不戦の誓い、という話が出ても、虎の威を借る狐、とばかりに、批判を浴びせる。その上、それが、核抑止力の傘の下、などと、国内から、罵られるに至っては、どうしたものか、と思う。その一方で、お手軽な武器だから、核兵器を、保有するのが、などとなっては、お手上げだ。
それにしても、先手必勝とは、よく言ったものだが、核兵器そのものは、守りを固めるのには、何の役にも立たない。明らかなことでも、今の時代は、何やら、屁理屈を捏ねれば、通用するとばかりに、主張を、突き付ける。どうしたものか、と思うのは、こちらが、平和惚けしたからか、はたまた、今や、そんな論理は、通用しないとでも、言うのだろうか。特に、社会媒体の世界では、多数意見が、民主主義の典型であり、論理そのものの、正誤については、殆ど触れられぬままに、暴走を繰り返す。海の向こうの暴君は、民主主義からは、程遠い存在だろうが、その権化の如く、振る舞っており、今回の話し合いも、何をどうしたのか、一言も漏らさぬままに、成功を、高らかに宣言する。副大統領だったか、真の民主主義とは、民衆によって、築かれるものでは、決してあらず、一人か少数の、君主的な存在があり、それに、民衆が従う形こそ、それに適合するもの、と主張していた。あれを聞いた時、ふと思い出したのは、「白熱教室」と称する、ある大学の講義が、世界的に有名になった時、幾つかの国を結んで、各国の大学生が、意見を交換するものが、放映されたのだが、その中で、隣の大国の、有名大学の学生達が、自分達の考える、民主主義について、まさに、同じ趣旨のことを、主張していたのに対し、海の向こうからは、民衆こそが、中心にあるべき、と主張する学生が、大部分だった。今や、あちらは、そんな学生は、社会の屑であり、国家支援の対象でもなく、自由を謳歌する存在では、決して無い、とする政府が、不幸のどん底に居る、白人労働階級の、熱狂的な支援を受けて、あらぬ方へと、突き進む最中にある、と思えてくる。何が、正しいのやら。
終戦と言う人も居れば、敗戦と言う人も居る。何の違いかは、人それぞれだが、責任への考え方の違い、と言う人も居る。確かに、そういう見方の違いが、表現の違いへと結び付く。でも、何がどう違うのか、今一つ、はっきりしないと感じる。特に、戦争を知らない子供にとり。
歴史に学ぶことは、確かに重要なのだが、これ程難しいことは無い。相場を眺めるだけで、そのことを痛感するし、それ以外の経済動向でも、失敗が、何度も繰り返されてきた。その中で、何をどう学ぶのか、果たして、人はそれぞれに、大切なことを、学んでいるのか。怪しげ、と思う人の方が、遥かに多いと思う。さて、はじめの話に戻り、戦争に関して、節目の年と言う人も居るが、改めて考えるべき、とは思わない。日頃から、常に考えておかないと、平和を続けることは難しく、今、紛争に巻き込まれる、地域を見ると、そこに至る道筋にこそ、学ぶべきものが、あるように感じる。少しの啀み合いから、互いの権利を侵害し、相手の力を奪おうとする、そんな流れが、国家間の紛争へと、繋がってきた。一個人の、好悪から始められた、勢力争いの結果が、そんな発展をするのを、眺める度に、何処から、事が大きくなったのか、不思議に思うことが多い。だが、小さなことが、大きく変化するには、何かしらの端緒が、不可欠となるだろう。一方で、そういう流れを断ち切る為に、何が必要なのか、考える必要がありそうだ。確かに、世界的には、大戦に至らずに、ある意味の平和が、長く続いてきたが、それは、大国間の睨み合いが、冷戦という形で、続いた時代と、一方の体制が、崩壊したことによる、経済成長の継続、という形へと、移行してきたのだが、今現在は、再び、啀み合いが強まり、一触即発とさえ、言われる状況へと、突き進んでいる、ように見える。対岸の火事を、眺める度に思うのは、憲法の一文であり、戦争放棄を謳ったものが、今後、どう展開するのか、という点だ。この大切な宣言を、打ち捨てずに済ませることが、今を生きる人々にとり、最も大切なことの一つ、には違いない。
愈々、物価上昇が、当たり前となってきた。値下げ競争が、日常的に行われ、安売りを目指して、市内を走り回る。よく考えずとも、異常な行動だが、実入りが少ない、となれば、他に手段は見つからぬ。そんな様子も、遠い昔へと、流れていきそうだ。でも、そうでもないかも。
物価高騰が、表面化すると、それへの抵抗として、少しでも安い物を、と追い求める。そんな光景も、一時、巷で盛んに見られた。だが、これ程長く、値上げの嵐が続くと、そんな抵抗も、無駄に思えてくる。そうなれば、誰もが、実入りを増やせ、と叫び始める。経営者にとり、困難な時代が、始まった。以前なら、元請けから、経費削減を理由に、仕入れ値を下げよ、との通告が届き、それに応じる為に、人件費を削るのが、当然とされたが、今や、足下から、賃上げの声が、響いてくる。上からの圧力は、依然として、強いままだけに、板挟みに遭っている、感覚なのではないか。でも、経済状況の変化は、それ以前にも、大きなものがあった。高度経済成長で、誰もが、収入増を、当然と捉えていた時代が、別の要因も含め、泡が弾け飛んだ途端に、不況へと落ち込んでしまった。そこから始まった、値下げの圧力に、様々な形で、対応してきた経過が、30年続いたと言われる、不況の流れだった。それが、いつもの如く、外からの圧力とはいえ、国際情勢への不安を、引き金とした、物価上昇の嵐が、あらゆる物品の値上げに、こちらでも、繋がってしまった結果、現状へと流れた。さて、そう考えると、前回の嵐の時、経営に携わっていた人々は、巧く対応できたのか。そう思う人は、おそらく居ないだろう。今回も、その意味では、嵐の最中に、心配することは何か。何も見つけられぬまま、このまま、流され続けるのだろう。ただ、慌てて対応しても、結局は、大切な働き場所を、失ったことを、考えてみれば、何をどうしようとも、何も変わらない、のかも知れぬ。だから、放置すれば、と言いたい訳でも、無いのだが、かと言って、慌てて動いても、と思うこともある。まずは、今、自分にできることを、やり続けてみよう、という考え方が、大切なのでは、と思ってしまう。諦めではなく、別の感情として。
あんなことを書くと、何を惚けたことを、と言われるに違いない。特に、社会媒体の中では、そういった動きが、専らとなり、主張を繰り返し、同意を集めることで、全体が動く、と言われている。だが、今回の結果後は、その思惑が、見事に外れたことを、示す。
で、動くべき時に、動こうともしない、この国の政治に対して、落胆の声が、次々に上がっている。まさに、怒りに任せ、思い通りにならぬ社会に、謀反さえ、辞さないとの空気が、満ち始めている、と思う人が、多いのではないか。でも、この国の動きは、昔から、そんなものだったのでは、と思えてくる。それも、先の大戦へ、突き進む時も含め、大昔の、戦国時代の、天下分け目の戦いでさえ、遠くから、ぼんやりと眺めつつ、勝敗の行方が、決まりかけた頃に、重い腰を上げる、というやり方で。今も、海の向こうでは、暴君が、躍起になって、他国を脅し続け、多くの国々は、恐れ慄き、対抗策を講じる。こちらも、同様ではないか、と思う人が、多いのだろうが、果たしてそうか。ある意味、国内事情と、彼方を相手にした、外交事情を、何方も、どっちつかずの状態を、続けているように見え、はっきりしない、と思えてくる。慌てて、右往左往するのが、確かな道筋、と思う人が多く、特に、社会媒体の閉ざされた世界では、専ら、そんな動きが、当然との考えが、大勢を占めているが、現実には、物事は、そんなに急には、動けないし、もし動かせば、様々な歪みが、噴出することとなり、収拾がつかなくなる。それこそが、他の多くの国々が、今陥っている状況であり、その混乱が、別の多くの問題を、起こし始めている。暴君の不確定要素が、諸悪の根源であることに、何ら間違いはないが、実際には、賢く対応する、というこれまでのやり方が、彼の暴挙を、更に影響の強いものへと、変えていると思える。この所、例えば、自動車の駆動形式の、転換に関する、それらの国々の動きこそが、その典型に見え、賢さより、小賢しさ、あるいは、愚かさの表れと思える。ただ、闇雲に動くことが、正しい判断に結び付く、とは限らぬもので、ここは、暫くの様子見とする、のも一計ではないか。
「訴えるぞ!」、と書いたとのことで、報道が騒がしくなった。同年代の、老人の戯言なれば、皆、無視を決め込むが、海の向こうの頂点に、君臨する暴君では、知らぬふりもできぬ、とばかりに、大衆媒体は、盛んに取り上げる。でも、これこそが、不確実、不安定の源では。
確かに、気に入らぬ人間なら、側近と雖も、即座に首を切る。前の任期では、その繰り返しで、多くの人々が、憂き目を見た。だが、今度は違う。誰もが、擦り寄った上で、ご機嫌伺いしか、口にしない。最初の件も、以前取り上げたように、予算超過の出費について、取り巻きからは、誤報が届いたばかりだ。さて、一説には、今の不安定は、それを目論む輩が、合法的に、選挙で勝ち取ったもの、と言われる。他の国々も、社会媒体により、誤った情報が、流布されることで、極端な新興勢力が、議席を伸ばして、混乱に陥った。これもまた、手続きでは、合法的な訳で、一部の発展途上国や、政情不安に陥った国々のように、選挙での不正が、蔓延った結果とは異なる。だから、この状況は、暫く続くこととなり、大国と同様に、それらの結果に、見舞われた国々も、不安定や不確実に、我慢の時間となるのだろう。一方、こちらの状況はどうか。社会媒体が、選挙結果に、大きな影響を及ぼしたのは、全く変わらぬことだが、結果が出てから、約束を反故にし、期待を裏切った結果、主導権を握る勢力は、一向に、出てくる気配さえ見えない。何と情けないことか、と思う人も、多いだろうし、特に、嘘八百の情報に、乗せられたことで、新興政党に、票を投じた若者は、裏切られた、と思ったに違いない。だが、その中、市場は、活況を呈しつつあり、最高値の更新が、続いている。この様子に、違和感を抱くのは、ほぼ全ての人だろう。何が、どうなったのか、と思うのも、無理ないことだが、不安とか心配とかは、何処かに、消し飛んだのだろうか。否、ただ先送りにされただけ、とも思えるのだが。
半世紀程前には、博士を育成する機関は、旧帝国大学と、一部の国立大学および医学部に、限られていた。それ程に、特殊なものだったが、30年程前には、殆ど全ての国立大学に設置され、当然ながら、有名私立大学も、続々と設置していった。その理由は、監督官庁の政策変更だろう。
海の向こうでは、PhDと呼ばれる、博士達が、大学のみならず、企業でも活躍していた。それを、魅力的に感じたのか、はたまた、多くが大学進学する中、差別化を図りたい、と思ったのか、真意の程は、明らかではないが、突如として、設置認可を出し始め、それも、理系に限らず、文系へも波及した。教員の大部分が、博士だった理系と異なり、文系は、数える程しか、居ない状況で、どう育成を図るのか、現場の戸惑いは、大きくなるばかりだったが、それよりも、大きな問題が、噴出し始めたのは、取得者が、社会進出を始めた頃からだ。全都道府県に、医学部を設置、という時代に、理系博士の多くは、職を得ることができたが、今回は、そのような措置はなく、ただ、取得者を、何倍にも増やそう、という政策だったが、出口が見えない人々には、不安が広がるばかりとなった。大学に口が無い、となれば、他の業界に、道を見つけるしかない。しかし、一般企業では、依然として、頭でっかちは、役立たずで、扱い難いとの固定観念が、強く残っていたから、そちらへの期待は、萎んでしまった。結果として、行き場を失った取得者に、新たな職場として、提供されたのは、海の向こうと同じ、取得後研究者、と呼ばれる立場だ。但し、給与は、研究費から支払われ、正規職員でないから、不安定なまま、となった。その先の、彼方との違いは、一般企業への道が、依然として閉ざされ、そこに、留まるしか、選択肢が無い、となったことだ。となれば、国内での職場を、探している人間には、進むべき道とは、見える筈もなく、結果、進学者は増えず、定員が埋まらず、現場の困窮は極まり、外からの人間で、埋めるしかなくなる。現状は、そんな所だろう。で、支援制度の問題が、再び、取り上げられた。だが、これを読んで分かる通り、根本の問題は、全く別の所にある。その解決を、働き掛けぬまま、小手先の変更では、何も解決しないのでは。
自国第一というのは、海の向こうの例の暴君が、今まさに、主張している所で、人によっては、世迷い言と思うだろうが、実は、40年程前に、同じ政党出身の大統領が、国内生産を、優先するという形で、同様の政策を出した。だから、とは言わぬが、自分中心が、悪いこととは思えぬ。
だが、今回の選挙で、ある新興政党が、突然掲げた政策は、自国民を第一とする、というもので、拠り所を失った、若者の一部には、魅力に映ったようだ。ただ、その極端さは、海を挟んで似通っており、危うさを感じる人も、沢山居た。だから、選挙後に、結果が出たのに対し、全く反対の懸念が、強く押し出され始めた。その機に乗じた、訳でもあるまいが、休日の経済紙に、「優先」への懸念を、教育現場のものとして、主張する論説が、掲載されていた。元々、あの監督官庁には、海の向こうへの憧れを、政策に反映させる、不思議な心持ちがあり、この政策もその一種と、見做され続けてきた。要するに、科学技術の進歩を、支えるためには、高等教育の充実が、最優先の課題であり、その頂点として、博士取得者の育成を、充実させねばならぬ、というものだった。だが、経済界からの反応は、冷ややかであり続け、頭でっかちの社員は、役立たずで、経営の足を引っ張るだけ、との思い込みは、払拭されぬまま、野に放たれた博士達は、路頭に迷うこととなった。となれば、進学希望者は、増えることなく、その一方で、定員を埋めることを、大学側に課す役所から、予算削減などで、強い圧力がかかり、結果として、外国人で、その穴を埋めることとなった。問題の本質を、見誤り続ける役所は、それでも懲りずに、支援さえすれば、希望者が増えると信じ、制度を設けたが、対象を限定せずに、実施したら、予想通り、支援の多くが、外国人へと流れ、期待外れとなった。そこで、限定制度の導入が、決められたことに対し、この編集委員は、苦言を呈した訳だ。登録せねば、ネット上では閲覧できないが、図書館に行けば、読めるだろうが、この記事に対して、有識者と思しき人物が、投稿した内容も、同じ並びであり、的外れとしか思えぬ。需要と供給で言えば、現時点では、需要がないのに、となっているが、この問題を解決する手段は、あるのだろうか。また、役立たずと揶揄されるのは、何故か。その答えを、関係者は、理解しているのか。