交渉術に長けている、と本人は主張する。だが、その実態は、全く違うものではないか。就任以来、誰もが知る所となった話は、数え切れぬ程ある。だが、あの餓鬼大将は、まるで子供の如く、一切の反論を、認めようとしない。その頑なさが、交渉術とでも、言わんばかりに。
ごく最近の話題でも、大統領の主張に、従わない愚か者として、解任を口にする程、見下した議長が、属する組織の建物の、改築現場を訪ねて、如何に法外な費用が、要求されているかを、証拠とも思しき、書類を懐から出し、滔々と述べていた。その光景は、ある報道で、紹介されており、誰もが閲覧できる。ただ、そこでの遣り取りは、彼が主張した、法外な費用に対し、議長が、聞いていないと述べた所で、書類を示し、これが明らかになった、と宣うたのだが、それを受け取り、拡大鏡を目にして、確認した議長は、これは、別の建物の経費が、含まれている、と呟いた。それに対し、今、それが建築中だとの反論に、5年前の話だ、と答えたとある。恥を晒した訳だが、さて、これ、その後、どんな展開となったのか。特に、そのガセネタを、大統領に渡した人物が、どう処されたのか、に関心が残る。処分という意味では、もう一つの報道も、興味深いものだ。最新の雇用統計が、つい先日発表され、雇用者数の伸びが、大きく減速した、と報じられ、景気の減速が、著しいと報じられたことに、自らの功績が、傷つけられたとして、担当局長を解任、と伝えられた。本人は、政治的な操作が、統計結果に加えられ、事実が捻じ曲げられた、と断定したが、さて、どうしたものか。前の任期中も、不都合な解析結果に対して、妄言を繰り返し、担当者を、愚か者呼ばわりしたことは、よく知られたことで、今回も、同じ形の恐怖政治が、続いていることが、明らかとなっている。問題は、暴君を続けるにしても、自分の考えに、沿わないものに対して、全否定をする姿勢であり、特に、科学的な分析に対して、その態度を取ることは、客観的なものへの、罵倒に過ぎず、それが、交渉術だとしたら、嘘でも何でも、押し通せば、それで良しとする、風潮が蔓延しかねない。科学が、全て正しく客観的だとは、誰も思わないだろうが、その拠り所を、完全に否定しては、皆が、根拠を失いかねず、不確実性や不安定が、広がるだけとなる。
情報とは、と考えてしまう。日々点検する、ネット上の掲示は、どれもこれも、不確かなばかりか、時に、相手を騙そうとばかり、嘘を並べ、それが、恰も、真実かの如く、新たな嘘を、塗り重ねる。一体全体、こんなものに、誰が振り回されるのか、と思うばかりなのだが、さて。
という中で、一時的だったのかもだが、大衆媒体が、せっせと、それらの得体の知れない情報を、紹介していた。社会媒体の信頼度は、かなり低いものと、多くの人が、認識しているのだが、それらを、大衆媒体が、まるで、推奨するが如くに、並べるのだ。この状況は、かなり危ないものであり、これが、長く続くと、社会全体が、詐欺師達に、騙されることへと、繋がりそうに思う。そうなってしまっては、どうしようもなくなるが、と懸念を並べる人が居る一方で、一部の人は、それらの判断を、自身でできるように、することこそが、個人の責任だと言う。まあ、勝手な言い分を、並べたとしても、命を奪われることは、無いのだろうが、今の状況は、かなり危険なもの、と言わざるを得ない。だとして、個人は、どうしたらいいのか。不安や心配を、募らせる必要はなく、ただ冷静に、端末に流れてくる、種々雑多というより、殆どがゴミの状況で、兎にも角にも、取捨選択を行うしか、ないのではないか。ただ、社会的な責任としては、今のような状態を、管理する組織が、放置することは、無責任でしかなく、何らかの制限を、かける必要がある。それも、怪しい情報を、削除することは、勿論のことだが、更に、重要だと感じられるのは、偽情報を、何度も頻繁に流す、という仕組みを、再検討すべきと思う。特に、先日あったように、選挙に纏わる話となると、提示頻度が、急激に上昇する現象が、観察されており、その多くが、真偽
不確定のものだけに、情報管理を、的確に行うことこそが、喫緊の課題では、と思えてくるのだ。現状では、確実な方法として、無視しかないので、となれば、即座に、情報弱者となる、ということだ。あまりにも、杜撰な管理体制や、提示頻度に関して、もっと厳しい声が、届いても、と思う。
この国は、四季の違いがあるだけでなく、南北に細長いので、各地それぞれに、天候の変化がある。その為、気温にしても、降水量にしても、問題となることが、毎年何処かで、起きているのだ。これはまた、不安を煽ることを、目的としている、報道にとっては、恰好の材料となる。
ということで、毎年のように、夏に入ると、水不足が、話題として取り上げられる。それも、いつもなら、生活に不可欠な水という話題なのに、ここ数年は、稲作に関わるものとして、盛んに取り上げられる。中でも、米どころの話題となれば、米価高騰にも繋がり、不安材料として、最適と見做されるのだろう。以前なら、首都圏の水瓶が、生活を脅かす要素として、専ら取り上げられたが、ここ数年は、殆ど聞かれなくなった。また、降水量が少ないだけでなく、河川の規模が小さい為に、僅かな変動でも、大きく影響される、西の方の地域も、今年は、何の音沙汰もない。それに比べ、一部地方の米どころは、厳しい状況にある、と伝えられる。特に、錦鯉の養殖でも、世界的に有名な地域は、何方も、この時期に、水を必要とするだけに、ダムの貯水量に、不安が膨らんでいるようだ。ただ、これは、農家の問題であり、一般庶民にとり、遠くの話だった。でも、昨年の大騒動から、他人事とは言えぬ、事情が、急激に膨らんでいるようだ。今も、その話題が、連日伝えられている。確かに、出穂と呼ばれる、花が咲き始める時期に、水の存在が、重要となるようで、収穫量へと、直接結び付く要素だけに、安閑とは、していられない、となるのだろう。もし、凶作となれば、また、米価が高騰するに違いなく、以前の水準に、戻らぬままに上がれば、という不安を、様々に、口にさせる報道が、繰り返される。まあ、確かに、そうかも知れぬが、一体全体、全国的に、どんな状況となるのか。北の方の高温を、つい先日も、取り上げていたが、そんな悪要素は、何処にでも転がっており、あの連中にとっては、これ幸いな状況でしかない。でも、こういう話題が、値を釣り上げるのなら、一番の問題は、そこにあるのでは、と思う。
では、社会に対する、人材という製品の、品質保証として、今の状況は、大学だけの責任、となるのだろうか。現場からは、御無体な、との声が、聞こえてきそうだ。何しろ、やってくる若者の質は、落ち続けており、それを、一定の品質で、社会に送り込むのは、不可能だ、と。
だが、社会の要求は、大学が入試合格者に、課しているものとは、異なる基準から、来るものではないか。でなければ、高校時代の偏差値が、一生付き纏い、能力発揮の機会は、永遠に失われる。多くの人々が、経験してきたように、大学に入る為の力と、社会で通用する力とは、かなり異なっており、だからこそ、大学時代に、培われる能力が、社会から評価される。だとしたら、やはり、大学の責任は、重くなるのだろう。ただ、何でもかんでも、彼らの責任、としてしまっては、やはり無理がある。それでも尚、入学後に、何もせず、ただ漫然と暮らすのみでは、役立たずのまま、となるからだ。本人の問題は、大きいと言わざるを得ず、それを承知の上で、その期間に、どれだけの力を、身につけさせるか、ということなのだろう。それにしても、昔から、この辺りの事情に、大きな変化はない。漱石の小説でも、大学を出た人間が、何の役にも立たない、といった社会事情が、書かれていたようだし、確かに、勉強ができる、ということと、仕事ができる、ということには、大きな隔たりがありそうだ。では、その間を繋ぐ為に、負荷を掛けるとして、何が障壁となるのか。一つには、やる気の問題、が来るだろう。何事にも、関心が無い、という風潮では、何ともならぬが、とは言え、無理強いでも、負荷を掛けて、動かしておけば、何かが起きるかも、という訳だ。横並びに、馴染んでいる若者は、この点でも、皆が動かねば、と思うらしい。でも、多様性や個性が、これ程までに、強調される時代、何をか言わんや、ではないか。その上で、この点での障壁と思えるのは、何だろう。ふと思ったのは、ゆとりから続く、差別なく平等な時代、に問題があるのでは、ということだ。子供の頃、九九の出来で、先に帰れるか、が決まったことがあり、さっさと帰れて、嬉しかったことを、卒業文集に書いた。でも、あれって、出来ない子にとって、辛い時間だったのでは、との意見もあるが、でも、最後まで出来なかった子は、皆帰してもらっただろう。彼らの中では、差別も感じず、それで終わっただけだ。ゆとりの頃からは、全員が、と目指したらしいが、そこに問題があったのでは、と思う。
連日の話題は、人手不足と繋がる。特に、人口減が、露呈する中では、無い袖は振れない、とばかりに、手っ取り早く、充てがおうと、外国人の話題となるが、それもまた、安易過ぎる話だ。ただ、これは、自国民優先を謳う、例の新興政党と同じ、と見られては、心外至極である。
まあ、そんな妄想は、置いておいて、活用できていない、人材を、と考える時に、重要なことの一つは、彼らの鍛えよう、だろうか。教育現場は、進学率が向上し、過半数が、最高学府に、進むようになると、質の低下が、著しくなっている。確かに、数が増えれば、質の低下に結び付くのは、ある意味、当然のことだが、だからと言って、今の状況を、そこを出てくる人間を、指標として眺めると、資質の問題より、遥かに大きなものが、現場に蔓延している、と見える。入ってくる人間の、質が低下することで、教員の一部は、諦めにも似た、対応を始めたのである。やらせても、無駄に思えるし、粘らせても、埒が明かない。だから、簡単なことを、やらせてみたり、何の関門も設けずに、目の前から、居なくなれば、それで結構、と思っているようだ。だから、以前に比べ、入ってくる時点で、質が落ちただけでなく、それ以上に、出ていく時点での、低下の程度の方が、遥かに大きくなった、と言われる。その上、負荷が掛からぬままに、放置された人間は、社会に出た時点で、既に、役立たず、となっているのだ。これでは、大学が、社会に果たすべき、責任は、一切達成できておらず、その存在意義も、失われてしまった、と言うしかない。この輪廻の、恐るべき所は、一度回り始めると、どんどんと、奈落の底へ、落ちていくことで、余程の措置を、取らなければ、悪化の一途を、辿るしかない。現場の人間も、一部は、気付いているだろうが、現実には、諦めた人間を、動かすことの困難から、手を拱いて、いるのではないか。誰もが、知る所と思うが、人間は、ある程度の負荷を、掛けなければ、怠惰な人生を、送るのみとなり、社会の荷物となる。人の数が、減る一方の中、こんな為体では、未来が暗くなるばかりだ。誰が、そうしているのか、他人事にしては、ならぬと思う。
足らないのに、希望者が居ないから、という話に、何処かで聞いたことが、と思った人も、多いのではないか。確かに、あの職場は、仕事量が多いだけでなく、責任ばかりが、膨れ上がって、やりたいと思う人は、激減している、と聞く。でも、だからと言って、粗製濫造は、とも。
では、どうすれば、との疑問に、答えは見つからない。だからこそ、まずは、できることから、とばかりに、簡単に取得できる、としたいのは、分からなくもない。でも、子供が嫌いで、教えるのも苦手、という連中を、教壇に立たせて、何をさせようというのか、との指摘もあるだろう。個人的には、自分が受けた教育を、次の世代にも、との思いを抱いた人々に、機会を与えるのが、一番だろうと思うが、今の風潮を眺めると、そんな思いを抱く筈が、ないのでは、とも思えてくる。これまでに、何度も指摘したことだが、まずは、不安や心配を、煽る姿勢を改め、本当に大切なことを、担う人間を、育てようとする、そんな動きを、始めるべきだろう。その為には、安易に走るのではなく、それなりの負荷をかけ、その一方で、その職業に対する期待を、確かなものとすべきだ。それをしてこそ、次の時代を担う人材が、参画してくるのではないか。その上で、不正を働く人々や、違法行為を繰り返す人々には、厳しい措置をして、機会を奪うことも、大切だろうと思う。現場の厳しさを、過剰に報道したり、親や世間からの圧力を、無批判で垂れ流すなど、これまで続いてきた、異常な報道に関しては、反省の上で、是正を図ることこそが、大衆媒体が、すべきことと思う。その上で、社会媒体については、別の動きが必要となれば、法整備などについても、今後進める必要がある。こんな形で、舞台が整ったとして、さて、希望する人間が、出てこなかったら、どうすべきなのか。教育荒廃が、叫ばれ始めてから、随分な時間が、過ぎているだけに、手遅れの感は、確かに否めない。だが、今の状況を、好転させるには、少しの時間が、必要となるだろう。その間、支援も必要だろうし、辛抱や忍耐も、必要となる。即効性の対策が、講じられたとしても、副作用が生じ、反作用が生じるものだ。もう一度、原点に戻って、教育とは何かを、考えてみたらどうか。
経済紙では、毎週月曜に、教育に関する特集が、組まれている。中心は、高等教育であり、身近な初等中等教育とは、かなり異なる事情が、毎回、取り上げられている。今朝のものは、その二つを、繋ぐものとでも、言えそうな話題であり、喫緊の課題として、扱われた。
中教審、と呼ばれる審議会の、特別部会に属する人が、紹介したのは、そこで審議されている、教職免許に関する、制度の変更の必要、だった。教職希望者が、減り続けているのは、その免許を取得する為に、必要となる講義数が、多過ぎるとの意見が、多くあるとのことで、それを、抜本的に減らすことで、希望者を増やそう、との動きが、高まっている、という話だった。この話を読んで、一般の人々は、何を感じるだろう。少子高齢化だけでなく、人口減少自体が、将来への課題として、盛んに取り上げられる中、人口を増やすなど、関係する人間の数を、増やそうとする動きは、不可欠なものとして、扱われる。これも、その一つであり、すぐに解決せねば、と思う人が居る一方で、おそらく、全く別の見方を、する人々が、沢山居るのではないか。例えば、免許を取得し、採用試験に合格しても、すぐに、教壇に立てる訳ではなく、訓練期間が必要だとする意見が、これまでに、何度も出されており、教育水準の低下は、教える側の質の低下が、最大の原因である、とする意見が多くある。ただ、その一方で、子供達が抱える問題も、盛んに取り上げられ、学校だけでなく、家庭の問題としても、扱うべきとの意見もある。粗製濫造ではないが、希望すれば、誰もが取得できる、という状況が、好ましくないだろう、と思う人は、おそらく一杯居るだろう。更に、別の問題として、隠し撮りなどの、性に関わる問題が、学校に及んでいることに、資格獲得自体を、厳しいものに、と願う人も多い。こちらは、社会全体が、抱える問題であるが、恰も、小さな村社会だけの、問題として扱う人が、多いだけに、その対策を、棚に上げての、新たな問題設定に、理解に苦しむ人も、多いのではないか。これらの問題を、全て解決しよう、としても、おいそれとは行かない、と考えるのが当然だが、だとしても、人手不足を、解決せねば、とお偉い委員達が、提案するのも、当然だろう。ただ、根本的な問題として、今の時代は、楽にすれば、希望者が増える、という安易な考えが、多数を占めることが、あるのではないか。誰もが、大学に進学する時代、何でもかんでも、簡単にするのは、危うさばかり、と思える。