他人からの評価を、過剰に気にする。そんな国民性は、これまでにも、様々に問題を生じてきた。そこに、新たな問題として、指摘され始めたのが、社会媒体による、個人攻撃ではないか。寄ってたかって、一人の人間に、罵声を浴びせ、寝る間も無い程に、精神的苦痛を与える。
こんな書き方をすると、いや、それは、虐めです、との声が上がる。確かに、一人を標的に、大勢で、攻撃を繰り返し、完膚なきまでに、やっつけるのは、一歩間違えれば、虐待となる。でも、総攻撃を、喰らったとしても、やられた本人が、そんな声に、何も感じなければ、それで終わりなのでは、とも思える。そんな強気の弁を、書き連ねても、いざ、総攻撃を受ければ、誰もが、防戦一方となり、精神的な疲弊が、強まるばかりでは、とも指摘される。しかし、この流れには、重要な視点が、抜け落ちているのでは、ないだろうか。それは、つまり、他人からの評価を、気にし過ぎでは、という点だ。そこで、重要となるのは、自分による、自分の評価だろう。自己評価は、泡が弾けた前後から、注目され始めてきた。年功序列で、地位も給与も、決められてきた時代から、明日は、不確実なもの、という見方が広がると、逆に、今の自分の評価は、どうあるべきかを、自分なりに分析し、それを掲げることで、組織からの評価を、定めようとする考え方が、定着し始めた。とは言え、当時の流れは、実際には頓挫し、自己評価の多くは、過大評価であり、客観性に欠けるもの、との見方が広がった。だが、それから四半世紀程経つと、再び、自己評価を、させようとする動きが、多くの組織で、広がり始めた。その理由は、定かではないが、他人からの評価が、不当なものでは、という話が広がり、結局、客観性とは何か、との疑問が、広がったからではないか。その結果、自己も含めて、他者からの評価を、総合的に下そう、という形になった。また、自己評価は、自己反省へと繋がり、その後の向上へと、繋がるのでは、との指摘があった。さて、そうなってみて、果たして、他人からの評価は、どう受け止められるか。少しでも、変化があっただろうか。怪しいものである。
誰しも、気になるものに、評価がある。自分が、他人から、どう見られているか、とか、全体の中で、どの辺りに、位置しているのか、とか、そんなことが、気になるらしい。確かに、高い評価が得られれば、何かしらの、利益があるのかも、だが、さてどんなものだろう。
個人的な評価は、人それぞれに、気になる所だが、今、世間で、実施されている、評価の多くは、国に対するものや、組織に対するものだろう。先日も、男女差別に関する、国ごとの評価が、発表されたが、例の如く、低迷する順位に、報道は、挙って批判の矢を、浴びせていた。それと似たものの一つに、大学の国際評価、なるものがあるのも、よく知られた所だ。ただ、どちらの場合も、評価の基準に関して、議論されることなく、順位ばかりを、気にしている点が、気になるのだ。例えば、男女差別については、女性の社会進出が、様々な形で、評価されており、その結果から、北欧の国々が、上位に、位置している。その理由の最たるものは、女性宰相の存在で、先日の選挙で、女性候補が敗北した国も、予想通りに、低い評価がつけられている。但し、そちらでも、一般の議員に占める、女性の割合や、女性の社長の数は、かなりのものであり、その点が、こちらより、かなり高い順位となった、と言えそうだ。でも、それら全てが、女性に対する扱いが、酷いことと繋がるのか。その点に関して、分析されることは無く、単に、低い順位を嘆き、その改善を、社会に求めることが、男女差別の解消に、不可欠なものとして、何度でも紹介される。役割分担は、以ての外、誰もが、同じ機会を、与えられるべき、との考えが、近代国家の、最低条件とされるのだろう。それとは別に、大学に関する評価も、著名なものの一つは、ある国の新聞社が、発表したものだが、この評価基準も、中々に、偏ったもの、と言えそうだ。国際化は、勿論のこと、彼らの母語での、研究発表の数も、当然、評価の対象となる。そこに、質の議論はなく、単純に、数の議論であり、その意味する所は、何なのだろうか、と訝りたくもなる。まあ、自分達が中心になって、基準を定めることに、不慣れな国民性では、こんなもの、なのだろうけれども。
暴君の気紛れは、あらゆる所に、悪影響を及ぼす、と言われる。確かに、海の向こうでは、夢を実現する為に、貧しい人間にも、外からやってきた人間にも、同等の機会が、与えられると言われた。ところが、どうだ。今の状況は、一変してしまい、機会どころか、留まることさえ、できぬ。
まあ、確かに、その通りの変化が、起きている。しかし、この変化は、あちらにとって、破滅への道、ともなりかねぬ、危ういものではないか。一方で、機会を失った人々は、悲鳴を上げ始め、弱者保護の風潮からか、手を差し伸べる話も、次々に、出てきている。でも、と思うのは、手を出す人の多くは、人道的な考えではなく、自らの利益を、最優先にしており、実際には、誰の為にもならぬことを、この時ばかりと、押し切ろうとしている、ようにさえ見える。例えば、海を渡って、勉強がしたい、という人々に対し、必要となる査証の発行を、一時停止する、という話に対して、折角の夢が、消し飛ばされそう、だと思う人が居るようだが、何の為に、渡るのだろうか。高い能力を、手に入れる為に、とか、国際的に活躍できる、機会を、手に入れる為に、とか、そんな話が並ぶようだが、何故、国内での教育では、十分でないのか、さっぱり、理解できない。まるで、向こうに行きさえすれば、成功を手に入れられる、と思っているかのようで、馬鹿げた他力本願、とさえ思えてくる。以前、取り上げたと思うが、母語での高等教育を、受ける機会がある、国は数える程しかない。国際化の勢いに流され、この国でも、一部の大学が、外国語による、それもたった一つの言語で、一貫教育を施す、と謳っているようだが、そんなもの、その言語を、母語とする国の大学に、行けばいいだけで、他国からの学生を、呼び寄せる水に、なる筈がない。それより、維新以来、こちらの母語によって、築き上げられた、高等教育の質の高さを、誇ることの方が、遥かに重要であり、自らの愚かさを、露呈している、としか思えぬ。これは、海を渡ろうとする人にも、当てはまる話であり、能力の質ではなく、表面的なものにしか、目が向いていないことを、露呈しているだけのことだ。
科学や医学への信頼が、失墜しつつあるのは、何故なのか。騒動が起きる度に、そんなことが、取り沙汰される。一部からは、陰謀論などの問題や、大衆の理解不足が、指摘されるのだが、ここ数日書いたように、本当の原因は、科学や医学に、携わる、所謂専門家にある、と思う。
例えば、理解不足の原因には、大衆の、嫌なことには、関わりたくないとか、今更、教わることなど無い、といった感覚がある、と言われるが、その一方で、忍耐強く、分かり易く、説明しようともしない、専門家の傲慢な態度や、非論理的な説明の仕方、にあるのでは無いか、と思えることが、度々起きている。検証の欠落は、同じような理由から、専門家の意識不足が、原因となったのでは、と思えるのだ。では、何が必要か。一つには、大衆と専門家を、繋ぐ役割の人々の、関与が重要となる。大衆媒体は、その一つなのだが、大衆への擦り寄りと、不安や心配を、煽ることへの、拘りなどから、全く反対方向への、働きかけばかりを、やっているように、しか見えない。もう一つは、最近、特に必要性が、強調され始めた、科学的な知見を、大衆に知らせる役割の人々、カタカナでは、コミュニケーターと呼ばれる、人々の存在だろう。彼らは、専門知識へも、大衆の理解へも、接近しやすい存在の筈だが、実際には、ただの連絡係、としての役割しか、果たしていない。必要なのは、専門家のやるべきことを、指摘することで、情報の発出を、促進することだろうし、また、大衆に対しても、理解を促進するための手立てを、提供することなのだが、現実には、あちらからの言葉を、そのままに伝え、分からないとの意見を、そのままに伝えるだけで、真の役割を、果たしていないことだ。こちらも、その原因の主たるものは、能力不足なのだろうが、そのままにしていては、何の変化も起こらず、このまま、互いの距離が、広がるばかりとなる。相互理解とは、言葉としては、知られていても、その為に必要なものは、何かという点について、何の理解もないからだろう。歩み寄ることは、有事の際には、難しいだけに、少し、危機が遠ざかった、今こそが、その動きをすべき時、なのではないだろうか。
ここ数日、書いてきた感染症騒動に関して、学術的検証の欠落は、科学の危機であると共に、医学の危機でもある。当時、何度か指摘したが、改めて、そのことに、触れておきたいと思う。あれから、五年以上経過するのに、その問題を、誰も、取り上げようとしないからだ。
感染症が、急拡大する最中、現場の混乱は、極まっていた。何しろ、検査陽性者の数が、急増するばかりなのに対し、症状の有無に関して、大きな隔たりがあったからだ。この原因の一つは、感染の有無に関する、基準の変更にある。学会では、検査体制が整うのに伴い、感染拡大を、抑える為には、病原体を保持する人間を、直ちに隔離することが、最善の策として、高感度の検査の陽性者を、隔離する方策を、国の政府に伝えてきた。これが、世界機関を通して、殆どの先進国に、伝えられたから、あの当時、各国は、隔離政策や、都市封鎖政策に、踏み切った訳だ。しかし、その結果は、惨憺たるものだった。理由の一つは、発症の有無と、検査結果とが、一致しない場合が、頻出したことによる。この改正以前は、感染症への対策は、まずは、症状を示した人間に、検査を施し、陽性が確認されると、隔離などの措置を、とることだった。発症の有無が、大前提であり、そこから、全ての物事が、始まっていた。ところが、検査を最優先で行う、となると、症状の有無は、相手にされず、患者の周囲や、接触者に対して、次々に検査を行い、陽性者に措置をする、となってしまった。これが、諸悪の根源なのでは、と思うのだ。一方で、免疫学者が、ワクチン接種推奨において、感染拡大防止を、第一に訴えたのは、従前通りであり、発症者という観点では、何の間違いも無い、と言えなくもない。ところが、製薬会社では、新たな基準で、効果を検証した為、感染防止には、効果が無い一方で、重症化は防げる、との結果を発表した。ここに、大きな矛盾が、生じた訳だ。だが、よく考えれば、わかるように、これらの論理は、破綻しているように見える。症状を示す、という感染症特有の現象と、病原体が、体内に存在する、という検査によって明らかとなる現象が、同一で無い、という可能性があるからだ。この点に関して、感染症の専門家から、何の情報も、出されぬままに、総括云々を、取り上げることこそ、馬鹿げたことと思う。学術的検証には、これらの事柄も含まれ、そんなに大切なことさえ、確かめぬままに、議論をしたふりは、決して許されぬことと思う。
時代は変わっても、大衆媒体の無責任ぶりに、変化は無い。それどころか、以前よりも、不安や心配を、煽ることばかりとなり、収拾がつかなくなっている。この状況は、社会媒体でも、変わりがなく、嘘のばら撒きは、何方も、同じようなものだ。ただ、この原因は、大衆そのものにある。
情報を、吟味することなく、ただ鵜呑みにするだけで、騒ぎを大きくし、国民総被害者、としか表現できない位、馬鹿げた状況に、陥っている。これでは、改善の気配も見えず、荒廃への坂道を、駆け下っている、ようにしか見えない。情報源自体が、改善を目指さず、正しいものを選ぼう、とするよりも、何が、騒ぎを大きくするか、何が、国民を、不安に陥れられるか、などが、基準となっている。感染症騒動は、まさに、その典型であり、発生直後から、発表される数字に、恐れ慄くばかりで、冷静に、分析する姿勢は、どの媒体にも、殆ど見られなかった。一部、数字を分析した上で、どう解釈するかを、披露する人が、散見されたが、その大部分は、感染症にせよ、統計にせよ、全くの素人であり、信頼が広がることは、無かったようだ。ただ、逆に言えば、だからこそ、冷静な分析そのものが、大切なものであり、専門知識を、備えていても、そういう手立てを、持ち合わせていない、大馬鹿者達は、愚かな持論を、展開するだけとなっていた。特に、異常さが際立ったのは、免疫学を、専門とする人々の、おかしな解釈の数々だ。ワクチン接種は、本来、免疫獲得の為の、手段として、感染症対応への、最終手段と、見做されてきた。だからこそ、彼らの殆どは、感染拡大の防止、という観点から、接種推奨を、繰り返したが、実際には、開発製薬企業からは、感染防止の効果は、殆ど無いのに対し、重症化を防げる、との解析結果が発表され、目論見は、脆くも崩れてしまった。なのに、専門家の体面からか、主張を、翻すことなく、推奨を続けたが、あの過程で、失墜した信頼を、取り戻すことは、叶わなかったようだ。同様に、状況解析の、中心をなす筈の、疫学や公衆衛生学も、急激な変化に、対応する術を無くし、一切、調査を行ってこなかった。これらのことが、科学への信頼を、失わせたことは、近年の学問の危機を、加速させたのかも。
例の騒動の総括を、と謳った番組が、流されたそうだ。大衆媒体でのことだが、社会媒体では、持ちきりの話題となった。理由は簡単で、当時、政府分科会の会長だった人物と、囀りと呼ばれていた社会媒体で、政府の方針に、反対を唱え続けた、研究者が、現実に対決したからだ。
この番組は、「そこまで・・」と題され、毎週、話題を取り上げて、徹底討論する、というものだが、感染症騒動を、総括するとして、その他大勢の賑やかしも交え、議論が進められたが、その後の評判程ではない、と思えた。こちらも、理由は簡単で、他系列だが、嘗て、もしかしたら、まだ放送が続いているかもだが、「朝まで・・」と題され、評論家や専門家が集まり、これもまた、朝まで、徹底討論する、というものだったが、その内容が、情けないとの評判が、広がったのだ。三十年前ということで、最近また、話題に上った、ある宗教団体が起こした、毒ガス事件の前に、不穏な言動や、事件との関係で、取り沙汰される中、討論に参加した、団体の幹部が、並いる論客相手に、毎回論破、と言われ続けた。しかし、今と違い、社会媒体は存在せず、番組制作でも、前回との比較もないまま、その場限りで、場当たり的な、議論を続ける姿に、多くの視聴者達からは、誤魔化しの連続と断じられ、「ああ言えば〇〇」と揶揄されていた。何方にしても、総括とは名ばかりで、互いに、自己主張を、押し通すのみでしかない。会長の、詭弁の数々は、今となっては、社会媒体の参加者から、当時の発言の数々を、比較として示され、嘘吐き呼ばわりまで、されていた。ただ、総括という観点では、こんな茶番の討論に、意味がある筈もなく、会長の主張も、研究者の、当時からの主張も、何の検証もなく、言いたい放題となるしかない。確かに、あの会長は、マスクの扱い方から、前言撤回を、知らぬふりで続け、信頼できぬと思った人も多い。一方で、病原体が、人工的なものか否かは、検証したとしても、可能性に留まり、確証は得られない。とは言え、疫学や公衆衛生学の立場から、全体を検証する必要があり、学術的検証無しの議論は、所詮、戯言の応酬に過ぎない。