パンチの独り言

(2025年7月7日〜7月13日)
(机上の空論、嘘か誠か、呑み込む前に、迷惑千万、誰の責任、騙されぬ、何が危険)



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7月13日(日)−何が危険

 ここ数日の独り言を読んで、何を躍起になって、そして拘って、パンチは、証券業界の動向を、書き綴っているのか、と思った人が多いだろう。実際には、一業界の問題ではなく、社会全体、世界全体の一大事、と思うからだが、問題の核心に、気付く人は、少ないようだ。
 詐欺は、電話を使ったものから、一般の人々が、大きな被害を受ける、ということで、社会問題として、取り上げられ始めた。その後、騙し文句は、次々に編み出され、被害額は、急速に膨れ上がり、何処に、それらが流れ、消えているのか、という点も含めて、多くの議論が、重ねられてきた。その中で、これらの事件は、国内に留まらず、拠点を、海外に移すことで、官憲の手を逃れ、勢力を拡大し続けている。その上、組織の中心が、国内の反社勢力から、隣の大国の、裏組織へと移り始めた、とさえ言われ始め、今後の流れが、どうなるのか、という懸念は、社会媒体や大衆媒体で、毎日取り上げられる、庶民の不安や心配より、遥かに深刻なものとして、考えるべき、と思われ始めた。その中で、今回、老後の資金、として注目されつつある、株式相場へと、悪の手が伸び始めたことから、重大な問題、と見るべきと思う、という意見には、誰も反対しないだろう。だが、それが起きた原因について、もう少し、考えを巡らそうとする動きは、余り見えていない。今回の一連の事件から、情報の管理が、改めて見直され、口座への接続で、二重三重の手続きを、要求する仕組みが、導入されたが、それとて、多くの人々が、欲しがっている、絶対的な安全安心とは、ならないと言われる。場立ちの時代から、電子的な操作が、不可欠な時代へと移り、売買に要する時間は、一気に短縮された。その結果、毎日の開始直前には、気配値が、異様な動きを続け、何の意味も無い、とさえ言われている。一瞬の違いで、機会を逃すことが、常となる中、電子取引が、不可欠なのは、誰もが知るが、その一方で、情報管理は、複雑になるばかり、今回の追加認証も、届くのは、通信を介してであり、その宛先は、周知のものだろう。特に、メールの宛先に比べ、携帯電話番号は、乱数で出しても、何処かに届くから、危険度は高まる。そこに、詐欺の魔の手が伸びれば、と考えると、安全とはとても言えぬ。情報弱者の危うさを、媒体は盛んに伝えるが、こんな仕組みだからこそ、騙されるのでは、とさえ思える。情報が届かぬ弱みより、吟味できぬ弱みの方が、遥かに深刻なのだが、本当に大丈夫なのか。

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7月12日(土)−騙されぬ

 解せない、と書いたのは、損失補填ではなく、別の措置として、という形なのだろうが、見出しの上では、原状回復、を謳ったことにある。頻用してきた、自己責任を、棚に上げた上での、措置だとしたら、矛盾すると思えたからだ。ただ、昨日紹介した記事には、次のようにある。
 まず、「顧客に過失がないと判断した場合」との意見が、証券関係者から、出たとある。これは、確かに、自己責任という考えからは、一貫している、と見做せるのだが、次の段では、その上で、「安易に補償に踏み切ると顧客のセキュリティーに対する認識が下がらないか心配だ」との意見が、別の関係者から、出ているとある。重要なことは、過失の有無であり、その意味では、社会通念上の、責任の有無は、そこにかかることとなる。この点において、法律上で禁じられた、損失補填を、その観点ではなく、別の観点から、原状回復する、という繋がりとなる。一見、妥当とも思える事柄だが、現実には、過失とは、どんなことか、という点が、争点となるだろう。見知らぬ相手から、送られてきたメールに対し、警戒せずに、文言通りに従い、その結果として、損失が生じた、となった場合、警戒を怠ったことが、主原因となる。そこには、自身の考えがあり、それが不足したのは、過失となる、という見方が、これまでの常であった。しかし、虎の子でも、高額の株式を、勝手に売られ、聞いたことのない、外国の銘柄を、勝手に買われたことに、何の補償もないとしたら、泣き寝入りなのか、と思う資産家が、多いのでは。だとしたら、上客を失わぬ為にも、ここは、特別扱いを、と証券会社が、考えたとしても、不思議はない。その上、好景気の中、順調な収益を上げており、損失補填への、資金注入は、業績に、痛手を加えない、と判断すれば、過失云々は、どうとでも、解釈できる、となるのでは。ただ、懸念を示す関係者が、居るように、詐欺が横行する時代、安易に、決断して仕舞えば、このような事件が、連鎖的に生じれば、と思えてくる。実際、パンチの所へも、連日、塵の山が、届いており、何処かに登録されていれば、送付先に、登録されて、詐欺メールを送りつける、というやり方が、主なものと思える。騙される奴が悪い、とまでは言わないが、詐欺の常道に、乗せられるのは、やはり、不注意と言われるのだろう。

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7月11日(金)−誰の責任

 先日取り上げた、虎の子の話は、被害が、それぞれに、異なっているようだ。だが、証券会社は、従来から、盛んに主張してきた、自己責任の札を、引っ込める形で、損失補填、現実にはその表現は無く、をすると決めたようだ。報道も、今一つ盛り上がらず、さてどうなったのか。
 しかし、投資先の決め方で、様々な情報源が、様々に、お宝情報を、流すに当たって、盛んに、投資家自身の判断に、委ねることを強調し、それが、自己責任、という一言で、片付けられてきたのに対し、今回の対応は、解せないもの、としか思えない。詐欺に、引っかかること自体、本人の責任でしかなく、それを、他人が、補填してやる、という話自体、信じ難いものと映る。大切な情報を、見知らぬ所からの、電子メールで、渡してしまうことは、最近では、誰もが注意すべきこと、として、盛んに伝えられており、その相手が、普段から取引する、証券会社だとしても、疑ってかかる必要は、無くなる筈がない。それも、銀行をはじめとする、金融機関でも、同様の詐欺事件が、頻発しているだけに、自分だけは、などという慢心は、やはり許されぬもの、と見るべきではないか。今回の詐欺に関しては、被害の程度が、かなり異なるようで、手持ちの株が、売り飛ばされ、全く知らない、外国株が、購入された、という程度のものから、売買により、手に入った現金を、別の口座に移された、という話まで、直接的被害、という意味で、かなりの違いが、見られるようだ。それは、売買手続きに要する、手順と、送金に要する、手順とが、必ずしも同じではない、という所からの、違いによるものと考えられる。何れにしても、情報漏洩に関して、企業自体が、その保持を怠り、流出させたという話と、投資家自らが、何らかの詐欺行為に乗せられ、自ら流出させたという話では、大きく異なるように思う。後者の場合、やはり、自己責任の一言で、片付けられたとしても、黙るしかなさそうに思えるのだ。だとしたら、今回の対応は、何処がどう、違ったものだったのか。報道は、それについて、殆ど語らず、企業は、せっせと、確認作業の手順を、導入し始めている。これがまた、慌てて売買しようとして、面倒が増えたことで、機会を逃した、と訴える人々が出たら、何かしらの手当てをするのだろうか。

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7月10日(木)−迷惑千万

 迷惑という意味で、最近、頓に賑わしているのは、海の向こうの暴君だろう。独裁者、と呼ばれることも、暴君も、本人が、好まぬ表現なのは、明白だろうが、そのやり口は、まさに、暴力的であり、交渉とは名ばかりの、脅迫じみた口振りも、その手法自体が、凶暴とさえ思える。
 ただ、それに付き合うような、報道の姿勢にも、この所、何度も、社会媒体で指摘されてきた、思慮の無さが、現れているように、思う。確かに、彼の好きな言葉の、関税は、様々な形で、企業経営に、影響を及ぼすのだろう。しかし、他の経済動向と同様に、この影響は、他の部分にも、強い影を落とし、そちらへの影響も、含めた上での分析が、重要となる筈だ。なのに、不安や心配を、口にすることを、最優先する余り、深く考えることも、広く見渡すことも、一切しないままに、騒ぐだけとなっている。朝の経済番組でも、感染症騒動の際には、俯瞰的な見方を紹介し、評価を上げた人物が、いざ、経済動向そのものを、相手にすると、驚くばかりの、狭い視野を紹介し、こちらをがっかりさせたが、庶民の生活は兎も角、企業経営においては、単なる自社製品の、売り買いだけでなく、そこから、物価上昇が、如何に広がるか、更に、それが、彼の暴君の国の、経済や雇用の状況に、どう影響を及ぼすかについて、広い視野からの分析を、するべきなのだと思う。こちらの政府も、馬鹿の一つ覚えよろしく、関税撤廃を、主張するだけでは、暴君の顔に泥を塗るだけで、面子丸潰しを、目論むならまだしも、妥結を目指すのならば、関税導入が、こちらが懸念する製品に、如何なる影響を及ぼし、それが、彼が頼みとする、海の向こうの国民を、窮地に追い落としかねないことを、微に入り細を穿って、説明する必要があるだろう。特に、経済への理解を、自慢する程の次官を、説得できるか否かは、経済動向だけでなく、生活基盤の危機や、そこから始まる、経済危機への道筋を、提示する必要がある。迷惑と言っているだけでは、何も解決できないだろう。

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7月9日(水)−呑み込む前に

 毎日毎日、届く電子メールの数々、最近は、迷惑なものの方が、遥かに多くなっているが、全ての宛先ではなく、どうも何処かに、登録されたものに、限るようだ。つまりは、そういう場所の何処かから、情報が、漏れている、という疑いが強い、となる。信頼が、失われつつあるのか。
 そんな考えも過るが、その一方で、最近の話題の一つに、資産運用の世界でも、こういう塵の中に、餌をばら撒き、詐欺に引っ掛ける、というものが、急増したことがある。自己責任、という言葉が、乱発される世界だが、今回の詐欺については、証券業界の情報管理が、十分でなかった、との判断からか、損失を補填する手立てが、講じられたと聞く。ただ、一投資家から見ると、金儲けに走る人間が、ちょっとした嘘や、出鱈目な情報に、惑わされるのは、如何なものか、と思えるが、心理的なもので、慌てふためき、そのおこぼれとして、儲けを確保してきたのだから、こんな動きは、当然とも思える。しかし、というか、だからこそ、こういう情報への接し方が、重要なのだろう。最近は、それを表す言葉として、個人的には嫌いだが、カタカナ語が使われ、リテラシーが、盛んに聞かれるようになった。原語では、literacyと綴られ、同じ語源から、literatureが、想起される。つまり、文字通りの意味では、文学との共通性から、読み書きの能力、という意味になる。それが、情報や媒体や技術などと結び付けば、それらを操る能力、という意味になるのだが、この能力を、身に付けることが、今の時代を、生きる為に必要なこと、ということなのだ。だからこそ、各段階の学校でも、これらを、身に付けさせようとする、動きが急となっており、その欠落は、社会全体の損失へと、繋がると言われている。だからこそ、皆が身に付けて、虎の子を守る、という図式が、重視されている。でも、それが、盛んに叫ばれれば、叫ばれる程に、現実には、それらを、身に付けぬままに、不安や心配を、口にすることで、弱者であることを表明し、社会への依存を、高め続ける人が、社会に溢れていることが、わかるのだ。吟味力、分析力、論理力、どれにも、共通するのは、疑う力だろうか。

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7月8日(火)−嘘か誠か

 選挙が近づくにつれ、大衆媒体は、社会媒体の問題を、盛んに取り上げる。特に、暫く前の不祥事に続く、首長選挙において、訴えられた前知事が、返り咲いたことが、事前の情勢に、社会媒体の動きや、対抗馬の情報操作が、大きな影響を及ぼしたことから、警戒が強まる。
 だが、と思うのは、件の選挙において、大衆媒体は、前知事の責任を、厳しく追及するだけでなく、過剰な批判を繰り返し、却って、逆効果を招いたのでは、との批判もあった。何れにしても、有権者は、小さなことで、一気に動き始め、よく考えもせずに、投票行動に移す。その結果が、歓迎したものだった筈が、その後に、次々に暴かれる、不祥事の実態から、県民は、反省頻りとなった、とも言われ始めた。一方で、大衆媒体も、不可思議な報道を、繰り返すようだ。先日も、世論調査の結果が、発表されていたが、投票行動だけでも、信頼に足るもの、とは思えないものだった。投票に行くか、との質問に対し、56%が必ず行くと答え、つもりと期日前投票の割合を加えると、85%程が、投票することとなる。しかし、この所の投票率は、地域差があるものの、平均すれば、低迷を続けており、ここ5回の平均では、55%程度となる。これが、突然、8割を超えたら、驚くべきことだが、誰もが、あり得ないと思っている。世論調査は、確かに、動向を示すものとして、信頼に値する、と言われてきたが、例の離脱の賛否の、調査結果と現実の乖離は、かなりの衝撃を与えたように、最近の動きには、不信感しか抱けない。事程左様に、情報に惑わされる、庶民の行動の一方で、情報を、操作しようとする、心理については、不明な点が多く、そろそろ、大規模な調査に対して、考え直す時期が、来ているのでは、とも思える。確かに、情勢を見通す為には、こんな事前調査が、不可欠と思われるが、嘘を吐くことに、慣れてしまった人々と、自分達の思惑に、沿った結果のみを、取り上げようとする、報道関係者の間で、築き上げられた、不確実性を、そろそろ、切り捨てる必要が、ありそうに思う。海の向こうの不確実は、その典型のようで、振り回されぬよう、熟慮が必要となるのだろう。

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7月7日(月)−机上の空論

 平日の朝の、経済番組について、また取り上げてみたい。出演する評論家達は、まさに玉石混淆であり、参考になるものもあれば、首を傾げるしかないものもある。その一人が、今朝出演して、例の如くの批判を、繰り返していた。彼には、中央銀行の政策が、杜撰にしか見えないらしい。
 とは言え、株式投資に手を出し、何とか、資産運用を進めている、人々にとっては、彼の主張には、賛同できないものが多い。何事も、論理的に説明し、その上で、政策の過ちを、挙げていく姿勢は、経済理論を、学んできた、と自負する人間にとって、当然のものだろうが、一方で、経済の動向に、絶対的な理論が、存在しないことは、投資家ならば、誰もが知る所で、それらの主張を、全て受け入れるのは、却って、危険と感じるだろう。今朝も、批判的姿勢には、何の変わりも無かったが、これまでの、論理的な説明では、現実感に薄く、受け入れ難いとの反省からか、身近な話題、それも生活感の濃いものを、引き合いに出していた。そうは言っても、庶民と同じ、とはいかぬもので、欧州からの、旧知の友人夫婦を、庶民的な料理店に招き、この国の現状を、紹介したとの話だった。この食堂は、欧風料理を、手軽に楽しめるとして、人気を誇る店で、当然、安価であることが、最大要因となる。為替換算で、価格を伝えることで、彼らの国との違いを、歴然と示すことで、自国料理との味の違いを、批判する夫を、妻が、この値段ならば良い、と窘める、という姿は、予想通りだろうが、価格の違いを、為替のみに、結論づけた姿勢には、例の如くの思い込みがあり、感心できない。何しろ、ワインの価格の違いは、1.5リットルとグラス一杯が、同価格だったわけで、為替レートが、今の十分の一程に、下がらねば、割が合わない。更に、物価の違いが、給与水準の違いによるとの結論も、彼らの母国とは、あまり違わない為に、強引なものと映る。確かに、人件費の高さが、要因の一つになるが、それだけでは、説明が付かず、今の物価の違いは、何処から来るのか、説明し難い。ただ、40年程前に、彼の国を訪ねた時も、経済状況が、芳しくないのに、物価が高いとの実感があり、生活費に対する考え方が、違うことと、もう一つ、重要なのは、老後への心配が、違う点だろう。家族制度の違いと、家族への思いの違い、によるものと思えるのだが、経済理論では、説明できぬことだ。

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