過ぎないことも、多くあるだろう。半世紀も経てば、再検証も、容易ではない。だとしたら、こんなことは、単なる見せ物かも、と思えてくる。

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3月19日(水)−風物詩

 もう四半世紀を超えて、毎春に作り続けているものがある。この国でも、ある限られた地域で、それも家庭料理として、盛んに作られるが、いつ頃から始まったものか、よくわからない。何しろ、長く続いた幕府の時代に、その地域から、わざわざ職人を移住させた、という話とも関わる。
 佃煮の一種だが、材料が限定され、内海で獲れる、ある小魚を使う。同種のものは、幾つかあるが、その大部分は、佃煮ではなく、釜揚げとして、茹で上げたものが、食される。それに対して、この魚は、この地域特有のもので、茹で上げる前の、生のものが出回ることが、必要条件となる。だから、同じ大きさの小魚が、獲れる地域は、沿岸に数多あるにも関わらず、この文化は、この地域特有のものとされる。市販の商品も、出回っているが、何故か、各家庭で作られたものが、知り合いに配られ、春の風物詩となる。始めた頃は、比較的、手に入れ易いもので、量も値段も、手の届く範囲だった。興味本位で、始めたのは、その地域出身でないからで、多くの家庭で、作られるものは、母親から引き継がれた、ものとされる。近くの店で、初めて見た時には、これが噂の、という程度の感覚だったが、そのうち、自分でも作ってみよう、と思い立ち、その後、四半世紀を経て、何となく、作らないと落ち着かない、という地域の人と、同じ感覚が身についてしまった。しかし、当初の価格に比べ、昨年は、4倍程の高値となり、漁獲量も、激減する中、ある地域では、休漁となってしまった。今年も、昨年同様、試験操業では、芳しい結果が得られず、その地域では、2年連続の休漁となった。ほぼ、諦めかけていたが、結局、最終の試験操業で、兆しが見えたことから、解禁が決まり、漁が始まった。だが、浜値の高値は、小売にも反映され、昨年の更に倍となる、高値で売り出されたが、長蛇の列で、待ち侘びた人々は、そのまま買い込んでいった。需要と供給と言われるが、果たして、その通りに、値が決まるのかと、不思議に思う人も多い。それは、まさに、今の米価と同じ、かも知れない。手が届かなくなるのが先か、はたまた、作りに出掛けられなくなるのが先か、何れにしても、まだ、暫くの間は、と思う。

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3月18日(火)−その果て

 陰謀論程、馬鹿げたものは無い、と思うのだが、世の中には、その為に、番組を作ったり、雑誌などで特集を組んだり、そんな具合で、耳目を集められる、と信じる向きは多い。確かに、策を弄して、敵対する勢力や、時には、味方までも、陥れることは、歴史上、度々起こった。
 だが、結果論として、陰謀を論じるのは、確かな証拠を集め、関わる人々の、それぞれの思惑を、読み解くことで、可能となるが、今、巷に溢れるものは、如何にも浅薄で、思い込みだけで、物事を語るのだから、論と言える代物にも、なり得ない。その上、それを好んで騙る輩は、元々、自己中心的で、責任転嫁に終始し、成功は、自らの力、失敗は、他人のせい、とする考え方に、固執する人間ばかりだ。この程度の知能では、何事も、成し遂げられない、と思うのだが、世の中には、例外が、数多あるものだ。海の向こうの大統領は、その典型であり、それまでの企業経営でも、一期目でも、その態度に終始し、自らを、顧みることさえ、一切無かった。結果、復活を遂げた後も、反省の気配も無く、学んだことさえ、殆ど無く思える。一つ、違いがあるとすれば、取り巻き連中の、目論見の違いだろう。君臨する人間にとり、自分の利益が、最優先となるから、それにそぐわぬ部下は、切り捨てるに限る。まさに、その連続となった、前回の任期に比べ、今回の取り巻きは、それに対する、心の準備が、整っているように見える。と言っても、ほんの二か月に満たない期間で、まだ、逆鱗に触れることは、殆ど起きず、更には、今後重なるに違いない、失敗の数々も、まだ、頭を出していない。あんな人物でも、国の頂点に立てる、と見れば、大した考えも、持たない若者には、世の中は、ちょろいものとしか、映らないだろう。この状況が続くと、組織の序列も秩序も、乱れるに違いない。そんな懸念を抱く人は、従来通りに、次世代を担う人々に、厳しく対するだろうが、相手は、そんな邪魔者を、排除しようと躍起になる。問題は、取り巻きのように、今の空気を読み、駄目な若者達に、擦り寄る人間だろうか。触らぬ訳にも、いかぬかもだが。

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3月17日(月)−陰謀論

 何事も、批判的に捉えるべき、という話は、以前から何度も、書いてきた。だからと言って、海の向こうの大統領のように、大衆媒体の報道を、偽物と断じたり、敵対勢力の言動を、嘘吐きと断じたり、そうすることが、正しい訳ではなく、また、彼の話を、鵜呑みにする信奉者になれ、でもない。
 批判的に捉えるとは、まずは、疑ってかかれ、という意味であり、その為には、内容の精査が、欠かせないという意味だ。では、そういう観点で捉えると、彼の言動は、どう解釈されるか。まずは、十中八九、誤りであり、誤解に基づく、偏った意見と見るのが、妥当だろう。とは言え、全てが、という訳ではなく、殆どが、ということだ。その点検を怠らず、彼自身の言動の不一致を、見破るべき、となる。以前からだが、今は、もう頂点に登り詰めている、とさえ思えるのは、彼のような、敵対する人の発言に対して、悪意に満ちた、態度を示し、それらを、全面否定する時、盛んに使われるのが、陰謀論だろう。何事も、思惑に満ちたもので、目論見通りに、事を運ぶ為に、様々な仕掛けを弄し、蠢く人々の動きを、表したものと言われるが、これは、決して、批判的な思考、とは言えないものだ。批判的思考に、最も重要となるのは、常に、客観的な立場を貫き、あらゆるものに対し、どちらの勢力にも与せず、その正誤を判定し、結論を導く姿勢である。その意味では、偏った考えは、その根本から、逸脱したものに過ぎず、取るに足らぬ、唾棄すべきもの、となる訳だ。興味深いのは、この手法が、宗教の場で、盛んに使われてきたことで、大昔からだが、つい30年程前にも、その典型と言われる、過激活動を断行した、団体の例がある。この国の首都で、政府を転覆させようと、企てられたテロ活動は、多くの被害者を出した。その中心となった人々が、まさに、信者達を操ろうとするのに、使ったのが、陰謀論である、とある人物が、紹介していた。彼は、信者の呪縛を、解く為の活動を、しているとのことで、その過程で、大きく立ちはだかるのが、陰謀論であり、それを除去することが、最も困難と言う。批判的思考が、不可欠なのは、まさに、このことの為と思える。

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