何故、無関係の人間が、こんな所で、批判的な意見を並べるのか、不思議に思う人が、居るかも知れない。でも、今や、ネットの世界では、当たり前のことで、それが、社会媒体を通すと、有害なものも含め、溢れ返っており、不思議でも何でもない。だからと言って、害を撒き散らす訳ではない。
少し考えれば、誰もが思い当たる話を、並べているに過ぎないが、それを、邪魔なものとして、排除しようとする、そんな動きが、現場に満ち溢れている。そこにこそ、重大な問題があり、専門家と称する、私利私欲に満ちた、愚かな人々が、自分の利益のみを考え、賛同者を集めて、良識ある人々を、追い出してきた。その結果が、今の荒廃を招き、誤った考えに、充満した雰囲気を、作り上げてきた。だから、今更ながら、正しいことを、書く必要がある、と思うのだ。確かに、教える立場の人間が、現場を牛耳ることができれば、立場を維持することは、容易となる。しかし、それが、人を教え育む役割か、といえば、そんなことは、決して無い。人を育てるとは、自分の立場を、という考えとは、全く別のものであり、相手が、前へ進む助けを示し、動くことを促す、といった程度で、こうすれば、成功するとか、これが正しい道とか、そんなものを、与えるものでもない。まずは、考えることの大切さを、認識させることこそ、瑣末な事柄を、教え込み、覚えさせることより、遥かに重要となる。その上で、前へ進んだ人間が、戸惑った時に、助けを乞うてきたら、何かしらの指針を、示せばいい。ただ、これらの動きは、当人が、自分自身の判断で、行うものであり、誰かの命令で、動くものではない。教育の本質は、そんな所にある筈だが、傾向と対策が、蔓延する時代と社会では、そんな本質より、何か役に立つ方法を授け、その通りに動くことで、成功を手に入れることが、重視されている。ただ、それでは、自立できぬ、役立たずだけを、育てることとなり、次の時代を、任せることは、できそうにない。現場の人間は、そのことを、肝に銘じておくべきだろう。時に、嫌われることも、あるだろうが。
教育の重要性を、強調していると、誤解されることが、屡々起こる。まるで、教育が万能であり、どんな人間も、どんな子供でも、正しい教育を施せば、ある水準に到達する、という、一部の教育評論家が、懲りもせずに、主張するものと、同じことと思うらしい。明らかに違う。
それは、例えば、相互協力、という点を、強調したことから、気付く人も居るが、多くの人々が、そうは受け取らず、保証したではないか、とか、騙された、とか、そんな言葉を、並べ始める。自分で、何もせずに、誰かが、何かを教えてくれれば、それが全て、実現する、と約束したとなるのだ。そんなことは、一言も書いておらず、本人の努力がなければ、何も起きないのは、当然のこととして、更には、教育が果たす役割は、唯一無二の答えを、示すという、初等中等教育にあるような、教科書主体のもの、という認識は、上の学年になるにつれ、誤ったものとされるように、そんなものを、押し付けたり、与えたりするのではなく、単に、考え方のきっかけを、与えたり、進むべき方向を、指し示すだけで、そこから、どう進むかに関しては、本人次第とするだけだ。ただ、待つだけでは、何事も起こらず、何事も成し得ない。そんな当たり前が、通用しない時代や社会は、誰が築いたのか、と思うのだが、こんな誤解が、蔓延しているのが、今の時代であり、世界各国で、成立する社会なのだろう。この考えを、まずは、捨て去ることから始め、自ら、何をすべきかを、常日頃から考え、努力を積み重ねることが、重要となる。と言っても、それは、人によることで、要するに、できることから始め、それを進めていくことで、今とは違う自分に、なろうとすることなのだ。そこには、ゆっくりとしか、進まない変化があり、豹変などとは、思いもよらぬ形でしかない。努力も、ただ、時間をかければいいのではなく、正しい方向に、ゆっくりとでも、進むことが大切で、教える立場の人間は、その道案内をする、という程度のものだ。そう考えれば、何か特別なことを、する訳でもなく、これという、最終兵器を、授けてくれるものでも、ないことは、明らかだろう。その上で、何をすべきか、考えてみればいい。それだけのことだ。
この所、取り上げている話題で、問題の根底にあるのは、教育機関と、そこに通う人々の間での、認識の違いだろうと思う。これが、各段階で、表面化してから、既に、かなりの時間が経過したが、解決の糸口は、掴めていないようだ。大元にある考え方で、問題なのは、次のようなものだ。
小学校に通う、児童ならば、認識の違いは、教師と親の間に、あると思われる。それが、中学や高校となると、生徒との間にも、及び始める。いつ頃だったか、全く思い出せないが、今の社会で、問題視される、客と店の間の衝突、それを、店側から捉えた、苛めのようなものが、指摘されているが、教育現場でも、それに似た現象が、見られ始めた。客が神様か否かは、店との間での問題で、議論される所だが、学校でも、教師が店員であり、児童生徒が客、と見做す人々が、出てきた。呆れるしかないが、その背景には、進学率や進学先を、学校の成果として、掲げることがあり、客寄せの一つ、と見做されたことが、ある。一笑に付せれば、いいと思うが、そうもいかぬ中、怪物と化した、親達が文句を並べ、対応した教師が、精神を病んだ、などと取り上げられた。そんな親の言動や、社会の動向に、子供達は敏感らしく、親真似をする子まで、出てくるようになると、どの学校も、別の意味の荒廃に、苦しみ始める。そんな世代が、上に進むようになり、同様のことを、懲りぬままに続けると、遂には、最高教育機関でさえ、汚染されてしまった。出来の悪さを、他人のせいにして、教員の教え方を、批判することが、日常茶飯事となると、厳しい評価を下すより、容易く単位獲得できる、そんな講義を行う方が、得になるとさえ、考える大学教員が、出てきたのも、そんな事情からか。一方で、熱心に教えようにも、ついてこられぬ学生に、痺れを切らした、教員の中には、水準低下もやむなし、と判断するのも出てきて、社会への責任を、放棄してしまった。出来の悪い学生は、出来の悪い労働者となり、出来の悪い製品を、送り出す。まるで、海の向こうの産業退廃、を見るようだが、このままでは、こちらも同じに、なるやも知れぬ。では、水準を戻すには、どうすればいいのか。高い評価基準を設け、そこに至る道を、指し示すしかない。投げ出すより、遥かに困難だが、相互協力の上で、のことだ。
笊と書いたが、どんな器が、と思った人が、多いのではないか。結論を、あまり示さずに、読み手に、考えさせよう、と書き手は思うが、何を勝手な、と言い返されるかも、だ。だが、こちらが、思い描いたのは、教育現場という器で、ここでは、特に、高等教育機関である、大学を指す。
本人の努力が、必要となるのは、今も昔も、変わらぬことだが、半世紀程前に、進学した人々は、周囲や教員から、屡々、背中を見て学べ、と言われていた。それ以前から、職人の世界では、技術を盗むことが、強調されており、学問の世界でも、一つひとつ、教え育むのではなく、先生が、暗に示したことや、言葉にしなかったことを、推測して、それに見合う努力をする、という教育手法が、取られていた。職人が、盗むと言っても、親方が、やっている、一挙手一投足を、細かな点まで見落とさず、それを真似ることから、技術を磨け、という意味だった。料理人の世界でも、一つひとつの手順を、指示されることはなく、その手順を、盗み見したり、一皿一皿が、出される度に、鍋に残った物を舐めたり、戻ってきた皿の上を、指で取って舐めたりして、味を確かめることで、それを覚えるものだ、とさえ言われていた。料理本や、ネット上の動画で、学ぶような時代とは、全く異なる教え方が、進められていた。そんな時代を、経験した人も、そろそろ舞台を去り、暗中模索ばかりで、何も示してくれないと、不満を並べた世代が、教える立場に、なりつつあるのだが、彼らが、主要な地位を占める、大学という器が、待つばかりで、自ら動こうともしない、世代が、入ってくるのに対し、何をどう教えるか、戸惑うばかりで、確かな手法を、確立できていない、と思える。相手が、待つばかりで、自分なりの推測に従い、努力することを、想像もしない中で、相変わらず、背中を見せた時代同様に、放置し続け、その上、昔の背中を見せることが、実は、言葉で表さなくとも、何かを伝えようとしていたことにさえ、気付かぬままなのだから、何の解決法も、見出せそうにない。だから、笊と呼ぶのだが、では、どうすればいいのか。戸惑った結果、努力が期待できないからと、簡単にしたり、何の根拠もなく、高い評価を与えるのは、止めることだ。その上で、正しい努力を促し、それを踏襲したことに、評価を与える仕組みを、採り入れねばならない。実は、難しいことではない。
誰が悪いのか、と問われたら、海の向こうの大統領は、自分以外の全て、とでも答えるだろうか。だが、一般庶民にとり、いつの時代も、悪いのは政府であり、国であり、役人なのだろう。でも、その多くを選んだのは、自分自身ではないか。となれば、誰の責任か。
などと、下らないことを、書き並べても、何にもならない。それより、責任として、自分の周りくらいは、と思うのが、自然だろう。それが、子供のこととなれば、親の責任であり、家族の責任でもある。とは言え、子供達は、多くの時間を、学校で過ごすのだから、そちらにも、と思うのも、自然の成り行きだろう。だが、今の時代、そちらの方の責任感は、皆無に等しい、とさえ言われる。そんなことを言うと、現場から、反論が押し寄せるかもだが、今の、児童生徒、果ては学生と、先生の関係は、責任の擦り合いに、似た状況にある。流石に、児童の年代では、そんなことを、言うのは、親に決まっているが、大学に入る年代ともなれば、本人が、自分の不明を棚に上げ、詰まらぬ講義をする、と教壇に立つ人間を、批判し続ける。理解できるかできないかは、確かに、内容とその教え方によるだろうが、その一方で、万人に理解できる、とは成し得ぬ話でしかない。とは言え、教室崩壊が、言われ始めてから、かなりの時間が経過し、この国では、ゆとり教育なるものが、導入されたことで、荒廃とは別に、学力低下が、盛んに叫ばれてきた。各段階で、修得すべきことを、最低限に絞り込み、底上げを図る、との目論見は、見事に外れ、不足ばかりが、現場から聞こえると、そんな教育を受けた人間が、社会で活躍できる見込みは、無くなったとさえ、言われてきた。流石に、そこまでのことはなく、各人の、生まれながらにして、持っている才能で、何とかなったが、このことが、意欲減退に繋がったのは、当然の帰結だろう。では、どうすべきか。家庭教育は、当然のこととして、学校教育で、育まれるべきものを、本人の努力で、身に付けるしか、方法が無さそうに思える。となれば、勉学にも、意欲を見せ、積極的に取り組むことで、ある水準を超えることが、課せられるだろう。そう見ると、今の器は、笊とも思える。
労働意欲の減退が、深刻化している、と言われる。が、そうだろうか。確かに、就学年齢の頃から、引き籠もりを続け、労働力と期待できぬ、そんな人々が、度々、取り上げられる。だから、社会全体に、そんな人々が溢れ、人口減少と併せて、労働力不足が、表面化すると。
確かに、そんな悩みの淵に、沈んでしまった人を、引っ張り出すことは、難しいと言われる。でも、彼らもまた、息をし続け、何かしらを、口にしている。最低限の活動は、継続しており、意識不明の患者や、寝たきりの人とは、明らかに違う。なのに、手の施しようのない、そんな人々として、扱うのは、どうかと思う。その一方で、何かしらのきっかけで、外に出始めた、この手の人々が、就業体験をする、という光景も、ほんの偶にだが、映し出される。例外、と見るべきかは、意見の分かれる所だろうが、にしても、何かしらの働き掛けが、必要なのだろう。深刻な問題に、違いないのだが、所詮、少数派に過ぎず、その他大勢の、労働力の確保は、全く別の問題となる。でも、そこでも、労働意欲の減退と、喫緊の課題として取り上げられる。この話についても、鵜呑みにするのは、どうかと思う。意欲が落ちた結果、何もしたくない、と思い始めた若者は、折角手に入れた、就業の機会さえ、投げ出そうとするのだが、そこで、最近取り上げられたのが、退職を代行するという、信じ難い商売だ。嫌になった相手に、関わることさえ、面倒と思った人々が、駆け込む所として、そんな代行業が、始められた、と聞いた時には、まさに、耳を疑った。何から何まで、自分でできない人間が、そんなに居るのか、と思う人も居るだろうが、現実には、そんな手助けがあれば、早速利用しよう、としているだけだ。深い考えも無く、ただ、自分は悪くない、としたいが為に、連絡を取り、代行して貰う。そうすれば、悪者にならずに済む、とでも考えるのか。はたまた、何の考えもなく、手数料を、勿体無いとさえ、思わぬ金持ちか。その中で、新年度が始まった途端に、そんな話題が取り上げられ、二日しか経っていないのに、やめたくなった人間を、紹介していた。驚くべきは、自分が希望したことが、入社直後から、させて貰えないから、将来を悲観して、代行に依頼した、という話で、自分の愚かさを、皆に見せて、何様のつもり、とさえ思った。こんな時代に、誰がしたのか。
少子高齢化で、労働人口が、減り続ければ、所謂、労働者不足に陥り、活気を失った国が、更に、苦境に落ちる、と言われる。この指摘を信じて、多くの政治家は、人材を、外国に求め、その為に必要となる、施策を提案している。でも、これは、本当なのだろうか。
前も書いたが、不足する労働力は、特に、どこに現れているのか。第一に指摘されるのは、高齢化社会において、不可欠となる、介護現場だろう。この点からして、怪しげな指摘、と思うのは、こちらの認識が、不足しているのか。確かに、団塊世代が、後期高齢者と呼ばれる、年代に達するに従い、介護施設の入居希望者は、増え続けていた。だが、まさに、人口比率において、高率を誇った世代が、その範疇に到達すると、そこから先は、人口においても、漸減を続けることになる。だとしたら、希望者は、ここから減り始めるのでは、と考えるのが自然で、当然、増加に合わせて、増やされてきた施設や、そこで働く人員も、減少へと転じそうに思える。なのに、今だに、必要との声が、飛び交うのは何故か。現実には、そこで働く人々の、定着率の低さこそが、大いに問題となる。その原因を、探ろうとするより、増やせ増やせと、掛け声を上げる方が、簡単だからこそ、こんな愚かな考えが、社会に蔓延する。これは、おそらく、どの現場においても、同じ状況であり、その解決よりも、供給を求める声が、大きいことが、問題の取り違えを、産んでいるのだ。ただ、どこでも、同じ課題がある、と考えるのは、また、的外れとなる。例えば、介護においては、労働環境の劣悪さと共に、給与の低さが問題と言われる。そこに目を向けた上で、環境整備と共に、給与改善に努めることが、不可欠だろう。でも、他の場所によっては、労働者そのものに、問題があるとも言われる。労働意識の希薄さは、既に長きに渡り、指摘され続けるが、改善の気配は、見えてこない。大事にすれば、大切にすれば、という声がある一方で、それらの方針の多くが、空振りに終わり、社員が去ってしまった、という話も、屡々聞こえる。だからこそ、就業意識を、学ばせようとの動きが、教育機関に広がった。ただ、功を奏しておらず、現場の戸惑いは、強まるだけとなる。何となく思うのは、学校だけでなく、家庭も含めた話で、それが、時代の変遷で、表面化したということだ。それも、独り言を書き始めた頃から、世界的に指摘されていたのだから、根深いことと思う。