パンチの独り言

(2025年8月4日〜8月10日)
(的外れ、見誤り、気になる、死亡原因、口約束、無駄か、懲りない)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



8月10日(日)−懲りない

 警鐘を鳴らしても、何も起きそうにない。それはある意味当然で、こんなに、人が訪れない場所で、少し位鐘を鳴らしても、社会には影響しない。まずは、発言権を得て、対象を広げなければ、事は起こせない。火を見るより明らかだが、そんな努力は、庶民にできる筈もない。
 だから諦める、とは決して書かない。諦めはしないが、大切なことは、何処かに書き残したい。そんな思いで、毎日、書き綴っている。それも、繰り返し。昨日の話も、三週間前の選挙後に、同じように、書き綴っていた。そこでは、最後に、「重い病に、罹った社会」と書いたが、今も、そう思い続けている。たぶん、独り言を書き始めた、20年以上前から、いや、それ以前から、そのことが、気になってきた。昔なら、仲間内の話くらいしか、そんな機会が、見出せなかったが、今は、誰もが、どんな人間でも、発言を、世界に向かって発信できる。だから、というのが、書き続ける理由だが、重い病の原因も、同じ所にあることが、何とも情けない。好き勝手に、嘘をばら撒く輩や、それに同調して、不平不満の解消に走る連中、それにも増して、そういった言説を取り上げ、社会に、不安や心配を、広げようとする、情報発信の権利を握った、一部の報道、そんな虫螻どもが、巣食った仕組みは、社会を救うどころか、悪化の一途の勢いを、増すことばかりしている。その原因は、確かに、そういったことに、加担する人々に、あることは事実だが、それを、抑えることができない、愚かなその他大勢こそが、主因となることに、警鐘を鳴らすのが、役割の一つでは、と思うこと頻りだ。だからこそ、何度でも、懲りずに、書き続けてきた。でも、何も変わりそうにない。だったら、諦めては、と思う人もいるだろうが、それは、はじめから、考えない。世の為人の為、と思ったことは無い。重要なのは、自分の為と考えることで、偽善者気取りは、こんな所では、無用なのだ。まずは、自分が気にいるように、働きかけていきたい。そんな思いを、抱き続けないと、止めてしまうからだ。まだ、暫くは、こんな調子が続くだろう。懲りもせずに。

* * * * * * * *

8月9日(土)−無駄か

 不安と心配を煽る、と執拗に書き続けるが、さて、どう映っているのか。多くの常識的な人々にとり、そんなことは、承知の助であり、何も心配せずとも良い、真偽の程を確かめ、揺さぶられることなど、決して無い、となるだろうか。では、その他大勢の人々は、どうか。
 今回の選挙でも、そんな動きが、目立っていた。社会媒体を操作し、それが恰も真実かの如く、世論を導いていった。結果として、既成政党は、その多くが、忌み嫌われ、新興勢力が、票を伸ばした、と言われる。終わってみれば、その通りの結果だが、次に来るのは、始まってみれば、やっぱりとの結果となる。こういう変化は、煽る側にとっては、好都合に映る。変化は、当然ながら、不安定の現れであり、次に、何が起きるのか、不明確となる。まさに、不確実の典型であり、海の向こうの暴君をはじめとして、そんな要素が、世界中に満ち溢れ、明日をも知れぬ、との筋書きに、ぴたりと当てはまる。そこで、弱者を装い、不安を叫べば、権力者は、手を差し伸べるしか、方法が無くなるのだろう。でも、その動きが始まれば、振り子の振れ幅は、徐々に大きくなり、制動が利かなくなる。結果として、不安定は強まり、徐々に、悪化の一途を辿る。それこそが、煽る側にとり、好都合となるから、今の流れは、全くもって、思う壺となっている。様々な事柄に、そのまま当てはまる状況に、呆れるしかないが、放置する気はない。だからこそ、執拗に、この問題を取り上げ、書き続けている。それぞれの事例で、様相は、異なっているものの、基盤となる考えは、同じことだ。不安を煽ることで、利益を得る人々がおり、それを実行し、暴利を貪る。それに、力を貸しているのは、弱者を自認する、浅慮な庶民であり、手にした端末から、発信することで、参加欲求を満たし、結果が出れば、満足する。その後の展開は、知ったことじゃないし、悪化したとしても、責任を感じることなど、ある筈も無い。この繰り返しに、警鐘を鳴らすのだが、聞く耳持たぬ愚民には、届く筈も無い。

* * * * * * * *

8月8日(金)−口約束

 束の間、静かになったが、また騒がしくなった。確かに、庶民への税と同様に、税率の上下は、重要なのだろうが、以前書いたように、この暴挙そのものに、どんな意味があるのか、様子を見る必要がある。単に、率の高低が、業績に響くと、決め付けるのは、如何かと。
 約束が違う、とでも言いたげに、こちらの政府高官は、発言し続ける。担当者は、慌てて飛んで行ったが、あちらの政府は、主導権を握り続けよう、とするからか、反応は鈍いままだ。で、こちら側は、悲鳴を上げる企業を、殊更に取り上げ、政敵を、追いやろうとする輩は、次々に、批判的な意見を、突き付ける。だが、あの暴君相手に、一旦、合意を得たとして、握手に及んだ直後に、文書で言質をとばかり、署名を求めることが、可能だろうか。更に、元々、議会の決議を経ずに、好き勝手に、決められるものに、本人以外に、手を進められるか、こちらは、もっと怪しげだ。にも拘わらず、言いたい放題を、始める政治家達には、やはり、資質の欠如が、とでも言いたくなる。一方で、関税が即座に、売価下落を、意味するとする、誤った考え方にも、呆れ果てている。前に、書いたように、自分らの首を、絞めかねない政策を、断行したいのなら、まずは、好きにさせたら、と思う。その上で、こちらは、以前同様の価格で、売り渡せば、当然、市販価格は、関税分上昇する。但し、それを支払うのは、彼が頼みとする国民であり、だからこそ、この所の強引な手法に、国内から、異論が噴出し始めている。もし、新たな価格が、受け入れられないとなれば、当然、購入を控えるのだろうが、その物品が、生活に不可欠なもの、となれば、どんな判断を下すのか。その点に関しては、やってみなければ分からず、結論が出たとしても、責任転嫁を常とする、あの人間が言い出すのは、誰か他人の責任、となるに違いなく、結果、更迭やら何やら、尻尾切りが起きるだけだ。今回の導入に関しては、確かに、国内産業の復活が、大目標となるが、税率の根拠が、あれ程に薄弱では、看板倒れに、なるに違いない、との見方が、大勢となるのも、当然のことだ。だからこそ、対岸の火事と、ゆっくり眺めては、と思う。

* * * * * * * *

8月7日(木)−死亡原因

 人間、誰もが死ぬ運命にある。このこと自体に、疑義を唱える人は、当然ながら居る筈もない。だが、死に方に関して、疑問が残ることは、多々あるのでは。だからこそ、遺族が、医師や病院を、訴えたり、感染症騒動でも、あらぬ噂が飛び交い、薬害紛いの訴えも、飛び出す。
 この問題は、簡単には、片付きそうにない。何しろ、死に至った要因として、何を挙げるのかが、簡単でないからだ。例えば、脳死という話も、移植関係では、非常に重要なこととして、主張されるが、一部には、あの時点では、真の死には、至ってないとする考えもある。では、生き返るのか、という話は、全く別のこととして、処理されるから、事は複雑だ。一方で、嘗ては、老人の死として、老衰が最多と言われたが、それでは、真の要因が特定できない、とされた後、それぞれに、細かな死因が記録されるようになった。その結果が、先日紹介した監督官庁の、人口動態の表へと繋がる。それでも、まだ、理解に苦しむ点は、多々残っており、例えば、一時的には、肺炎の一括りだったものが、特に、高齢者に多く見られる、誤嚥性肺炎が、別枠として、設けられるようになった。これで、死因の順位に、変更が起きたのだが、所詮、死に行く人々の話では、大差無し、というのが、一般の受け止め方だろう。で、ここ数日話題にする、感染症の話へと移る。当初、騒動の最中には、死後の検査でも、病原体が確認できたら、それを報告せよ、との通達があったようで、死因分類には、混乱が生じたとされる。当時は、項目として設けられず、何か得体の知れないもの、として分類されたが、3年程前に、感染症の分類変更が、あった時だろうか、新たな項目が設けられた。だが、これを主要因とする、死亡事例の場合、その症状が、一般的な肺炎なのか、はたまた、免疫の過剰反応なのか、更には、別の要因なのか、見えてくる筈もない。だから、つい、要求を書いてしまうが、さて、医療の世界では、どうなっているのか。まあ、騒動の総括さえ、終わらない状況で、新たな疑問を呈しても、何ともならぬのは、当然なのだろうが。

* * * * * * * *

8月6日(水)−気になる

 感染症騒動が、始まった時、恐れ慄いた人は、沢山居ただろう。兎に角、外から入る情報では、次々と、病院に担ぎ込まれた人々が、死に至り、その周囲に居た人も、次の犠牲者となった。海に浮かんだ、観光船では、客達が、次々に感染し、倒れていった。それも、隔離された空間だ。
 暫く前のことだが、伝染病と言えば、隔離が最善策とされ、患者は、病院内に隔離された。船内は、まさに、それと同等のものだが、治療が受けられず、放置されてしまえば、悲劇と呼ぶしかない。結局、港へと係留された後、厳戒態勢の中、感染者は、それぞれ、別々の病院へと、運ばれた。当時、特殊な治療法しか、救う手立ては無い、と言われており、それによって、一命をとりとめた人々は、それぞれに、帰っていったと伝えられた。当時は、それしか、方法が無い、と言われたが、それでも、死んでしまった人もおり、特に、昨日書いたような、過剰免疫反応が、起きた場合には、単純に、呼吸を確保するだけでは、命を救えないから、別の治療法に、期待が集まっていた。一方で、感染そのものを、防ぐ手立てとして、期待されたのが、ワクチン開発だったが、市場に出回ったものは、製造企業によれば、感染そのものは、防げないものの、重症化を抑える、との触れ込みで、世界各地に、接種が広がった。もし、これが、事実であれば、今の状況は、二つの問題を、残したと言える。一つには、ワクチン接種が、全員に行き渡らず、結果として、漏れた人々が、犠牲者となっている、という指摘があり、もう一つは、発症したとして、過剰反応を、鎮める治療法は、依然として、開発されていない、という指摘だ。どちらも、解せない話であり、医療に対する信頼が、崩れる原因となる。接種は、パンチ自身も含め、受けていない人は、多数居る筈で、一つ目の指摘は、全く的外れと思える。なのに、この話にしがみつく人が、居るのは何故か、解せないのだ。総括が、終わってない、と思うのも、この辺りの事情がある。一方、治療法については、ウイルス感染の、治療薬がある、と言われたのに、何故、という話だ。もう一つは、騒動の終盤に、一部の国々で、自己免疫症の治療と似た、方法が試されていたのに、その話が、何処かに消えたように、思えることだ。これらの不思議には、誰も答えてくれない。多分、誰も、気にしていないからだろう。

* * * * * * * *

8月5日(火)−見誤り

 感染爆発に関して、この病原体によるものは、当初から、数々の誤解に基づき、世論を操作しようとする、大きな動きが、幾つも出ていた。発生源に関しては、今もまだ、燻り続けており、その国に対する、信頼度の低さが、大きな要因となる。科学的な根拠は、脆弱なままだ。
 一方で、被害の広がりに関しては、非科学的な言説が、意図的に流布され、以前から、盛んに使われた、科学を装う論理が、展開されてきた。まず、感染予防に関して、都市封鎖こそが、唯一の手段として、先進国の大都市で、実施されたものの、その効果の程は、明らかにされていない。確かに、大規模な実験では、対照を置くことが、不可能だから、残った数値の解析は、困難を極める。だが、にも拘らず、一方の主張を、押し通そうとする、恣意的な意見操作が、盛んに行われたことは、何か大きな力が、世界各地で、働いていたことを、推測させる。当初、犠牲者が急増したのは、確かに、感染抑制が、正しく行われず、感染者を急増させたことが、その一因であることは、その通りなのだが、一方で、感染者との括りではなく、症状の重さで、患者を分類する、救急医療では、常識とされた手段を、下さなかったことに、最も大きな責任があり、それによって、軽症のまま、助かる筈の人々が、重症化することで、犠牲となったことも、指摘されている。この点に関して、また、その他の状況にも、公衆衛生学や疫学で、これまでに開発されてきた、解析手法が、実施されているのか、殆ど、情報が流されていない。また、治療法についても、先月読んだ本が、典型例と思うが、正しく解析されておらず、今でも、患者が重症化し、命を失うこととなる、原因についての分析も、聞こえてこない。元々、肺炎は、死に至る病として、恐れられてきたが、犠牲者の殆どが、高齢者であった為、諦めにも似た雰囲気が、漂っていた。今回の感染症も、確かに、その症状の一つとして、肺炎があるものの、死者の多くは、過剰な免疫反応によるもの、と言われるように、もしそうなら、従来の肺炎とは、異なる治療法が、施される必要がある。これら全ての点において、5年も経つのに、まだ、迷走を続ける現状にこそ、批判の目を向けるべき、と思う。

* * * * * * * *

8月4日(月)−的外れ

 社会媒体の信頼度は、かなり下がってきている。特に、選挙後、当時出回った情報について、徐々に、検証が行われ、偽情報が、強い思惑と共に、流布されていたことが、明らかとなっている。公約のように、当選後に、守られなかった、というものではなく、単に、嘘塗れだった、と。
 そんな媒体だが、頼みの綱、と思う人も多く、依然として、多くの情報が、玉石混淆のまま、流されている。昨日も、その一つと思しきものが、「おすすめ」で、表示されたので、少し調べてみた。その遣り取りは、ここに接続すれば、読めるのだが、Xに登録していないと、表示されないかも知れぬ。そこで、内容の抜粋を、記しておこう。まず、はじめのものは、件の感染症騒動に、関係するもので、当時の現場の混乱を、示した録画を、提示すると共に、それから5年経ち、更に深刻な状況に、陥ったことを訴えている。長文だが、感染者数が激増し、被害が拡大するのに、世間では、対策が講じられず、深刻な問題となっている、とした。それに対して、別の囀りでは、昨年の死亡者数で、この感染症を死因とするものが、交通事故を死因とするものの、十倍以上だったのに、報道が取り上げない、とした。パンチは、以前から、この手の情報を、提供することに、主眼を置いてきた。この流れでも、監督官庁が、人口動態として、発表したものを紹介した。そこにある、円グラフでは、この感染症による死者数が、確かに、2.2%と表示され、もっと下の表から、確かに、交通事故の十倍程、と分かるのだが、一方で、同じ部類の病気として、肺炎、誤嚥性肺炎を見ると、合わせて9%となり、どう見るべきか、と思う。先月読んだ本で、指摘した問題とも、重なり合うが、この感染症の特殊性を、考えてみると、死に至る原因は、免疫の過剰反応と思え、その治療が、及ばないことにこそ、問題があるとも見える。病原体の増殖を抑える薬は、既に、市場に出回り、唯一の頼みとされた、ワクチンも、依然として使われている。にも拘らず、この状況は、果たして、感染防止だけに、責任を負わせるか、考えるべきように思える。こういう問題の捉え方にこそ、本質があり、その対策を、進めるべきとの意見を、出す方が先なのでは、と思うのだが。

(since 2002/4/3)