詐欺メールに、引っかかるのは何故か。被害を、受けたことの無い人には、理解できない、何かがあるのだろうか。でも、と思うのは、被害者達に、改めて尋ねてみても、答えが見つからず、警察などが指摘する点にも、はてという反応しか、返ってこないことだ。
メール初心者が、全文を読むことなく、途中で反応しそうになることに、注意を促すことは、度々あるのだが、最近の例では、本文どころか、はじめに掲げられる、件名の部分に、異常さが出ている。にも拘わらず、騙されるとしたら、一体全体、どこをどのように、読んでいるのだろう。もしかしたら、この手の人々は、自分が、読みたいようにしか、文章を読めないのでは、とさえ思えてくる。まともな教育を受けずに、いい加減な評価で、学校教育を、通過した結果なのか、とさえ思えるが、こちらについても、真相は、闇の中だろう。本人さえ、説明できないものを、説明してやる必要もなく、何度も、被害を受けるのさえ、自己責任を持ち出すまでもなく、懲りないのなら、手の施しようは無い。社会の中で、そんな形で、掠め取っていく輩が、暗躍するとしたら、必要も不要も無い、単なる悪として、発覚した所で、厳罰に処すくらいしか、手立ては無いのだろう。にしても、いつから、こんなことになったのか、とさえ思う。教育の責任、を問う声は、常に出ているけれど、押し付けならまだしも、機会均等の結果として、今ある教育が、存在するのなら、それを、正しく理解し、応用できないことにも、自己責任を問うしか、あり得ないと思う。一方で、こんな詐欺が横行するのは、何故か。何故騙されるかが、定かでないのに、分かる筈がない、とするのも、一つだと思うが、まあ、一般的な傾向として、どんな騙し文句が、使われているのかを、眺めておくのも、一興ではないか。当初、電話詐欺が、横行した時には、家族の危機といった、不安を掻き立てる、連絡が多用された。まさに、心配や不安が、大事とされた時代の、反映だったのだ。使い古された、言葉の数々も、人によっては、通用するようで、未だに、減らぬ詐欺事件の、基本となるものだ。そのうち、還付金なる、報酬のようなものが、餌としてぶら下げられ、誤送金を、行わせる詐欺が、横行し始めた。こちらは、心配・不安とは、異なる心情を、操ったものだ。何れにしても、電話では、即断を迫られ、過ちを犯すことがある。しかし、メール文は、何度でも読み返せる。対応までの時間も、それなりに使える。なのに、なのである。人間の理解力が、減退したからか。はたまた、それは、元から決まったものか。まあ、どうでもいいことだが。
これは、前にも書いたことだが、この所、電子メールが、異常なのでは、と思う。届いた数のうち、迷惑メールに、振り分けられるものの方が、多数を占めているのだ。多分、誰もが、同じ状態なのではないか。パンチの場合、手持ちのうち、半分がその状態にある。
そんなことが、起きているのは、何かに登録してあったり、ある場所に掲げてあったり、そんなものであり、例えば、独り言のサイトに掲げてある、punchで始まるものには、何も届かない。多くの場合、ロボットのように、ネット上を走り回り、@マークのあるものを、拾い上げて、そこに届けるのだろうが、今や、そんなものも、無数と思える程に、増えているだろうから、無駄との判断を、下しているのかもだ。一方で、以前は、@マークが目印になるので、漢字の一つとして、認識される、@の方を書き入れ、防ぐようにされたが、そんなものも、また、atとするものも、自動的に選別し、送り付けるのだろうから、何の区別もなくなっている、に違いない。迷惑メールも、以前は、電子マネーと呼ばれるものや、キャッシュレス決済なるものが、送り主になっており、それぞれの口座を、乗っ取る為の糸口として、送りつけられていた。景品が当選したとか、不正な手続きがとか、その手の話ばかりで、誰もが、飽き飽きして、振り分けられずとも、相手にする筈が無い、といった代物だった。その後、銀行口座が、増えたのは、端末で取引する人が、増えたからだろうが、引っかかるのは何故か、と思うのは、そんなことを、普段行っていないからか。最近は、証券口座絡みが、急増しているが、これは、現実に、乗っ取られたものがあり、常套句の自己責任で、片付けられたものが、補償することになったそうな。役所も、漏れることなく、税金還付は、電話詐欺の常道となっていたが、税金納付を迫るものまで、登場するに至り、脱税という違法行為に、恐れを抱く人々が、引っかかるのだろうか。ただ、この件に関しては、余りの馬鹿さ加減に、呆れるものまで登場し、件名に、隣の大国で使われる文字が、使われていることだ。最近は、生成人工知能の登場で、おかしな言葉遣いが、激減したと言われるが、さて、この事態は、何を示すのか。所詮、こんな詐欺に、引っかかるような愚か者は、そんなことにさえ、気付かぬとでも、思っているのか。
教育現場から届く、悲鳴にも似た、改善要求は、静まる気配を見せない。その中で、採用状況の逼迫が、極まっている、とも報道される。実は、今の時代には、このような状況は、当然のもの、と見做される。3Kと呼ばれ始めてから、中でも、きついと思われる職業は、敬遠されるのだ。
業務が多過ぎて、就業時間内に、片付くことは無く、一方で、残業は認められず、時間外で片付けようにも、別の問題が出てきて、達成できぬまま、となっている、と言われる。確かに、教育は、重要な業務であり、次代を担う子供達を、育てる役割は、不可欠なものだが、その一方で、親をはじめとする、世間からの外圧は、異常な程に高まっており、それだけでも、精神的な抑圧が、限界を越えるとさえ、言われている。まあ、非常識な連中の、理不尽な苦情や文句の数々は、所詮、取るに足らぬもので、無視するのが、最善の策と思われるが、それを支援するものとして、社会媒体があり、同調圧力が、拍車を掛ける程だから、逃れることは、難しいのかも知れぬ。まあ、それは、棚に上げるとして、別のことは、どうだろうか。教育現場だけで無く、他の職場でも、最近は、効率化が、強く叫ばれており、その為の道具が、様々に登場している。複雑な業務を、代行するものや、整理整頓を、進める為のものも、あるようだが、同等のものが、学校にあっても、いいように思える。ただ、最近の予算状況では、収益追求を、最大目標とする、企業とは異なり、そのような道具に、費やすべき、先立つものが、無いと言われる。更に、この問題を、複雑にしているのは、一般企業の業務とは、大きく異なる業務内容であり、それらへの対応が、著しく遅れていることも、あるのだろう。従来は、現場での解決が、最善の道として、各学校で進められた、改善に関しても、時間不足が、その余裕さえ、無くす方に働くから、解決への道は、殆ど見えない、とさえ言われる。これでは、手の施しようが、とさえ思えるが、この負の連鎖を、解決する手段は、本当に無いのか。どの学校でも、同じ状況だから、おそらく、解決には、監督官庁からの、働きかけしか、無いように思える。現場対応ではなく、根本解決を、目指して欲しいものだ。でないと、人材不足にまで、襲われることになる。
矢鱈に増えた、と言われる、外国人観光客。確かに、報道で、盛んに取り上げられる、一部観光地での、異常な状況は、見るからに、常軌を逸している、と思えるが、これらとて、海外の著名観光地と比べて、異常とは言えない状況、なのではないか。でも、多過ぎるとしか思えぬが。
誰もが知る、そして、誰もが行く場所、という意味での観光地は、これまでも、そして、これからも、覚悟を決めて、対応し続けるだろう。だが、ある水準を超えた辺りから、趣向を凝らし、全く別の観点で、新たな経験を、という外国人が、増えているとも聞く。十分な調査に基づき、新たな知識を、採り入れようと、努力する人達に、文句を並べても、無意味なことと思うが、それにしても、この国の人さえ、訪ねてこない、片田舎に、見たこともない人々が、どっと押し寄せると、如何なものか、と思えてくる。この国の人々が、高度成長の果てに、そんな観光志向が、大きく進んだことも、あったように思うが、ある意味、それと同じ現象、なのだろう。それにしても、当時、見ず知らずの人が、突然訪問することに、それらの観光地では、どんな印象を抱いたのか。今になって、初めて、何となくわかり始めた。と言っても、それは、歩き回ることで、新鮮な体験を積んだ人、のことであり、訪問地となった地域の、海外に出かけたことさえ、全くない人々には、奇異にしか映らない、現象に違いない。では、この事態、今後、どのように対処すべきか。答えは、何処にも無い。訪問者は、それぞれに、違う目的を持ち、違う予備知識に基づき、その地域を訪ねる訳で、楽しみ方も、それぞれだろう。まあ、こんな状況の変化には、慣れるしかない、と言うくらいが、精々なのだろうが、このままでいい、と言ってしまっては、いけないように思う。だからといって、被害者意識を、強めることで、またぞろ、弱者保護を、謳ってしまっては、馬鹿げた騒ぎに、なるだけだろう。様子見、しかないのは、まあ、当たり前のことに思える。
多くが、忘れてしまったろうが、生成人工知能が、話題に上り始めた時、激震が走ったのは、産業界ではなく、教育界だった。どの段階でも、学習効果を測る為に、課題を与えるのだが、その作成に、新しい道具が使われ、効果の程を、測ることが不可能となる、と言われた。
典型的なのは、試験問題だろう。入学試験と異なり、厳重な環境管理下ではなく、ある意味、緩い状態で、実施されることも、問題だったのだが、例の騒動以来、対面ではなく、通信を介するようになり、更に、管理が困難となる中、こんな道具が出てくれば、不正が行われるのは、確実と思われたのだ。一方、文章作成などの課題についても、人工知能に向かって、問い掛けるだけで、一見、まともと思えるものが、送り返されると、無知な学生程、そちらに走ったらしい。初期段階では、低水準の学生と、同等程度のものしか、作れなかったものが、学習効果が上がり、頼みとする、既存データへの、接続が可能となると、かなりの水準となった、とさえ言われた。一方で、不正を見過ごすのは、教育現場として、看過できない、とする向きは、人間が作成したか、人工知能が作成したか、を見極める手立てを、講じ始めてきた。従来から、剽窃点検を、目的としたものが、存在したから、その延長線上に、と思われたが、現実には、生成人工知能では、単純な剽窃とは、少し異なるものを、作成させる仕組みが、備えられていたようで、少し工夫が必要だったようだ。それでも、慣れた教員には、区別ができる、と言われていたので、そんなものが、現場に導入され、不正防止に、役立てられている、と言われる。ただ、こちらから見ると、この話自体は、鵜呑みにできぬ、と思えている。篩い分けの手段として、使うことは、誤認へと繋がりかねず、不慣れな教員まで、軽軽に使うのは、問題を大きくしそうだからだ。では、どんな手立てが、適切なのか。前にも書いたような気がするが、課題設定や、問題作成において、本人の思考力や、論理性を問うものを、作ることから、始めるべきと思う。最近では、難関大学の入試問題でさえ、合格水準に、到達したとされ、脅威は高まるばかりだが、この堂々巡りに似た状況は、根本問題を、示しているのではないか。
前にも、何度か書いたが、生成人工知能の登場が、様々な場面で、大きな変化を、及ぼしているという。ただ、疑い深い人間としては、本当にそうか、と思う場合が、多々ある。そんなことを書くと、また、現実から目を逸らし、準備を怠ることで、窮地に陥るのでは、と言われそうだが。
だが、登場当初から、素晴らしい能力、と称賛されたものの、実際に、使った感想は、それらの多くが、期待外れ、というものだった。そんな指摘も、その後の進歩から、的外れとの指摘を、受けそうに思えるが、それとて、まだ、期待し過ぎと思えるが、どうだろうか。これから、働き始める人には、人工知能との関わりが、不可欠となる筈で、それを仮定した上で、自分が、何ができるのかを、考えるべき、という意見も多い。当然、そういう将来を描く中で、教育現場でも、同様の指摘が、盛んに出されるが、その見方を、鵜呑みにするつもりは無い。確かに、単純作業の殆どは、そんな存在によって、代わられるだろうが、それも、全てかと問われると、怪しいと答えたくなる。更に、そんな状況となれば、人間がすべきことは、一変するだろう、との意見もあり、学び始めた人々には、大きな圧力となっている。だが、その見通しも、甘過ぎるのでは、と思っている。確かに、多くの作業が、人工知能によって、行われるように、なるには違いないが、多種多様な作業のうち、どんなものが、置き換わるのか、その見込みについては、まだまだ、怪しいと言わざるを得ない。でも、将来を見据えて、と思う人程、教育現場で、過度な負荷を、掛け始めているように、思えて仕方がない。これはこれで、また、そういう勢力からは、怠慢さの現れ、と指摘され、更には、正しい道筋を、示さぬ態度に、批判されそうな気配さえある。だが、それも含め、ほぼ全てのことが、過剰反応によるものに過ぎず、人の能力を伸ばす為の方策には、妨げとしかならない、と思えるのだ。先人のすべきことは、以前同様に、次代を担う若者達に、自らの努力と成長を、促すことであり、それを忘れて、今すぐにすべきこと、として、誤った方向に、歩ませてはならない。気を付けねばならぬ。
例の、馬鹿げた騒動以来、世界では、その場に出かけずとも、何事も、経験できるという話を、信じる人が、急激に増えた。でも、その一方で、本物に触れるべき、という意見も、盛んに出てくる。どちらが正しいのか。何をもって正しいとするのか。そんな議論さえ、聞こえてくる。
経験、という意味では、画面を通してのものに、それ程の価値が、あるとは思えない。本物に触れてしまえば、それまで、素晴らしいと感じていた、遠隔での経験は、ちっぽけなものに、なってしまうからだ。だからこそ、今、この国を覆っている、海外からの観光客が、溢れる光景が、起きているのだろう。画面を通して、知ったことを、自分の目で、直接的に、見てみたいという気持ちは、一度経験すれば、理解できると思う。ただ、過ぎたるは、と言われるが如く、これ程までに、増えてしまうと、どうしたものか、という意見が、出てくるのも、当然となる。経験の為とはいえ、事情を理解することなく、無遠慮に、傍若無人ぶりを、発揮する人々を眺めると、帰ってくれ、と言いたくなるからだ。郷に入れば、と言われるように、その地域の習慣を、ある程度理解した上で、自分の知りたいことを、知ろうとするのであれば、誰も、苦言を呈さずに、済むことなのだが、自分中心で、他人のことなど、眼中に無い人々は、失礼極まる行為を、繰り返す。一方で、事前学習が、十分だとでも、言うが如く、知ったかぶりを繰り返し、見ず知らずの他人にまで、要求する観光客も、嫌われるものだ。さて、はじめの話題に戻し、遠隔が導入されることでの、最大の利益は、とよく言われるのは、全員集合せずとも、話し合いができる、という点だろう。ただ、これについても、続けてみると、何か、物足りない部分が、出てきている。よく言われるのは、画面を通して、相手の表情や心情を、読み取ることの難しさ、だろう。対面を、重視する意見が、再び出ているのも、そんな事情からだろう。効率のみを、追い求める人々には、この意見は、無駄なものとしか、映らないようだが。