先日、昔の番組を流す中で、今とは異なる表現に、断りを入れていたが、どうなのかと思う。確かに、制作側は、以前の表現が、一部の人々に、嫌悪感を催させる、との理由などから、言葉を変えた経緯があり、それを反映したものだが、その変更自体、首を傾げる向きもあった。
高齢化が進み、その中で、奇行が目立つようになると、それを指す言葉が、使われるようになった。痴呆老人、痴呆症、恍惚の人、など、様々に呼ばれたものだが、印象として、馬鹿にしたもの、との受け取りがあり、不快だとされ、学会が率先して、認知症という呼称を、使うようになった、という経緯があるようだ。この病態自体に、疑問の余地が、かなり残っており、更には、命名者と言われる人物が、自らが発症した時、初めて、違和感を覚えた、とあるように、言葉の印象は、強い影響力をもつと言われる。ただ、印象は、それまでの経験と知識から、出てくるものであり、呼称についての、説明を施せば、印象を変えられる、とも思う。こんなことを、書き始めたのは、誰もが、学校で習った、ある遺伝法則で、使われてきた用語が、変更されたと聞いたからだ。優性と劣性、として、二つの遺伝子が、同時に存在した時に、どちらが、形質として現れるかを、表現する用語は、元々、翻訳により作られたが、この優劣が、遺伝形質が、優れているか、劣っているかを、表すような印象を、与えるとの観点から、学会が率先して、顕性と潜性、という用語への変更が、提案された上で、数年前から、学校教科書でも、使われるようになった、とのことだ。前者の誤解は、差別的な考えに、繋がるとの解釈からだが、後者については、理解を妨げるのでは、とも考えられ、変更自体を、誤ったものと考えたい。重要なことは、現象の説明と、それを表現する用語の説明で、正しいことを伝えることであり、言葉の一人歩きを、許さない姿勢だろう。優劣は、ここでは、二つが同時に存在した時、何方が優勢となり、何方が劣勢となるか、という意味であり、顕と潜で表そうとする、現象、あるいは結果とは、全く異なる観点だ。こういう判断を、有識者と思しき人々が、下したことを、言葉狩りの風潮、と見るのは間違いだろうか。
辞任に伴う交代から、突然飛び出した、随意契約の話に、驚いた向きもあるだろう。だが、所詮、役所のやること、上が代わったから、とは限らず、待てど暮らせど、一向に下がらぬ市場価格に、痺れを切らした結果、なのかもだ。にしても、競争入札と随意契約、例の如くの話か。
国や自治体が、契約を結ぼうとする場合、競争入札が、絶対条件となる。でも、その為に、現場が大混乱となった、という話の、何と多いことか。確かに、税金の使い道として、適正な価格が、設定されることは、当然である。が、その取引が、適正な価値となるかは、全く別の話だ。落札した業者が、設定通りの業務を、果たさなかった場合、結果は無価値となり、競争入札で、最低金額を、示したからといって、要求通りの結果が、導かれるとはならない。大昔には、どんな業務に対しても、1円という、最低金額を提示し、落札後の業務で、別設定のものを、導入することで、追加を請求したり、完成後の維持を、長年に渡り担当し、その収益で、利益を出す方式が、取られていたが、最近は、最低金額を提示しても、設定通りの業務を、果たせないままに、無駄となった上で、再度の契約を、余儀なくされる場合も、出ており、最悪の例としては、ある大学が、産業廃棄物の処理で、競争入札を実施し、落札業者に依頼したら、結局、処理に困った挙句に、不法投棄となり、発覚後に、大学が回収した上で、再度の手続きを、する羽目に陥った、というものさえある。結局、今回の騒動も、その範疇となるかもだが、馬鹿の一つ覚えで、競争入札を、実施する方式は、設定そのものが、整備不足だと、思い通りに運ばぬこととなる。役所の勉強不足や能力不足が、要因だろうが、本来は、結果こそが全てで、そこに向けての動きが、不可欠となる。失敗したから、随意契約で、とは安直過ぎはしないか、懸念は残るが、市場目標価格を、設定することで、目標達成となるかもだ。業者の無能さを、嘆いていても、何の役にも立たず、それを、吟味できる仕組みを、導入しない限り、入札は、こんな騒動へと、繋がるだけだろう。暫くの様子見が、必要なようだ。
若い人以外は、「今時の若い者は」、と思うことが、度々あるのではないか。こんなことを書くと、歌にあるように、自分の時よりはまし、と考えるべき、などと言い出す人も居る。だが、やはり、若い世代が、自分の考えとは、異なる言動を繰り返すのに、違和感を覚える。
比較などしてみても、何も始まらない、のだろうが、気になることはある。人生を、などと宣う若者に、何かしらの助言が、必要かどうかは、誰にも分からない。何の根拠もなく、悩み続ける人々が、沈んでいくのを眺めると、何か、助けが必要なのかも、と思ったりするが、さて、どうしたものか。それとは、全く違う話だが、最近の若者を、たまに眺めていると、ふと、気付かされることがある。この連中の目標とは、何だろうか、という疑問だ。節目節目で、選択を迫られるのは、当然のこととして、その選択自体が、何の目的で、行われたのか、という点と共に、選択した後、どうなるのか、ということに、思いを馳せるのだ。例えば、最高学府と呼ばれる、学校に進学する時、そこを選んだ理由は、どこにあるのか。一番の理由は、合格できるかどうかであり、そこを選んだ理由は、自分の順位との関わり、とされることが多い。だが、そうは言っても、その進路を選ぶ理由には、就職に有利とか、そういう分野が好きとか、そんなことも、あるに違いない。で、いざ、そこに進んだ時、別の思いが出てくることになる。主たるものは、こんな筈では、なかったということだが、予想と違う現状に、違和感を覚えて、悩み始めるらしい。だが、出直すのか、そのまま留まるのか、それだけでも、難しくなるようだ。今時、という所以は、そんな所にあり、特に、情報過多の状態で、事前に、様々なことを、知ることができるだけに、期待外れ、となることが増えた。一方で、嘗てなら、大した情報も無いから、期待と違っていたとしても、留まってみるか、という選択をしたのが、今は、情報過多の中で、膨らんだ期待を、萎ませることができず、悩み続けるようだ。不幸だと思えるが、現実には、期待すること自体に、問題があると気付かねば、いけないような気もする。誤解に基づく期待ほど、扱いにくものは、無いだろうから。
この星は、恒星の周りを、巡るだけでなく、自身も回転する。だから、明るい時間と暗い時間が、繰り返され、人間の指標では、24時間で、一回りする。星の上では、何処にあるかで、昼夜が異なり、今、この時間であれば、海の向こうは、夕刻、日が沈み始めている。
そんな時間に、あちらから、再び、馬鹿げた話題が、流れてきた。覚えているだろうか。軍事侵攻を受け、武器供与を依頼する為に、訪ねてきた大統領に、喧嘩をふっかけ、罵声の飛ばし合いに及ぶばかりか、腹心までが、口を出して、決裂する姿を、報道陣に晒したことを。今回は、別の腹心の出身国の、大統領が、表敬訪問し、経済支援について、話す筈の場で、あろうことか、相手国の、自分の仲間が、虐殺されたとの報道を、紹介し始めた。それも、普段なら、fake news、所謂偽報道、と馬鹿にする態度を、示すだけの、現地の新聞と思しき、報道の束を見せ、皆に配るという、用意周到ぶりを、見せつけながらだ。大洋を挟んだ、二つの報道、一つは新聞、もう一つは放送局だが、それらが、早速伝えた内容には、おそらく、何の意義も無い、だろう。それは、話を始めた、餓鬼大将が、自慢げに、相手国の惨状ぶりを、説教でもするが如くに、振る舞う態度そのものに、原因の大半はある。今回は、同じことをして、喧嘩に参加すれば、再び、謂れ無い批判を、浴びせられるばかりか、罵声まで飛ばされて、大国にあるまじき言動を、繰り返されることが、明白だったからか、相手国の責任者は、反論は無駄とばかりに、相手にせずとの方針を、貫いていたようだ。その結果、何が起きるのかは、これから、追い追い知られることとなる。何れにしても、この仕掛け方には、現政権の方針が、露骨な形で、現れていると思う。件の人物の、経営方針そのもので、腹心どもも、同列に並ぶだけだ。好き勝手な振る舞いが、いつまで続くかは、誰にも分からぬ。ただ、いつも通りに、中間選挙が、とはいかないのでは、との見込みさえ、囁かれていることに、注意を要する。暴走を、止める手立てが、無くなるかもだからだ。
政治家の失言は、今に始まったことではない。馬鹿げた発言に、振り回された挙句、本人が、大臣を辞めたり、時には、国会議員を、辞めざるを得なくなる。でも、それは、本当に、責任を果たす、ことになるのかと思う。発言内容を含め、個別の事情があり、一概に扱えない、と。
今回の発言は、報道によれば、党内のある会合で、大臣が行ったものとされる。全文が、披露されることは、決してないと思うが、党内での発言、という点にも、注目した方が良さそうだ。誰もが、録音機器を身に付け、あらゆるものを、記録しようとする中、不穏当な発言は、慎むべきとも言われる。だが、その内容を、新聞記事から引用すると、「コメは買ったことがない。支援者がたくさんくださる。売るほどある」、とある。この発言が、担当大臣として、国民の窮状を、愚弄するものであり、責任を追及する声が、野党から上がった、とされる。でも、発言自体が、事実だとしたら、どうだろうか。釈明の中で、自ら、事実ではなく、受けを狙った、かのように語ったが、それ以前の状況で、伝わった当初、事実か否かを、問う声は上がらず、単に、逆撫でするもの、という指摘だったと思う。失言、という意味では、事実でないもの、という前提があるが、この点が、気になるのだ。その意味では、少し前に、騒ぎを起こした、ある議員の発言は、事実でない、と引き合いに出された、施設からの指摘があり、「失言」そのもの、であったことが判る。こちらは、経緯を含めて、発言者本人の、思い込みによるもの、と断じられるが、指摘後も、反論するなど、例の如くの、驕りによるもの、と結論付けられる。これら二つの場合に、失言と括るのは、どうかと思うのだが。何れにしても、あるまじき発言、という意味では、時と場合も弁えず、好き勝手に発言する、そういう習慣を、恥じるべきだろうし、慎むべきだろう。これは、海の向こうの、あの人物にも、当てはまることで、間違いを認めず、主張し続ける姿を、尊敬するなどという風潮が、蔓延してしまっては、困り果てると思うのだ。
平日の早朝に流れる、経済番組は、投資家にとって、最低限の情報を、収集する為に、役立っていると思う。特に、報道が得意とする、不安や心配を煽るのに対し、相場の専門家の多くは、常に長い目で眺め、巷に溢れる、馬鹿げた情報とは、全く異なる見方を、紹介する。
先日は、海の向こうで、投資会社を経営する、人物が登場して、現状分析を行った。国内投資会社の、現地法人とは異なり、あちらで立ち上げた、企業だけに、報道とは異なる、見方を示すことで、人気のある人物だ。今回の内容は、その録画を、眺めて貰えば、すぐに分かるが、三つの話題となっていた。特に、彼が強調したのは、向こうの大統領が、進めている政策が、選挙公約に沿ったもので、何の変化もない、といった点だろう。国内生産を、優先させる為に、他国からの輸入を、制限するという手立てとして、関税導入があるが、これは、約束通りのもので、目新しさはない、と断言する。その上で、これらの新政策が、軌道に乗った暁には、中間選挙に向けて、更に魅力的な、減税などの政策を、打ち出してくる、という見込みであり、想定通り、という分析なのだろう。ただ、ころころ変わる、朝令暮改が問題、と他の論者が指摘し、まあ、長い目で見れば、日々の変化に、一喜一憂するより、落ち着いて、見極めることが、大切という意味なのだろう。但し、公約という意味では、和平は、約束通りには、実現できておらず、結果がどうなろうとも、短期間での決着、という約束は、実現できなかった、というのは事実だ。確かに、この大統領については、ある意味の、過大評価が付き纏い、市場も含め、世界中が、過剰反応を繰り返し、一部の市場関係者のみが、暴利を貪っているのでは、という疑いもある。ただ、一般投資家としては、日々の売買より、長期投資に重きを置き、そこから、運用益を出すことが、重要であることに、違いはない。その意味では、この人物の立ち位置は、明確であり、驚いて、狼狽してはならぬ、ということだろう。ただ、比較的、安定した相場が、続く時代には、何とかなろうが、さて、本当に、あの餓鬼大将が、引き金を引かぬものか、誰にも、判らないことも、確かなのだ。
日々流れてくる社会媒体を、眺めていると、同じものが、繰り返し表示されることに気付く。情報の重要性、という観点からすれば、それによって、流される回数も、決まるというのだろうか。でも、検索同様、大した基準も無く、垂れ流されている、だけではないだろうか。
検索の、表示優先順位は、独自の基準に従い、決定される、と所有企業は、繰り返し表明する。それに対し、表示回数が、広告収入に直結すると、基準を見破り、上位になるような、仕掛けを講じよう、とする人間達が、登場するのは、資本主義の基本、なのかも知れぬ。鼬ごっことなる、馬鹿げた遣り取りに、関わることは、決して無いけれども、訪問者数が、増えてくれれば、注目を浴びれるのに、と思うことが、無いと言ったら、嘘になるだろう。だが、それを決めるのは、内容でしかなく、嘘や偽情報を、含めることで、耳目を集めるのではなく、真に、役に立つ情報を、掲げることが、基本だと思う。それにしても、社会媒体の仕組みは、検索の表示順位と、似たような収益性に、縛られているようだ。だから、無料で利用する人間には、矢鱈と、広告ばかりを表示し、それを妨げる為には、一々、手続きを踏むことを、要求している。無料なのだから、その位の手間は、当然のこと、とでも言うように。一方、同じ話題を、蒸し返すように、掲げる人々は、当然ながら、それによって、広告収入を得よう、とする場合もあるし、注目を浴びる為に、使い古された、嘗ての、所謂、バズった話題を、再掲載する。これらを、表示するか否かは、各社会媒体で、異なる仕組みとなっているが、どんな頻度で、どんなものが、表示されるかは、余程に手の込んだ、調査をしない限り、見えてきそうにない。まあ、そんなことは、時間の無駄に過ぎず、そんなことで、社会媒体を批判しても、無駄にしかならないだろう。情報社会と言われてから、随分と、時間が経過したけれど、この辺りの事情には、殆ど変化が無い。利用者が、無料ならば、我慢を強いられ、嫌だったら、払うものを、払う必要が出てくる。時間を、金に換算すれば、ただより高いものは無し、となるのだろう。と言っても、無視するのには、金はかからないのだが。