パンチの独り言

(2025年7月21日〜7月27日)
(訂正しても、狐と狸、根本解決、俎上の鯉、狭い、何処も同じ、責任逃れ)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



7月27日(日)−責任逃れ

 確かに、世間では、責任という声が、喧しい。だが、その一方で、責任の取り方について、触れられることは少ない。例えば、相場の世界では、自己責任と言えば、投資において、誰かの助言を基に、損失を出したとしても、それは、自己責任、と言われる。で、損失で、責任は果たされている。
 助言を出した人間に、責任を転嫁するのは、筋違いというもの、という意味と思う。だが、今の世の中、他人の責任に対しては、厳しい意見が多い。これも確かに、責任という重圧に、押し潰されかけ、精神を病むことが、度々取り上げられると、多くの人は、凹みたくない、とか、潰されたくない、とか、そんな思いを抱きつつ、責任を、回避しようとする。でも、何か悪いことが、起きた原因に、自分が、少しでも関わっていれば、そこに、責任が生じる。だから、何らかの形で、責任を負い、果たさねばならない。でも、どうやって、という話は、別のことだ。同じことを、やり続けることで、挽回をしよう、とする人も居れば、責任を果たす、という思いから、その場を離れ、別のことを始める、という人も居る。何方を選ぶかは、人それぞれで、自分なりの判断、となる訳だ。ところが、そこに、外野から野次が飛ぶ。責任を取って、辞めるのが筋だ、とか、損失を補填せよ、とか、他人事でしかなく、こんな発言をする人間は、自分事として、考えることなく、ただただ、責任を叫ぶ。自分が、その立場になったら、などという想定は、何処にも無く、まして、自分が、その悪い事を、何らかの形で、良くしようとする、そんな考えは、欠片も無い。だから、好き勝手に、言い放ち、その相手が、辞めたり、謝ったりすれば、それで、満足する。悪くなったことを、良くしようとは、決して考えないし、仮令、自分が、何らかの関与をしていても、それには、触れずに済ます。こんな世の中になったのは、何故なのだろう。牽強付会でしかないが、褒めて育てるとか、成功体験とか、そんな風潮が、今の状況を、招いたように思う。確かに、責任を感じ過ぎたら、動けなくなりそうだし、時に、押し潰された挙句に、病んでしまうかも知れぬ。だが、やるべき事は、やらねばならず、それが、済まなければ、次に来る筈のことが、来なくなってしまう。世の流れとは、そんなもので、少々の失敗があっても、先に進めば、次が来る。責任は、当然のことだが、その取り方には、様々あって当然と思う。

* * * * * * * *

7月26日(土)−何処も同じ

 責任、という声が、聞こえてくるが、何か、虚しさのような、空気が漂う。確かに、歴史的大敗だから、何かしらの問題が、あったには、違いないのだが、それに対して、どんな責任を、取るべきか、という話になると、何とも言えない、重苦しい雰囲気が、漂っている。
 誰が拾うのか、という問題は、確かに大きいのだが、この重苦しさは、それだけからでは、ないように思う。結果を導いた要因に、新興勢力の台頭が、盛んに、叫ばれている。それまで、何の関心も、抱かなかった人々が、参加したことで、この結果が生じた、と見れば、さて、次は誰か、という問題に、移りそうにもないのだ。二大勢力の戦い、であったなら、一方が敗れれば、他方が代わる、となる筈だが、今回は、何方も低迷し、冴えない結果を、受け入れるしかない。では、新興勢力が、一気に、登り詰めるのか、と眺めてみると、何とも言えない、頼りなさばかりが、目立っている。終わった途端に、前言撤回とか、過激な提案が、なりをひそめるとか、任せる勢いは、一気に萎んだようにさえ、見えてくる。大連立との声も、直後には、囁かれていたが、それも、何処へ行ったのやら、といった感じになった。さて、どうしたものか、と思いつつ、この状況を、改めて、眺めてみると、他人に対して、厳しい態度をとる、そんな若い世代の、典型とも思しき、行動様式が、巷に溢れており、その中で、若者とは、とても呼べない、中堅層が、騒ぎの中心に、居るように思える。これでは、動きも、中途半端となり、責任の擦り合いが、一頻り続いてしまえば、また、すぐに忘れてしまい、何事もなかったかの如く、振る舞うだけかも、と思えてくる。不確実な時代、海の向こうの餓鬼大将は、保身に走るばかりで、何の成果も上げられず、何かが決まれば、それを手柄として、自慢に走ってばかりで、国内産業の復活は、遠くなる。その上に、物価上昇が続けば、皆の心が荒んでしまう。そこに、流れてくるのは、醜聞ばかりとなり、一層、大衆心理は、荒れてくるだろう。彼方も此方も、落ち着かないのは、変わらないが、さりとて、大きな変化は、期待できそうにない。

* * * * * * * *

7月25日(金)−狭い

 経済新聞の文化欄なんて、という人も居るだろうが、独り言では、何度も取り上げているように、経済人の履歴書は、中々に興味深いものがある。今回は、そちらではなく、何とかの10選、という記事の一つを、取り上げてみたい。狭小住宅という、この国特有のもの、と見るべきか。
 と言いつつ、先日は、巨匠建築家が、取り上げられ、晩年を過ごしたもの、と紹介されていた。そちらではなく、ここでの話題は、こんな狭い住宅で、という考えの代表、のようなものだ。50平米の住宅、と紹介された記事は、会員にならないと、図書館へ行かねば、読めないものだが、便利なネット社会では、すでに、別の形で、取り上げられていた。この記事に、目が止まったのは、初めて住んだ共同宿舎が、確か、49平米だったことで、決まった時に、母に伝えたら、「何それ、バレーボールのコートより、狭いじゃない」と言われた。地域独自のルールで、多くの人々が、参加していたものに、長年関わった人として、大きさが気になったのだろう。8メートル四方で、それを6人で守る。それより狭い、とのことに、同じ職業だった父が、一度も住まなかった、共同宿舎の狭さに、驚いたという話だ。家族四人で住むことに、大きな問題は無かったが、閉口したのは、当時の断熱性の無さで、冬が近づくにつれ、押入れの壁が、結露だらけになったことだ。これも、当時、流行し始めた、除湿剤を、何箱も購入して、対処していたが、コンクリート一枚では、当然のことだったのだろう。そんなことを思い出しつつ、一年にも満たない、短い期間を暮した宿舎は、今、どうなっているのか。転居続きで、結局、当時から見れば、遠隔地に、移り住んだので、確かめる術もない。ああ、例の地図を眺めたら、確かめられるかも、と思ったが、そんな気も起きない。兎小屋と、揶揄された国に、住む身としては、それでも、住むところがあれば、幸せだと思わねば、と思う。

* * * * * * * *

7月24日(木)−俎上の鯉

 市場は、素直に反応したようだ。俎板の鯉よろしく、何処からどう、切り取られるのか、懸念ばかりが、先行する中、選挙結果が出た途端に、合意に至った、という報道があり、突如として、節目を超えるどころか、一気に、買いが先行して、株価を、押し上げた。
 確かに、安心感が、広がったとの解釈は、通りそうにも思える。だが、合意の一部に、不穏な空気が、広がるだけでなく、裏取引が、あるのではないか、との憶測も飛ぶ中、俎板に載せられた、状況には、何の変化も無い。その上で、表に現れた数値が、どんな意味をもつのか、見極める必要がある。ただ、既に、現場では、ある程度の邪魔は、残るとの見込みから、それなりの備えを、進めているようだ。と言って、何がどう変わるのか、さっぱりわからないのは、依然として、そのままであり、一度妨げられた安眠には、戻れそうにもない。だが、戯言の連発に、一々反応するのも、そろそろ、どうでもいい、という段階に進みつつあり、それこそが、今回の市場の反応、として現れたと見るべきだろう。その上で、今後、どんな展開が、起きるのか。海の向こうでは、お山の大将が、好き勝手に振る舞うが、それとて、そろそろ、足下が崩れつつあり、対応に追われつつある、とも言われる。あちらは、あちらとして、こちらも、他人事ではなく、政局の不安定は、誰の目にも明らかだ。ただ、栗が弾ける恐れは、減ったように見えるものの、国政自体は、まさに、火中の栗であり、誰も、拾いたくない、との態度が、露骨となっている。だったら、もう少し静かにして、今、拾わねばならぬ人間が、何をするのか、見守ればいいのに、と思うのは、庶民の浅知恵だろうか。だが、今回の選挙結果は、永田町の論理が、庶民の浅知恵より、遥かに劣ることを、現したとも言える。とは言え、この状況が、長続きするとは、とても思えない。ぽっと出は、所詮、ぽっと出に過ぎず、早晩、馬脚を現す、となるだろうから。既成政党とて、今回は、横並びの如く、嫌われる結果となった。だとしたら、人気を取り戻す為に、餌をばら撒くか、あるいは、基本に戻り、正しい政を、行う為の整備を、改めて行うか、何方を選ぶのか、決めたらどうだ。

* * * * * * * *

7月23日(水)−根本解決

 そろそろ、と思っていたら、先を越された。と言っても、合意、という言葉と、関税率が、示されただけで、詳細は、いつもながらに、分からない。一方的な発表を、好む人間なのだから、自分に有利な情報のみを、大々的に発表する。記者会見とは、全く違うのだ。
 書こうと思っていたのは、関税があろうがなかろうが、多分、大勢に影響はないのでは、ということだった。確かに、現地での価格を、そのまま据え置こうとすれば、売値を下げるしかなく、その分を、誰がどのように、負担するのかが、大問題となる。しかし、あちらの都合で、勝手なことをされて、何故、こちらが、その尻拭いにも似た、後始末をしてやる必要が、あるというのだ。そのままの値で、売り渡し、現地の売値が、上がったとしても、それを被るのは、消費者なのか、はたまた、補助金という形で、関税で入った分を、そのまま、購入者に渡すのか、どうするかも、勝手に決めればいい、という考え方も、あるだろう。いや、現地での売値が、上がることになれば、競争力が失われ、商売が成り立たなくなる、という声は、確かに聞こえるが、本当にそうなるかは、やってみなければ分からぬ。それも、価格だけの競争力が、貿易による不均衡の、原因ではなく、製品の質や、購入後の対応など、様々な要因が、関係することなのだ。だからこそ、こちらから輸入された、自動車製品の、消費者による評価が、高くなったのだろうし、それが、購入のきっかけ、となったに違いないのだ。そこに、価格釣り上げの動きが、起きたとしても、それだけで、断念するか否かは、これも、やってみなければ、と思える。これは、最終製品だけでなく、それらに使われる、部品に関しても、同様のことが、言えるだろう。ずっと昔、海の向こうの鉄鋼業が、斜陽になり始めた時、まさに、車に使われる、鋼板の製造が、立ち行かなくなった、と言われており、技術力の問題は、一朝一夕には、解決できないもの、と考えられる。今ここで、外圧をかけたとしても、思惑通りの展開が、起きるのかは、定かではなく、時間がかかればかかる程、国内の経済状況が、悪化することさえ、懸念されるのだ。近視眼的な政策が、次々と出されるが、その結果は、自らの首を、絞めることにしかならず、自滅の可能性さえある。今回の合意も、根本的な解決ではなく、妥協でしかないだけに、詳細が明らかになると、更なる歪みが、かかることが、明らかになるかも、だ。

* * * * * * * *

7月22日(火)−狐と狸

 騙し合い、と書くと、過ぎるのかもだが、以前書いたように、調査結果と投票結果に、著しい違いが、出てくる場合には、何を原因と見れば、いいのかと思える。確かに、無作為抽出が、正しく、行われなかった、という結果かもだが、もしそうなら、調査自体が、無意味となるのだ。
 離脱か否か、国の行末を、問う決断に関して、調査結果は、概ね否定的だったのに、蓋を開けたら、正反対の結果となった。確かに、多数決では、半数を境に、何方に転ぶかで、結果が大違いになるが、事前の調査では、大差をつけて、反対となる筈が、僅差で賛成となり、今に至る。当時から、事前調査の信頼度が、下がり続ける、と言われているが、依然として、同じことを繰り返し、その結果を、事前に、執拗に議論する。で、当日を迎えたら、予想外れ、ということは多々あり、あれは一体、と思うことも屡々だ。事前だから、その後の変心が、との解釈もあるが。だが、今回の話題は、それとも違う話である。選挙では、投票行動を、調査する為として、出口調査なるものが、行われる。この手法では、無作為抽出は、不可能となるから、ある投票所で、ある時間帯に、全ての投票者に、聞き取りを行う、と言われており、信頼度も高い、と言われてきた。だが、調査そのものに、疑いがあり、まさに、騙し合いが、行われているのでは、と言われる中だ。ある地方県で、放送局支局が、実施した出口調査では、全国的傾向と似て、ある新興政党の候補が、一位の得票数となる、との結果が出ていた。それを頼りに、開票直後から、この放送局は、その結果を流し続け、複数の宰相を輩出し、保守王国とも呼ばれた、地域の変化を、訴えていた。続く開票速報では、既に、幾らかの割合が発表され、保守系候補が、一位となっても、変わらずに、出口調査の結果を、付け加える執拗さ、恣意的な情報操作、としか思えぬ行状だが、責任者は、違う考えに取り憑かれたのか。最終的に、保守王国が保たれた、結果を出すにあたっても、まだ、執着する様子で、公平性など、微塵も感じられず、筋書き通りの展開を、放映しようと躍起になる、大衆媒体の姿を、晒していた。社会媒体が、真偽入り混じった情報を、盛んに流すのに対し、大衆媒体は、全く別の思惑からか、恣意的な情報操作を繰り返す。騙し合いは、調査機関と大衆の間で、行われたものだが、それにより、世論が流されては、いけないと思う。逆に言えば、詐欺紛いの行為の数々を、安易に信じてはならぬ、ということなのだろう。

* * * * * * * *

7月21日(月)−訂正しても

 選挙が終わり、結果が出た。で、次は、と話題が移っていく。いつものように、それまでの問題は、いつの間にか、棚に上げられ、勢力図に基づいた、力関係が、築かれると言う。但し、誰が、どう、多数派を構成し、決定権を手に入れられるか。それはまだ、何も決まらない。
 毎度お馴染みだけに、結局、独り言では、それらの変化に対して、何も書かない。無駄、でしかないからだ。だから、様々な媒体で、今こそ、という体で、賑やかになるのには、何も感じない。根本から、変えていかねば、と思うことは、度々あるのだが、実際には、そちらに、目が向くことなく、ただ闇雲に、突き進むだけで、根本は、何も変わらないから。冷めている、と言えば、そうかもだが、無視する訳でも、諦める訳でもない。根本を変えねば、と思うだけで、この場での独り言も、その為、と思っている。そんな空気の中、もう一つ、読んだ本を紹介する。こちらも、著者の気持ちは、理解できるものの、その内容の劣悪さに、呆れてしまった。活字離れが、盛んに叫ばれる中、今時の多くの人は、異なる媒体へと、移り住んでおり、この著者も、その一人なのでは、と思えてくる。ただ、媒体が変わろうとも、根本の考え方が、変わろうとも、現実には、何も変わらないようだ。理由は簡単で、論理構築が、脆弱なままで、主張ばかりが、膨らみ続け、結果的に、肝心なことが、何も伝わらない、という結末になるからだ。前言撤回は、日常茶飯事だが、前言を否定せずに、変更させることこそが、今の時代に、必要な事柄、との主張は、それを常とする国々を、引き合いに出すことで、一見、成功したかに思えるが、その実、根幹を成す考え方を、見誤った為に、ただの戯言と、化してしまった。最近の書籍で、頻繁に見られる傾向で、またか、という思いで、読み終えた。と言っても、途中から、的外れな指摘や、極端な見方に、見切りをつけていたので、ただ、読み終える、ということに、なってしまった。修正だろうが、訂正だろうが、何の変わりもなく、ただ、自身の思い込みを、押し付けるやり方には、今回の選挙での、多くの戦略と、同じ感覚しか抱けず、重い病に、罹った社会、としか思えなかった。

(since 2002/4/3)