週末の早朝、何処を見ても、つまらぬものばかりで、どうしたものか、と思ってしまう。平日なら、早朝でも、報道番組があり、経済番組も流れるから、飽きることはない。だが、休日は、そうも行かぬ。有名人を取り上げたり、特別な話題を取り上げたり、だが、興味が無い。
衛星放送は、それに加えて、通信販売ばかりが並び、害悪か、とさえ思えてくる。で、結果として、教育番組なら、と思って、合わせてみたら、「こころの時代」という、宗教絡みのものが、流れてきた。いつもと違い、専門家なる人々が、一つの話題に絞り、議論をしていた。宗教で、今、話題のものと言えば、ある宗教団体に、解散命令が下り、宗教弾圧か、信教の自由の侵害か、といったものとの、関わりを論じていたようだ。様々な観点から、議論が進められていた、ようなのだが、専門家と雖も、この程度のものか、とさえ思えた。確かに、宗教に関わる限り、自らの信じるものを、否定されることに、強い抵抗を覚え、反発を感じるのは、よくあることだ。ただ、専門家でも、今回の一連の事件には、思う所があるようで、それに関して、論じているのだが、問題が、そこにあるとは思えぬ。また、その話かと、言われそうだが、ここでも、弱者保護の観点が、諸悪の根源と思えるのだ。宗教弾圧は、歴史上、何度も繰り返され、虐待どころか、大量殺害へと、結び付いた例も、枚挙に遑がない。だからこそ、近代では、弾圧を禁じ、自由を保障する必要が、あるという論理が、自由国家に、確立されている。だからこそ、宗教に関わる人々は、保護されるべき、との考えに繋がるが、それと、犯罪集団の問題とは、明らかに異なるのだ。信じることの自由は、保障しても良いが、一方で、その中で、罪を犯した人間には、宗教と無関係に、罰を下す必要がある。そうでなければ、宗教弾圧が、繰り返されるだけだし、それ以外の犯罪も、信教との関わりで、論じられるべきではない。こんな簡単なことに、全く異なる見解を示し、保護の対象とする考えには、権力の行使とは、全く異なる、異常さしか感じられない。あれもこれも、と思うのは、どれもが、同じ考えに基づき、誤った方向に、進んでいるからだ。こんな議論では、何も変わらない、と思う。
こんなに頑張っているのに、何故、認めてくれないのか、とか、何故、評価されないのか、とか、そんなことを、思ったことの無い人は、まず居ないだろう。だが、その後の展開は、皆同じ、という訳ではない。徐々に、認められ、評価されて、仕事を任される場合も、あるだろう。
その一方で、一向に、認められず、評価も受けられず、沈んだままの人が、居るようだ。前者の場合、ある意味、めげずに、自分なりの努力を続け、結果として、それなりの成果に、結び付いたのだが、では、後者は、何がどう間違っていたのか。こちらに関しては、多種多様な答えが、ありそうに思う。随分昔のことだが、この国の企業で、かなりの地位まで、登った後に、隣の国の企業の、役員として雇われ、現地に赴いた人が、著した本を、読んだことがある。あちらでは、若手の人が、指示された業務に対し、提案書などの書類を、仕上げてきた時に、こちらでの経験同様に、質の悪さを指摘し、作り直しを指示すると、不満に溢れた表情で、自分の努力を主張し、それを認めぬことに、文句をつけてきた、とあった。本人曰く、評価すべきは、かけた時間の長さではなく、成果として提出された、書類の質だけであり、そこに目を向けず、ただ、時間としての努力を、認めろと言うのは、明らかな間違いである、とも。国民性の表れ、と書いてあったが、それから四半世紀程で、こちらでも、同じ考え方の若者が、増え始めたようだ。と言っても、この手の話を紹介し、上から見た、評価基準を伝えれば、多くの若者は、不満を残しつつも、理解するようだ。さて、隣では、どうなっているのか。当時も、説明したとて、理解する気配は無く、別の上司の所へ、行ったのではないか。人を育てるのに、どんな言葉が必要か、誰もが、一家言を持っているが、この話に対して、どんな反応が、返ってくるだろう。個人的には、育てるより、育つという考えで、その為には、ある程度の助言が、必要となるとしても、結局は、自分で気付くまで、待つしかない、と思う。教えるのが巧い、と自信を持つ人程、肝心要のことを、見せた上で、それを真似せよ、と指示するが、それでは、埒が明かない。嘗て言われたように、盗んでこそ、という話が、正解なのではないか。
昨日のようなことを、書いてばかりいると、必ずと言っていい程、甘い認識とか、そっちの方が、懲りていないとか、そんな罵声を、浴びせる人が出てくる。社会媒体は、その典型であり、罵声を浴びせ、他人を貶めることで、自己満足を得て、溜飲を下げる、のだろう。
だが、そんなことをしても、何も変わらず、変わらないことで、安心を得ている、だけなのではないか。そんな所が、社会媒体を、蔑む気持ちへと、繋がる訳だが、それを、加速させたのは、やはり、海の向こうの現政権で、君臨する二人の関与、だろう。買収に走り、仕組みを一変させ、よりより媒体を、築き上げる、と宣言したものの、現状は、殆ど変わらず、彼の思いは、全く実現できていない。同様に、政府の支出を、大幅削減しようと、動いた結果は、単なる人減らしに過ぎず、その予算効果よりも、事業停滞などの、遥かに大きな問題が、起き始めている。彼を、政権に登用した、大統領にしても、責任転嫁を続け、良いことは自分の手柄、悪いことは、他人の責任とばかりに、聞き飽きた口上を、繰り返す。果ては、政権発表のものさえ、嘘吐きばかりの、大衆媒体の偽報道が、でっち上げたもの、とさえ言い出す始末。たった三ヶ月で、既に末期症状を、呈しており、力の行使を、続けたとしても、早晩、自爆することを、見守るしかない、とさえ思えてくる。一方、こちらの状況も、とても安心できるものではない。老害の極みとして、逆走運転などの、問題が指摘されるが、年齢性別に関係なく、続出する事故には、根本的な何かが、欠落していることを、想起させられる。それ以外にも、自己中心的な考えが、この国でさえ、多数派となりつつある現状には、同じ欠落が、結び付いていることが、感じられる。その中で、昨日起きた、小学校の騒動は、社会不安を、掻き立てるものとして、盛んに、取り上げられるが、その論点の的外れぶりに、ここでも、何かの欠落が、不安を煽るばかりの、報道だけでなく、一般社会にも、及んでいることが、強く感じられる。懲罰主義は、必ずしも、正しい道とは言えぬが、でも、こういう無法者達が、被害者然として、横車を押し通すのに、何かしらの、働きかけが必要、と考える必要が、ありそうに思えてくる。何事にも、実名報道が、横行する中で、頑なに、加害者でしかない人物達を、名無しで伝える姿勢には、大きな歪みを感じるが、どうだろうか。
泡が弾けてから、経済停滞が続き、そこから、技術革新に関しても、それまでのようには、進まなくなった、と断じる人々が居る。彼らの多くは、団塊の世代から始まる、高度成長を支えてきた、と自負するが、現実には、その微温湯に浸かり、やるべきことを、怠ったのではないか。
こんな事態に陥ってから、そんなことを、叫んだり、批判したりしても、無駄というものだ。確かに、その通りだが、そんな輩の多くは、自らの失敗を、反省することなく、その他大勢の責任と断じ、文句ばかりを並べる。そんな姿を眺めるに、懲りない連中とは、そんなものだ、と無視するのが、一番なのだろうが、こんな連中に限って、滔々と持論を展開し始める。それも、何も知らぬ若い世代を、相手にすることが多く、傍で眺めていると、反吐が出る程、となることも多い。本人達の自覚を促す為、などとも宣うが、それこそ、それ以前に、自分達の自覚は、どうなのか、と思えてくる。先日も、隣の大国の、技術革新が目覚ましい、と褒めちぎりながら、自国の為体を、嘆き続けていた。ここでも、何度か取り上げたが、世界の工場として、他国の技術を基に、低賃金を頼みに、生産性を高めてきたことは、誰もが認める所だが、さて、それが、最先端技術の開発へも、繋がっているか、と問われれば、その殆どが、模倣に過ぎず、自信過剰の表れとして、それを誇るかの如く、国家宣伝を繰り返す。先日も、太陽光パネルの生産が、赤字へと転じたことが、報じられたが、過剰生産は、多くの製品で、起きており、盛りを過ぎたものから、赤字転落の憂き目に、見舞われることは、ほぼ確実なことだ。電動自動車も、自動運転も、他国が、生産転換に手間取る中で、一気に加速することで、最先端を、誇っているようだが、それを、件の人物は、褒めちぎっていた。だが、こちらでも、過剰生産の結果、多くの自動車が、打ち棄てられており、その始末は、どうなるのか、とも思えるし、自動運転も、全体として、どう動くのかは、定かではない。特に、他の先進国では、そろそろ、電動も自動も、不可欠なものか、との議論が始まり、安全性の問題を、棚上げにして、暴走を続ける国に、全幅の信頼は、寄せられそうにない。そんなことを、考えながら、ご高説を伺うのだが、やはり、いつもの如くに、嫌な顔が、露骨に出ていたのだろう、と思う。
躾に、暴力は必要か。そんな質問に、その通り、と答える人は、居ないだろう。確かに、暴力と聞くと、それは駄目だ、と答えるのは、当たり前だ。だが、激しいものは、罷り成らぬが、軽いものは、どうだろうか。更には、叱責という形の、言葉での注意は、どうだろうか。
最近は、言葉の暴力、という話を、屡々耳にするようになった。激しい言葉で、相手を叱責することは、体ではなく、精神に影響を及ぼす、という考えがあるからだ。では、じっくりと説教するのは、どうだろう。心に響く言葉は、当然、精神に影響を及ぼす。だったら、体罰と同じ、なのではないか。ここまで進むと、流石に、誰もが、首を傾げ始める。これ自体、言葉掛け、話し掛けを、妨げるものであり、程度問題と雖も、何もしないのは、如何なものか、となりかねない。子育てにおいて、程度問題は、かなり難しく、躊躇してしまうと、全く動けなくなり、放任主義となる。これはまさに、躾をしない、という意味だろう。昔なら、職人の世界同様に、背中を見て育つ、という形式が、通用したのだが、今は、通用しない、とも言われる。それにも増して、模範たる親や、目上の人間が、自分勝手な行動を、することが、多くなっており、見せるべき背中は、もう無いとも言われる。だとしたら、別の人間が、口を出すのも、致し方なし、となるだろうか。ただ、こちらも、最近の傾向は、少々複雑に思える。叱責の代わりなのか、映像を撮り続け、それを、配信し続ける。編集無しに、垂れ流すとなれば、個人情報も何も、あったものではない。撮影者は、目に余る行動に、辟易としたから、とするようだが、だからと言って、個人の顔や名前が、情報社会に、垂れ流されるとなれば、それもまた、大きな問題となる。虐めという感覚が、ある線を越えてから、こんな光景が、巷に溢れており、手にした端末にも、続々と送られてくる。それも、即時配信だけでなく、何度も繰り返され、個人の尊厳は、失われ続ける。こんな社会だから、行動に気をつけよう、と思う人も居るだろうが、では、見られていなければ、何をしてもいいのか。いやはや、子育ては、難しくなるばかりで、真っ平御免とか、遠慮したいとか、そんな気になるのも当然か。
大人気ない行状を、餓鬼のよう、と称することが、屡々あるが、まさにその典型か、と思った人が、多いのではないか。だが、これこそが、人気の所以、と見ることもできる。餓鬼のような、幼稚な考えに、取り憑かれた人々が、熱狂的な支援者となる。そんな具合だ。
宗教を、冒涜することは、政治家が、最も警戒すべき言動であり、当人も、盛んに、信者としての主張を、繰り返してきた。と思われたが、今回の暴挙は、餓鬼大将そしてでさえ、看過できぬものとして、報道されていた。これまでにも、愚かな言動の数々に、一笑に付す向きが、度々あったけれど、昔は、法王と呼ばれたが、今は、教皇と呼ばれる人物の、死去に伴う、葬儀の席でも、首を傾げる服装で、一部に、批判的な声が、上がったものの、今回の騒動は、それを、遥かに上回る、冒涜としか思えぬ、暴挙だったようだ。ただ、懲りない人間の典型は、今回の批判に対しても、自らの投稿を、恥じる気配も見せず、自分が作成したものではない、という的外れな、言い訳を連ねたらしい。呆れるばかり、とは、既に、百日程でさえ、言い古されたものだが、これでは、騒ぎ立てることだけを、生き甲斐とする、呆け老人の戯言で、その老害が、あらゆることに、悪い影響を、及ぼしている、としか思えぬ。これが、あと四年近くも、続くのか、と思うだけで、気が重い、と思う人も、居るだろうが、前にも書いたように、無視するしか、方法は、残っていない。悪影響を、受けると思うなら、被害を訴えれば、と思うのは、浅はかでしかなく、弱者を装っても、あの人物は、勝利を喜び、不都合には、単なる言い訳を、並べるだけなのだ。法廷闘争についても、同じことが繰り返され、刑事罰をも、適用しようと、努力したとて、あの国では、金持ちの殆どは、何の罰も受けず、特権を振り回すとなれば、時間の無駄にしか、ならないものだ。だったら、無視するのが、一番だろう。以上、とでも書こうか。
先入観かも、と思うこともあるが、独り言だから、ということで、思い付きを書く。時に、間違っていた、と分かることも、あるけれども、多くの見立ては、的を射ている。傲慢と、思われるかもだが、直感は、大切にしたい。そこから、論理を組み立て、妥当性を検討する。
そんな考え方で、日々起こる事件を、眺めている。違和感を抱いた時には、暫く様子を見るが、その理由が、徐々に見えてくる。そんな過程を経て、経験値が上がる、ことになるのだろう。それこそが、成長へと繋がると思うが、そう思わない人が、社会に溢れているようだ。そんな人々にとり、手にした端末から、世界に送り出せる、囀りなどの社会媒体は、自己満足の道具として、大いに役立つようだ。自画自賛とか、傲慢とか、そんな思いを抱きつつ、せっせと送り出すことで、自らの存在価値を、築き上げている、とさえ思うようだ。こんな人間と、同類とは思わないが、一部の人からは、同じと見做されているかも、だ。どうだろうか、自分なりの答えがあっても、確認する手立ては、ほぼ無いに等しい。一方で、同じ先入観で、動き回るのは、大衆媒体でも、同じなのではないか。何度も書いたが、弱者保護を、大きな目的として、全ての報道を、組み立てている。例えば、最近の殺人事件で、被害者の訴えを、警察が無視していた、と伝えられる話も、その多くが、被害者側からの情報、でしかない。権力に与せず、という理念は、報道において、重要とされるが、そこには、歴然とした、強弱の問題がある。弱者は、常に、弱い存在であり、保護すべきものとなるからだ。だが、それが、真実を伝える者、とすべきかは、別の問題だろう。今回の事件でも、次々に、報道される情報は、一方的なものに過ぎず、どう判断されてきたかは、別の問題となる。真偽の程は、不明なままだが、常に、被害者側に立つことを、基本とするのは、どうかとさえ思える部分もある。まだ、結論を出すべき時期では無いが、見守るにしても、様々な見方が、必要となりそうだ。