パンチの独り言

(2025年6月23日〜6月29日)
(大衆の力、変化の兆し、隗より、不安症、瑣末ながら、生活設計、小心者)



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6月29日(日)−小心者

 海の向こうの暴君は、その非常識ぶりを、発揮し続けている。前言撤回は、当然の如くであり、過ちを犯しても、他人や他国の責任を、追及することで済ませる。その背景には、経済大国、軍事大国としての、国の指導者たる、誇りがある、と信じるのか、はたまた、単なる驕りなのか。
 でも、と思うのは、隣の大国の状況を、見るにつけてである。何千年か知らぬが、長い歴史を誇示し、それが、自らの能力を、高めている、とでも言いたげに、繰り返す姿には、一種の誇りがある、と思う人もいるが、その一方で、相手の国名に、「小」の文字をくっ付けて、蔑もうとする、心持ちには、余裕は全く感じられず、どちらが小心者なのか、と思えるのだ。このことを、実感させる出来事は、数え切れぬ程に、転がっているが、瑣末なこととして、紹介したいのは、片田舎にある、絶滅危惧種の、繁殖成果で、世界に誇れる施設からの、その動物一家の引き上げ、だろう。確かに、契約上のことで、それが、終わったからという、理由があるものの、その裏には、あの国の、度量の狭さが、表れている、とさえ思える。子供の数で、世界一と言われた、オスに関しては、帰国後すぐに、寿命を全うした。次に、一家あげての帰国、と言っても、彼らは全て、こちらで生まれたのであり、帰るとの表現は、当てはまらぬのでは、と思えるが、それが起きたのも、自国の繁殖施設を、上回る成果を、上げた者達への、妬みややっかみか、とさえ思える。確かに、世界の動きに合わせ、希少動物の保護に、国を挙げて乗り出したのは、事実であり、他国への貸与も、その一環として、続いている。だが、全てを知る、と自慢したいのに、それを否定されたような、そんな成果は、目の上のたん瘤、そのものではないか。これ幸いに、契約終了を告げ、皆を、取り戻すのは、我を通すようで、実は、誇りを傷つけられ、それを、取り戻す為、とさえ思える。それこそが、自信の無さの表れ、であり、度量の狭さが、表れたのでは、と思うのだ。こちらを挟んで、あっちと向こうで、同じ心持ちの人間が、我流を押し通す、他国にとり、横車を押されるのは、面倒でしかない。

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6月28日(土)−生活設計

 生活保護は、困窮した人々が、最低限の生活を、続ける為の、社会保障の一つ、と言われている。物価の上昇が無くなり、収入も増えない時代、横並びの感覚では、支給額が減るのも、当然のこと、との役所の判断が、行き過ぎとの判決が、昨日出たらしい。どう感じただろう。
 もう一つ、今月読んだ本を、紹介したい。社会保障に関する、問題を紹介したもので、中でも、生活保護に関して、何故、多くの人々が、明日の食べ物さえ、手に入れられぬ程に、困窮を極めてもなお、保護の申請を行わないのか、という問題を、提起していた。帯には、「働かざる者食うべからず」とあり、この国に巣食う精神、などと謳っているが、社会媒体が、世の中を席巻し、自分達の主張が、全て正しい、と信じる人々が、弱者保護どころか、弱者の名を騙り、社会の恩恵に浴すことで、私服を肥やしている、との主張が、罷り通る国が、如何に異常なのかを、訴えるものとなっている。ただ、中にある主張の数々には、諸手を挙げて賛成、とは行かぬものが多く、確かに、生活に困ったり、介護などの負荷に、押し潰されそうになったり、そんな人々が、最低限の生活を、続けられない社会構造に、改革を求める気持ちは、解らなくもないが、一方で、仕組みの不備を、指摘する意見には、かなり強い偏りと、仕組みへの理解不足が、強く感じられて、これらの社会問題を、取り上げる人々が、今抱えている、大きな課題を、実感させられた。著者が、強く主張した、国民年金のみと、厚生年金を加えたものとの、国民の区別に関しても、成立の過程から、反対しきれず、全面的な改正が、望めないという現状に対し、提案が出せないままでは、何の為の本なのか、と思えてしまう。強制的な加入を、条件とする仕組みでは、当然の結論だが、一方で、任意保険の如く、別立ての年金を、提案してもいいのでは、と思えてくる。国頼みを、当然とする社会制度では、こんな展開が当然だが、真に、保身に走るのなら、自分なりの設計を、試みる必要を、訴えかけてもいい、と思う。

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6月27日(金)−瑣末ながら

 敬語が使えない。若者向けの言葉、と思う人も多いが、本当にそうか。どうも、怪しげな言い様に、首を傾げることが、増えている、ような気がする。まあ、政治家が、何を言っているのか、解らない、という話は、昔からあったものの、馬鹿丁寧な話ぶりに、呆れることも。
 で、そんな大人達を、普段から見ているからか、子供達の言葉も、大いに乱れている、と見る。それも、敬語という、立場の違いを意識して、使われるべき言葉だけでなく、何か別のことに対して、気になることが多くある。本人が、何を意識して、話しているのか、それ自体が、定かでないだけに、周囲も、注意のしようがない、のかもしれないが。例えば、議論をする場で、自分の意見を、紹介する機会を得て、さて、話し始めてみると、何が主張したいのか、全く見えてこない。原因は、ある意味、はっきりしている。賛成や反対を、主張する場面で、「間違っているかも」、とか、「理解できていないかも」、とか、言い訳じみた言い様が、前置きとして、延々と続けられるのだ。で、肝心の本論は、どうだろうか。さて、賛成だったのか、反対だったのか。結局、よくわからなかった、となる。そんな議論が、続けられるのを見て、こちらは、苛苛してくる。はっきりせよ、と言いたくなるが、どうすれば、とも思う。彼らにとり、態度を明確にするには、賛成にせよ、反対にせよ、はっきり言わねばならず、その為には、時に、厳しく聞こえる言い様を、せねばならなくなる。そうすると、周囲の皆から、嫌がられるとか、喧嘩腰なのかとか、そんな受け取り方を、されるのでは、と心配になるらしい。でも、話の真意が、伝わらなければ、議論は、始めようがなくなる。もしかしたら、それこそが、この国で、議論が嫌われる理由なのか、と思ったりもするが、どうも変だな、とさえ思う。政治家に、話を戻せば、何事も、直截に話す人は、確かに嫌われている。上から目線とか、傲慢とか、批判ばかりだ。でも、だからこそ、議論は進む、と見るべきではないか。敬語云々は、確かにあるが、それ以前に、言うべきことは何か、気にした方がいい、と思う。これからの人生の為にも。

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6月26日(木)−不安症

 身近な所から、手が届く範囲から、始めてはどうか、と書いてみた。ある意味、楽観的な捉え方だが、今、社会に蔓延する、不安や心配の濃い霧から、抜け出す為には、重要なことと思う。何故、こんな考え方に、固執するのか、とか、拘るのか、とか、言いたいのだが、どうか。
 一つには、情報の流れが、大きな影響を、及ぼしている。それを、専ら、司ってきた、報道と呼ばれる輩が、耳目を集めたいのか、あるいは、注目を浴びたいのか、真意は計りかねるが、兎に角、そんな動きに、精を出し続けており、その結果として、多くの人々が、不安や心配を、口にすることで、他と同じという感覚を、抱くことが出来、他人と同じとか、同調しているとか、そんな安心感が、得られるという話だ。不安や心配が、安心に繋がるとは、何と皮肉なことか、と思うのは、こちらが、世の通性とは異なる、異常な感覚を有する、ということだろうが、どちらが、異常なのか、とさえ思えてくる。その上、不安や心配が、中心となる場合に、それを解消する為の手立ては、講じる必要はなく、決して、解決に導いてはならぬ、とさえ言われるのだから、何のことか、と思えてくる。普通の感覚、などという括りは、こんな状況では、使える筈のないもので、皆と同じという感覚、でしかないのだろう。それが、普通なのか、異常なのか、本人達には、問題とはならず、横並びこそ、全てとなる、という考え方だ。これが、特に、若い世代に、顕著となってきたが、そんな世代が、齢を重ねるに従い、こちらでも、高齢化が顕著となり、結果、ほぼ全ての世代に、蔓延しているように見える。恐ろしい伝染病の如く、こんな病が蔓延する世界に、どんな未来が待つのか、誰にも見えてこない。その代わり、皆で、不安や心配を、叫んでいれば、安心ということなので、もう、それでいい、となるのだろう。馬鹿げている、と思うが、そんなことを書いても、そんな連中には、届く筈もないのだ。

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6月25日(水)−隗より

 若い人が、ここを読みに来れば、昨日の話題など、何か感じる所が、あったのでは、と思う。でも、逆に、社会に出るという不安ではなく、社会で活躍した、という経験を済ませ、今、別のことを考える人には、どんな響き方を、しただろうか。人それぞれ、には違いないのだが。
 成る程、と思ってくれれば、それでいいと思う。もっと早く、そういうことを、知りたかった、と思う人も居れば、そんなに簡単では、と思う人も居るだろう。でも、何れにしても、済ませた人々にとっては、どうということもなく、何か新しい刺激となった、とはいかないだろう。他人事でしかなく、それを、自分事として、考えられたとしても、大勢に影響は無い、今更、何かを身に付けても、それが、今後の人生に、新たな刺激となる、とは思い難いからだろう。でも、こういう話をきっかけに、誰か、周囲の若い人に、接する機会を見つけ、一言二言、会話を交わせたら、と思う人が、居るのかも知れぬ。ただ、気を付けねば、と思うのは、こういう時に限って、相手の為と、思って話したことが、却って、逆効果となり、反発を招くことが、多いのも困りものだ。確かに、こうしたら、とか、ああしたら、とか、そんな助言を、与えられても、素直には応じられず、反発しただけという、経験を持つ人も多い。本当に、必要なものは、必要になった時にしか、役立たないもので、予め、備えておく、などという話も、すぐには、飲み込めないものだ。でも、その場ですぐ、は無理だとしても、後から、思い出すと、という場合もあり、そんな経験を、何度かしてみると、何となく、分かり始めることも、あるのだろう。ただ、時間の無駄、としか言えぬ場合も、沢山あるから、すぐに始めよう、とはいかないのも事実。さて、どうしたものか。まあ、何でもいいから、手近な所から、始めてはどうだろうか。老若男女、無関係に、そんなものだろう。

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6月24日(火)−変化の兆し

 社会に出てから、役立つ能力とは、何だろうか。十数年前に、政府が、その育成を、大学に任せようとする、動きが始まった。就業力と呼ばれる、その力とは何か、そんなものに、答えがある筈もなく、現場は、混乱したようだが、それ以上に、混乱した所があった。
 それは、言い出しっぺの、政府だった。時に、大衆の不満が鬱積し、大衆の力として、選挙での投票行動に、大きな変化が起き、結果として、政権交代が、なされたのだ。新政権は、国家の財政が、逼迫するのは、予算削減が、十分に行われておらず、その結果として、赤字国債の発行などで、一時凌ぎを繰り返すのは、誤った政治と断じ、自ら乗り出して、各省庁の予算の吟味を、行ったと言われる。一番じゃないと、と言い出した、あの女性政治家は、今は、静かにしているようだが、あれに代表されるように、多くの事業に対して、縮小あるいは廃止が、提案されたとされる。結果、就業力の事業は、たった一年で、木っ端微塵に砕かれ、現場の混乱は、極限に達したと言われる。しかし、世間で、必要とされる力を、社会に出る人々が、身に付けねば、何も始まらず、まして、入社後の研修を、多くの企業が、廃止か縮小してしまった後では、頼る所は、最高学府しかない。若手の経営者が、訳知り顔で、無用説を展開したが、経験不足を露呈するだけで、結局、その後も、即戦力を欲する動きは、無くならなかった。結局は、どんな力かを、見定めることなく、何をどうしたらいいのか、傾向と対策に、精を出してきた若者に、何の手立ても、思いつかず、そのまま放置、となったようだ。ただ、一部の大学では、入学後の対応力に、懸念を抱いており、結局、「大学の歩き方」のような、入門編の講義が、準備され始めた。では、就業力は、どうなのか。結果論としては、おそらく、入学後に必要となるものの、大部分が、所謂就業力と、重なり合うようで、まずは、大学での学習で、十分な成果を上げられるよう、働きかけることや、必要となる能力を、明示することから、始められたようだ。さて、それから、十年ほどが経過するが、何か変化はあったろうか。何方の現場も、混乱したままなのだろうか。

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6月23日(月)−大衆の力

 選挙がある度に、大衆の力に、注目が集まる。確かに、投票行為は、ほぼ唯一の参加方法であり、その結果が、市町村、都道府県、そして国の、行く末を決める、と言われる。が、果たして、本当だろうか。この所の結果の数々から、この話に、疑いを抱く人が、増えていると思う。
 海の向こうの結果は、その典型だろうが、就任から、半年もせぬ内に、馬脚を現し始め、交渉とは名ばかりの、脅迫じみたやり方の数々に、呆れるばかりか、落胆を隠せぬ人が、急増していると思う。でも、それは、自分達の愚かさの、反映ではないか。同じようなことは、こちらの、ある県の首長にも、当てはまることだ。県職員に対する、多くの横暴な行為に対し、訴えを起こしたことに、端を発する、不祥事としか思えぬ事件は、その後の、不手際の数々から、最終的に行われた、選挙の結果が、まるで大衆の総意の如く、直後は扱われ、総攻撃に出ていた、報道への反撃は、最高潮へと達した。だが、その後の展開は、思わぬ方へと進み、今や、諸手を挙げて賛成した人々が、騙されたと叫び出す始末。大衆政治の典型が、これら二つの例だけでも、明確に表れており、その片棒を担いだと言われる、社会媒体への信頼は、失墜したと思われる。だが、これは、媒体自体の問題ではなく、単に、それを使う人間の、愚かさの表れ、と見るべきものだ。騙された、と簡単に言い出す人間は、相手の言葉に対し、何の疑いも無く、鵜呑みにするばかりで、自身の判断を、下そうともしない、愚か者でしかない。物事を、批判的に捉える、と言われても、一方的な判断に、与するばかりで、賛否両論があれば、その何方にも、批判の目を向けるべき、という基本を、全く身に付けておらず、悪い結果が出たとしても、自業自得でしかない。一部には、社会への不満が、こういう形で現れるのだ、と分析する人も、居るようだが、そんなものでは、決してなく、何かしら、有利になりそうなものに、飛びついているだけ、なのだろう。思考力も、分析力も、ほぼ無いに等しく、にも拘わらず、誰かの意見を、そのままに、写し取るだけで、下らない主張を、繰り返すのみだ。その果てで、騙されたは、愚の骨頂でしかない。反省すべきは、誰なのか、考えるべきだ。

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