週末、朝から、物価上昇についての、討論会が放映された。でも、何やら、中身のない話を、専門家と称する人々が、延々と続けている。物価上昇が、引き起こしている、生活困窮に対し、どんな手立てが、効果を上げるのか、誰にも分からず、ただ、漫然と話し続けるが。
と、そこへ、全く関係のない、報道がもたらされる。海の向こうの大統領が、正式発表に先駆け、例の如く、囀り始めた、という話だ。猶予を与えた、けれども、何時決断するかは、分からない、という話の内容に、誰がどう反応すれば、いいのかと訝った人も、多かったろうが、ここまでであり、一週間前に、広げられた紛争地域は、もう一段の、危機の上昇を、迎えたようだ。世界情勢に関する、一時の分析の後、また、再び、自国の経済状況へと、話が戻ったようだが、その後の成り行きは、眺める価値も薄れ、皆、別の局に、切り換えたのでは、ないだろうか。何れにしても、経済状況は、不確定な要素が、満載となりつつあり、誰が何を言おうが、大勢に影響は無い。買い物に出たら、店の中には、多くの買い物客がおり、つい先日まで、空っぽだった、米の棚には、溢れんばかりの品が、並んでいた。どこをどうして、やってきたのか、消費者にとって、知る術も無いが、さて、報道は、どうだろうか。喉元過ぎれば、と言うが如く、落ち着きを、取り戻してしまえば、どうでもいいことで、次の作柄の心配や、米農家の経営状況の心配を、並べるのが役目とでも、言わんばかりの論調だが、依然として、倍以上の相場であり、それでも、生計は成り立たぬと、代表チームの監督を、嘗て務めていた、農家の代表は、宣っていた。たった一つの組織でさえ、収支に関して、正体の見えぬ話が、展開できるのなら、国家全体として、どうあるべきかなど、論じるまでもなく、不確定に違いない。その中で、自分達の生活を、如何に守るかを、本当に考えたいのなら、馬鹿騒ぎは止めて、さっさと、普通の生活に戻ればいい。それだけなのでは、と思えてくる。
外国人旅行者にとり、この国の魅力は、何だろうか。嘗て、「おもてなし」、などと言われたけれど、そんなことは、どうでもいい、と思う旅行者も、沢山居そうだ。今時は、何より、安いの一言が、全てとも言われる。同じ製品でも、この国にくれば、恐ろしく安価になるらしい。
とまで書いてしまうと、やはり、大嘘になりそうだ。国内のものは、確かに、輸送料も含め、最近話題の関税が、加えられれば、当然の如く、割高になるから、こちらで買う方が、遥かに安くなる。だが、外国製のものは、そうもいかぬだろう。それ以外には、どんな違いがあるか。最近、特に、強調されるのは、人件費の問題だ。給与水準が、長年続いた物価据え置きの影響からか、他国に比べると、かなり低く抑えられ、それが、最大の要因となり、人の手で提供されるものは、殆どが、安価に感じられるらしい。そこでも、別の仕掛けがあり、例えば、海の向こうでは、人の手が入ると、それに対して、何かしらの謝礼をする、という習慣がある。チップと呼ばれるもので、嘗ては、海外旅行に行くと、食事をすれば、必ず支払わねばならず、時には、宿泊先での、部屋の片付けなどにも、必要との話もあった。ただ、後者に関しては、別の問題だろうか、枕元に置いても、そのままとなるらしく、最近は、そんな話は無くなったようだ。一方で、前者の方は、嘗ては、食事代の1割くらいが、相場と言われたのだが、今では、2割どこか、それ以上となり、さらには、現金払いや、クレジット払いでないと、支払う際に、額を記入するまでもなく、自動的に繰り込まれ、勝手に、支払われるらしい。確かに、嘗てのように、幾ら支払えば、笑顔を返してくれるかと、悩む必要は無くなったが、勝手に決められるのは、如何なものか、と思える。何れにしても、人件費の問題は、格差が広がり過ぎて、もしこのまま、物価上昇が続くなら、それに合わせた、昇給がなければ、生活できなくなりそうだ。ただ、この問題は、ある年齢以上の人々には、別の形で、深刻化しそうな気配がある。受給額を決めるのは、政府なのだろうが、その決め方には、大きな違いがあるからだ。詳しく書くつもりは、無いのだけれども、解せない話ではある。
流通の問題は、米に限らず、この国では、あらゆる物品に、適用される、と言われる。確かに、中間搾取が、度々取り上げられ、それぞれの段階で、利を得る為に、様々に仕掛けを講じ、私腹を肥やしている、と言われる業者は、数え切れぬ程居る。でも、本当に、それだけか。
米についても、昨日の疑問は、すぐに答えが出ないだけでなく、ひょっとすると、全体の仕組みにとって、永遠に解明されないもの、なのかも知れぬ。還暦を過ぎた世代には、米に関する騒動は、おそらく、自主流通米辺りから、始まったものとして、記憶されているのかも知れぬ。米穀通帳が、各家庭にあり、それを使って、配給米を買う、という仕組みが、いつ始まったものか、検索しても、どうもはっきりしない。確かに、制度上では、いつ始まったものか、明確に示されるが、その一方で、通帳が有名無実化したとか、米の不作と豊作の間で、揺れ動いた結果が、示されることで、その時代ごとの実態が、見えにくくなるからだ。自主流通米、という制度自体は、半世紀以上昔に、始まったとされるが、ほぼ、全体に浸透したのは、およそ半世紀前で、その後、さらなる法改正で、今の状況に落ち着いた、と言われる。その流れに関しては、監督官庁に、資料が転がっていたので、それを紹介するが、そこに流通経路の変化が、図示されている。でも、改正法の下で、定着した筈の仕組みも、今眺めてみると、破線で囲まれた中が、闇の中、とさえ思えてくる。確かに、改正前より、単純化された、と見えなくもないが、現実には、多段階だったものが、少なくなったとはいえ、そこに中間業者が、入っていることが、今回明らかになったように、同様の問題が、残されているようだ。でも、それが、既存のものだとして、何か不都合があるのか。確かに、末端消費者にとり、高い品物を、買わされる原因は、そこにあるのだろうが、働く立場で見ると、間に入る業者に、関わる人間も、多く居る筈で、それにより、生活が成り立つ。最近のような、直接販売は、確かに、安価かも知れぬが、別の危険性が増す。信用という意味では、何の問題も無い、直接販売も、今の時代、詐欺の横行を考えると、どうだろうか、と思えてくる。さて。
米騒動は、様々な問題を、表面化した。その中で、新大臣は、例の如く、自分の手柄のように、新提案を、次々に繰り出している、ように見えるが、その実、一体全体、どれ程が自分からで、どれ程が役人からなのか、一切見えてこない。親譲り、という指摘は、どうなのだろう。
市場の闇、などと大袈裟に、表現されるけれど、闇どころか、白日下で、顔色一つ変えずに、平気でやっていることが、まだまだ沢山あるように思える。確かに、流通の仕組み自体が、複雑なように感じられるが、中間で搾取する人々は、実際には、米というものを、動かすことなく、仮想空間で、転がしているのではないか。それを、最近問題視される、流通の問題へと、責任転嫁するだけで、責任逃れの典型、としか思えない。これは、備蓄米と呼ばれる、最近の話題についても、同様だろう。政府が、危機に備えて、蓄えておくという、理念そのものに、反対する気はない。例の長粒米が、無理矢理輸入され、料理法さえ、思いつかずに、我慢を強いられたことを、思い出すまでもなく、備えておけば、と思うのは、当然のことだ。だが、その為の施設は、誰がどう用意したのか。今回の問題で、誰も触れないのに、驚くばかりとなる。当然、公的施設の建設は、予算のことから、あり得ない話だろうから、誰かが、恒常的な使用を目的に、作った所へ、保存を依頼する、という形をとったのだろう。さて、だとしたら、その誰かさんは、誰だろうか。何となく、思い当たる所がある。国内で、最大量を、扱う組織が、その提供を申し出て、これもまた、経費を請求してきたのでは、と考えられる。そこにきて、備蓄米の入札は、専ら、その組織が行ったとなれば、入札前後で、米の輸送は、殆ど無用では、と思う。なのに、いつまで待っても、物が流通せず、原因を尋ねられても、流通や精米作業の遅れ、の一点張りだ。確かに、入札後は、国からの備蓄手数料は、入ってこなくなるが、安い米を、高く売りつける、大いなる機会が、訪れたように見えるのは、当然のことだろう。ただ、随意契約への転換と、取引相手の変更は、大きな変化となった。さて、どうしたものか。というのが、現時点の、関係者達の悩みだろう。庶民にとり、知ったこっちゃないが。
人間は、欲深いもので、無いものねだりを、繰り返すようだ。ただ、それ自体は、決して悪いことばかりでなく、向上心や努力に、結びつく場合も多い。自分自身に、向けられたものなら、確かに、その通りなのだが、これが、他の人に向けたものとなると、状況が違ってくる。
その典型が、親子関係にある、と言われる。高度成長期を挟んで、数世代が、同居していた時代には、親より上の世代は、様々な事情から、思い通りの人生を、歩めなかった、と言われてきた。確かに、戦時においては、勉学よりも、別のものが優先され、戦後の貧しい時期には、食うことが、何よりも最優先された。学問などと、大袈裟に扱わずとも、上の学校に、進学すること自体が、難しい時代でもあったから、その子供達が、平和な時代に育ち、高等教育の整備に従い、進学率が向上すると、親の知らぬ世界へと、歩み出す事例が、急激に増加していった。高い教育を、受けることは、彼らにとり、より良い労働条件を、手に入れられるとして、この勢いは、増すばかりだったが、いつの間にか、皆が、その環境に慣れてくると、意欲は減退し、マンネリ化していった。その結果が、今、世の中に溢れており、以前の、無いものねだりから、子供達を、進学させようとする、親の意欲でさえ、ある意味、失われつつある。一方で、自身が、身につけられなかった、能力の数々は、依然として、子供への、獲得目標とされ、例えば、英語力の獲得などは、その典型として、紹介されることが多い。だが、これを、学校教育の役割、と見ることには、少し違うのでは、と思うことが、屡々ある。そんな中で、中学では遅過ぎる、との意見が通り、いつの間にか、小学校で、始めることになったようだ。だが、言語能力の育成、という観点からすると、一部の子供を除き、全てに、多言語の獲得を、強いるのは、どうかと思う。自分ができなかったことを、子供達に、との思いは、理解できることだが、そのやり方については、英語に限って言えば、大きな過ちを、犯しつつあるように、思えてならない。
悪文のことを、取り上げた上で、それをより良くする為には、という観点で、今月取り上げる本は、著されたのだと思う。ただ、その目的を、理解しないで読むと、大いなる誤解を、招きかねない。それは、つまり、実用的な文章を、書く上でのことで、芸術とは違う、という点だ。
だからこそ、著者は、文豪の記したものでも、大鉈を振るう。その辺りに、少し違和感を覚えるが、ご本人は、そんなつもりはなく、ただ、単純に、意味が、間違いなく伝わるように、という観点で、手を入れただけだ。確かに、実用的な文章で、誤解を生んでは、間違いを起こす。その意味で、意味が正しく伝わることと、単純で読み易いことが、不可欠な条件となる。ただ、そこまで考えても、この本の役割は、十分に果たせないのでは、と思えている。それは、つまり、世に言う悪文とは、その程度までも、到達しておらず、単純に、何を言いたいのか、何を伝えたいのか、さっぱり、理解できないもの、ということだからだ。独り言は、断定的に書くことを、敢えて、避けている面があり、固有名詞は、なるべく避けるし、意見も、唯一無二の、断定的なものとは、ならないように、配慮しているつもりだ。だから、どっちつかずの、優柔不断なものに、映ることは、度々あるだろうし、時には、何を言いたいのか、わからないとさえ、思うことが、あるかも知れぬ。でも、こちらの意図を、書いてしまえば、それは、つまり、読み手に任せ、読み手が、読みたいように、読んで貰えば、それで結構、というだけとして欲しい。それでは、何の役にも、立たないのでは、と思う人が、居るかも知れぬが、それは、逆に、何も考えずに、他人の意見を、鵜呑みにする人間だから、となるのでは。で、悪文は、と言えば、そんな意図も、そんな目的も、一切無いにも関わらず、伝えるべきことも、言うべきことも、明確にせぬままに、報告したとする、そんな文章のことだ。少々の手入れでは、何の解決にもならず、ただ、論理の構築が、不十分なままで、書き連ねるばかりで、起承転結が、成立しないもの、となっている。こういうものに、度々出会すと、世の中には、そんな類の人間が、如何に多いか、と考えさせられる。
今月の読んだ本で、紹介するつもりだが、まだ暫く時間がある。その意味で、書名も知らせず、内容もわからぬままに、これを読むハメに陥るのは、あまりよろしくない、と思うが、ご勘弁願いたい。さて、どんな本か。悪文を、如何に減らすか、という内容のものだ。
いい文章を書く為に、多くの人々が、「文章読本」なるものを、著してきた。何を、どう書けば、読み手に、わかって貰えるか、という観点から、書かれたものが多いが、今回、読んだ本は、その意味では、少々趣が異なる。兎に角、事例を引き、その問題点を、指摘することで、より良い文章を、書き上げよう、とするものだからだ。確かに、その効果は、あるだろう、と思われる。しかし、読む前と違い、読んだ後では、少し印象が変わってきた。何が、どう、変わったのか。この著者が、取り上げた悪文の事例が、実は、それほどの悪文でもないのでは、と思えてきたからだ。より良くする、という意味では、問題点を指摘して、それを、どう直せばいいのか、的確に指摘すればいい、となるのだが、元々の文章を、ざっと読んだ時に、抱いた感想は、どこが駄目なのか、といったものばかりで、その意味では、題材の取り方や、話の展開そのものには、何も問題がなく、更には、多少の問題が、含まれていても、大意は伝わるもので、少し位の曖昧さは、問題とはならない、と感じられた。一方で、今世の中で、問題とされる、悪文の数々は、そんな程度のものではなく、何故、そんなことを、論じているのか、とか、ここで言いたいことは、何なのか、とか、そんな基本が、欠落していることに、問題の核心があるように、思えてならない。その上で、それらをどう変えたら、という点に、こういった指南書が、応えなければ、ならないのでは、と思えるのだ。戦後の泰斗として、著名な小説家は、くどい文章で有名で、それが屡々指摘されていたが、この本では、長い文章だが、構文も的確で、問題無しと断定していた。但し、誰もができることではなく、やはり、万人にとっては、短文で表現することが、第一となるというのが、結論だったようだ。その点は、おそらく、誰にも当てはまることと思う。